時間順行2
今朝から微妙に雨が降っていて、外出するのが億劫になる。湿気が不快感となって身体に張り付く。
時刻は朝、朝食には遅いくらい。これくらい止みそうなものなのだが、その賭けに負け続けて早数時間。飛び入りの形となったこの宿では朝食が付いておらず、そろそろ調達しなければ盛大に腹の虫が鳴りそうだった。
旅人向けに作られた宿は二人で使うには些か広い。一人で旅するにはリスクが大きいので合理的ではあるのだが、その分値が張るのは困り物だ。
「ありがとうございました」
受付の人に挨拶をし、鍵を返す。
雨だというのに皆は元気らしい。昨晩はほとんどなかった受付後方の鍵棚が、今はほとんどが返却されていて、というより俺たちが最後らしい。
「ルドルフ、テンション低いね」
「雨だからな。そういうノクターナは――」
「僕はいつでも元気だよ」
ふふんと胸を張ってノクターナはいう。だが、普段より機嫌が良いのは明白だった。足取りは軽いし、時々鼻歌を口ずさんでいる。
農家さん以外には嫌われ物だろうに、珍しい。
「雨は魔力の塊だからね」
聞けば、そんなわかるようでわからない返答をされた。ノクターナにとって、雨は魔力を運んでくれるものだから魔法が使い易くて嬉しいらしい。全く理解できないものだった。俺は適当に同意する。
「――傘って持ってる?」
ドアを開ければ冷たい風と一緒に雨粒が吹き込んで足元を濡らす。ついさっき室内から見たときよりも強まっているようだった。
土砂降りまでは程遠いものの、対策なしで濡れるのを許容すれば一瞬で風邪を引きそうだ。
「僕にまかせて。普段なら面倒だったけど――」
ノクターナは無意味に一回転して、屋根からそっと手を出す。すぐに濡らすはずだった雨粒は手の寸前で阻まれたように角度を変え、ノクターナの手に水滴が滴るのを防ぐ。雨合羽のような魔法だ。
「今日は雨だからね――」
ノクターナは杖も出さず片手を俺に翳した。
見た目に変化はなくとも結構有用な魔法らしい。ついでといった様子で肌とべったり張り付いていた服の間に空気の層ができて、不快感がなくなる。
ノクターナの真似をして外に手を出してみれば、同じように雨粒は俺を避けていった。
「おお」
「君に魔法を掛けるのも多少は簡単になるよ。毎日雨が振れば良いのに」
「え、嫌だ」
ノクターナが血迷ったようなことを溢す。断固拒否である。そもそも雨がなければこんな魔法は必要ないのだ。
「じょーだんじょーだん」
ノクターナは真偽のわからない顔でケタケタと笑う。
雨粒を気にしなくて良いと思えば湿気もマシに感じて、俺はその不思議な感覚を味わう。
外には人通りはあるものの昨日と比べればかなり減っていた。傘をさす者、この程度の雨は物ともしない者。だが少なくとも鬱陶しそうな素振りをする中、ただ一人雨を一身に浴びる者がいた。
宿のすぐ前、棒立ちで空を見上げて。頬を伝う雨粒が涙のようだった。
見るからにやばい奴である。
「あ、あの!」
やばい女を刺激しないように通り過ぎようとしたのが裏目に出たのか、女は急にこちらを向く。首の角度がちょっと怖い。
「私チェリー。君可愛いね、お茶しない?」
「結構だよ」
訂正、かなり怖い。ノクターナがしっかりした人間で良かったと思う。
「私チェリー。とっても目が良いの」
「私チェリー。かれこれ3時間くらいあなたたちを待っていたの」
「私チェリー。雨の日は嫌い」
「私チェリー。」
訂正、とてつもなく怖い。
俺たちはそのやばい女チェリーから距離を取り、そして足早にその場を去る。事情は知らないがそんなの関係なしに関わってはいけないタイプの人だ。ノクターナの教育にも悪い。
「ちょ、ちょっと待って!私お礼がしたいの。昨日ベランダから落ちそうなのを助けて貰った――」
「あの距離だよ、見える訳がない」
そこ突っ込む感じ?やめた方が良いと思う。
「私チェリー。とっても目が良いの」
「――お礼は結構だよ」
賢明な判断だ。嬉しくなって俺はノクターナの頭を撫でる。
「嘘じゃない、嘘じゃないから!ほら見て。私目が良いから、こうして上を見てても雨が目に入らないようにできるの」
地味な特技だし、外から見て成功しているのかわからないしで。もっと良い見せ方があるだろうよ。
興奮したように「見て、凄いのよ私は」と連呼するチェリーに背を向ける。
悪い奴ではなさそうだ。少なくとも嘘を付ける知能があるようには思えない。目が良いのも本当だろう。
やばい奴なのは確実だ。まともな人間の振る舞いではない。
意見交換のためにノクターナと視線を合わせる。俺としては面倒事からはこっそりと離れたいのだが、ノクターナはちらちらとチェリーの方を見て笑っていた。
――お礼をしたいだけにしては強引な気がしたし、何か話したいことがあるのかもしれない。そういったことは今まで何度も請け負ってきた。
「チェリーさん、俺たちは――」
「はっ――くちゅん!……あなたたちは運が良いのね。雨が自ずから二人を避けているみたい」
ノクターナはチェリーにも雨合羽のような魔法をかけてあげた。
◇◆◇
「ここは私の家なの。上がって」
「まあまあだね」
「ノクターナが張り合うな」
城に勝てるものなどそうそうないのだから。
案内されたのは俺たちのチェリーが出会った?マンションの一室だった。二、三十メートルほどの高さで身を乗り出すには少し怖い。風でなびくカーテンからベランダが見え、その先には件のスイーツ店があった。
馬鹿っぽい言動にしては部屋は小綺麗にされており、香を焚いているようで良い匂いが充満している。
「甘いものは好きよね?今朝あなたたちを見つけてから仕入れてきたの」
近くのソファに座るよう俺たちに勧めて、おそらくその甘いものとやらを取りに行ったのだろう。キッチンの方からお皿とお皿のぶつかる音がする。
「あなたたちが何時出てくるかわからなかったからね。一番のおすすめは遠くて用意できなかったの」
手際良くお皿に載せられたスイーツが俺たちの前に用意される。お茶しようといっていたのに飲み物として出されたのはジュースで些か不満だ。
うん、美味しい。一皿しかないことが残念なくらいだ。
「ねえ、あなたたち」
無遠慮に手を伸ばしていると、それを咎めるようにチェリーが机に腕を組む。
「聞いてほしい話があるの」
「――お礼のことか?」
「いいえ」
――。面倒事の香りがした。冗談じゃない、構っていられるか。
幸い俺たちの前に出されたスイーツもジュースもなくなっていた。退散するにはちょうど良い頃合いだ。雨も弱まっていて今日の予定もある。
「ごちそうさまー」
素早く手を合わせて、流れを読んだらしいノクターナとほぼ同時に立ち上がる。
「お客さんに失礼だもの、本当は言うつもりなかったの。――それ、高いの。ジュースもお菓子も、あなたたちが昨日あの店で払った金額と同じくらい?一つにつきね」
「――仰せのままに」
根っこまで庶民的感覚の染み付いてしまった俺は計算するのをやめた。一つにつきという言葉が二人分あることを指すのか個包装されていることを指すのかわからないが、どちらにせよだ。
逆再生のように俺はソファに座りなおす。
「私にはジャックって彼氏がいるの。でも彼最近ストーキングが酷くて――」
「はあ」
恋人関係でストーキングとはこれ如何に。
あくまで憂いている体で話しているが時折チェリーの口角は上がって、所謂惚気とやらにしか思えなかった。
お口直しにスイーツがもう一皿ほしいところだ。
「妙にタイミングが良いのよね。そうそう、私がここから落ちそうになったときも駆け付けてくれたの」
「偶然だろ」
「偶然だよ」
早急に切り上げたかったのだが、チェリーはそれを許してはくれないらしい。矢継ぎ早に言葉を重ねられる。
転びそうになったとき、包丁を足に落としかけたとき。チンピラに絡まれたとき、打上花火が一直線に向かってきたとき。
ほぼ遭遇することのないような現象を、あたかも実際に体験したかのように語る。
全てが本当なら、注意散漫な馬鹿だとか不幸体質だとか、そんな言葉で片付けられない量だ。まるで世界に狙われているような。
「あり得ない」
ホラ吹きに決まっている。
彼氏のストーキング疑惑よりも気にすべきことがあるはずだろうと思うのだが、チェリーにはそれしか見えていない様子だった。
魔法で強引に逃げ出すことを本気で相談するか悩んでいると、部屋の端にあるタンスからガコンッと大きな音が鳴った。
「いっ――」
独りでにタンスが開いて、中からうめき声と共に額を擦る青年が出て来た。
「いやあ、早とちりだった。てっきり浮気かと、喧嘩もバチボコに負けたし」
「――よく会うね」
「ジャッくん!?」
この街に入ってから三度目の会合となる青年は気まずそうに頭を掻いて、タンスからの出現を全く気にせずチェリーが突進する。
「ジャッくん、どうしてここに居るの?仕事は?」
「ちょっと野暮用があった。ここで待っててくれるか?」
「うん!」
甘い空気が流れ、チェリーは満面の笑みでソファに座る。ストーキングだのと文句に見せかけた惚気の時点でわかってはいたのだが、良好な恋人関係を築いているようだ。
何を聞かされていたのかと、俺たちは頭を抱えたくなる。
「来て」
端的にそう伝え、ジャックは部屋の外に出てしまう。
「いってらっしゃい」
戦々恐々とチェリーを見たのだが、意外にもそう返された。何度も帰ろうとして邪魔をされたのだが、今回ばかりはそのつもりはないらしい。
チェリーは怠そうに頬杖をついて、けれど隠しきれていない笑みで髪の毛を弄っていた。
「何、私が止めると思ってたの?」
「ああ――」
「ジャッくんがいたんだもの。もうあなたたちに用はないのよ」
さっさと行けと手を振って、チェリーは机の上を片付け始める。
後方でカチャカチャと音がする。先程までずっとチェリーが喋っていただけに、小さな音が寂しく思えた。
「まあ楽しかった――の」
「お二人お幸せにね」
俺は手を振ってノクターナはそういって、それを別れの挨拶とした。
一足先に廊下に出たジャックは階段に座って、チカチカと点滅するライトを眺めていた。
「運命って信じる?」
「なんだ急に」
ジャックは振り返らず、独り言のようにそう溢す。
「もしも今日死ぬ運命の人がいて、誰かがそれを助けたとする。じゃあその死ぬ運命だった人はどうなると思う?」
「その人は死ぬ運命じゃなかったってことだ」
「うん、そうだね。ルドルフ君の言うことは正しい。でもそうじゃない」
あれ、俺この人に名前教えたことあったっけ。
「十分後、一時間後、次の日かもしれない。原因は何であれその人は死ぬことになる」
「それを観測する手段はないよ」
「――うん、そうだね」
具体性を欠いた話で、けれど無視して良い雰囲気でもなくて俺はジャックの隣に座る。
座った後で気付いたのだが階段には埃が溜まっていて汚かった。
「何の話だ、何が言いたい?」
「ただの雑談、時間稼ぎ」
雑談の続きを求めたのだがそれ以上を語るつもりはないらしく、当分の沈黙が流れる。
階段の下から拭き上げる風が髪を揺らして、俺は帰るタイミングを失ったと後悔する。
「――」
「そして誰かは死ぬ運命にある人を死ぬ運命から死ぬまで守り続けようと決心したのでした。おしまい」
「何を――」
「なーんだ、二人を置いとくだけで良かったのか。拍子抜けも拍子抜け、意気地のない奴らだこと」
追及を避けるためかジャックは大きな声でそういって、立ち上がりぐっと伸びをした。
「それじゃ、お二人。またっ」
「流石にもう会わないと思うけど」
「それが一番だけど、多分、また会う。そのときはよろしく」
「ならさよならじゃなくて、またな」
ノクターナは手を振って俺はそういって、それを別れの挨拶とした。




