楽園にとっての魔法使い
『楽園では全ての存在が平等であるべきだ』
それは何時だったろうか。ふらっと寄った喫茶店の本棚に、そんな文字を見掛けた。
カジュアルな雑誌やコミックがこうした場面には適しているのだろうが、その喫茶店は小説やハウツー本といった手を出すのに少し勇気がいるものばかり並べられてあった。
中でも妙に際立って見えたのが、無地の表紙に黒字だけのその本。興味が引かれた理由は正直わからない。
「ご注文は何になさいますか?」
ウェイターに軽食を頼んで、窓から外を眺める。
景色に面白いところはない。通りを行き交う人にも広がる街並みにも、それらしい違いは見当たらない。数多ある街の内の一つ。きっと忘れてしまうことはなくても、思い出しはしないのだろう。
強いて言うなら、その日はしとしと雨が降っていた。
「こちらパンケーキセットと――です。ごゆっくりどうぞー」
ノイズのかかった料理が目の前に置かれる。ナイフによってお皿に蜂蜜とバターが混じったものが流れフォークによって滝に高低差が生まれるのを観察したあと、――を口に運ぶ。
早く食べてしまって彼女を急かさないようにと気を払っていたつもりが、いつの間にかそんな無用の気遣いをさせてしまう状況になっていて、彼女はそれを別な理由だと捉えたらしく、切り取ったばかりのパンケーキにフォークを刺す。
「食べる?交換ね」
あるいは、彼女が食べたかっただけなのかも。
スプーンいっぱいに掬った――が口に消えるのとほぼ同時に、注意しなくては口回りが汚れるパンケーキを食む。
たっぷりの蜂蜜の甘味と蕩けたバターの塩味、二層に重ねた分厚い生地。その食感を楽しもうにも満足する前に喉元を過ぎて、微かに彼女の香りがするフォークに舌が触れてしまわないよう引き抜く。
パンケーキに対する感想は抱いたのだけれど、自分が頼んだ料理の味はおろか見た目や料理名さえよく覚えていない。
「甘くて、見た目通りぷるっぷるでおいしいね。88点」
しかし、彼女はそう懐かしい言葉で笑って、――がもう一口分減っていたから、味の想像はできる。
二人が頼んだ軽食は名前の通り食べるのに時間を要するものではなくて、お皿にカトラリーが休むのもすぐだった。胃が少し重くなったような錯覚が生じて、はぁっと満足の息を吐く。
「どうしよっか。店出る?」
喫茶店は客の入れ替わりが激しいものでもなく、席についているのはまちまち。強い雨ではないものの身体や服が濡れるのは不快だ。
これといった考えもなしに緩く首を横に振ると、やはり雨脚を見ようかという流れになって、ウェイターにドリンクを頼む。
店員が来て去って、コースターに水滴が滴る。
当分はゆったりトランプでもあればなんて思っていたのだけれど、無意味に彷徨わせた視線が本のタイトルに再度止まって、両方のドリンクが十分あることを確認してから、そっと引き抜いた。
『楽園では全ての存在が平等であるべきだ』
著者、とある日雇いの魔女。
それは大変聡明な王――ここでは便宜上そう呼ぶ――が実際に言った言葉だ、から始まった文章は、フィクションの香りもほどほどに随筆めいていた。
◇◆◇
この本は売れないであろうことを念頭に置いて書くことにする。だからもし見掛けたら手に取って、そして友人家族には伝えないでくれると嬉しい。
楽園では全ての存在が平等であるべきだ。それはあまり遠くない過去、大変聡明な王が実際に言った言葉だ。
確かに、楽園と呼ばれるものがあるのなら、そうだろうと思う。平等はこの上ない美徳だと、その考えは今でも変わらない。
聡明な王は楽園を作ると宣言した。彼が言った全ての存在とは、大層な言葉選びとは裏腹に狭く、楽園という言葉の意味を理解できる者だった。
人々はそれに落胆するかに思われたが、むしろ実現可能性を見て歓喜した。かく言う私も大勢の内の一人で、今では文句を言う大勢の内の一人だ。私は流されやすいタイプなのかもしれない。
まずは魔法使いの優位が撤廃が目指された。白羽の矢が立ったのは使い魔だった。使い魔が魔法使いとそうでない者の差を広げていることに間違いはない。
使い魔を所有している魔法使いに勤労の義務、公共事業が起こされたときには率先して労働力を提供することが義務付けられた。それは使い魔にも税がかかることを意味していて、不満を抱いたけれど、悪くないものだと気付いた。
世の中が見るからに過ごし易くなったのだ。聡明な王は事業を大量に立ち上げ使い魔を徴収、それらは安価な労働力だったから仕事は楽なものに変わっていって、恩恵を受けた人々の中には魔法使いを嫌っている者もいたのだけれど、その鉾を徐々に収めていった。
私たちは単純に収入が増えて、その上人々に感謝されるのだから、双方が目指す楽園はすぐ近くにあるように思えた。人々の表情は明るく、降り注ぐ太陽までが賞賛していた。
聡明な王の言う全ての存在には、使い魔も含まれていた。
人々から、主に魔法使いでない者たちから使い魔への嫌悪感を拭い去った聡明な王は、宣言した。使い魔に人権を与えると。この時この瞬間、使い魔は人々の、世の中の道具ではなくなった。
彼らが家庭を持った、彼らが商売を始めた、彼らが収入を得た、彼らが収入を自由に使った。それは実質的な人口の急増で、莫大なインフレーションを起こした。人々は狂喜乱舞したけれど、その頃にはもう、楽園は馬鹿だけではなくなっていた。
魔法使いから独立した使い魔を維持するにあたって、しかし魔法使いの存在は不可欠であった。これまで使い魔に働かせて生活していた私たちは、権力によってしぶしぶ、使い魔の維持のため、使い魔に従事するようになった。立場が逆転した。
彼らへの対応をこれまでから一新する必要が生まれ、軋轢があった。暴動にもなった。それでも待遇改善をしない人々によって社会からあぶれる使い魔がいた。治安はみるみる悪化して、楽園の面影はどこにもなかった。
そんな状況でも尚のこと楽園と呼び続ける者たちがいた。聡明な王の権力外にいる魔法使いたちだ。せいぜい自分の仕事の手伝いしかさせられない使い魔を送り込むだけで、同じかそれに近い額を稼がせることができるのだから、楽園は使い魔だらけになった。
そんなのが経済的にも良いはずがなくて、外部の使い魔が働くことは禁じられたのだけれど、それだけできっぱり居なくなるなんて都合の良い話もなく。
「あの、他のお客様もいらっしゃいますので、五時間はさすがに――」
ウェイターの困ったような声で、私は現実に戻された。
この店にも、身分を隠した使い魔がせっせと働いているのだろうか。
「あー、それじゃあ、これと同じものを、一つ」
「かしこまりました」
金を落とすと伝えるとウェイターは笑顔を作って、会釈をして厨房に戻る。
私は、ここが他のギャングに制圧されずに済んでいるのはその方が利益が出ると判断されているからにすぎないのだろう、と最後に付け足して、本の草案を綴じた。
私が店に入ってから降り始めた雨はまだ止んでいないようで、道路に出来た水たまりが揺らいでいる。人々は傘をさして雨を防いで、あの頃は使い魔があったから雨に困らされることもなかったのにと懐古する。
「お待たせいたしました」
コップに半分ほど残っていたドリンクを飲み干して渡すと、ウェイターは会釈した。
「上の奴らは、ここが周りに何て呼ばれてるか知ってるのか?」
「えっと――?」
「ああ、いや、気にしないでくれ。ただの独り言だ」
ウェイターの顔に困惑が戻る。
馬鹿げた話だ、だから私はここが嫌いだ。
魔法使いは多くのエネルギーを使い魔のために奪われ、職には困らなくとも、夢を追う権利を剥奪されている。小説もスポーツも店を持つことも。使い魔の無駄な営みのために奪われたあとの気力では、時間の浪費にしか使えない。
食事を必要としない使い魔は人間と比べてその分お金が浮くのだから、生活が苦しいと喘ぐのは人間ばかりだ。記憶を売り払って何とか生き延びている者もいると聞く。
だから私たちはここが嫌いだ。
そんな見る影もないかつての楽園を、外部の人はこう呼ぶ。
「使い魔たちの楽園、と」




