記憶と忘却の館6
二人がいなくなった部屋には、静けさが訪れるどころかむしろ賑わってすらいました。主役が去ってもパーティは開催されるようです。
勝手な妄想ですが、彼らは甘味と関係が深くありません。だからでしょうか、彼らは物珍しく食いつき、そして空腹の獣のように平らげていきます。
本来なら私も甘味とは縁遠い存在です。彼らに交じって幾年ぶりかの刺激を舌の与えたいのですが、何故か心に浮かぶのは嫌悪感ばかりでした。
「ほれ、ナナシちゃんも食べんと無くなるぞ」
彼らの一人、私も見知った初老の男性がケーキを一切れ渡してくれます。「ありがとうございます」と言って座れる席を探すのですが、やはり食指は動きませんでした。
ちなみにナナシというのは、過去の私が適当に名付けた偽名、愛称みたいなものです。名前を忘れてしまったからナナシ、そのまんまです。多分あの男性はこれが本当の名前でないと知らないのでしょうけれど。
とは言っても本当の名前を思い出すのはとっくの昔に諦めましたから、偽名と呼ぶのは少し正しくないのかもしれません。今ではナナシが私の名前。ルドルフたちにそれを答えなかったのは――何故でしょう。わかりません。嘘を吐くのが嫌に思えたのです。
一切れのケーキはかなり大きめに分けられていましたから、ずっと持っているのも疲れがあって、机に置いて椅子を引きます。偶然にもそこはリゼッタの前でした。
どうせ受け取ったのですから一口くらい食べようと思い、フォークがないことに気付きました。彼の気遣いの至らなさに呆れます。ケーキさえ気まずさを和らげる材料にはなり得ないようでした。
「やあ、君も一人?」
リゼッタの傍には頭のないマネキンが三体いましたが、それらは人にカウントされないようです。
「奇遇だね、ボクも一人。折角友達のために人を集めたのに、断られちゃったからね」
頃合いを見て問い正そうと思っていたことの答えが不意に零れて、私は一瞬耳を疑います。
ルドルフたちは自分の脚でここに来たと言っていましたから、私たちは来るかもわからない人のパーティのために集められていたらしいのです。理解が出来ません。
でも不思議と、憤りは感じませんでした。リゼッタの落ち込みように同情したからでしょうか。それとも、結局は無に帰すと心の何処かで分かっていたからでしょうか。
「どうゾ」
マネキンに金属製のフォークを手渡されて、私はケーキを食みます。
生地は甘く、フルーツには程良い酸味がありました。美味しいです。美味しいですけど、劣化してしまった舌ではそれ以上の感想を抱くことはできませんでした。
「私たちはいつ解放されるんですか」
早く帰りたいと言う意味ではなく、リゼッタは私たちをどうするつもりなのかが心配になって、ふと私はそんな質問をしていました。名前のない私を拾ってくれたお父さんは、感謝こそすれど別れを嘆くべき人物ではありませんから。
「うん。すぐにでも解放するよ。でもせっかくゲームも準備してたんだ。楽しんでくれると嬉しいな」
やっぱり、リゼッタを責める気にはなれませんでした。
夜も更けていくと、アルコールは提供されていないはずなのに、彼らの間では酔いが回っていました。正しく表現するなら、場に酔っていました。私も酔っていたかもしれません。
リゼッタが提供したゲームは、トランプやすごろくなど普遍的なものばかりでした。ポーカーのような小難しいゲームもありましたが、多くは子供でも楽しめるようなシンプルなものでした。聞いたこともないオリジナルのゲームもありました。
多分リゼッタが一生懸命考えたのでしょう。そんな決めつけをここに置いておくことにします。
シンプルなゲームの中にもひとつ特殊なルールが設けられていました。それはいずれかのゲームで再会になった人は記憶を売って帰ること。元々私たちは件のお店の顧客でしたから、迷惑料として色を付けてくれるとあっては、断る理由がありません。私たちの中には全く関係のないコソ泥の方もいましたが、お金には余裕がないようでした。
一人、一人と屋敷が静かになっていきます。お金を受け取って部屋が寒くなっていきます。
最後に残ったのは私とリゼッタだけでした。空には太陽が見えかけていました。
私は特別ゲームが得意ではありませんから、きっと作為的なものが働いていたのでしょう。でも、もう関係のないことです。
「おめでとう、そしてお疲れ様。帰ってゆっくりと眠ると良いよ」
「最後に一戦、私とゲームしませんか?」
「――良いね、何をする?」
リゼッタが誘いを受けたのも以外でしたが、私が誘ったのも以外でした。一晩は酔いを醒ますのには短すぎるようです。
「ゲームの内容は何でも良いんです。賭けをしませんか?私が勝ったら、彼らの旅がバッドエンドを迎えないように協力してあげてください」
「彼らって言うのは?」
「わざわざ訊かなくて良いでしょう。私たちは友達でしたから」
「――思い出したんだ。僕の魔法は生まれつき最高だけど、君には敵わないね」
彼らというのはルドルフのことです。ノクターナは、仕方ないから含んであげるとしましょう。
リゼッタは思い出したと言いましたが、正しくは曖昧なままです。けれど確実に、私たちは友達でした。私たちは約束を交わしました。私は互いを忘却しました。
私は頑固でしたから、定期的にこのことを思い出してしまうのです。偶然にもそれが今でした。約束を果たすため、私はリゼッタに記憶をリセットしてもらいます。
リゼッタは私の忘却を担当しました。私たちの中で魔法を使えるのはリゼッタだけでしたから、それも当然のことです。酷い役割を押し付けてしまったと申し訳なく思っていますが、きっとリゼッタにとっては些細なことなのでしょう。だってリゼッタにとって大切なのはルドルフであって私ではありませんでしたから。それでも私たちは友達でした。
ルドルフは何も知りませんでしたから、諸悪の根源をリゼッタにあると決めつけ、ここを離れてしまいました。まあ実際、それも正しいのですけれど。ルドルフが私を私だと気付かなかったのは残念でしたが、それも仕方のない話かもしれません。リゼッタは外見に面影がないほど変わってしまい、私は昔のままの姿ですから。それでも私たちは友達でした。
「僕が勝ったら、君の記憶を彼に送るとしよう」
それは約束の根幹に関わる部分でしたが、私は頷きました。二人の賭けでありながら、最も関係しているのはここにいない人物だなんて笑ってしまいます。
ルドルフには一矢報いてやりたいと思っていましたから、やっぱり黒っぽい服はダメかもしれませんけれど、勝っても負けても良いことづくめのゲームでした。それでも負けるわけにはいきませんでした。不穏な噂がありましたから。多くの記憶から情報を集めているリゼッタの耳にも当然届いていることでしょう。
私が選んだゲームはババ抜きでした。始まりは何の緊張感もなく、進んでいきます。
「私が最後まで残ったの、リゼッタがイカサマしたからですよね」
「本当は三人残るつもりだったんだけどね」
一枚増えて、二枚減るを繰り返します。
「だったら何で引き留めなかったんですか?」
「彼は自由であるべきなんだ。瞳を改造された梟じゃない」
最後の二枚が手元に残ります。
勝敗は――どうなったのでしょう。一連の記憶を売ってしまった私にはもうわかりません。
今日このとき、忘れていたことを忘却しました。
◇◆◇
偶然にも登山道はすぐに見つかって、ルドルフたちは山小屋に泊まることができた。凍え死ぬ心配はこれでなくなったと言って良い。
生命の危機を脱したとなると、心の中に押し込めていた後悔が表面化してきた。
彼らをあそこに置いてきて良かったのか、今からでも戻るべきなのではないか、リゼッタは昔のままなのか。もう確かめられない後悔は無数にしてきたけれど、疲れに身を任せて眠れないくらいなのは初めてだ。
でも、飲み込むしかないのだ。
隣でノクターナが寝息を立てている。よっぽど気の休まらない一日だったのだろう。山小屋に入って無人を確認した瞬間にこれだ。
起こして連れまわすことなんてできるはずがない。明日になってから戻ろうか。それは明日に考えるべきだ。
俺も眠らなければ。瞳を閉じる。大きな感情の波に揺られながら眠る方法は昔に習得した。使う機会が再び訪れるとは思わなかったけれど。
眠りに落ちる。夢も見ないような深い眠りだった。
翌朝。
「ルドルフ――?」
そんな、ノクターナの心配する声で目を覚ました。
何があったのかと目を擦ってみるけれど、今日の目は調子が悪いようで、何度そうしても視界が明瞭にならない。俺は仕方なくノクターナに訪ねる。
「どうしたんだ」
「それは僕の台詞だよ。何か悪い夢でも見たの?」
夢を見たかどうかなんて即座にはわからない。
ふと、枕が冷たいと思った。掌に大粒の水玉があった。昨晩は雨だったが雨漏りはしていなかったはずだ。水は頬にも垂れていた。
雨水はルドルフの瞳から流れていた。拭っても拭っても止め処なく、降っていた。感情が追い付くよりも早いスピードで落ちていた。
何故俺は泣いているのだろう。わからなかった。脳裏には一度たりとも忘れたことのない、けれど思い出すこともないだろうと思っていた情景が流れていた。
「大丈夫?」
ノクターナは一瞬戸惑って、いつぞやと同じように隣をぺちぺちと叩く。杖を持って両手を広げる。濡れた枕を乾かして水玉にする。
「いらない――」
胸を貸そうとするノクターナの好意を俺は断った。この涙は誰に預けるべきでもないと思った。
今日このとき、覚えていたことを記憶した。




