頁を捲れば1
他国領土の街や地形まで正しく描かれた地図はほとんど流通しておらず、盗人の手にかからない隠れた貴重品である。多少の差異があっても求める人には垂涎される品だ。ルドルフが持っている地図はそんな品の中でもいくらか特別で、より精巧に作られていた。ちょっと頑丈な紙に擦れても消えにくいインク。距離がそこそこ正確なので旅の計画を立てるとき役立つし、主要な都市に至っては特産品なんかも書き込まれていた。
年季が入った貰い物だが、ルドルフにとってその地図はお気に入りの品だった。
地図によれば、この辺りは簡素な平原と西の方に深い森林と山脈があるだけで、足を休めれられる場所はなかった。だからひとつ前の街では多めに食料を買い込んだし、ノクターナには当分風呂に入れない心構えもさせた。荷物が重くなって歩く速度も落ちていた。
間違いはないはずだと、ルドルフは頭に地図を思い浮かべて頷く。
「おっきな門――」
ノクターナが呟く。自然と左上に動いた視界は門の大きさを知らせる。
どうやら地図が描かれた後に作られた街らしい。門やそこから見える街並みは輝くように美しい。街の中心から広がるように形成されていったとすれば、見える範囲はここ数年に作られたのだろうか。
新興の街にしては規模の大きさが疑問なところだ。これまでに見てきた大都市を越えることはないにしても、規模だけはかなりの歴史を思わせる。
予定のない街に寄るべきか逡巡していると、門の傍でやる気なく働いている検問の姿が目に入った。二人組なのだが、数人の列ができているのにそれを一人に任せっきりで、もう一人は手元の本を読み耽っている。興味が湧いたルドルフはその列に並ぶことにした。
「入国ならまだしも、街に入るときの検問って今の時代もあるんだね」
「かなり珍しいな。新しい街だから治安に気を遣ってる、とかだろうが――」
多分あまり意味ない。丸投げされた可哀そうな人も、可哀そうだと思ってあげられないような仕事ぶりを発揮している。
おかげ様で順番はすぐにでもやってきて、確認させるため重い荷物を預けた。
「ごめんなさい、こんなところに街があるなんて知らなかったもので」
「あー、そっすね。近くに大きな川もないっすから」
食料品に目を通しながらぶっきらぼうに答える。奥の方に爆弾があっても気付かなさそうだ。
「この街に来た理由は?」
「観光。みんなそう答えるでしょ?」
「まあ、金落としてくれそうな人を追い返す馬鹿な街はないっすからね」
「彼が読んでる小説、流行ってるのか?」
「あー、俺たちみたいな末端が本読んでるの違和感っすか?」
「――そうは言ってないからな」
しかしまあ彼の言う通りだ。
昨今平和な時代が続いたこともあって識字率が上がってきているらしいが、全員が読み書きできる時代にはまだ遠い。それに新しくできた街というのは大概、他の街にはいられなくなったあぶれ者たちが集まる。あぶれ者に教養は求められないから、治安が悪くなりがちなのだ。
「流行ってるっすよ。変わった設定の物語ばかりで俺は好まなかったっすけど」
文学ブームが巻き起こるのは裕福な街だ。門番ですらその一端を担っているのだとすれば、見掛けによらず彼は実家が太いのかもしれない。
「問題なしっすね、どうぞ。近々フェスがあるみたいっすから、気になるなら行ってみたらどうっすか?」
少しばかり対応が柔らかくなった彼から荷物を受け取り、ルドルフたちは街に足を踏み入れる。何とはなしに振り返ると、彼は同じくぶっきらぼうに検問を続けていた。
◇◆◇
検問の人が言っていたことは正しくて、街の美しさにばかり目が赴くけれど、よく観察していると節々に文学ブームの片鱗が確認できた。
本屋の看板を出した店が異様に多く、本とは全く関係がないような八百屋にさえおまけのように本が並べられている。店主のほとんどに気概を感じられず、店を惰性で開いている。椅子に腰を下ろして手元には本を持って俯く。誰もそんな状況を咎めようとしない。
街のお知らせなどを掲示する板は過半数が広告で埋められており、例に漏れず本についてばかりだ。やれベストセラーだのやれ国王賞だの、一位を獲得した本が大量にあるらしい。玄関の扉ではお気に入りの本を紹介するのが礼儀のようになっている。異様な風景だ。
更には、家屋の数に反して人がやけに少ない。察するに皆が皆自宅に引き籠って活字を追いかけているのだろう。この街は空想の世界に入り浸っていた。
これだけひとつの娯楽を推されては試さずにはいられない。「せっかくだから」とノクターナが言ったので、そのとき一番近くにあった本屋を覗いてみることにした。
本屋とだけ書かれた居酒屋のような店構えを抜けると、鼻を蕩かすのは濃密な紙の香りだ。長いことご無沙汰だった感覚にうっとりする。
店内に客が入ってきたと気付くと、店主は珍しく――それが普通なはずなのだが――読んでいた本を閉じてこちらに視線を寄越した。
「いらっしゃいませ。旅のお方でしょうか?」
おっとりとした声の若い店主は、その声質に違わぬゆっくりとした動作でルドルフたちを迎える。
「うん、さっき来たばかりなんだ」
「そうでしたか。当店を選んでいただきありがとうございます」
この街に入ってやっとのまともな接客に少しばかり感動する。狂ったほどの読書魔でないのは二人目だろうか。
「当店が営業を開始してから五人目のお客様ですよぉ。二人組だから五人目と六人目になるんでしょうか?とにかく、とっても嬉しい気分なんです」
「最近開店したばかりなのか。偶然とは言え徳した気がするな」
「営業なら一か月前からやっていますよ?ただ、何故だか何時になっても人がいらっしゃらないんです。この街で最も人気がある店の真似をしたんですけど、何がいけなかったんでしょうね?」
多分それは本屋が居酒屋を真似たせいだろう、との言葉は飲み込んでおくことにした。彼女をまともなと評するのは他のまともな人たちに失礼かもしれない。
「安心してください。私、人に合う本を見つけるのは得意なんです。過去四人のお客様は全員満足して帰っていただきました」
「不安だ」
母数が少なくて。
店主の言葉は話半分くらいに思っておくとして、本棚に所狭しと詰められた背表紙を眺める。ルドルフが最近の小説に明るくないというのもあるのだろうが、耳にしたことのある作品はひとつとして見当たらなかった。
ノクターナに目配せをしてみると、同じことを考えていたらしく首を降るだけだった。
「その本たちは街の人に合うように選んだんですよぉ。だから二人には合わないかもしれません」
それは門番が言っていた「変わった設定の物語ばかり」という話に繋がっているのだろうか。タイトルと著者名だけではこれらが変わった設定なのか推し量ることはできない。
店主は先程まで読んでいた本を差し出した。装飾の一切施されていない簡素な表紙は、どうにも文学ブームが起こるようには見えなかった。
「これは――?」
「今店にある本の中で、一番二人におすすめの本なんです。読んでみますか?」
「良いのか?立ち読みは嫌われるって聞いたことがあるが」
「気にしないでくださいよぉ。どうせ他のお客様の邪魔になることもありませんし」
よくある文庫本よりも少し薄いそれ。裏表紙に簡単なあらすじが書かれてあるけれど、長いタイトルがその必要性を奪っていた。
「知り合いの女の子が人殺しに手を染めそうなので、止めようとしたら色々と巻き込まれた件。何だこれ」
「どうです、お気に召されましたか?私はまだ読み終わってないんですけど、差し上げましょう」
どうだろう、遠慮させていただきたい。
突き返そうとしたのだが、店主は強情にも受け取ってくれない。まああまり荷物にもならないかと思い鞄に詰めると、どこからか一枚のチラシを取り出した。それはこの店に並んだ多くの本と同じく簡素なデザインで、飾りがなく必要最低限の情報しか書かれていない。製作者の正確が窺える。
「二人は、明日の午後からフェスがあるの聞いたことあります?」
「うん。ついさっきね」
「でしたら、フェスに興味はありませんか?」
近々フェスがあると門番に聞いたばかりだったが、まさか明日だったとは。何とも絶妙なタイミングで街に来たものである。
各地のイベント事には、機会が合ったら必ず参加すると決めていた。店主の質問に頷くと、おすすめの本を突き返された悲しみの表情から一転、ぱぁぁっと明るく笑みを浮かべる。
「良かったぁ。人が全く集まらないんじゃないかと心配してたんですよ」
「どうして店主さんが心配を?」
「何を隠そうこのフェス、主催者が私なんです!このチラシを見てください、主催者のところに名前があるでしょう?」
「書庫の妖精さん、とは書かれてるが――」
「はい、それが私のことです」
ノクターナは困惑し、ルドルフは頭を抱える。やっぱりこの街にまともな人はいないようだ。
「丁度良いので説明しますね。このフェスにはひとつ、大切なルールがあります」
店主は主催者の欄に置いていた指をスライドさせて、ルールの欄を押さえる。簡素なデザインのはずなのに、単調な構成のせいでどこを注視すれば良いのかが全くわからない。こんなチラシで本当に人が集まるのだろうか?
「あなたが一番好きな本を一組につき一冊持ってご参加下さい。ルールはそれだけです」
一番好きな本と聞いて思い浮かべるものがルドルフにはあったが、それは子供のころ読んだもので手元にはない。旅人は暇な時間に本を読んでいるような優雅な人間じゃないのだ。
「俺たち今、あの変な本以外持ってないんだけど――」
「それなら大丈夫です。フェスの開始は午後ですから。また明日の午前中に当店に顔を出してくくだされば、それまでに二人にぴったりの一冊を用意しておきます」




