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そしてまた、この地へ  作者: 朱殷


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Rafflesia2


 ログハウスを出ると、空気の軽さを再確認させられた。目前の扉を開けたくないと考えてしまうくらいに。


 風が凪ぐ、川がせせらぐ。普遍的な、同時にどこにもない景色だ。フローラの言葉を借りるなら桃源郷。まさにその通りだと思う。ずっとここに居たいような、しかしそれが許されない理由があるように感じて、苛まれる。言うなれば、依存に近い感覚。


 ノクターナと窓越しに目が合って、何をしてるのと首を傾げられる。行かなければ。俺がそれを残念がったのは意外でなかった。


「おかえり」


「ただいま」


 短く。夫婦のようだと考えてしまうのはきっとフローラたちに毒されたせい。


「そろそろ僕たちの家へ帰ろう。山の麓までは案内してくれるって、話は付けたから」


「…………」


 家、案内。そうか。


「――?ルドルフ、どうかした?」


「ああ、いや、気にしないでくれ。帰ろう」


 城へ。約束を果たすために。


「うん。到着はまだまだ先だけど」


 全てを問い正すために。


 幾何か桃源郷への興味が薄れる。良い思い出ばかりではない城での記憶が脳裏をよぎる。一番の不安要素は拭えたのだから、時間はかかってもきっとすぐだ。


 容易く移り変わる脳内を刺激するのはいつも外部で、自分の判断とはどこまで信用できるものなのか。


「ふふっ、任せて」


「でもまだ確定じゃない。旦那様への謁見が残ってるわ」


「そのあとでまた聴かせて。本当に帰りたいのかを」


「どちらの選択でも、私たちは歓迎するわ。だって私たちもそうだったから」


 それまで談笑をしていたフローラたちが一斉に近付いてくる。


 その瞳は少し怖い。七対の画策が暗澹たる場所へ誘っているようで、やけに魅力的に映るのが怖い。もし手を引かれて、たった一秒の葛藤がどれほどの影をノクターナに落とすだろうか。


「待って、話が違う」


「いいえ、同じ」


「誰も無条件でなんて言ってないわ」


「それに決めたでしょう。先に会うと良いって」


 そんな一言一句、会話を覚えているはずがない。しかしそう言われたなら、二人は七人に勝る術を持ち合わせていない。


 はあ――とノクターナは諦めのため息をついて、ルドルフの不干渉の間に先の行動が決まってしまったようだった。


「良いよ、すぐ戻ってきて。面白い物なんて何もないから」


 諦め、退屈、嫌悪の混じった声だ。


 何があったのかもとい何を思ったのかを訊こうとして目を合わせたのだけれど、「見ればわかるよ」とやや冷たく一蹴されてしまう。重い足取りはある扉の前へ運ばされた。


 ふたつのログハウスを同時に見たときわかったのだが、ログハウス自体は全く同じ構造をしているらしい。家具、纏う雰囲気、使われ方は違えど、やはり扉はそこに存在している。


 賑やかを好むフローラたちであったが、その時ばかりはブザービーターの寸前であった。ルドルフのものでない、誰か唾を飲む音がする。


 ノック三回、「どうぞ」と返事、掠れた甲高い声。丁寧に扉を閉めるふりをして彼女たちを見遣ったのだけれど、目を逸らすノクターナを除き、恍惚に囚われていた。


「桃源郷へいらっしゃい」


 まず感じたのは、むせ返るような花の臭い。多種多様な花の香りが混ざり合って、それら個々は美しかったとしても、ラフレシアを隠しているようだった。


 次にあるのは、胡散臭さ。先入観のせいかもしれない。豪奢な椅子に座って頬杖を付き、動こうともしない姿は傲慢そのもの。最近は彼のような人物が好まれ耽溺されるのだろうか。


「今日は来客が多いね。ちょっとその場でジャンプして貰える?」


 その立ち居振る舞いからは想像できないような優しい声だ。言われるがままジャンプしてみれど当然何かが起こるでもなく、彼は満足げに頷いた。


「良いね、椅子ならそこにあるから自由に座って。緊張しないで、ほら深呼吸深呼吸」


 息を吸う、吐く。嫌に感じられた花の臭いもいつの間にか心地良くなって、鼻腔を通り抜けようとするそれを堪能する。部屋中に舞っているのだろう花粉が花をむずむずさせるが、ならば口から吸えば良い。嗅細胞は喉にないはずなのに、それでさえ全身が花の匂いを覚える。


「初対面の人には必ずする話があるんだけど、聴いてくれる?」


 同じような枕詞で語られるそれは、やはり記憶に残らない。耳に入ったと思ったらすぐ、実態を失って何処かへ消えてしまう。意識して聴こうとしても、だ。


 あるいは、中身なんてないのかもしれない。金箔のように薄く延ばされたアルミニウム。価値のない言葉、音の羅列。興味のない講義のように、睡魔を誘発するだけのもの。


 なのに耳を傾けてしまうのは何故なのだろう。


 内容を掴むべく、反芻してみる。彼が「あ」と言えば心の中で「あ」と繰り返し、「い」と言えば「い」を思い浮かべる。瞬時にひらめいた中でもっとも妙案だったのだけれど、しかし無意味だ。内容が理解できない。猿がタイプライターを叩いてもシェイクスピアは完成しない。


 どれくらいそうしていただろう。意味が理解できたのは彼が最後に言った「またね」の言葉だけだった。その頃には彼の思想に傾倒していた。この場所は失い難き桃源郷である。


 彼との間に扉を挟むと、心に寂しさが突き刺さる。フローラたちの耽溺が理解できたような気がした。


「ね、面白くなかったでしょ」


 そしてノクターナの言葉には共感できなかった。「案外長かったね」と言いながら帰り支度をするノクターナが信じられなかった。


 何故帰る必要がある?ここはこんなにも美しい場所なのに。桃源郷はここにしか存在しないのに。


 ――城のことなんて忘れてしまえば良い。そんな言葉なしにルドルフは自身の考えをノクターナに伝えられなかった。その言葉は絶対にノクターナを傷付ける刃だった。だからルドルフには、それを口にすることはできなかった。


 桃源郷で暮らしていたい。突如として生まれた強力な感情を押し留めて、ルドルフは頷く。


「ああ、帰ろう」


 せめてもの抵抗として、言葉少なに。


◇◆◇


 流石と言うべきか、二度も迷った山はそこに住まう人にとって何でもないようだった。


 太陽が赤く染まるよりも前に街並みが見えるところまで辿り着く。経路選びもあるのだろうけれど、麓から桃源郷まではそう離れていない。だとしても、望んでも二度と戻れないことは感覚としてわかっていた。


「私の案内はここまでよ。家族に見つかったら面倒だもの」


 ふふっと、フローラは自分の発言を笑って誤魔化す。


「助かった、気を付けて」


「ええ、こちらこそ」


 桃源郷に後ろ髪引かれるのを飲み込んで、ルドルフは別れを告げる。おかげで山中での野宿も、三度目の遭難も体験せずに済んだ。フローラがあの場所に戻る頃には真っ暗になっているのだろうけれど、心配はない。彼女はこの山を見知っているし、桃源郷の住人が不幸に見舞われるはずがない。


 そんな様子のルドルフにノクターナは疑問の表情を呈して、断られるであろうことを悟りながら言った。


「すぐにでも暗くなるし、一日くらい休んでいかないの?久しぶりなんだったら、家族も心配してるだろうし」


「家族に会えば引き留められるでしょうけれど、気にしないわ。私の居場所はあそこにあるもの」


「――そっか。だったら僕が言うことは何もないね」


 哀しそうに、今一度別れを言い合って、フローラは山の中へと消えていった。


「不思議な場所だったね」


「ああ」


 緩やかに山を下る。街灯まではあと少し。坂道で蓄積した疲れを癒すとしよう。


「でも、美しい場所だった」


「住みたいとは思わないけどね」


「そうか?――全てが終わったら、あんな場所も悪くないと思うけどな」


 どうやら、ルドルフとノクターナでは桃源郷に対する感想が違っているらしい。城の存在があったからだと今では納得しているけれど、また別の理由で。


「可哀そうな場所だったよ」


 それは、わからない。


 別棟にいた彼女たちのことを差しているのなら理解できるけれど、ノクターナはその光景を見ていないはずだ。


 ルドルフは一度考え込む。ノクターナにも伝わる言葉で桃源郷を表すなら何が適当だろうか。花、風、水、いいや違う。桃源郷を桃源郷たらしめている最たる理由は多分、彼だ。


「彼は、すごい人だった」


「――?ルドルフ、彼って誰のことを言ってるの?」


 別棟でのことを話したつもりはなかったのだが、伝わっていないことに気付く。


 直接確認したわけではなかったけれど、会話の流れからして、ノクターナも彼に会っているはずだ。違和感、それとも勘違いだったのだろうか。


「ほら、扉の先にいた彼。ノクターナは行かなかったのか?」


「僕も見たけど、本当に何を言ってるの?大丈夫?」


 首を傾げて、顔を覗き込んで、心配そうに。


 話が噛み合っていない。勘違いでないことは確認できたのに、何かがおかしい。ノクターナは答え合わせをするように、言った。


「あの部屋には、人型に編まれた巨大な花以外、何もなかったよ」


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