前哨6
影の薄さは作ることができる。出で立ち、風貌、生まれ持った素質に左右される部分は大きいけれど、それが全てではない。
気配とは音だ。例えば足音が、話し声が、服の擦れる音が、他人よりずっと小さかったのなら、気配は隠すことができる。
影が薄まる。
自称探偵は影が薄い人間だった。
顔立ちは美しくも醜くもない、中肉中背。少しばかり特殊な話し方考え方を示してやれば、ほとんどの人にとってそれ以外の印象を抱かないだろう。名前を探偵というありふれた記号にしてやれば、尚のこと。才能と呼んでも違わないくらいには、影の薄い人間だった。誰が彼の顔を記憶しているだろうか。
名前も顔も覆い隠されたとき、個人を特定する手段は限られる。身長、雰囲気、歩き方や仕草などの立ち居振る舞い、服装など。
身体特徴が平均に近しいとなれば、似通った顔の人間を探すより、それはずっと簡単だ。
故に自称探偵は、複数人存在した。
内一人がキャロージアに拘束されている頃のこと。宿の女将ことミシルスはすれ違う人々との衝突を間一髪で回避しながら、足元を注視して歩いていた。
落とし物を拾うためだ。大事で、危険な、落とし物。
持ち歩かなければと後悔が押し寄せるけれど、覆水盆に返らず。無意味だとわかっていても、後悔の念は頭から追い出すことができない。ああ、ああと悔やみ続ける。
もし持ち歩かなかったら、いいやそんな可能性は微塵もないとわかっているのだけれど。あれはいざというときのための切り札であり、心の支えなのだ。自宅に忘れるなんて失態をしないかぎり、それはいつでも手元に携帯している。
遠くを見回して少しでも情報を取り入れることが習慣となっているミシルスにとって、こうも足元ばかりを眺めるのはめったにない経験だ。
町内会の人たちがサボっているのだろう、道端の雑草が無造作に伸び切っている。ミシルスとしても町内会はここ数年顔を出していないから言えた立場ではないのだけれど、文句のひとつやふたつ付けたくなる。探し物をする上で迷惑極まりない。
通った道を振り返るように、暗記した地図と照合しながら歩く。歩けど、歩けど、見当たらない。もしかして見逃してしまったのだろうか。指輪サイズならいざしらず、ミシルスは注意力には自信があった。見逃すほどそれは小さくない。
あるいは、既に誰かに拾われてしまったのだろうか。大体の人ならば怖気付いて触れようともしないだろうけえれど、可能性としては決して低くない。だとすれば、面倒が過ぎる。
「あっぶねえだろうが!」
真正面、すれ違いざま。柄が悪いを格好良いと勘違いしている男が、ただでさえ背の低いミシルスが腰を曲げてより弱く見えるのを良いことに、居丈高にそう騒いだ。
難癖を付けて、振り返って、さぞ驚いたような怯えたような表情を拝めるだろうと男はニタつく。次の言葉を考えて、しかし足元を見つめるミシルスは一瞥もしなかった。それどころか、まるで存在すらしていないように、あるいは目の前を漂う羽虫のように扱う。
男は、本人は自覚していないけれど、挙動不審だった。初めて親に嘘を吐いた子供のように、ホラー小説を読んだ日の夜の厠のように。
それは大きな隠し事をしているからで、意識のリソースの大半をそれに持っていかれているからで。普段通りを振る舞っているけれど、焦りに熱された言動が肥大化し、注意力は湯煙となって散っていた。
「おい、無視してんじゃねえ!」
構う必要はないと判断したミシルスの肩を、男は掴んで無理にでも話を聞かせようとするのだけれど、やはりミシルスは一瞥すらしなかった。歩く速度を少し早めるだけで、いとも容易く回避してみせる。
空を切った男の腕はわなわなと震え、指先に力が入る。馬鹿にされたと、黒く濁った赤が炸裂する。しかしそれも数秒のこと、男の頭に残ったのは恥ずかしさであった。
己よりもずっと弱いと思った相手に回避された恥ずかしさ。それと降って湧いた危機感。男は愚かだが間抜けではない。ミシルスに底なしの何かを感じて、捨て台詞のような舌打ちを盛大に、足早にその場を去っていく。
ミシルスは生まれながらの性格として、何かに集中していると他がどうでも良くなるという悪癖があった。落とし物を探していると、不良に絡まれた事実は些細になる。ミシルスがまあいっかと思う限り判断は無意識に委ねられる。触れられて初めて、鬱陶しいというネガティブな感情からくるものかもしれないけれど、些事ではなくなるのだ。
例えばそれが、因縁の人物で、無意識には荷が重い声で、顔を挙げて視界に入れたのなら何かが違ったのだとしても。だからこその悪癖である。
ある意味では幸い、ある意味では最悪の結末として、二人は二人であるとの認識を逃れた。
今しばらく。焦燥に駆られながら、足元には秒針だけが動く壊れた時計が捨てられてあった。
「ここは――」
ない、ない、ない。一辺倒に染まっていく思考を見知った風が吹き抜けて、ミシルスはようやく青い空を視界に映した。
嫌な雲を風上に追いやった綺麗な空。きっとすぐ雨が降る。
ミシルスが立ち止まったそこは、終点であった。ここより先に行っていない。寄り道もせず真っすぐに帰ったから、つまり落とし物は誰かに拾われた。 取り返すことはきっと叶わない。
念を入れるなら引っ越すか、そうでなくても離れるべき、しかし安定した市場を手放すのは度し難い。
後悔するのは無意味だとわかっている。波を見間違えては転覆する。
はあ――。ため息をひとつ。
持ち帰ろう。最適を探るのに焦りは禁物だ。
踵を返すと、それを待ち構えていたように。蕩けるような落ち着いた声色で、貴族のような紳士的振る舞い、ここが舞踏会なら相応しかったのであろう男が、背後で腰を折った。
「何か探し物ですか、マダム」
◇◆◇
「何かお探しですか、マダム」
彼が目を引くのは、そうであろうとしているからだ。
傾城傾国ならば、努力の必要などなかっただろう。目も当てられぬ醜女であれば、諦めることもできたであろう。しかし彼は平凡であった。良い意味でも悪い意味でも記憶に残らない中肉中背。彼はそんな自分が嫌いで、変えられる部分を美しくしょうと試みた。
それが立ち居振る舞い。一歩を大きくしないこと、常に口の角度に注意すること、身振り手振りには落ち着きを、相手を立ててエスコートすること。
それが求められる場所に彼はいなかった。理解される人たちに囲まれてはいなかった。それでも彼は徹底した。
努力が実ったのは数年前のこと。
美しさを追求した彼の仕草は、意図せず主役を魅せて自身は脇役に徹するものだ。そんな彼に求められたのは期待していたのと真逆だった。注目を浴びない平凡な彼は美しさで注目を得ようとした末に、注目を浴びないことを求められたのだ。
彼の名を、いや、止そう。ここではこう呼ぶのが適切だろう。
自称貴族、と。
「随分と、大切なものを落とされたみたいですね。良ければわたくしがお手伝いしましょうか?」
自称貴族は下品にならない程度に遜って言う。折る腰の角度や頭を上げるまでの時間さえ計算した。
「貴方、最近よく泊まってる……いいえ、違う、気にしないでちょうだい。落とし物なんてしていないわ、ただちょっと――、そう、嫌なことがあって俯いてただけよ」
それでも、ミシルスの警戒を解くには足りない。
尤も、警戒を解く必要などなかった。自称探偵に頼まれたのはひとつだけ。ミシルスの監視。たったそれだけ。
自称貴族は美しい所作を封印してしまえばただの影の薄い人間に成り下がるから、監視をするのは容易だ。木陰に隠れるでも、数回ならすれ違ったとて認識されない自身がある。
けれど頼まれたことをするだけの木偶の坊は嫌だ。何より、自称貴族は自称探偵のことが嫌いだった。だから情報を得るため、対話を試みることにする。
「それは――見られては困るものを探しているからでしょうか?例えば――、そう、悪事の証拠でしたり」
「笑えない冗談はやめてちょうだい。これでも私には息子がいるの。変な噂でいじめられでもしたら、責任取ってくれるのかしら?」
「そうでしたか、息子さん。それは申し訳ございません。お詫びと言っては何ですが、お茶でもしませんか?」
息子、知っている。名前をルイス、十歳。離婚した父親と自分の名前を捩って並び替えただけの安直なネーミング。離婚してからは女手ひとつで育て、お金には不自由していないけれど、あまり時間が取れないことを悔いている。
同級生からいじめを受けているが、それを誰かに相談したことは一度もない。いじめっこの前以外では自由に振る舞い笑顔も多いため、強靭なメンタルを持っていると推測される。ミシルスがそれを知っているか、不明。
「それこそ笑えない冗談だわ。先を急いでるの、もう良いかしら?」
「ええ、ですがひとつだけ。貴女が探していたのはこれだったりしませんか?」
取り出したのは自分の財布だ。
自称貴族はミシルスの落とし物を知らない。けれどその熱心な探しようから財布ではないかとあたりをつけた。もちろん、同じ財布である可能性は微塵だ。けれど少しだけでも、反応を見るなりして自分が新しい情報を握りたかった。
「いいえ、そもそも落とし物などしていないと言ったでしょう?落とし物を拾ったのなら、早く警察に届けることをおすすめするわ。きっと、落とし主は困っているでしょうから」
「当然、そのつもりです」
困っているのは貴女でしょうに、との言葉は飲み込んで、自称貴族は財布をポッケに押し込む。ミシルスは問答をするつもりはないと言うように、自称貴族から視線を逸らす。
鎌をかけたのには引っ掛からず、結局は怪しまれるだけに終わった。平凡な見た目をしているというだけで、貴族の記号を張り付けた人間と探偵の記号を張り付けた人間とを同一視することはできないだろう。だがそれでも、接触は無意味だった。それどころか収支はマイナスである。
自称貴族は自称探偵が嫌いだ。それは認めたくないけれど、自称探偵の方が有能で期待されているから。そんな奴の足を引っ張っただけに終わるのは癪に障る。
だからひとつだけ、曖昧な計画の確信を得ておきたかったのだ。
「マダム、最後にひとつだけ良いですか?」
「…………」
「本日の夜、ちょっとした祭りがあるようなのです。ご存知でしたか?」
「――いいえ。今日は外せない用事があるの」
唯一、求めていた回答が得られた瞬間だった。
自称貴族は接触を謀ったことだとか訝しまれたことだとか、そんな都合の悪いことは隠してしまって、今聞いたばかりの情報を暗号化して自称探偵に飛ばした。




