神隠しに接吻と抱擁を2
雲一つなく晴れ渡る空は僕を嘲笑していて、人気のない公園に設置された木製のベンチに身体を預けて鬱々とする。
朝食と昼食の両方を抜いたお腹は盛大に鳴り、けれどそれは僕の耳にすら届かない。思考の海に溺れる。
嫌な記憶が蘇る。お母様にもお父様にも、お姉様にすら見捨てられ国を追い出さらた記憶。ルドルフを切り捨てることも囲い込むこともできなかった僕への罰。詳細を尋ねるお母様を説得できず独りきりになったこと。
そんな僕に巻き込まれる形で追い出されることになったルドルフのこと。僕のせいで、僕が関わったことで独りになったルドルフは僕に手を差し伸べて、二人は独りでなくなった。
哀しい記憶はより際立ち、嬉しい記憶は薄まってノイズが混じる。ルドルフはあの時何といってくれたのだったか。
こんなことではいけないと思い、前を見て口角を上げて胸を張ってみて。そんな僕の空元気を誰も見ていないことに心を折られる。独りは寂しく生きられない。
ならばポジティブになってみようと思いたつ。独りになったことを認め、それを脱却すべく動くのだ。
ルドルフが自らの意思で僕の前を去ったのでないと仮定しよう。例えば不慮の事態が起こったとして、例えば僕に助けを求められない状況だとして。
――それはどれだけの確率だろうか。それは都合の良い妄想に過ぎない。
ルドルフは強い。戦闘力という面ではなく、生き残るという面でだ。知識があって考えられて、おそらく経験に裏付けられたもので。そう思わされることが度々あった。
だからこそルドルフは大抵のことは独りで何とかできてしまう。僕は要らない子なんだ。
「あれお姉さん、大丈夫ですかあ?随分と酷い顔してますけどお」
そう声をかけられてようやく、隣に一人の少女が座っていることに気付いた。少女は妙に間延びした話し方で、小動物のような仕草で僕を覗き込む。
「――大丈夫だよ、僕は。君のような子どもに気を遣われなくても」
「子どもと呼ばれるのは少々心外ですがあ、許しましょお。私はお姉さんほど弱ってませんしい」
「ごめんね、いじわるを言ったつもりじゃないんだ」
例え心が荒んでいても人の前くらいは普段通りを演じないと。独りでさえないのなら空元気にもやり用はある。
背筋を伸ばして少女と向き直り、何度も鏡を見て練習した笑顔を作る。民の前にいるのだと考えれば自分の心なんてどうでも良くなる。
「君、名前は?独りかな?お友達か親御さんは?」
「ですから子どもじゃあ」
「そうだったね、ごめん。それで、お名前を教えてくれるかな?」
「――。私はメルシュですよお。こう見えてもうすぐ三十になるんですよお。よろしくお願いしますねえ、ノクターナさん」
「うん、よろしくね。僕はノクターナって言うんだ。礼儀正しい子だねメルシュちゃんは」
メルシュちゃんは困ったように頬を掻く。僕は上手くできていると笑う。
「もう一人はどうしたんですかあ?前は一緒にいましたよねえ」
「もう一人ってルドルフのこと?ルドルフなら――多分お手洗いにでも行ってるんじゃないかな」
そういって僕は言葉を濁す。
他人に介入させるべき事柄ではない。これは僕たちだけの問題なのだ。他の誰にも渡さない。
無意識に、手に力が入る。
「――ノクターナさん。頭を撫でるのは気持ち良いから大丈夫ですけどお、鷲掴みは止めてもらえませんかあ?ちょっと痛いですよお」
「え?――ああ、ごめんね、本当に。僕ったら何してたんだろ、触り心地が良くってね――あはは」
急いでメルシュちゃんの頭から手を退ける。撫でていた手には綺麗な髪の毛が何本か付着していた。
いわれるまで、僕がメルシュちゃんを撫でていると気付かなかった。それがただただ恐ろしい。僕は普段通りを演じることもできないのか?いや、できるはずだ。
「ごめんごめんって、さっきから謝ってばかりじゃないですかあ。本当に大丈夫なんですう?」
「大丈夫だよ、僕は。君みたいな子ど――メルシュちゃんが気を遣わなくても」
「これは重症ですねえ。はあ、仕方ないですかあ。ノクターナさんは私に着いて来て下さいねえ。これは絶対ですからあ」
「でもメルシュちゃんの迷惑に――」
「どうせ今日の宿を取ってもなければ取る気もないんでしょお?私は大人ですからあ」
メルシュちゃんは僕の腕を引っ張ってずかずかと公園を抜けていく。
逃げ出そうにもメルシュちゃんの握る手が殊の外強くて、力の入らない僕では逃げ出せそうにない。
――力が入らなくとも魔法を使えば済む話だ。実際は逃げ出したくなかったのかもしれない。だって、少なくとも僕は独りではなくなったのだから。
初めは混乱していた足取りも、メルシュちゃんの足に合わせて積極的に動くようになる。
動物が散歩で無理にリードを引くような歩き方はすぐに横並びになった。僕の腕を捕まえる力も弱まって、それでも僕は隣を歩いた。
時々躓きながら。心が軽くなるのを感じながら。
目的地もわからずただ追い掛ける最中、メルシュちゃんは露店の前で一度止まった。
「これとこれを二つずつ、お願いしますう」
「あいよ。熱いから気いつけてな」
「はい、ノクターナさんもどーぞ。熱いから気をつけろらしいですよお」
「あ、ありがとう――」
メルシュちゃんから手渡されたそれを一口食む。胃袋に物を入れればそれまでは意識しないようにしていた空腹が主張を初めて、手渡されたご飯はすぐになくなってしまう。
「そうですかあ、そんなに美味しいですかあ。もう一つ食べますう?」
僕は口に物を含んだまま頷く。
正直これが美味しいのかどうかはわかっていない。ソースの大雑把な味付けが不味くないのは確かだが、それを味わう前に舌の上からなくなってしまう。
メルシュちゃんが食べるはずだったもう一つも僕の胃袋に消え、僕は満足気にお腹を撫でる。少し食べ過ぎたかもしれない。
「あー、お金は大丈夫ですよお」
財布を探そうとしたのに先手を打たれ少々やるせない気持ちになった。
「ありがとうごさいます、本当に」
「いーえーですよお、このくらい。私がノクターナさんに――なんでもありません。行きましょうかあ」
そうして、公園から歩いて十分ほどの距離。僕はとある家の前で佇む。
「そんなに警戒しないで下さい、私の家ですよお。別に取って食いはしませんってえ」
不用心にも鍵の閉められていなかったドアを開け、僕は手招きされる。一瞬怖気付くのだが、自暴自棄に近い感情にあった僕は正体を受け入れた。
リビングや応接間といった部屋には目もくれず薄暗い寝室に案内された。僕はまだ眠くないんだけども。
どうして良いかわからずキョロキョロとしていると、メルシュちゃんがベッドに座るので僕も遠慮がちに真似をする。
ベッドはふかふかで触り心地が良く、そこそこ値段のする代物であることが伺えた。
「悩み事でもあるんですかあ?」
何の脈絡もなく、そう問われる。
ただの世間話にしては声色が真に迫っていて、それだけに僕は口を噤んだ。
悩みはある、数え切れないほど。けれどそれを見ず知らずの人に相談するほど愚かではない。これは僕たちだけの問題。いや、僕だけの問題なのだ。
「見ず知らずの人の家に入った時点で愚かなのかもしれないけど」
それは許してほしいと、誰かに言い訳をする。僕は弱い。だから強くあらないといけない。そう、思っていた。
――僕は独りだ。ルドルフは去った。強くある必要もなくなってしまった。ルドルフと並ぶことはできなかった。
――僕は独りだ。ずっと独りだった。昨日までは自惚れて、僕はもう正気に戻ってしまった。
「きゃっ――」
力の抜けていた僕の身体がぐわんと揺れる。身体はベッドへ真っ逆さまに落ちて、身動きが取れなくなった。手足はがっちりと固められ、すぐ目前にメルシュちゃんの顔がある。
「あんまり暗い顔してるからあ、押し倒しちゃいましたあ」
「ましたあ、じゃないんだよ。びっくりしちゃった。仕方のない子だねメルシュちゃんって」
「何があったのかは聞かないことにしますけどお、お疲れの日には食べて寝るのが一番ですからあ」
僕の両手は頭上に片手で抑えつけられ、空いたもう片方の手が僕のお腹をまさぐる。抵抗しようとしても力が入らず、足の上に座られては身動き一つ取れない。
身体をひねってこそばゆさから逃れるのが精一杯だった。
それがとてつもなく恐ろしく、そして身を委ねてしまいたくなる。
「やっ――」
メルシュちゃんの手が素肌に触れ、おへその高さを越えたとき。ピシッという音と共に僕の目前に鮮血が散った。
え?
「いっったああ」
メルシュちゃんが小さく唸って、僕の腕が開放される。自分の胸に抱くメルシュちゃんの腕からは確かに赤い血が流れていた。
僕がメルシュちゃんを傷付けたの?
「そっかあ、ノクターナさんも魔法使いでしたかあ。気付きませんでしたよお」
そっか、そっかあと反芻するように何度も頷く。
「メルシュちゃんごめん。傷付けるつもりは――」
「謝らないで下さいよお、私が悪いんですからあ。それに、このくらい舐めれば治りますってえ」
そういってメルシュちゃんは滴る血を舐めた。
僕の魔法にはそこまで威力が込められていなかったらしく、血はそれだけで止まってくれた。
「寝てて良いですよお、手当てしてきますからあ」
ふっと、足にかかる体重が軽くなる。血液が足先まで流れる。メルシュちゃんが行ってしまう。独りになってしまう。
全身で感じていた存在感が薄まって、恐ろしい。僕を置いて消えてしまいそうで、もう二度と合えなくなりそうで。そう思ってしまって。
一滴の涙が瞳を潤ませて、メルシュちゃんのスカートをぎゅっと握った。
「そんなに心配しなくても僕は戻って――いや。一緒に寝ましょつかあ」
布団にもぞもぞと入って、二人はそっぽを向いた。
合わせた背中に暖かみを感じる。安心する。
「そんなに心配しなくても、すぐに会えるはずですよお」
それは誰に指した言葉だったか。
部屋は暗い。暖かい。お腹は膨らんだ。
瞼が落ちる。呼吸が落ち着く。
誰でも良いわけではない。ないはずなのだ。けれど同時に、ぽっかりと空いた心が満たされていくのも事実だった。




