噂話、夕刻の空模様
週一回の数少ない休日。俺は悶々と過ごしていた。
「どうしたんだよ、らしくない。体調でも優れないのか?」
「ああ、気にしないでくれ」
二段ベッドの下からグレイが顔を出す。心配されても相手する元気がなくて、俺はひらひらと手を振るだけに留める。
考えが纏まらない。思考を巡らせれば巡らせるほど、どうでも良いことに脱線して本題を見失う。恥ずかしくて不甲斐なくて、思い出したくないのもあるだろう。
ああクソ、朝食べるの忘れちまった。弁当もない。昼は――はぁ、会いたくないな。夜まで保つと良いけど。
「それじゃ、俺行くから。今日一日はしっかり休めよ」
グレイが部屋を出る。完全な静寂に包まれて腹の虫が鳴ったのは多分、空が紅く染まる頃だった。
◇◆◇
気分転換にと裏口から外に出て、俺はベンチに座る。部屋着のままでは少し肌寒く、両手を擦り合わせて暖を取る。
「お、こんなところに居たのか」
呆然としていれば真正面にグレイが居た。グレイは「無理言って早めに上がらせて貰った」と言いながら隣に腰掛ける。
「やるよ、余り物だがな」
軽く放って渡されたのは白米を握っただけのもの。中に何かが入っているでもなかったが、空腹にはかなり美味しい。
「元気になったようで良かった」
白米を口に含みながら頷く。
数分ほど無言の時間があった。耳を澄ませば遠くで誰かの話し声が聞こえる。二人して沈みゆく太陽を眺めて黄昏ていた。
「飽くまで噂なんだけどな、近々荒れるらしいぜ」
「荒れる?」
太陽から目を離して西の方を見てみれば、遥か遠くに分厚い雲があった。大変なことになりそうだと、城は安全だとわかっていながらでも心配になるくらい大きな雲。
「下町は荒れるかもだが、流石に城までは壊れないだろうよ」
「それもそうだが、俺が言いたいのはそっちじゃない。――隣国の動きが怪しいみたいなんだ」
付近に誰もいないのにグレイは声を潜めて言った。
戦争か。うちのような小国じゃ、巻き込まれれば一溜りもないだろう。他国同士の戦争でさえ首を突っ込むのは憚るくらいなのだ。前線ともなれば――。
そんな国でも、国家としての齢は長い。何かしら秘策があるはずだ。例えば、実は騎士団がめっちゃ強いとか。
「そうならないためにお上があるんだろ?」
「まあな。こればかりは信じる他ない」
例えば、外交が物凄く得意だとか。
ふと、ノクターナの顔が浮かんだ。ノクターナはこのことを知っているのだろうか。ノクターナは戦争を是としないタイプなのだろうか。
「おい」
ノクターナは――
「ルドルフ――大丈夫か?」
「――すまん、ちょっと考え事を」
「しっかりしてくれよ?」
そうだ、これは根も葉もないただの噂。時が経てばいずれ消える。真に受ける必要はない。空模様なんて、予測はできても読めるものではない。特に遠くの事となれば尚更だ。
「それでだ。話は変わるんだが、良いか?」
グレイが少し真面目な顔になってルドルフの方へと向き直る。
「昨日、あそこで何があった?」
心臓が跳ねる。まさか問い質されるとは思ってもみなかった。正直思い出したくない出来事だ。そのときはいくら悲しくともいくら憤ろうとも、一度消化してしまえば恥ずかしい過去でしかなくなる。
俺はグレイから目を逸らす。なんとか話さなくとも許されないかと期待して。
グレイは俺の目をじっと見つめる。逃がしてはくれないようで、ルドルフは一つため息を零した。
俺はあの女がしたことを端折りながら話す。思い出しただけでストレスが溜まりそうだ。
そのままの流れで先のことまで思い出してしまって、首を振る。すぐにでも忘れてしまいたい。
「二つ目。あの女は何者だ?」
「――ああ、何者だろうね。俺がここに来たときから目を付けられてて」
「隠すな、そっちじゃない。わかってるだろ。あの、黒髪の方だ」
黒髪の方、つまりノクターナのことだ。何と説明すべきだろうか。
出会い方は口止めされているので言えない。姫様だと言って信じてもらえるとも思えない。言って良いのかさえわからない。俺とノクターナの関係を都合良く形容する言葉が見当たらない。
「初めは新入りかと思ったが、あんなに魔法を扱える人間が使用人であるはずがない」
「――」
「俺はお前を信じて、このことを誰にも話していない。だがもしあの女が怪しい人間なのだとしたら、俺は報告する義務がある」
「彼女はそんな人間じゃ――」
「ないと思ってる。だからこそ聞いてるんだ」
嘘を吐くなと詰められる。俺は俯いて適当な言葉を探す。この場を凌げて、話せる範囲で、それでいて関係を正しく表現できる言葉を。
「ルドルフ。もしお前が俺に口止めをするのなら、俺はそれに従おう」
グレイは急に声色を和らげて、ルドルフが手に持っていたゴミを回収する。
グレイは、こいつは本当に尋問が上手い。
「彼女が怪しい人物じゃないことは保証する。とは言ってもそれを示せるものは何もないけど。それと彼女は――」
「――」
そこまで言ってようやく、自身の感情に適切な言葉を見つけることができた。それは俺なんかには到底には似合わなくて、けれどそう思ってしまえばそれ以外に良い表現が思いつかなくなるものでもあった。
「彼女は、俺の好きな人だよ」
と。
◇◆◇
不吉かな、翌日はバケツをひっくり返したような雨が降った。雷が近くに落ちて眩く光る。昨日はあんなに遠く見えた雲が今はすぐ真上にあって、何かを暗示しているようだった。