記憶の忘却の館1
ひんやりとした場所だった。単に寒いという意味ではない。雰囲気としてひんやりしている。
その日もこんな曇天だったろうか。太陽は分厚い雲に阻まれ地上に影を落とす。されど雨が乾いた心を潤してくれることもなく、だからこその曇天。あるいは、その場を席巻していた感情が認識を歪ませ、そう見えていたのかもしれないけれど。
待望を孕んだ視線が注がれるのは大きな館だ。
使用人を百人単位で雇ってもまだ余裕がありそうな館。外壁は白くシミの一つもない、常にライトが灯され明るい館。来客があった際にはカーテンが閉ざされ燦燦は鳴りを潜めるけれど、他の部屋やカーテンの隙間からは確かにライトの色があって、家主が消灯を禁じているのでは、家主は暗がりが苦手で臆病だと噂される。
しかし知っている。それには多くの嫉妬と畏怖、尊敬が交えられていることを。
『葬式』
その不幸な二文字は、今日は館に関わらず様々なところで見た。民家の塀に張り紙、路上には看板、人々の顔色にまで描かれている。その全てを挙げるのは不可能なくらいだ。
大規模な疫病でも流行ったのだろうか。それにしては一斉で前兆がなく、妙なイベントかデモンストレーションだと説明された方が納得がいく。とは言えそれも強引な説明だから、簡単には推測できない裏があるに違いない。
そう期待してルドルフはすれ違いざまに盗み聞きしてみたのだが、得られた回答は存外面白みに欠けるものだった。
「――が亡くなられたらしい」
「可哀そうだ」
「跡継ぎはまだ小さいのに。丁度、今すれ違った子供くらい」
つまりは誰か有名な人が死んじゃった、という話だ。だから陰鬱モードが漂っている。
自由奔放な野良猫すらも訃報の風を感じ取って目の前の鼠を見逃すくらいではあったが、その本拠地たる館とあれば、口角を数ミリ上げることも憚られるようだった。
絶えず人の出入りがある。全員が同じ服装で同じ仏頂面で、曇天はここ数日続いている。
そして、ある日のこと。言い訳のように聞こえるかもしれないが、偶然だった。偶然、意図せず裏口が開いているのを見つけてしまった。多分ゴミ捨てか何かの最中で一瞬目を離したのだろう。もし侵入しても気付かれないような状況が出来ていた。
当時のルドルフは腹の虫に従うがまま、廊下に足跡を残して。
◇◆◇
「どこ、ここ……」
ノクターナの不安げな言葉に、碌な返答を用意できない。だって全くの見知らぬ場所で、心当たりが一切なかったのだから。
少なくとも。
「山奥ってことだけはわかる」
木、木、木。それと傾斜。背後にある獣道だけが目印になるような、無計画に彷徨えば助かる見込みが僅かさえも潰えるような場所にルドルフたちは遭難していた。
木漏れ日から察するに日没まではまだ余裕があるだろうけれど、まだ夜は冷え込む時期だ。日光が薄くなる山中となれば尚更。何の対策もなしに夜を迎えれば朝日を拝めるかどうか。
地面はぬかるんで水溜まり、肌に冷たいものを感じて見上げると葉には露が滴っている。――最近雨は降っただろうか。山の天気は変わりやすいと聴くから、この辺りだけ降水した可能性もあるけれど、あるいは元居た場所から遠く離れてしまったか。
何よりも問題なのは、何故こんな場所にいるのかわからないことだった。
「ね、ルドルフ。僕たちは日の出を拝もうとしてたんだっけ?」
「元旦は一年に一度だけだ」
「僕たち、知らなかったけど天体観測が趣味だったんだね」
「観測される側になりそうだけど」
生憎、それはノクターナも同じことのようで。
記憶を辿ってもそれは奪われたようにぶつ切りで、不自然な縫い合わせが成されている。ただ、俺たちが自らの脚で山道に足を運んだのは確からしい。
時折足を掬われながら歩いた。『この先進むこと勿れ』と草臥れた木の看板に書かれた文字を読んだ上でスルーした。何の目的もなく、何の違和感も抱かぬままに。
「引き返すべきだ」
危うい香りしかしない。
「この獣道を?どっちから来たのかもわからないのに」
前後に傾斜が続いていれば推測もできるのだが、獣道は平坦に踏み均されていて、傾斜は左右に伸びるばかり。常に前を見て話しているわけではないから、背後の道が下山に繋がっていると断定もできない。
「だったら、不用意に動かない方がましだよ」
留まって事態が悪化することはないが、好転することも同時にない。
湿った木に体重を預けていると、時間は刻々と過ぎていく。どうするべきか、原因は何なのか、記憶の中にも、当然山中にも置かれていない問いに頭を悩ませる。無意味だと切り捨てるまで日は無駄に傾く。
木漏れ日の角度が体感できるくらい変わると、焦燥が沸々と泡を生み出す。溢れないよう隙間のない蓋を乗せる。
二人の勘考が同じ点に着地したのは約十分ほど経過したくらいだろうか。
時間は思考パターンを似通わせてしまうようで、口裏を合わせていたようなタイミングで俯いていた顔を見合わせ、笑った。片やそれがおかしくて、片やそれが嬉しくて。
「進もうか」
「だね」
「どっちに行きたい?」
「あっち。僕の勘がそう言ってる」
旅を始めたばかりの頃分かれ道の度にこんな会話をしてたっけ。彼女の勘が面白みのない記憶に続いたことはなかったように思う。
水滴で冷たくなった服を軽く払う。踏み出した足が水溜まりに触れて泥水をまき散らす。全方位から漂う湿気のせいで、乾くのはいつになることやら。
二人は当てもなく歩いた。ああ、旅とは本来このようなものなのだと。目的なんていらない。興味の赴くままに。明日があることを信じて短い旅を気ままに歩く。
「この先何があると思う?山小屋、それとも魔物の巣窟?」
「多分何もない。望むなら川か湖が欲しいけど」
「野宿になりそうだね」
「慣れっこだな」
代り映えのしない景色だ。実のある会話は生まれやしない。けれど少しだけ変わった心情は少しだけ別の見方を与えて、足取りは軽かった。
しばらくの無言が続いていただろうか。太陽は一瞬の赤らみを見せ、役目を御免した。
魔法によって作られた光が足元を照らす。高い木の葉はすっかり夜闇に消えてしまった。未だ不愉快な地面は踏み外すのを避けるので精いっぱい。少し離れた位置に何があっても気付くことは叶わないだろう。もし人がいるのならそちらに見つけて頂きたいものだ。
「ね、ルドルフ」
二人から一定の距離を保っていた光が、ノクターナの声と一緒にひょいっと動いた。制限された視界の内では視線を合わせるのも容易で、次の言葉を待つまでもなく同じものに注視する。
それは塀のようだった。下部を石材、上部を金属のフェンスによってできた塀だ。塀は左右に長く連なってルドルフたちを阻んでいるようだった。この状況においてそれは必ずしも悪いことばかりではないのだけれど。
「入口は――」
「探さなくっても、乗り越えたら良いでしょ。それほど高くないのに」
ノクターナは身軽に身体を持ち上げてフェンスの先に行ってしまう。腐っても淑女でしょうにと小言を言うともりはないが、ルドルフは乾いた笑みを浮かべた。
塀の先は手入れされているとはお世辞にも言えないけれど、山中とは明らかに違っていた。
雑草は生えっぱなし、塀は元々白かったであろうことがギリギリ理解できるくらい緑に覆われている。小池の水はアメンボが浮いているし樹木は無造作に葉を広げている。
しかし明らかに人の手が入った痕跡があった。小池然り、庭石で作られた小道然り。恐らくはこの先に、放棄された館があるのだろう。
「何て言うか、不気味だね」
「まあ野宿の必要がなくなったと考えれば」
一晩泊めさせて貰おう。それで明るくなってからまた考えれば良い。
庭はあまり広くないようで少し進んだ先に館があった。こんな暗闇ではその全容を確認できないけれど、こんな山奥で放棄されているのだ。内部は荒れ果て動物たちの住処になっているかもしれない。
「野ざらしのテントで寝るよりは良いだろ」
慣れっこだとは言ったが、そうでないならそれに越したことはない。
俺たちは重厚な扉を軋ませて侵入する。




