神出鬼没
夜、とある階段の踊り場。俺は足に肘をのせ、頬杖を付いた体勢で座っていた。
断っておくが、これはサボりではなく立派な休憩だ。目を左右に動かせば、同じように座っている人、真面目に掃除している人が半々の割合でいる。そろそろ終わりが見えた頃、皆の顔に疲れが出ていて、誰かが休もうと手を叩いた流れだ。飽くまで俺はその波に乗っただけに過ぎない。
頭の中の誰かに弁明していると、その女は現れた。
「ちゃんとしていらっしゃる?」
上の階からコツコツと靴の音を響かせて。瞬間、空気かピリ付くのを感じる。
そこら辺の男よりも高い背、加齢を思わせない面と肌。道端ですれ違えばその美しさに誰もが振り返り、正面向いて話せばその醜さに誰もが踵を返す。
「ちぇっ」とは誰が言ったか。それに皆が息を呑んで、当人には聞こえていなかったと安堵する。
その女は上級使用人の一人。ここに来たばかりの頃紹介された気がするが、俺は名前を覚えるのは苦手だった。メイド服を着こなした女は、その良い面を内面から溢れ出るオーラで打ち消しながら微笑む。
出会したくない人間の内の一人でもある。
女は一度掃除の終わった部分を舐め回すように見る。他の誰かなら必要なことと頷けるが、これがフィルタというものなのだろうか。相手が違うだけで粗探しにしか見えず嫌悪感を覚える。
こいつがこうして、いちゃもんを付けられなかった時はどのくらいあっただろうか。少なくとも、まだ歴が短い俺が知る限りではない。
「あら、ルドルフ。元気でして?」
「――」
そんな女に、何故か俺は目を付けられているらしい。理由は知らない、多分ないのだろう。顔が気に入らないだとか、こういう人間はそんな理由で人を嫌う。
女が俺に近付けば、俺と皆の距離が離れる。触らぬ神に祟りなしとやらだ。薄情者だと思いつつ、仕方のないことだと納得もしている。
「今日もサボっていたみたいね?皆はきちんと仕事しているのに」
皆、ねえ。
不満はあれど、俺も誰も口にはしない。クビになるくらいなら黙っているほうがずっと簡単だ。
「背低いのに窓拭き、大変でしょう?」
「長い廊下の拭き掃除も」
「臭いトイレも」
反論は許されず、与えられる嫌味に俺は苦笑いを浮かべていた。
「そうだ、良いこと思い付いた。皆疲れたでしょう。今日は終わって良いわよ。お疲れ様」
「でも、まだ最後まで――」
「良いの。わかった?」
声を上げた勇気ある者は、その弾圧的な言動に負け引き下がる。他の誰かも喋ろうとして、それぁ喉で閊えているようだった。
「貴方は駄目よ、ルドルフ」
良いと言われたので帰ろうとすればまあ予想通りと言うべきか、腕を掴んで引き止められる。俺の何がそこまで惹かれるのか知らないが、こうもあからさまに目の敵にされれば怒りが込み上げて、身体に力が入るのを何とか抑える。
俺は上から皆が去って行くのを見ていた。安心したように笑ったり、心配そうな視線を残したりしながら、けれど行動するでもなく去っていくのを。
仕方のないことなのだ。
「何か?」
――仕方のないことなのだ。
「何故こうなったのか知らないようね」
それは俺が嫌われている理由のことか?知る訳ないだろ。
こつ、こつ、こつと、足音を響かせながら階段を上るのを、俺は下から睨む。これくらいは許されて然るべきだ。
「まあ良いわ。貴方に伝えておきたいことがあったの」
ゆっくりと、焦らすように。俺はそれを立ち止まったまま見ていた。止めることも急かすことも、何もできずに。
「掃除、独りで頑張って」
この階段の先、拭き掃除のための雑巾が入ったバケツを、黒く濁った水の満たされたバケツを、女は蹴った。
「――ぁ」
バシャッと、やけに大きく音が鳴って、俺に水が流れるのを知らせる。上から下へと、勢い良く。
入っていた雑巾はその途中で止まってくれるが水はそうはいかない。一段、一段と進む度薄く広がって、何度か音が鳴る度に水量が増す。バケツごと転がってくる。
このまま流れればすぐ下に辿り着く。下はまた別の人たちが掃除していて、流れればその全てがパーになる。
堰き止めなければ。
そうは思っても道具も何も持っていない俺ではせいぜい掌二つ分のエリアが限界で、水はそれを障害とも思わず下っていく。飛び跳ねた水が服を濡らし、靴の中に侵入する。
「それじゃあね」
女はひらひらと手を振って去る。
――。
水、拭かないと。
俺は流れてきた雑巾を手に取る。びしょびしょに濡れた雑巾は水を吸わなくて、けれど俺はそんな単純なことにさえ頭が回らない。
あとで靴も洗わなきゃだ。誰かが起きる前に終わらせないと。ああ、まずはバケツを立てなきゃだった。その前に下に謝りに行くのが先決かな?どうしようか、誰もいないといいな。誰もいなければ、きっと何事もなかったようになる。
頭がパンクしてしまって、同じ場所で雑巾を持つ手を往復させる。やるべきことはわかるのにそれ以外の全てが追い付かず行動に移せない。
水は延々と、バケツの容量を超えてなお流れ続ける。
「どうしたの、これ――」
最近聞き慣れたノクターナの声が背後からした。俺は顔を見せたくなくて、「気にしないで」と言おうにも言葉にならなくて無視してしまう。
瞳を擦る、顔が歪んでいないか確認する。鼻水が出てきてすすってみれば、泣いているみたいじゃないか。
周りには誰もいなくて、独りでバケツをひっくり返して泣いている子どもにしか見えない。こんな姿は見られたくなかった。
「もしかして、誰かのせい?」
説明しようにもそれは言い訳にしか聞こえなくて、何より嫌な風に捉えて欲しくなくて、こんなことも対処できないと思われたくなくて、俺は口籠る。
「なるほどね――ちょっと待ってて」
ノクターナは己の靴が濡れるのも気にせず、階段を駆け上がる。水飛沫でスカートを汚して、黒い水を生足に滴らせて。けれど俺の隣を進むときだけは水飛沫を飛ばさぬよう静かに歩いて。
多分、俺の少しの反応で察したのだろうノクターナが離れていく。顔を上げれば潤んでいて視界が悪くてもノクターナの背中がわかる。髪を揺らして憤っているのがわかる。
そんなノクターナに、俺は女々しく手を伸ばしてしまった。ノクターナを求めてしまった。
ノクターナはそれに気付いて振り返って、俺は残された少ない矜持で手を引っ込める。
「ああそうだ、そうだよね。僕が間違ってた」
やっぱりノクターナは賢くて、それに比べ俺は愚かだ。
「ほら、ここに座って。大丈夫だから」
ノクターナは俺の二段ほど上に座って、その隣をぺちぺちと叩く。一度逡巡して、俺は顔を隠すために俯きながら従う。お尻が冷たくなって、ああ、いつの間にか服まで濡らしてしまったようだ。
「これくらいどうとでもなるから、気にしないで」
ノクターナは短い杖を取り出して一言。すると目下の水が揺れる。意地を持った生き物のように丸く集まって、お尻や足にあった冷たさがみるみる乾いていく。
水は一度返事するようにたぷんと鳴いて、ノクターナの杖の先を漂う。上の方からザバンと音がしたので、多分バケツの中へと帰ったのだろう。
「少量の水を操る魔法」
得意気に笑い、ノクターナは杖を片付ける。
「とは言っても、汚れたものは戻らないんだけどね。ほら、僕も手伝うから頑張ろ?」
「いや、そういう訳――には」
顔を上げてみれば水は一切なくて、けれどそれに運ばれた汚れや埃は階段や壁に付着していた。やりなおし、それどころでは済まない。
ノクターナに手伝ってもらう訳にはいかなくてなんとか絞り出した言葉は、けれど上手く発話できず聞き取ってもらえたかは怪しい。
「気にしないで。僕は知ってるよ。サボるって言いながら皆が嫌がることをやっていることも、広い場所の掃除を一人で任されていることも」
「それは――」
「嫌がらせでしょ、知ってる。あまり干渉すべきじゃないと思っていたから放置してきたけど、僕は何でも知ってる。だから偶には誰かを頼ってよ。今は僕も居るから」
柔らかい声色、優しい言葉。欲しかったものちょうどが与えられて、収まりかけていた涙腺が再び決壊する。
ノクターナの片手が俺の頭に乗せられる、撫でられる。子ども扱いされているのが悔しくて、しかし振り払う気にもなれなくてもう少し大きめに俯く。
一度乾いたはずなのに袖が濡れている。感情が制御できなくなっていく。
何か伝えなければならないことがあるはずなのに、その代わりに出るのは先程と色の違う嗚咽ばかり。涙が溢れて顔が歪んで頭が回らない。
「また僕の出番だね」
再び杖を取り出して何度か振り何言か。
「音を小さくする魔法」
俺の声は雲散霧消して、顔を覆っていれば気付かれないほどにまで小さくなる。
「おい、水が急に引いてったんたが何かしたか?」
「しーっ」
ノクターナは空いている方の手の人差し指を口の前に添えて、顔を覗かせたグレイを嗜める。
そして誰も来ないことを確認して、ノクターナは涙が止まるまでずっと隣で座っていた。