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小国の城、甘くないクッキー


 長い廊下を犬のように走る。背丈よりもずっと高い窓硝子を、二段重ねにした不安定に揺れる椅子に立って拭く。汚れたお皿をひたすらに洗い、流し忘れたクソの臭いが充満したトイレを掃除する。


 人によっては嫌がらせと捉えるような仕事をルドルフは淡々とこなしていた。割り振られたがままに。

 ルドルフはそんな生活を殊の外気に入って――そこには妥協とか打算とか、そういった感情も含まれている――勤めている。故郷を離れ、身寄りもコネもない人の働き口だと考えれば、やはり格別だ。


 そんな日々を数か月続けていたある日、晴天。


 城の正面を出て直進、そこそこ広くそこそこ綺麗な庭園を眺めながら迷いなく向かって喧噪が途絶えるところ。建て替えを忘れられているのではと思われるトイレの中でルドルフは休憩していた。休憩していた。


 男子トイレの一番奥の個室。そこはルドルフのお気に入りであった。豪雨の日には雨漏れが心配になるが、それだけに滅多に人が寄り付かない。つまりはクソが流し忘れられていることもない。

 トイレで休憩しているという事実は些か矜持に傷をつけるが、バレて怒られることを考慮すれば我慢できる範囲内だ。


「はあ――」


 こんなところで何をしているのだろうか。ふとそんな孤独感故のやるせなさが湧いて出る。いいや、だめだ、ようやく定職に就けたのだから。首を振ってネガティブな気持ちを払う。


 蓋を閉じた便器の上に座ったまま胡坐をかく。ポケットに忍ばせておいた包を取り出し、足の上で開く。入っているのは数枚のクッキーで、ルドルフの今日の昼食だ。足りるか足りないかで言えばもちろん足りない。だが人でごったがえす食堂はもっと嫌だ。

 このクッキーは料理長が配っていたものだ。下っ端が関わることは一生ないようなお偉方のために作ったクッキーの残り物、曰く毎日のように何かしら作り過ぎているらしい。有り難い限りである。


 服の裾で手に付着した汚れを拭ってから、一枚口に運ぶ。下っ端が食べるには上品過ぎる、しかしお偉方に出すには硬いクッキーであった。


「金髪の人、一つ貰うね」


 ふと、どこからともなく伸びてきた手はクッキーを二枚くすねる。急いで取り返そうとするが間に合わず、クッキーは一口で消えていった。


「甘くないね。四十五点」


「辛口だな」


「辛くはないよ」


 料理長が甘くないクッキーは紅茶と合わせるのに――とか何とか言っていたのを思い出した。確かにお供が水では物足りなさがある。


「――誰?」


 理解が行動に一足遅れて、クッキーの恨みと顔を上げれば、そこにはもぐもぐとクッキーを食む一人の少女がいた。


 ルドルフよりも少し低いくらいの目線が、便器に座ったルドルフを見下ろす。

 見惚れるほど艷やかな長い黒髪、同じく黒い瞳は何かの宝石のよう。甘くないと文句を言っていた割に、にまぁと上がった口角は、クッキーを二枚重ねにかじった痕跡が付着している。


 鮮やかで程好くラフな衣装を身に纏い、けれど少女の雰囲気とは些かアンマッチだ。


「ここは男子トイレだ」


「うん、知ってるよ」


 侵入者を追い出そうと、あるいは窘めようと画策したのだけれど、生憎意図が伝わらなかったようでルドルフは頭を抱える。話が通じないタイプの方かもしれない。


 だがここで焦ってはならない。身形を見る限りある程度の立場にある人だ。正当性がこちらにあったとてクビが飛びかねない。


「何か失礼なこと考えてない?」


「いいや。このトイレに個室はまだありますよと」


 ドアの先を指差し、出ていけと言外に伝えてみる。お願いだから無視してクッキーを食べるの辞めてほしい。


「別に、僕はここへトイレを求めて来た訳じゃないよ。遠いし狭いし」


「まあ、確かに」


 困ったことに納得できてしまった。


 ルドルフは負けじとクッキーを三枚口に入れて、どうにかこの少女を追い出せないものかと思考を巡らせる。


「なら、どうしてここに?」


「――かくれんぼ。そう、僕はかくれんぼをしてるんだ」


「はぁ――」


 言葉の通りに受け取るならただの遊びだが、この城には彼女にかくれんぼの相手を願うような年代の子供はいたと記憶していない。つまりは誰かを勝手に鬼にしているに違いない。彼女はサボりのためにここへ来たのだ。悪い奴め。


「仕事は辛いからな」


「うん」


 少女はあっさりと吐露した。


 だがまあ、誰かに言い付けるなんて無粋なことはしないでおいてやろう。ルドルフは包に残ったラスト一枚を少女に差し出して、粉というか欠片というかカスを口へ流し込む。クッキーはやるからここで休憩していることは決して告げ口するんじゃないぞ。

 少女は一瞬戸惑いを見せたあと「ありがとう」と満面の笑みで言った。ちゃんと伝わったか心配である、



「ノクターナ様、出てきて下さい――」


「セバスっ――!ねえ君、もっと奥へ詰めて、僕が隠れられないでしょ!」


 少女は小声で叫ぶという器用なことをやってみせてから、無抵抗なルドルフを奥へ押し込む。

 当然二人で入るようにできていないトイレの個室は、妙な体制で押し込まれたのだから窮屈極まりない。握っていた包み紙が落ちる。


「絶対に動かないこと、絶対に音を立てないこと。わかった?」


 ルドルフはぶんぶんと頭を縦に振って同意を示した。こんなところを見られては一溜りもない。休憩がバレるのもそうだし何より裁判になったとき負けるのは確実だ。


「あれ、君もしかして――」


 ルドルフの顔をまじまじと見て少女は呟く。見れば見るほど吸い込まれるような瞳をしている。

 彼女を見ていると突然嫌な考えが頭に浮かんだ。真偽を確かめようと口を開くと、少女はルドルフの唇に人差し指を当てて黙れと目で伝えて来る。


 ルドルフが頷くと少女も同じように頷いて、それから人差し指を立てたままふりふりと動かした。まるで空中に絵を描いているような、それが面白くてルドルフも真似してみたのだけれど、嫌に怪訝な顔をされたのですぐにやめた。


「やっぱりね。――はあ、ちょっと頑張らないと」


 少女はどこからか短い杖を取り出し、今度はそれを振る。自由に、不規則に。多分動きそのものに意味はないのだろう。手癖のようなものだ。


 そうこうしている間にも足音が近付くのがわかる。


「まさかこんな所には隠れていまい――」


「えいっ」


 いくつかある個室のドアを手前から順番に開けていく音、少女の間の抜けた掛け声、突如ぐにゃりと歪む空間。そのどれが一番最初だったのかルドルフにはわからない。


 かくれんぼの鬼の手によってドアがゆっくりと開けられる。口元だけは少女の柔らかい手に押さえられて、しかし極度の緊張によって見開かれた目はしっかりと鬼の姿を視認する。執事セバスチャン。ルドルフのような下っ端とは違う、料理長の言うお偉方の内の一人。

 彼と目が合うことはなかった。禁じられた吐息が隙間から漏れる。


 緊張が解かれるまで随分と長い沈黙があった。彼は丁寧に個室の扉を閉じてここを去る。 


「――今の何!?」


 足音が聞こえなくなって少し、ようやく解放された口から出た言葉は思っていたよりもずっと大きい度合いで興奮を孕んだものだった。

 少女は今度は人差し指を自分の口元に立て、答え合わせをしてくれる。


「簡単に説明すると、僕たちが認識されなくなる魔法。もしかして魔法を見るのは初めて?」


 こくりと、勢い良く俺は頷く。

 昔から魔法に興味があって、けれど使えないことを説明する。そっかそっかと何度も言う少女は、勘違いかもしれないけれど哀しげで、とても――。


「じゃあ、また次会ったときには別の魔法見せてあげるよ」


 そしてようやく気付く。と言うより脳が追い付く。


 この国についての知識が浅いルドルフでさえどこかで聞いたことのあるノクターナという名前。かの執事セバスチャンはお偉方の一人、彼が直々に探すような人物。それは。


「姫、様――?」


「姫様は姫様でも妹の方だよ僕は。だからあまり気にしないで」


 姫様の妹の方、ノクターナ。

 何か粗相はしなかっただろうか。クビは飛ばされないだろうか。ルドルフにはここ以外に行く場所なんてない。冷や汗が滝のように流れる。


「僕がここにいたことは秘密にしてね。君がトイレでサボってることは隠しておいてあげるから」


「――ぁ」


 そう言ってノクターナはここを去っていった。

 俺は力なく便器の上に座り込む。休憩のはずが余計に疲れた。もう二度とこんなことは。いや、冷めやらぬ興奮が胸の高鳴りが、偶にはこういうこともあっても良いのかもしれないと思わせてくる。


 俺はノクターナの言葉を反芻する。それは二人だけの秘密だと言っているように思えて。


 それは甘くないクッキーの数倍も甘美なものだった。


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