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そしてまた、この地へ  作者: 朱殷


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失うはずの矜持2


 無数にある教室と夥しい数の人の影。真面目な生徒に言わせれば少し遅れている時間、教室の扉を鳴らし自分の席に着く。彼女の名をスペラヒールと言う。あだ名はない。


 スペラヒールはこの特殊な学校――小、中、高、更には研究機関までを包含する他に類を見ない学校――の中学生だ。


 キーンコーンカーンコーン


 各教室に取り付けられたスピーカーから聞き慣れた音が響く。始業のチャイムだ。


 廊下に出ていた男子たちの慌ただしい足音と、遅刻寸前で登校した女子の椅子を引く音は嵐のように過ぎ去って、教室から空気の揺らめく音以外の一切がなくなる。


 これを心地良いと感じる者も気不味いと感じる者も居るだろうが、少なくともスペラヒールは前者だった。むしろずっと先生が来なければ良いと思うほどに。


 チャイムが鳴ってから一分ほど。いつも決まって先生は、計ったように一分の遅刻をして現れる。

 教室の扉にある小さな窓から視線を感じて、スペラヒールは揺れるカーテンのその先を見遣った。


「起立!礼!」


「おねがいしまーす」


 号令があれば誰もがその決められた行動をする。


 思考を蚊帳の外へと追いやっていても無意識が反応してしまうのだ。


 されどそれは、蚊帳の外に置いてけぼりにされた思考を連れ戻までには至らない。


「えー、それでは、今日は前回の続きから。前回はどこまでやったか覚えていますか」


 はたして、あのカップルらしき二人は上手くやってくれるだろうか。もしそうでなくても責められやしないが。


 そもそも部外者に頼るべきでないことはスペラヒールにもわかっている。でも、部外者以外に頼れなかったのも事実だ。

 判断基準は人当たりが良さそうな魔法使い。それだけだ。彼らからすれば大した理由もなく巻き込まれたと言える。


 申し訳ないと思う。情けないと思う。けれど同時によくやったとも思う。


「前回は精神に干渉する魔法とその危険性について学びました」


「そうですね。物理的な魔法はもちろん、精神的な魔法も使い方を間違えれば、悪用すれば簡単に人の人生を狂わせることができてしまいます。ノートを見ずに言えたら満点でしたね」


 かなり内気な性格をしているスペラヒールにとって、自分都合で人に迷惑をかけに行くのはやっとのことで超えたハードルだ。

 彼らが実らなかったとき、次へ行けるのだろうか。経験はハードルをより高みへと押し上げるものだ。


 ――考えないでおこう。


「先生は精神に干渉する魔法で人生を狂わされた人を見たことがあるんですか?」


「いいえ。戦争で前線に向かった知人がいるのですが、労力と効果が見合わないらしく、使うことも使われることもなかったそうです。あなたたちも今後、専攻しない限りより詳しく学ぶことはないでしょう」


 授業をよく聞いていない人を除き、この先生の生徒は知っている。大体の場合このあとしかしと続くのだ。


「しかし現代まで残っているものもあります。効果にランダム性が追加される代わりに簡易的な儀式で行えるようになった、所謂呪いです。それでもかなり珍しいものではありますが、今回は呪いの検査キットを作ってみましょうか」


「はーい」


 はたして、あのカップルらしき二人は上手くやってくれるだろうか。


◇◆◇


 ノクターナは魔法使いである。そして魔法使いとは一般に、常人よりも優れた存在であると知られる。


 優秀な魔法使いにとって、そうでない者を探し出し捕らえることなど造作もない。ましてや、邪魔の入らない環境下なら尚更だ。


 件の不審者に要した時間は半時間にも満たなかった。


「お前、人間じゃねーな」


 逃亡の準備を整えていた男は、振り返るや否やそう言った。


 その言葉の意味するところはつまり、魔法使いを人間だと認めていませんという意思表示だ。偶にいる差別主義者。


 科学技術が発展した大国に多く、逆に魔法が神格化される田舎では魔法使いが他を見下す形で現れる。


「あーあ、辞めだ辞め。人間では敵いませんよーだ」


 歩道の中心、彼の心情を表すようにその場で座り込んだ。


 彼らの言い分は拗ねた子供のようなもので、その逆のような残虐さは持ち合わせていないことが多い。


「人として終わっている君と比べたら、おおよそ同じ遺伝子をしてるだろうね」


「なっ――」


 身振りは平静を装ったまま、ノクターナは随分と棘のある台詞を吐く。


 男は一瞬たじろいた様子を見せたあと、それを隠すようにそっぽを向いた。


「それじゃ、さっさと人に引き渡して僕らはお暇しよっか」


 この先は自分たちの仕事ではない。


 そう言って、ノクターナは優雅に振り返る。

 視界から人が消えた。誰も、そこにいたはずの――いや、いなければならない男も。


「ルドルフ――?」


 風が流れる。人の温かみを連れ去って。その跡を残さず。


 ふと思い出すのはある日の記憶。たった一日の家出。たった一日に翻弄された記憶。

 経験は人を強くも弱くもするが、そのどちらであったか分かるのは二度目の経験だけだ。


「ルドルフ……ああ、さっきの男のことか。警察でも呼びに行ったのかと思ってたが、愛想尽かして逃げたんじゃねーの?あ、そもそも尽かす愛想がねーか」


「――うるさい」


 此れ見よがしに饒舌にまくし立てる。


 無論、そうでないことはわかっている。耳に入る言葉が戯言だと、脳裏をよぎる情景が杞憂だとわかっている。理解と感情が一致しないこともわかっている。


 まるで雛鳥が親鳥に巣から突き落とされるような、不条理と疑問を胸に羽ばたき、飛び方を覚えながらも消えないわだかまりのような存在。


「どーだ?依存してた奴に見捨てられた気分は。どーせ裏切られたとか思ってんだろ?己のせいだってのに気付かずにさあ」


「それ、もしかして自分に言ってる?」


 依存。その言葉は正しくないように思う。


 ならばどんな言葉なら正しいのかと問われれば、それを知るにはノクターナは幼すぎる。


 ルドルフを探したいと思う。探すべきではないと思う。せめてこの件を片付けるべきだ。


 ルドルフへの信頼などではない。ただ一国の元王女としての、きっと使われることなく廃れていくはずだった矜持が、ノクターナの足をこの場へ留めていた。


「あなたを警察に引き渡して、話はそれからです」


「はっ!そうかよ。男よりも腹いせの方が大切ってか?つくづく終わってるのな」


「腹いせ?」


「ああそうだよ。腹いせ。それ以外に何がある。お前に何をした?確かにお前らを見てたのかもしれねーが、それの何が悪い?人間には目玉なんかいらないってか?」


「え?だって君は僕たちから逃げて――」


「人外に追われて逃げない奴がどこにいる」


 絡まった毛糸を引っ張る二人の背後、その中心。誰の目にも留まることなく、一枚のプリントが風にあおられて飛んで行った。


 放課後、屋上へ。


◇◆◇


 刻が迫る。過ぎて行く。


 それを望み、それを憂い、大きく吸った息は僅かな異臭騒ぎ。


 ピンクのタイル、真っ白い壁。電球に色はなく、天井の塗装は一部剥がれている。小窓から入る光に無性に後ろめたく思わされて、一番暗く一番静かな個室に座る。


 惨めだ。同時に、落ち着く。上下に空いた隙間から目を逸らしてしまえば、自室を除いて唯一の楽園と言えよう。


 自分の足を机代わりにハンカチを開く。包まれているのは要らないと言えなかったお弁当。素朴なおかずと冷たくなったご飯。食欲をそそるはずの匂いはその場の空気と混じって、水筒のお茶と一緒に流し込むのが常となっていた。


 気持ち急いで弁当を口に運ぶ。


「――――」


「――――」


「――――」


 何人組かの足音と話し声が聞こえた。こちらに向かってきている。


 反射的に弁当の蓋を閉じて動きを止める。呼吸が肺まで届かず口内外を行ったり来たりする。

 目線が一点に集中する。目の前の扉を焼き切らんばかりに睨む。


 鍵はかけてある。会話は聞き取れないが少なくともスペラヒールの話はしていなさそうだ。混迷していた心は僅かばかりの落ち着きを取り戻す。


「あ、そうだ」


 悪い予感がした。


 咄嗟に耳を塞ぎ身体を丸める。


 遠くなる音。いくつかの喋り声。どうか悪い予感が外れていますように。


 期待を抱かせる長い数秒のあと。


「えいっ」


 そんな間が抜けるような掛け声と一緒に、雨が降った。


「きゃ――っ」


 季節に冷やされた水が一本の道になって降る。弧を描いて、天井と壁にある隙間から、室内に雨が降る。


 雨漏りではない。幻でもない。純然たる人の悪意によって、その雨は降り注ぐのだ。


「おーい。そこに居るんでしょー?」


 なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで――


「いっつもそこに居るでしょ。スペラヒールちゃーん」


 いいや。きっと何も間違ってなんかいない。


 雨はいずれ止む。そのあとで晴れるかはわからないけれど、曇りにはなる。それは多分今日になる。その布石は打ったはずだ。

 どれだけ曖昧でも、どれだけ不完全でも、どれだけ低い可能性だったとしても。その事実が傘になってくれる。


 だから私は大丈夫なんだ。


「放課後屋上に集まるって約束、忘れてないよね」


 ――――。


 そんな訳ないだろ。


 大丈夫な訳がない。許せるはずがない。たとえ許せたとしても許さない。絶対に。

 何故許さなければならない。何故認めなけらばならない。何故悪意に晒され続けなければならない。矛先が変わって、誰かが身代わりになってほしい。仲間内で争ってしまえ。どうせ隣に居る奴のことも見下して見下されてるんだ。それに気付いていないだけ。誰もが自分が一番上だと思い込んでいるだけ。でなければあの――口にできないようなスラング――に仲間なんかできるはずがない。拙い関わりが崩壊して朽ちて消えてしまえ。消えろ。失せろ。視界に入るな。私に関わるな。誰かの悪意の矛先になれ。永劫の時を悪意に晒され続けろ。そして自らの悪行を思い返せ。反省はしなくて良い。どうせ反省できるほど崇高な脳を備えていないんだ。恨むと良い。憤ると良い。不条理の前ではどれも無意味なことだ。私を覚える必要はない。むしろ覚えるな。誰の記憶の中だろうと関わりたくない。そしてあわよくば死ね。私の知らないところで。一度たりとも思い出の席に並ばないように。


 ヒートアップする頭を水が物理的に冷やしていく。そんなのがどれくらい続いただろうか。


 揺れ動き身体中余すことなく濡らしていく水と断続的な笑い声の狭間に、キュッキュッと不釣り合いな音が鳴った。一瞬のラグを経て雨が止む。


「こんなところで水やり?ここで花は育たないと思うけど」


「は、何?って言うか誰?ここ女子トイレなんだけど」


「ああ、わかってる。わかってるが、生憎ノクターナは手が離せないんだ」


 コツコツ、ピチャ――


 足音がすぐ近くまで来る。ドアが何度か揺すられる。


「鍵――は閉まってるか」


 ドアの上部に手がかけられる。咄嗟に、服が透けているのではと気になって身体を抱く。


「ごめん、先に屋上探してた」


 ドアをよじ登って顔を覗かせた男はそう言った。


「あ、あの、あり――」


 言葉の続きがつっかかって出てこない。名前も知らない男の顔が直視できず、寒さのせいで耳が真っ赤になる。


「あの、えっと」


 感謝を伝える時は顔を上げて相手の目を見て言うべき。決して他意はないと自分に言いきかして、震えながら顔を上げる。


 口を開く。息を漏らす。言葉を紡ごうと舌を揺らす。そんな時だった。


 ――――っ!!!!


 学校中が一度白い光を発して、至る所からけたたましい警告音が鳴り響いたのは。


 一瞬白飛びした視界が戻るときにめまいを誘発する。不快感を煽る音は耳を劈く。


「み、みんなの検査キットが反応してる――?」


「検査キット?」


「うん。呪いの、えっと、授業で作った――」


 どこかで聞いたことのあるような話だ。そしておそらく、惨事はルドルフに原因がある。


 逃げないと。


 こんな場面を見られるわけにはいかない。弁明できなかったときが大変だし、何よりリリーたちに迷惑がかかる可能性がある。


「ま、待って」


 窓から身を乗り出して脱出しようかと真剣に悩んでいると、そんなルドルフの手をスペラヒールは握って止めた。


「私が、話してみる」


 追手が見えたのはそのすぐあとだった。


 ひとまずトイレからは出たところ、数人の先生が息を切らしながらやって来た。いつの間にか二人きりになっていて、その視線は一身に注がれる。


「君、その服は――」


「い、いえ。それよりも彼は」


「そうだね。ちなみに、彼は知り合い?」


「はい、一応、多分」


 そうだね、で済ませて良い話ではないのだが、彼女はどうでもないように振る舞う。そして、そのことに文句を言う隙は与えてくれなかった。


「君、すっごい呪いにかかってるよ。程度によるけど命に関わるかも。今すぐラボに来てくれるかい」


 緊迫と言うよりかは興奮した様子で、白衣の教師は言う。その言葉に拒否権は含まれていなかった。


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