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そしてまた、この地へ  作者: 朱殷


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前哨7


 それはルドルフとノクターナがこの街を訪れる二日前のこと。近辺を嗅ぎ回っている怪しい男がいた。

 早朝で人が少ないのを良いことに、男は我が物顔で大きな地図を開く。


 地図は民間が発行しているものも流通しているが、それは観光者向けの簡易的なもので地形の確認には不相応。信用に足る地図を求めるのなら国が認可しているものが一番だ。男が開いたのは後者の地図。決して安くはない。

 そして、自ら地図を発行できるくらいの国力を持つ国のほとんどは、地図の中心に己の国を描く。

 地図の中心にある国は、クレナリア。周囲を高い山に囲まれた盆地であり、林業が盛んな国である。天然の防壁に守られた城は難攻不落で――いや、それは今は関係ない。


 男がいるのはクレナリアではないからだ。


 視線を動かすこと北東へ、大陸北部では有数の大都市ふたつに挟まれた地図に名前のない街。それこそが男の現在地である。

 この街にはこれといった観光名所も珍しい特産品もないが、その立地が悪さをしてなかなかに人の出入りが多い街だ。旅人、商人、あるいは男のように怪しい人間も。もしこの街が大都市を繋ぐ一直線上にあれば、きっとより栄えて地図に名前も載っていたのであろう。


 故に宿泊業が繁盛、街を出歩けばいたるところに宿の文字を見ることができるのだが、中でもミシルスが経営する宿は一段と賑わっていた。高級旅館でもないのにも関わらず、住民すら定期的に訪れることのある宿だ。

 理由は単純、料理の腕だ。一泊につき朝食と夕食の提供されるこの宿は、人々の胃袋を掴むことで繁盛していた。かくいう男も、胃袋を掴まれた内の一人である。


「かれこれ三泊目なんですよね――」


 男はチェックイン時間の丁度に訪れ、チェックアウトぎりぎりまで居座るということを続けたせいで、顔を覚えられてしまっていた。追い出されることはないだろうけれど、「お仕事とかされてないんですか?」なんて言われたら、メンタルが砕け散る自信がある。


 トコ、カタ――。

 宿泊スペースは二階に、男がいる一階は共有スペースとなっているのだが、階段を下ってくる足音に男は開いた地図を片づける。物珍しさに触られて破れたりしたら、いやまあ鞄の中で荷物と接触して既に何か所か破れているのだけれど、悲しい。

 男は代わりに、毎日付けている日記帳を取り出した。三日坊主な男には珍しく、幼少期からほとんど惰性で続けている、数少ない習慣である。「毎日こつこつと、短文でも良いから書くことが大切なのですよ」とは以前同僚に日記帳を見られたときの言い訳の言葉。

 もう何冊目かわからない日記帳を開くと、その酷さ加減が伺える。『今日のフレンチトーストは程好い甘さが最高だった』だとか『夕立に遭って風邪を引くかと思った』だとか。気分が良い日はイラストも添えてあって、その画力は後日見返したとき、本人ですら何のイラストなのかわからないことがあるらしい。「描くことが大切なのですよ」とは言い訳の言葉。


「やっぱり、朝だけは強いんですね」


「それは貴方も同じでしょう」


 眠そうに眼を擦りながら、しかし儚げな所作は近くに立てるべき人がいない限り、目を引き映える。二人は一度目を合わせて、それからふたつほど離れた席に座る。


 言葉遣いは似ていれど、二人の纏う雰囲気は全く違っていた。

 着る服は片や地味で、声の節々や振る舞いから読み取れる性格は適当、ガサツ。鞄の中に唯一丁寧に畳まれた茶色いチェック柄の帽子は、彼の趣味を表している。

 片や、一見地味に見えるけれどお忍びの貴族のような、服に高級感が隠し切れていない。所々に光るアクセサリーは下品でなく、細々とした動きに優美さを与えていた。


 一見しただけでもわかる通り、全く違う二人。しかしそういったわかりやすい記号を全て抜きにして顔立ちや背格好だけに注目すると、やけに似通っていることに気付く。そして同時に、身体的特徴に個性がないからだと気付く。

 名前を呼び合うことのない二人を区別するのは作られた記号だけだ。片方を探偵風の男、片方を貴族風の男と呼ぶことにしよう。


「相変わらず、酷い日記ですね」


 あえて席を離して座った貴族風の男は呟くように、そして確実に聞こえるように言う。


 貴族風の男から雑談を持ち掛けてくることは珍しい。探偵風の男は日記帳から目を外し貴族風の男を見るのだけれど、新聞を読む貴族風の男と視線が交差することはなかった。


「あ、もしかして、振り向かずに聞いて下さい、ってやつをやりたいんですか?恰好良いですよねあれ、わたくしも一度くらいはやりたいと思っていたんです。――ですが、今やっても意味ないと思いますよ?」


 生憎、時間が時間だ。女将さんもまだ寝ているだろうし、他の宿泊客も同様だ。中身が伴わないのならそれはコスプレと同じである。それは探偵風の男の信条に反する。

 だから人の多いところでもう一度やろうとの提案をしようと考えたのだけれど、それを口にする前に一蹴される。


「御託は止めて下さい。進捗を尋ねたいだけです」


 嗚呼、知っていたとも。彼はそういう人間なのだ。

 貴族風の男にそんな態度を取られるのは嫌われているからなのだけれど、幸か不幸か探偵風の男はそのことに気付いていない。


 進捗、か。薄っぺらい日記帳を見返しながら、ここ数日を振り返ってみる。

 この街には別々に入った二人だったが、一番大変だったのはやはり移動だろう。温室育ちの探偵風の男は、普段馬車に頼り切りの生活をしてきたのだ。怪しまれぬよう徒歩を強要され、足がパンパンに膨れ上がり、それでも弱音を吐けなかったのは辛かった。それと比べれば宿に滞在するここ数日の何と楽なことか。移動中はミミズの這ったような文字だった日記帳も、最近はイラストが増えている。昨日なんてふたつも描いた。


「万事順調です」


 そう言えるだろう。いいや、そうとしか言えない。


「やはりそうですか。わたくしの方も、三日後には取り掛かれると思います」


 因みに、同じく徒歩で街に入った貴族風の男だが、探偵風の男とは育ちが違うので筋肉痛に悩まされることすらなかった。


「わたくしは貴方が嫌いですが、貴方の能力だけは認めているのです」


 ストレートに嫌いと言われることは少なくないが、貴族風の男の微小なユーモアだと考えていた。


 貴族風の男はそれだけ言うと満足したように新聞を畳み、階段を上がっていく。どうやら二度寝の準備をするらしい。そういえば昨日の分の日記を書いていなかったことを思い出した探偵風の男は、ペンを走らせる。イラストはなしだ。


『魔法使いとカツ丼が食べたい。子供には高いから、他人丼を奢ってあげる』


 その日の夜。貴族風の男は几帳面な性格で、宿を別に移していたが、探偵風の男は今日も変わらず、四泊目である。

 その日は珍しく宿泊客が少なく、探偵風の男一人だけであった。一階の共有スペースで寂しく夕食を頂く。さすがに客が一人だけとなれば凝った料理を作るのも面倒らしく、あえて硬く焼かれたパンと暖かいシチューが提供された。残り物だと言われれば納得できそうだが、それでも美味しいのだから、文句は浮かばないのだけれど。


「ごちそうさまでした」


 夕食を堪能すると、ミシルスがお皿を下げてくれる。幸い、仕事については尋ねられなかった。


 それから十分くらいだろうか。人がいないのを良いことに寝転がって文字通り傍若無人に寛いでいた探偵風の男は、突然何を思ったのか発作のように立ち上がった。


「そろそろでしょう」


 四泊目の甲斐あって、探偵風の男はひとつの事実を掴んでいた。

 ミシルスは宿泊客に夕食を振る舞ったあと、決まって外出をするのだ。これまでは他の宿泊客が邪魔だったが、今日に限って言えば根回しのおかげで誰もいない。大チャンスである。


 探偵風の男はぐぐっと伸びをすると、普段ミシルスが座っているカウンターの先、ミシルスの部屋へと続くであろう扉の前に立つ。

 当然、鍵はかけられている。カウンターの下に隠しているなんて不用心なこともなく、壊して入るのが一番手っ取り早いだろうか。

 探偵風の男は針金二本という古典的な道具を取り出すと、容易く開錠してみせる。閨に侵入するのは良心が痛まなないではないが、男には大義名分があった。


 カーテンの隙間から入る月光だけでは部屋の全体像を把握するに足らず、ライトを点灯させる。

 ベッドがふたつ、収納棚と裏口へのドア。宿の部屋より少し大きいくらいの閨は、おそらく子供と一緒に使っているのだろう。子供が普段から夜遊びをして帰りが遅いのは把握済みである。机の上には「ルイス」と書かれた紙と、食べたばかりの夕食が置かれてあった。


「狭いですね」


 整理整頓がされていない、物で溢れた閨。そこそこの大きさがあるキッチンすら閨の中にあるのだから、二人で過ごすのには狭すぎる。

 が、探偵風の男が言いたいのはそういうことではない。土地の高い都市の方では、居住スペースを極限まで削って客のために開放している店や宿は多い。


 言っているのは、外部から見た宿の大きさと比べて、である。


 探偵風の男は頭の中に宿の設計図を用意する。四泊目の甲斐あって、本当は一拍目で十分だったけれど、探偵風の男の頭には間取り図が完成していた。紙に書き起こす必要はない。

 それによると、ミシルスの閨はもっと広いはずである。それこそ、子供部屋を別に用意してあげられるくらい。しかし、二人で使っているのは確実だ。


 扉はふたつ、宿の外へとつながる裏口と、今探偵風の男が使った扉だけ。もう一部屋はどこにある?考えれば簡単だ。

 隠し部屋は探偵のロマンである。一人前の探偵たるもの、隠し部屋のひとつやふたつ持っておくべきだ。


 そして隠し部屋として一番ふさわしい場所、ギミックは何か。


「ビンゴ、です」


 本棚こそ、キーとして最適。本棚の後ろには人が屈んでギリギリ通れるような、小さな扉がある。


 無造作に、高さの違う本を押したり引いたりしてみると、しかし動かない。怪しい本も怪しくない本も弄って、結局強引に本棚を動かしてその扉を見つけた。

 重かった。少なくとも女性には難しい。

 強引に突破してからギミックを確認するのはナンセンスだが、裏から見れば仕組みが簡単にわかった。本棚の一部が切り抜かれ、それが丁度小さい扉の位置とぴったり合うのだ。つまり正解は本を全部ひっくり返すことだったらしい。

 まあ、元に戻すのが大変なのでやらないけれど。


 犬や猫の気分になりながら小さい扉を抜けると、予想通りの光景がそこにはあった。


 武器庫である。

 銃器が立てかけられているのは勿論、銃弾が入った箱も高くまで積まれている。人を痺れさせ戦闘不能にするスタンガンや銃器からのダメージを軽減する防具、刃先が黒く塗られた暗器さえ。

 多種多様な人を殺すための武器が、所せましとそこには収納されていた。


「これは――、珍しいですね」


 中でもとびきりに目を引くのは、探偵風の男の肩くらいの高さまである巨大な一本の木材だ。高価な絹を巻かれ、埋め込まれた宝石を装飾とするそれは、一見鈍器にしかなり得ないが、見る人が見ればわかる。これは巨大な杖だ。それも、重要な儀式や大型戦術魔法の発動でしか使われないような。

 一般に、杖で大切なのは特殊な木材の純度であり大きさではない。だからほとんどの魔法使いは掌サイズの杖か、小さいとコンパスの部品に使うようなくらいだが、一定の大きさを超えた場合はその限りでない。二人がかりで持ち上げるような杖は過剰な程に使用者の魔法を増幅させる。

 そんな杖を作れる職人がこの辺りにいるとは思えない。きっと、どこからか盗まれたものだろう。最近は杖の影響力の大きさを恐れた職人が製造を中断していると聞く。現存しているのは大国が有する数本だけ、内一本がこんな街にあったなんて。


 秘密裏に回収しなくては、けれどそれは今じゃない。


 ミシルスの表の顔は宿屋の女将だが、裏の顔は武器商人だ。ミシルスが武器を売り払って力を得た組織は数知れず、その鉾は国相手にすら向けられようとしている。確実に潰すにはどうすれば良いか。ただ捕まえるだけでは、第二の倉庫第二のミシルスがいたときに面倒だ。

 自主的に止めさせなくては。そしてその方法は――、フフ、何も難しくない。予定通りで大丈夫。


 探偵風の男は出来事がフレッシュな内に、日記帳とペンを取り出して書き込む。


『待っていて。カツ丼はまた明日にしよう』


◇◆◇


 時刻は夜を目前に待ち構えた頃。ルドルフ、ノクターナ、ルイスはうす暗い街を歩いていた。


 通り過ぎる家々はカーテンの隙間から明るい光を零して、くぐもった談笑に花を咲かせている。稜線に身体の大半を隠した太陽は街に巨大な影を落として、道の端の用水路は底があると認識できないくらいの深淵。

 普段から太陽に当てられて存在感を隠している月明りは、今日は分厚い雲の後ろに居たいらしい。空の全てを覆った雲は目立ちたがりの一等星すら、そうであれない。

 雨の気配がする。点灯夫はまだここを訪れていない。


 天気を知る術は空を見ることだけだが、雰囲気で感じ取れることも少なくない。ルドルフのまだ浅いと自覚している経験が言うには、今晩は豪雨らしかった。

 ともすれば急いで宿に戻るべきなのだけれど、ルドルフが目指すのは全くの見当違い。重く冷たい空気に近付いていく。

 旅の途中において病気は天敵だ。治療する手段がなければ風邪でさえ致命傷になり得る。しかし幸いなことにここは街で、数日滞在するくらいの余裕はあった。ルドルフはこの面白みに欠ける街を、それはそれで好みに思い始めていたのだ。


 しかしもちろん、望んで風邪を引くような狂った思考は持ち合わせていない。屋根があればそれで満足だ。


「ここ、今朝通ったよね。どこへ向かってるの?」


「秘密だ。もうすぐ着く」


 秘密にする必要は全くないのだけれど、何となく正直に打ち明けるのは憚られたのだ。


 辺りには人はおらず、聞こえるのは風の鳴き声だけ。涼しさに身を委ねて嵐の前の空気感に意識を委ねれば、会話がなくとも気まずさを感じることはない。それよりも風邪を引かないかが不安だ。

 雨に降られる前に全てが片付けば良いけれど。そう思うと勝手に足は速くなって、殊の外すぐに到着した。


「昼の公園――?」


 人気のない、やけに広い公園。目的の場所。

 日中ですら人はほとんど居なかったのだから、こんな時間こんな空の日は殊更だ。いつにも増して、静けさが不穏を連れて巣食っていた。


 風に漕がれたブランコがギ、ギ――と不規則に揺れる。冬を越えてようやく育った若い緑が落葉して、水面を揺らす。臆病な鯉が水しぶきを上げる。

 大雨が降ったら氾濫しかねない池の中心の小島には、それを見るための休憩所があった。日陰を作るための屋根は雨を防ぐには些か心許ないけれど、ないよりは断然良い。ルドルフたちは休憩所の木で出来た椅子に座る。


「公園が好きなんだね」


 ルイスには聞きたいことがあっただろうに、何故ここに連れて来たのだとか、そういうのを全部飲み込んで言った。尋ねなくて良やと思ってもらえるくらいには信用を勝ち取っていたらしく、それが嬉しくも心苦しい。


 別に、公園が好きなんじゃない。人に溢れている場所よりは静かで好むが、それ止まりだ。ルイスをここに連れて来たのは、自称探偵に頼まれたからだ。


 今朝、自称探偵に捕まったあと。ひっそりとした営業時間外のバーにて、こんな話をされた。

 この時間にルイスをこの公園へ来るように誘導して欲しい。ここでミシルスが武器の取引をするだろうから、現行犯で捕まえる。息子に見られたとなればさほど暴れられもしないはずだ、と。


 この国において銃器の携帯や取引は違法らしい。かく言うルドルフも拳銃を携帯しているのだが、それには目を瞑るとして、ミシルスが売る銃器が犯罪組織に流れていると言われては無視できない。

 しかしそれはつまり、ルイスが途方に暮れることも意味するのだ。父親のいないルイスが母親まで失ったら何も残らない。


 果たして、どうするのが正しいのか。ルドルフにはわからない。ノクターナにも、誰にだってわからない。


「ルイス。ルイスは、お母さんのこと好きか?」


「うん!」


 屈託なく。母親のことを全く疑っていないのだ。


 嗚呼、本当に、わからない。


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