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そしてまた、この地へ  作者: 朱殷


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前哨10


 ある日、それはそう遠くない過去のこと。代り映えのしない空気を吸っていたルイスは、願い事をしたためる機会があった。何かしらのイベントだったろうか。ルイスの周りにも人は大勢いて、皆がペンの走らせている。

 神に願い事をすることは少なくないけれど、いざ願い事を書けと言われると思い浮かばない。楽しく生きたい、とかそんなのでは駄目なのだろうか。


 盗み見るようにして数人の願い事を読む。お金持ちになりたい、夕飯はカレーが良い。なるほど同意するけれど、態々したためるには度し難い。もっと何かあるだろう。例えば――、


「お父さんが元気になりますように」


 ふんす、と得意げに鼻を鳴らす。完璧。金賞間違いなしだ。


「お父さん病気なの?」


 堂々とルイスの願い事を見ていた隣の女の子が、首を傾げて言った。


「ううん、多分健康」


 ルイスはお父さんを知らない。勝手に病気にすると怒られるかも。

 意味がわからないと困惑顔の女の子。パチパチと瞬きだけを繰り返す瞳をじっと見詰める。


「な、何――」


「そう言う君はどうなのかなって思って」


「私?私のお父さんは元気だけど」


「そうじゃないよ、願い事」


 十中八九、白紙のままだろうと決めつけていたのだけれど、自慢するように掲げられたその紙にはしっかりと黒鉛が乗っかっていた。


「じゃーん。どう?」


 世界中のみんなが幸せでありますように。


 彼女を侮っていたのではないけれど、随分と心の広い願い事だとルイスは目を見開いて驚く。それが叶った未来はどんな理想郷なのだろう。


「あり得ないって鼻で笑うの?」


「いや、良い願い事だと思う。ありがとう」


 おかげ様で、したためたい願い事が思い浮かんだ。


 願い事を褒められて恥ずかしがる女の子を他所に、ルイスはペンと消しゴムを持って願い事を書き直す。

 丸っきり写すのは嫌だから、改変はしたい。それに世界中の人々の幸せを願えるほどルイスは心の大きい人間じゃない。文字を消して、筆跡が薄っすらと残った紙の上に書く。


「自分たちだけは幸せでありますように」


 客観的に見ればこれ以上ないくらい最低な願い事。けれど、いざ書いてみるとルイスの心を表せる文章はこれ以外にないように思える。

 自分たちの枠組みがどれだけの広さなのか定めてはいないけれど、自分たちだけは幸せでありたい。


「自分たちだけ……私もそうしようかな?」


「止めた方が良いよ」


 危うく堕落しかけた女の子の純白の羽を守って、再度したためた文字を読む。参加賞も貰えないような願い事である。


◇◆◇

 

 殴り合った痕跡、こびりついた血の臭い、埃が蓄積した倉庫。洗剤のボトルを一本空にしようと、大海の如し水で満たそうと、一度作られたそれらは易々と消えてくれない。厄介な汚れ。

 手段を選ばないのだとするなら、洗い流すのはそう難しいことではない。マッチの一本、葉巻の不始末、炎は全てを浄化する。

 その日は豪雨が降っていた。安眠を妨げるほどの豪雨が地面に叩きつけられ、不愉快な輪唱を奏でる。放火魔、と呼ばれるのはかなり不服なのだけれど、放火魔にとって雨はむしろ都合が良かった。変に燃え広がってしまうことはなく被害を最小限に抑えられる。

 頭に叩き込んだメモを頼りに、家の中を見て回る。特殊な香で眠らせた一般人を運び出し、必要なものを背負っていく。さながら空き巣犯のようだ。

 彼は一通り見て回ると、高級そうなキセルを取り出す。キセルは眠らせた一般人が持っていたもので、申し訳ないと思いつつも拝借したのだ。運が良ければ彼手元に戻るだろう。ひとつまみの葉に火を付ける。煙が口内に雪崩れ込んでくる。葉巻に不慣れな彼は盛大に噎せた。

 八つ当たりでもするように、火がついたままのキセルを床に投げつける。湿気対策に魔法で燃やすのも忘れずに。キセルはただのカモフラージュ。


 ミシルスの宿が不慮の火事に見舞われたのはこの頃であった。


 炎は燃え広がり、全てを洗い流す。何の痕跡も残すことなく。そこに独りの目撃者がいたら、目撃者の証言が事実となるのだ。


 ほどなくして、近隣住民の悲鳴とサイレン、消防の人たちが現場にやって来た。大雨と彼らによる共同作業がくり広げられるが、炎は順調に宿を飲み込んでいく。放火犯であり空き巣犯であり唯一の目撃者でもある彼はほくそ笑む。

 このままの調子であれば全焼は免れない。それでいて近隣の家には燃え広がらない。完璧だ、経験則は嘘をつかないのである。


 野次馬に混ざってその光景を眺めていると、二人組の警官が男に話しかけた。事情聴取というやつだ。


「お兄さん、ちょっと良いかい?」


 尋ねられることはわかっている。男は答えた。


「この宿に泊まってたんです。そうしたら急に炎が上がって、でも他のお客さんは眠らされたみたいに気付いてなかったんです。だから頑張って引っ張り出してきたんですが――」


 男は視線を落とす。そこには冷たく濡れた床に無造作に寝かされた宿泊客たちがいた。呑気に寝息を立てて、警官はその様子に苦笑いを浮かべる。


「しかし女将さんとその子供だけ見当たりませんでした。もしかしたらまだ中にいらっしゃるのかもしれません」


 警官の顔が険しくなるが、男は知っている。二人は今頃雨に濡れて佇んでいることを。

 警官は今聞いたばかりの情報を仲間内に共有しようとして、最後にひとつだけという風に振り返る。


「ありがとう、詳しくはまた後日聞かせてもらう。名前だけ聞かせて欲しい」


「わたくしのことは、通りすがりの貴族だと思っておいて下さい」


 警官は疑問符を頭に浮かべて、しかし優先順位を更新してその場を去る。男にも、これ以上この場に居座る理由はない。


 任務達成だ。ひとつ心残りなのは、かつ丼を食べられなさそうなことくらいだろうか。



気付けば、この作品の一話を投稿してから1年が経過していたようです。よく頑張ったなあと我ながら、同時にもっと頑張れたよなあと思っています。


さて、筆者視点、そろそろ最終章の尻尾が見えてきたという頃合い。これからとこれまでに感謝とご挨拶を。



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