第8話 ウミガメモドキ
アリスは、炎に囲まれていた。
どこまでも続く炎。
辺り一面に焼け焦げた煙が充満していて、不快な、あらゆるものが灼ける臭いが立ち込めている。
赤い、赤い、赤い。
熱い。
苦しい。
肺に穴があいたかのように、息が頭の中に入ってこない。
泣き喚いて、アリスは必死に煙をかき分けて進んだ。
ジャックの名前を呼んだ。
しかし、いくら助けを求めても彼は現れなかった。
走る。
逃げる。
焼かれる。
絶叫する。
しかし、ジャックは現れない。
狂乱しながら逃げ回り続けていた。
しばらくして、炎の向こうに立ち尽くしている人影が見えた。
助けを求めようとして、ビクッとして立ち止まる。
手に灯油が入っていたと思われる大きなボトルを持っている。
その「人」はケタケタと壊れたように笑いながら、ボトルを振り回し始めた。
中身は空のようだ。
「燃えちゃえ!」
けたたましい声でその「人」は喚いた。
「全部燃えちゃえ! 死ね! 死ね! 死ね! みんな死んじゃえ! あはははは!」
楽しそうに言って、その子はボトルを炎の中に投げ飛ばした。
アリスは呆然としてその光景を見ていた。
いつの間にか、炎に包まれたどこかのアパートの一室にいた。
阿鼻叫喚だった。
外には消防車のものと思わしきサイレンが鳴り響き、拡声器で誰かが何かを叫び続けている。
周囲からウワンウワンと地鳴りのように、人の悲鳴や断末魔が聞こえていた。
炎に囲まれたベッドの上で、「少女」はニタニタと笑いながら、手に持った何かを、執拗にベッドの上に振り下ろしていた。
……何だ?
何をしている……?
その光景から、アリスは目を離すことができなかった。
――見てはいけない。
これは、見てはいけないものだ。
しかし目を逸らすことも、後ろを向いて逃げ出すこともできなかった。
体を炎に焼かれながら、アリスは無事な左目を見開いて、その「少女」を見ていた。
少女の服は焦げ、ところどころが切れて血まみれだ。
いや……。
少女のものだけではない。
彼女が、手に持った「何か」を奇声を上げながら振り下ろすたびに、噴水のように赤い飛沫が散る。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
呪詛のように喚きながら、正気を失った少女は何度も何度も手に持った「ナイフ」を振り下ろす。
やめて……。
やめてよ……。
アリスは腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
思い出したくない。
こんな記憶。
思い出したくないよ。
ガクガクと震えながら、アリスは心の中でジャックを呼んだ。
ジャックさん……。
助けて。
ここは、いてはいけない場所だよ。
私、動けないよ。
ジャックさん、助けて……。
やがて半狂乱でナイフをベッドに突き刺していた少女は、ボロボロの服を纏った血まみれの姿で、ゆらりと立ち上がった。
崩れたマリオネットのようにいびつな立ち方だった。
「えへへ……へへ……へへへ……」
乾いた声で、彼女は笑っていた。
両目から大粒の涙を零しながら。
口元だけは裂けそうなほど開いて、彼女は笑っていた。
アリスはその顔を見てしまい、硬直した。
私は……。
私はあの子を知っている。
いや、知っているんじゃない。
「解って」いるんだ。
あの子は……。
あの子は、そう、他ならぬ。
私自身なんだ。
◇
絶叫して飛び起きた。
バネ仕掛けの人形のように、毛布を弾き飛ばして上半身を起こす。
耳を抑えて、目を閉じて叫ぶ。
悪夢を振り払うように。
現実を否定するように。
見てしまった「モノ」を、忘れようとしているように。
「アリス様! アリス様、お気を確かに!」
フィルレインが悲鳴のような声を上げながら、絶叫し続けるアリスに駆け寄って正面から抱き寄せる。
頭を強く彼女の胸に抱かれ、アリスは震えながらフィルレインの服にしがみついた。
そのまま子供のように声を上げて泣きじゃくり始めたアリスを、フィルレインはつらさと苦しみで歪んだ顔で、必死に抱きしめていた。
「……目が覚めたようですね」
そこでプシュ、と扉が開き、穏やかな、ゆっくりとした調子の声がした。
足音がして、アリスとフィルレインがいる病室のような部屋に静かに数人の気配が入ってくる。
痙攣したように、恐怖に耐えきれず震えているアリスと入ってきた人を交互に見て、フィルレインはそっと口を開いた。
「鎮静剤を……このままでは、アリス様の心が壊れてしまいます……」
「大丈夫です。この子はそんなに弱い子ではありません」
最初に口を開いた静かな女の子がそう言う。
アリスはブルブルと体を揺らしながら、顔をずらして左目だけで入り口の方を見た。
白い服を着ている男女の人間達が、膝をついて頭を下げていた。
それに囲まれるようにして、ドレスのような真っ白い服を体にまとった少女が、アリスに微笑みかけた。
金色の長い髪が、膝裏のあたりまで垂れて揺れている。
まるで人形のように美しい娘だった。
しかし、その子を見たアリスは心の底から「ゾッ」とした。
――私がいる。
まただ。
イベリスに始めて会った時と同じ悪寒。
この人は……。
「アリス」のドッペルゲンガーだ。
心の中で、誰に言われた訳でもないのに瞬間的に確信する。
遅れて、ほんの少しだけ冷静になった視界に、自分が寝かされている部屋の様子が飛び込んできた。
整頓された病室のようだった。
まだ、体の震えは治まらない。
フィルレインの服の胸を必死に掴みながら、アリスは彼女の顔を見上げた。
「フィ……フィル……?」
「アリス様……! 大丈夫ですか……?」
フィルレインが心底ほっとしたように目を細めて笑った。
そこでアリスは、彼女の腕や顔に爪で引っ掻いたような無数の傷があることに気がついた。
血が滲んでいる部分もある。
フィルレインはまたアリスを抱きしめて息をついた。
「もう……正気に戻ってくださらないかと思っていました……」
「…………ここは…………?」
やっと思いでそれだけを聞く。
フィルレインが口を開こうとしたところで、穏やかな調子で髪の長いドッペルゲンガーが言葉を発した。
「五十七番シェルターです」
「五十七番……?」
アリスは言われた言葉を繰り返し、血走った左目を髪の長い少女に向けた。
「…………」
無言で自分を見ているアリスに微笑みかけ、少女は穏やかな声で続けた。
「彼女達が、あなたを運んでくれたのです。傷の手当はさせていただきました。体……まだどこか痛いところはありますか?」
優しい声に少し落ち着き、アリスは自分を抱きしめているフィルレインから、そっと体を離した。
そして右目に強く巻かれた包帯を、指先でなぞる。
痛みはなかったが、右目の感覚がなかった。
「目が……」
「……ごめんなさい。あなたの右目は、完全に潰れてしまっていて……」
「え……?」
前後の記憶が曖昧だ。
頭の中が、何かに引っ掻き回されたかのようにグシャグシャで、何があったのか、何を見たのかをうまく思い出せない。
「私……」
「フィルレインさんからは、あなたがナイトメアを仕留める際に受けた傷だと聞いております」
そう言って少女は、懐から黄色い玉を取り出した。
それを見た途端アリスの頭に、抉りこむような痛みが走った。
顔をしかめて頭を押さえる。
あれは……。
……あれは、ハンプティ・ダンプティの核だ。
それじゃ私は……。
ハンプティを殺して……。
「…………」
ボンヤリとした思考で、徐々に「何があったのか」を思い出す。
そしてアリスは顔面蒼白になり、フィルレインの肩を強く掴んだ。
「ジャックさんは……!」
問いかけられたフィルレインは、少しの間ポカンとしていたが……やがて辛そうに顔を歪めて、小さく首を振った。
彼女の憔悴した様子を見て、髪の長い少女がそっと口を挟む。
「……申し遅れました。私はステルシス。あなたと同じ、『アリス』のドッペルゲンガーです」
「…………」
無言で左目を見開き、こちらを見たアリスにステルシスと名乗った少女は微笑みかけた。
「……辛かったですね……でも、もう大丈夫。このシェルターに到達したからには、あなたはもう、戦うことはありません」
「……何を……言っているの?」
本気でステルシスの言ったことを理解できず、アリスは乾いた笑いを発した。
「早く戻らないと……」
「…………」
「ジャックさんを、助けに行かないと……」
「…………」
「私、行かないと……」
フィルレインを押しのけて立ち上がろうとし、アリスは体に力が入らず、その場に思いっきりつんのめった。
そしてフィルレインに支えられ、呆然と呟く。
「あ……あれ……?」
「アリス様……」
フィルレインが何かを言いかけ、それをステルシスが引き継いだ。
「……アリスさん。あなたは、それと同じことを既に何回も仰っています」
「え……?」
落ち窪んだ目で見られ、ステルシスは軽く首を振った。
「あなたの心が、見たことを受け入れるのを拒んでいるのだと思います。しかし、そろそろ受け入れなくてはいけません」
「受け入れるって……?」
体が震え出す。
嫌だ。
そんなのは嫌だ。
聞きたくない。
聞きたくないよ。
「ジャックさんという方は、死にました。遺体は残念ながら回収不可能ですが……もう、どうすることもできません」
端的な断言を聞き……アリスはそれに反論しようとしたが、コヒュ、と喉から小さな吐息を漏らしただけで何も言うことができなかった。
「あなたの体は、ありえないほど消耗していました。死の一歩手前だったと言っても過言ではありません。しかし、思考が若干安定してきているところを見ると、回復はしているようですね」
「…………」
「……大丈夫。もう安心して、私達に任せてください。あなたは、もう戦うことはありません」
ステルシスは目を細めてアリスに笑いかけ、手に持っていたハンプティの核を懐にしまった。
「会いたくなったら、私と話がしたいと、フィルレインさんに言ってください。いつでも私はあなたとお話をすることができます」
小さく会釈して、ステルシスと数人の男女が部屋を出て行く。
アリスは、声も出せずにそれを見送ることしかできなかった。
◇
そのシェルターは異様だった。
まず、ジャックやイベリスがいたシェルターとは違い、明らかに大きい。
五階建て程の巨大な建築物だった。
シェルター内部には緑の草木が植えられ、青々としている。
それを病室の窓から見下ろし、病院服を着せられてベッドに横たわったイベリスがため息をついた。
「……どうした?」
足元で黒猫……ラフィが口を開く。
イベリスは物憂げな顔で彼を見下ろして、口を開いた。
「あの子の意識を感じる。やっと目を覚ましたわ」
それを聞いて、ラフィは言葉を飲み込んで俯いてしまった。
イベリスがそれを見て、そっと問いかける。
「……行ってあげなくていいの?」
問いかけられたラフィは、しかし首を振って重苦しい声を発した。
「僕は……僕には、彼女の傍にいてあげられる資格が、もうない……」
「…………」
「あの子が愛していたジャックを、僕は見殺しにした。それに……助けに行こうとしたあの子に気づかず、行かせてしまった。僕は……『アリス』の保護システム失格だ」
苦痛と共に声を絞り出したラフィに、少し沈黙してから上半身を起こし、イベリスは言った。
「あの子は、アーキアリスではない」
「…………」
彼女を見上げた黒猫に、イベリスは続けた。
「あなたは大きな勘違いをしている。あの子はアーキアリスに近い存在かもしれないけど……全く別の存在よ。あなたのその認識は、彼女を苦しめてやがて殺すわ」
「…………」
黙り込んだラフィに、イベリスは静かに続けた。
「私達は確かに、アーキアリスのコピー……システムに生み出されたデータよ。でも、私達の体はそうでも、心は、魂は固有のものよ。あなたがアーキアリスにどんな執着を抱いているのかは知らない。でも……」
「…………」
「何か別のものと同一視されることって、とてもつらいことよ」
ラフィが顔を上げてイベリスを見る。
「……僕は……」
何か言いかけた時だった。
病室のチャイムが鳴り、ステルシスの声がした。
「……イベリスさん、ラフィさん。ステルシスです。少し……お話はできますか?」
一人と一匹が顔を見合わせる。
少し考え、イベリスは口を開いた。
「ええ、大丈夫よ」
それを聞いて、ステルシスが病室の扉を開ける。
周囲の男女に廊下で待っているように言うと、彼女はしずしずと病室に入ってきた。
そしてベッドの前に立って微笑む。
「お体の調子はいかがですか?」
問いかけられ、イベリスは肩をすくめた。
「あまり良いとは言えないわね……でも、傷はだいぶ良くなった。ありがとう」
「それは良かった」
ニッコリと笑ったステルシスに、ラフィが声をかける。
「それで……あの子は……アリスは、大丈夫なのか?」
戸惑いがちにそう聞かれ、少女は静かに頷いてみせた。
「ええ。私達ドッペルゲンガーは『頑丈』ですから」
「…………」
「あれしきで壊れるようにはできておりませんゆえ。ご心配には及ばないかと」
淡々とした表情だった。
その機械のような顔に、ラフィが発しかけていた言葉を飲み込んで視線を逸らす。
黒猫の様子を見て、イベリスはステルシスに向けて口を開いた。
「……保護してくれたことは感謝しているわ。いずれ、あの子の分も含めてお礼はする」
「そんなお礼だなんて。気にしないでください」
「そういうわけにはいかないわよ」
体勢を直して、イベリスはステルシスの顔を見上げた。
「……で、あたし達に話って何かしら?」
「このシェルターの中枢システムが、あなた方とお話をしたがっています」
「中枢システム……? ああ、僧正のことね」
イベリスに言われ、ステルシスは軽く首を傾げた後続けた。
「あなた方のシェルターでは、システムのことをそうお呼びなんですね。ご安心ください。そちらの中枢は、きちんと保護してあります。馴染むまで少しかかるとは思いますが……」
「それはありがたいわ……いずれにせよ、一度挨拶はしないといけないと思っていたの。伺わせてもらうわ」
イベリスはそう言って頷いた。
ステルシスが微笑んで手を叩く。
廊下から、白い服を着た女性が車椅子を押して部屋に入ってきた。
「まだ体力が戻っていないと思います。お乗りください」
「そうさせてもらうわ。ありがとう」
女性に支えられて車椅子に乗ったイベリスの太ももの上にラフィが乗る。
白い服の女性は、ラフィに目を留めたが特段気にした風はなかった。
「中枢までご案内する前に、一つだけ、お話しておかなければならないことがあります」
ステルシスが歩き出す。
車椅子を押され、彼女の脇に並んだイベリスが、その顔を見上げて問いかけた。
「話しておくこと? 何かしら?」
「ええ。不思議には思いませんか?」
窓の外に青々と茂る街路樹を横目で見て、ステルシスはラフィに視線を落とした。
ラフィも窓の外を見て、無言で目を細める。
「……このシェルターは、崩壊の影響を受けていないように思える」
ポツリとラフィが呟く。
ステルシスは窓の外から視線を離し、長い髪をくゆらせながら廊下を歩いた。
「ええ。そうです。ここには、ある種のシステムに干渉する妨害防壁が張られています」
「妨害防壁……?」
怪訝そうな顔でラフィが聞き返す。
ステルシスは頷いて、前を見たまま言った。
「はい。それにより、このシェルターの中だけは、崩壊の影響を受けておりません。ナイトメアの感知も干渉されない。この世界に残った、最後の楽園とも呼べるでしょう」
風が吹く。
街路樹からさえずりとともに小鳥達が飛び立つのが見えた。
「そんなの……一体どうやって……」
中庭と思われる広場に、噴水がある。
そこに流れる透明な水。
子供が、水に足を浸して遊んでいる。
イベリスはしかし、その光景を眉をひそめて見ていた。
彼女の呟きに微笑みを返し、ステルシスは答えた。
「このシェルターの中枢システムには、オリジナルナイトメアが使われています」
「……何だって?」
ラフィが息を呑んで聞き返す。
イベリスでさえも目を見開いて言葉を飲み込んだ。
ステルシスは突き当りのエレベーターのボタンを押し、中にイベリス達が入ったのを確認して自分も体を滑り込ませた。
しばらくしてエレベーターが下降を始める。
「人間に協力するナイトメアが、このシェルターには存在しています。その力により、ここ一帯だけが崩壊を免れているのです」
「……そんな話聞いたことが無いぞ! ありえない!」
ラフィが青くなって声を荒げる。
しかしステルシスは目を細めて彼を見ると、ニッコリと笑った。
「当然です。それが『彼女』のセブンスなのですから」
「……どういうことだ?」
押し殺した声で問いかけたラフィに、ステルシスは続けた。
「『彼女』の名前は『ウミガメモドキ』……おそらく、アポカリクファの終焉の影響を受けていない、最初で最後のオリジナルナイトメアです」
だいぶ長いことエレベーターは下降し、やがて止まった。
そしてステルシスが外に出る。
イベリスも車椅子を押してもらいながら進むと、真っ白い手術室のような場所の入口が見えてきた。
周囲の光が強い。
何度か瞬きをして、イベリスは傍らのステルシスを見上げた。
「ちょっと……オリジナルナイトメアって? あなた達、ナイトメアと共存しているの?」
しかしステルシスはそれには答えず、穏やかに微笑んで周囲の男女に指示をした。
彼らが操作すると、部屋のエアコックが開き、空気の抜ける音と共に扉がゆっくりと動いた。
中は真っ白な空間だった。
空調の音だけがカラカラと鳴っていて、中央にパイプづくりのベッドが一つだけ置いてあった。
それ以外は何も見えない。
背後でバタン……と扉が閉まり、イベリスとラフィは不安げにお互いの顔を見合わせた。
何も感じない。
そう、部屋の中には「何もいない」のだ。
しかしステルシスは静かにベッドに近づくと、静かな声で何者かに呼びかけた。
「……そんなに怖がらないでください。このおふた方は、私の同族です」
反応はない。
しばらく待ってそれを確かめると、ステルシスは軽く顎に手を当てて考え込んだ。
「……困りましたね……予想以上に怖がらせてしまっているようです」
「何も見えないし感じない。この部屋にいるのは、僕達だけだ」
ラフィが咎めるように彼女に言う。
そして語気を荒くして続けた。
「……騙したのか?」
目を細めてステルシスを睨みつけた彼を押しとどめ、イベリスは息をついてから言った。
「……怖がらせてしまった……って?」
「イベリスさん、あなたはいいのです。見たままあなたは、私と同じドッペルゲンガーですから。しかし……ラフィさん」
「…………?」
怪訝そうな顔をしたラフィを、ステルシスはまっすぐ見つめた。
「あなたは、『普通のナイトメア』ではありませんね?」
言われた数秒間停止し、ラフィの顔が険しくなった。
歯を噛んでいる黒猫を見下ろし、イベリスが問いかける。
「普通の……?」
「ラフィさんから異常な数値を感じると、『彼女』は私に申しております。その原因をご説明いただかない限り、対話をするつもりはないそうです」
「するつもりはないって……そっちがあたし達を呼んだんではなくて?」
腕組みをしてイベリスは鼻を鳴らした。
「駆け引きをお望みなら、いくらでも相手にはなるけど……」
「気に障ったのなら、謝罪をします。しかしご理解いただきたいのです。ここにあなた方をお呼びしたのは、この状況をご説明し、実際その目で確認していただくため。そして……」
白い服を着た男女がイベリス、そしてラフィから体を離し、彼女達を円形に取り囲む。
全員懐から大型の電撃銃を取り出し、イベリス達に向けて構えた。
「あなた方の危険性を、私自ら判断させていただくためでもあります」
「……やっぱりそういうことね」
イベリスは全く動じずに、太ももの上のラフィを手で押さえてから軽く笑った。
「まぁ、タダほど怖いものはないとは思っていたけど」
「ラフィさん。あなたは、まだ私達に話していらっしゃらないことがありますね? 一連のご説明と合致しないところがある……と、『彼女』は私に申しております」
イベリスを無視し、ステルシスはラフィに向けて言った。
一体何のことなのか分からず口をつぐんだイベリスの太ももの上で、ラフィは顔を上げて歯を噛んだ。
「そんなものは何もない。僕は……」
周囲の男女が、一斉に電撃銃のセーフティを外し、撃鉄を上げた。
「一つお断りしておきますが……」
ステルシスは人形のような微笑を顔に貼り付けたまま、淡々と言った。
「私もバンダースナッチを体内に飼っております」
「…………」
ラフィが発しかけていた言葉を飲み込む。
彼に小さく笑いかけて、ステルシスは目を細めた。
「そしておそらく直接戦闘では、私はあなた方の戦力を遥かに凌駕します」
イベリスが眉をひそめて彼女を睨む。
「……聞き捨てならないわね。こんなところで引きこもって隠れていた分際のあなたが、あたし達よりも強いって?」
「事実ですから」
何でもないことのように軽く言い放ち、彼女は穏やかに続けた。
「できれば殺したくはありません。友好的な関係を築けるのでしたら、その方がいいと思っています」
「…………」
「ですのでラフィさんには、包み隠さずお話いただきたく、このような手段を取らせていただきました」
「ていの良い脅しね。試してみましょうか? どちらが強いのか」
イベリスもいびつな真顔を顔に貼り付けたまま、ステルシスを挑発する。
彼女の足にゆらぎの虹色が集まり始める。
「……どうぞ」
軽く首を傾げてステルシスが言う。
イベリスの足がスカートを翻して動こうとした瞬間だった。
「やめるんだ、イベリス。ここで戦うことには一切メリットがない」
ラフィが押し殺した声で彼女を止めた。
襲いかかる寸前だったイベリスが動きを止め、息をつく。
数秒間、イベリスとステルシスは睨み合っていた。
ラフィは車椅子にイベリスが座り直したのを確認し、床に立ってステルシスに向けて言った。
「……分かった。僕が話せる範囲の全てを話そう。だから、その手に持った端末を離してくれ」
言われたステルシスが、微笑みの顔のまま隠すように持っていた携帯端末を掲げる。
「……気づいてらっしゃったんですか?」
「僕達だけを始末するために動いているとは思えない。何か予想外の動きが起きた時、アリスとフィルレインを人質に取れるように仕組んでおくのは、至極当然な対応策だ」
冷静にラフィが言う。
ステルシスは息をついて、ポケットに携帯端末を入れた。
そして両手をラフィに向けてひらひらとさせる。
「……これでよろしいでしょうか?」
「イベリスはこの話とは無関係だ。銃も下ろしてくれないか?」
ラフィが言うと、ステルシスは視線で周囲の男女に指示をした。
彼らが電撃銃を下ろしてイベリスとラフィから距離を取る。
「要求を飲もう。おそらく、君が知りたいであろうことを話す」
ラフィは押し殺した声で言うと、イベリスの膝の上に座り直した。
そしてステルシスの顔を見る。
「……僕はこの……『ラビリンスシステム』の統括……つまり、中枢システムにアクセスするこができるコードを持っている、唯一の『端末』だ」
「何ですって……?」
イベリスが息を呑んでラフィを見下ろす。
ステルシスは微笑んだ表情を顔面に張り付かせたまま言った。
「成る程……そんな姿になって、管理システムの残骸がまだ生き残っていたのですね」
「幸か不幸か、僕を構成する情報は全て失われていなかった。しかし……」
ラフィは歯を噛んで口ごもった。
そして数秒考え込んでから続ける。
「この姿を取る時に、大部分の構築情報を失ってしまった。その中には、複数のアクセスコードもある。だから、通常通りにシステムに干渉することはもうできない……」
「……管理システムの属性を持っただけの存在っていうこと?」
イベリスが問いかけると、それをステルシスが遮った。
「それだけではないでしょう。あなたが管理システムの残骸だとしても、行動に不可解な点が多すぎます。メインシステムに干渉するためのアクセスキー……幾つかはまだ持っていますね?」
言葉を投げつけられ、ラフィは黙り込んだ。
そして周囲を囲む男女を見回してから、ステルシスに猫の目を向ける。
「何故それを知りたがる?」
逆に問い返され、今度はステルシスが口をつぐんだ。
その一瞬の反応を見て、ラフィは口の端を歪めた。
そして軽く息を吐いてから、彼女の脇のベッドに視線を向ける。
「合点がいった。そこに『いる』んだな」
「……どういうこと?」
車椅子の上のイベリスが、ラフィの声音を聞いて腰を落とす。
ラフィは警戒の色を言葉に含ませながら、イベリスに答えた。
「ウミガメモドキというナイトメアだ。おそらく、彼女の隣に『存在』している」
「何も感じられないわ」
「そういう『セブンス』なんだろう。認識ができなくなる能力。このシェルターも、そのナイトメアの力で隠されているんじゃないのか?」
周囲の男女が一斉に電撃銃を持ち上げ、ラフィとイベリスに向けた。
「おやめなさい」
ステルシスがそう言い、周囲を押しとどめる。
彼女の顔から微笑が消え、能面のような無表情がラフィ達に向いた。
「……だとしたらどうするおつもりです?」
問いかけられ、ラフィは鼻を鳴らした。
「どうもこうも。現時点では敵対の意思はない。少々警戒しすぎのようだな」
「……『彼女』は、あなたの持つシステムへ直接干渉するアクセスキーの効力について、危惧しています」
ステルシスが淡々と言う。
黒猫は少し押し黙ると、息をついてから続けた。
「成る程。ナイトメアの存在を消したり、セブンスを無効化されてしまうのではないかと恐れているわけだな」
「…………」
「それはない。できるならとっくにそうしている」
断言し、ラフィはつらそうに表情を歪める。
「……そうしてあげたかった……」
「…………」
周囲の男女が電撃銃を構えている中、ステルシスはふぅ、と息を吐いた。
そしてベッドの上に視線を落とす。
「……だ、そうです。ウミ、どうしますか?」
しばらく沈黙が部屋の中を包んだ。
やがてベッドの上がゆらめき、陽炎のように空間が歪む。
そして今までそこにはいなかった、幼児のような人影が現れた。
ペタリとベッドに座り込んで、怯えたようにラフィとイベリスを見ている。
赤茶けた髪の毛に、くすんだ茶色の瞳。
年頃は五、六歳だろうか。
白い病院服を身にまとった、小さな女の子だった。
彼女は裸足の足をもぞもぞと動かすと、細い腕で足を引き寄せた。
そして自分の足を抱いて、ボソボソとかすれた声を発する。
「……知らない人は、不快。早く、ここから出ていって……」
「あんたが『ウミガメモドキ』か」
ラフィがそう言って、イベリスの膝にまた座り直した。
そして背筋を伸ばして口を開く。
「姿を現したということは、若干信用はしてもらえたということなのだろうか?」
「…………」
膝に顔を埋め、その間からラフィを鋭い瞳でウミガメモドキは見ていた。
しばらくして、またボソボソと喋り始める。
「私……隠れるしか、セブンスの能力はない。身を守れない。だから、隠れる。用心深くなる。それは理解して欲しい」
「理解はできるわ。でも頭には来るわね」
イベリスが軽蔑したように吐き捨てる。
それを怯えたような顔で見たウミガメモドキの様子を見て、ラフィが口を挟んだ。
「やめるんだ……ウミガメモドキ、一つ聞きたい」
「…………」
反応がない彼女に、ラフィは静かに問いかけた。
「あんたの能力は、オリジナルナイトメアからも完全にシェルターを隠すことが可能なのか?」
「…………」
沈黙したまま、ウミガメモドキはベッドの脇に手を伸ばした。
そして何かをつかむ動作をして、無造作にラフィ達の方にそれを放る。
クマのぬいぐるみが空中にパッと現れ、軽い音を立てて床に転がった。
彼女は何度かその動作を繰り返した。
たちまち十数個のぬいぐるみが現れ、床に転がる。
「…………」
唖然としているイベリスを一瞥し、ウミガメモドキはパン、と軽く手を叩いた。
一斉にぬいぐるみが消えた。
「…………」
また膝を引き寄せて、その間からこちらを見た彼女に、ラフィは感心したように言った。
「高度な手品みたいなセブンスだな。確かに、データの残滓も何もかもが全て消え去っている。手で触れても認識できないかもしれないな」
「……私の能力、私が生きている限り、永続する。だから、このシェルター、いるかぎり安全」
ウミガメモドキはそう言ってステルシスを見上げた。
「ステルの、言うこと。半分聞く。市民、受け入れる。でも……」
彼女はラフィとイベリスをくすんだ色の瞳で見つめた。
「この人達と、この人達の仲間、受け入れない。出ていって欲しい」
◇
ラフィとイベリスが出ていった部屋の中で、ステルシスは表情を落とし、ウミガメモドキのことを見下ろしていた。
少女の形をしたナイトメアは、両膝を抱えてポケットから何かの種のようなものを取り出し、口に入れて咀嚼している。
ステルシスは自分の方を見ようとしない彼女に言葉を投げかけようとしたが、口をつぐんで、床に膝をついている男女を見回した。
「引き続き監視の目を怠らぬよう。行きなさい」
「……宜しいのですか?」
そのうちの男が一人、口を開く。
ステルシスは唇を噛んで頷いた。
「ええ。ここであの方々と戦闘を起こせば、必ずいらぬ死を招きます。それだけは避けねばなりません」
「……おとなしく出ていってくれればいいけどね」
ウミガメモドキがボソッと呟くように言う。
彼女の言葉を聞いて、膝をついていた女性が口を開いた。
「やはり、シェルターの外に追い出すのはリスクが高すぎると思います。それが起因して、いつ何時オリジナル達にここがバレるか、分かりませんし……」
ウミガメモドキは何かを咀嚼しながら、苛立ったように自分の親指の爪を噛んでいた。
その彼女の頭にそっと手を伸ばし、ステルシスが優しく撫でた。
「安心して、ウミ。あなたが怖がることは何もないわ」
「…………」
「もしものときは、私が全てを終わらせる。私のバンダースナッチで……」
呟いたステルシスの髪が、風も吹いていないのにざわざわと揺れていた。
ウミガメモドキが顔を上げて彼女を見上げ、小さな声を発した。
「頼むよ、ステル。私を守ってね?」
◇
「おとなしく出てきてしまったけど……どうするの?」
イベリスに問いかけられ、ラフィは彼女の病室内の床に飛び降りた。
そしてその顔を見上げる。
「期限は明日の昼までだ。まずは……アリス達に話をした方がいいと思う」
「それはそうだけれど……」
イベリスは口ごもった後、ためらうように言った。
「……ねえ、あの子。アリスだけでもここに置いてもらうことはできないのかしら?」
「と……いうと?」
「分からない? あの子はもう、戦える状態ではないわ。戦力外だと言いたいわけじゃない。ただ、残酷だと思うのよ……」
最後の言葉が、尻すぼみになって自信なさげに消える。
ラフィは少し考えてから首を振った。
「多分……それはできないと思う」
「どうして?」
「あいつらが追い出したいのは僕や君ではない。おそらくアリスだ」
「……どういうこと?」
「ステルシスとか言ったか。あのドッペルゲンガーは多分気づいてる。アリスが、アーキタイプの干渉能力を持ってるって」
「何ですって?」
素っ頓狂な声を出してしまい、イベリスは慌てて口をつぐみ、声音を低くしてラフィに言った。
「……初耳よ。確かに、普通のドッペルゲンガーとは違うとは思っていたけれど……」
「そもそもアリスは、君達のように『システムが複製した』わけではないんだ。僕も知らない間に生み出されていた。それはつまり……」
「成る程ね……プロトシステムがまだ生きていて、書き出した可能性もあるわけか……」
顎に手を当てて考え込んでから、イベリスは小さく息をついた。
「どっち道ジリ貧ね。戦って負ける気はしないけど、あの女やナイトメアを殺したからと言って、何かが好転するわけでもないだろうし」
「そうだな。とれるべき策は……」
そこでコンコン、と扉が叩かれ、ラフィは口をつぐんだ。
空気の抜ける音がして扉が開き、フィルレインが顔を覗かせる。
僅かに憔悴したような彼女を見て、イベリスが口を開いた。
「ご苦労様。中に入って」
「ありがとうございます」
頭を下げてフィルレインが部屋に入り、扉を締める。
椅子に腰を下ろした彼女に、ラフィが問いかけた。
「アリスは?」
「今は薬が効いているのか、眠ってらっしゃいます。段々と現実が理解できているようではあるんですが……」
唇を噛んで、彼女は両手を膝の上で握りしめた。
「……私には、どうしてあげることもできなくて……」
「…………」
ラフィは口をつぐんで言葉を飲み込んだ。
そして小さくうつむく。
イベリスが彼らを見て、少ししてから口を開いた。
「……市民の受け入れは容認してもらえたけれど、私達四名は、明日の昼間までに、ここを出ていくようにということよ。勿論、危険なオリジナル達のコアを持ってね」
それを聞いて、フィルレインは弾かれたように顔を上げた。
「そんな……酷いです! アリス様を守ってはくださらないんですか!」
「残念ながらね……」
イベリスがかいつまんで先程あったことを説明する。
フィルレインはため息をついて視線を床に向けた。
「……そうですか。ここにはオリジナルナイトメアがいるんですね……」
「しかも人間と共存しているように見えたわ」
そう言ったイベリスの言葉にかぶせるように、ラフィが続けた。
「いや……そう『見える』だけだと思う」
「……どういうこと?」
イベリスに問いかけられ、ラフィは丸い目を彼女達に向けた。
「アレは、オリジナルナイトメアだ。人間ではない。それはつまり、どういうことか分かる?」
問い返されたイベリスが、一拍置いて青くなる。
「……まさか……」
「想像通りだとすると、受け入れられた生き残りの市民達の安全も保証はされない。いわゆる、こういう閉塞空間に『外』から来た異端物だ。僕達をすぐにでも遠ざけたいのは恐怖もあるからだろうけど……」
ラフィは口の端を歪め、怒りとも悲しみとも取れない表情をした。
「見せたくないものが、恐らくあるんだろう」
◇
「ステルシス様。受け入れた市民達の一部をドックに移動させました」
背後から声を投げかけられ、ステルシスは淡々とした目をそちらに向けた。
管制室のような場所で、彼女は複数のモニターの前に立っていた。
監視カメラから映像が来ているのか、病院服のようなものを着せられ、不安げな表情をした市民達が、怯えたように椅子に腰掛けているのが見える。
狭い、四角形の部屋だ。
腕組みをしてそれを見て、ステルシスは鼻を鳴らした。
「子供はいないのね」
「受け入れの段階ですでに、殆ど残っておりませんでして……残っている子供も、今無理やり親と引き剥がすと、感づかれる恐れがあります」
「分かったわ。今回の人数は?」
「三十五名です」
「はじめなさい」
静かな彼女の声を聞いて、モニターの前に腰掛けていた男女が、黙々と計器を操作する。
途端、市民達が閉じ込められている部屋のドアが遠隔で締まり、窓にシャッターが降りた。
市民達が慌てて何かを言っているが、声は管制室には届かない。
次いで換気ダクトから、中に白色の煙が送り込まれ始めた。
苦しそうに咳をしていた市民達が、次々に床に倒れて痙攣しはじめる。
「とめなさい」
ステルシスの声と共に計器が操作され、送り込まれていた白い煙が止まる。
倒れ伏している市民達は、ビクビクと痙攣するばかりで、白目を剥いて動くこともできない様子だ。
意識はあるらしく、うめき声を上げている様子が見て取れる。
しばらくして扉が開き、耐毒マスクとスーツを着た人々がバラバラと部屋に入ってきた。
そして倒れている市民達を死体を入れるようなビニール袋に一人一人収納しはじめる。
それが運び込まれていく様子を無表情で見ながら、ステルシスは頭痛を抑えるように頭に手を当て、ため息をついた。
「半分をウミの部屋に置いてきなさい。もう半分は地下倉庫に。後始末は念入りにね」
「お任せください」
頷いた男女を見回し、ステルシスはこめかみを押さえながら言った。
「私は少し休みます。誰も通さないよう。あの外部から来たアリス達は、定刻通りにシェルターの外に追い出しなさい」
「抵抗されたらどうしますか……?」
不安げに問いかけられ、彼女は暗い笑みを発した。
「抵抗はしないわ。聡明なドッペルゲンガーなら……できないはずよ」
「は……はぁ」
気の抜けたような返事をした相手に、ステルシスは微笑みかけた。
「もしもの時は、私にすぐ連絡を。その時はその時です。私が始末します」
「かしこまりました」
頷いた男女に軽く首を傾げてみせ、彼女は部屋の奥のエレベーター内に姿を消した。
◇
怯えた顔で周囲を男達に囲まれながら、フィルレインが歩いていた。
右目が痛むのか、眼帯ごしに目を押さえたアリスを心配そうに支えている。
よろめきながらアリスは足を止めた。
イベリスが車椅子に座っており、ラフィがその膝の上にいる。
アリスは彼女達から視線をそらして、唇を噛んだ。
ラフィが口を開きかけて言葉を飲み込む。
男達のひとりが進み出て、イベリスに小さな袋を渡す。
中からジャラジャラというガラス音がした。
「オリジナルナイトメアのコアです。これを持って、即刻このシェルターから立ち去ってください」
「…………」
イベリスは無言で小袋をむしり取ると、フィルレインを見た。
「行くわよ」
「え……? で、でも……」
すがるような顔でフィルレインは周りの男達を見回した。
しかし彼らは鉄面皮のような表情で彼女と目を合わせようとはしなかった。
イベリスは車椅子を進めて、フィルレインの手を握って引いた。
「何をグズグズしているの」
「は……はい。申し訳ありません……」
うなだれて、フィルレインがアリスを抱くようにして足を踏み出す。
事前に説明されていた通り、サイドカータイプのエアバイクが一台、お情けと言わんばかりに提供されていた。
サイド部分にフィルレインがアリスと一緒に乗り込んだのを確認して、イベリスは意識を足に集中させた。
ゆらぎが集まっていき、バンダースナッチが脚部を形成する。
バイクに折りたたんだ車椅子をセットし、彼女はサイドにラフィを投げると、無言でバイクにまたがった。
そしていきなりエンジンをかけて発進させる。
「イベリス様……!」
フィルレインが素っ頓狂な声を上げる。
虚脱したようなアリスを慌てて支えた彼女が、振り落とされまいと踏ん張った瞬間、エアバイクはフワリと浮き上がり、猛スピードで出口とは反対方向の、シェルター入り口に向かってすっ飛んだ。
「掴まっていなさい!」
イベリスが大声を上げる。
あまりの速度に悲鳴を上げたフィルレイン達を乗せ、少女達は閉まろうとしていた隔壁の隙間を縫ってシェルター内に飛び込んだ。
男達が慌てて懐から電撃銃を取り出し、バラバラと後を追いはじめる。
「しまった……!」
ひとりが小型の通信端末に向かって怒鳴った。
「小娘共がシェルターの中に逃げ込んだ! 警戒レベルを最大に! すべての隔壁を降ろせ!」
「ステルシス様に連絡を!」
「ウミガメモドキ様を避難させろ! 奴らの狙いはあの方だ!」
怒声を背後に聞きながら、イベリスはアクセルを全開まで踏み込んだ。
その口元が歪んで、ニヤリといびつに笑う。
「イベリス様、な……何を……!」
フィルレインが眼を丸くして叫ぶ。
イベリスは小さく笑ってから、吐き捨てるように言った。
「何を……? 愚問ね、フィル。あなた本当に由緒ある巫女の一族なのかしら?」
「え……?」
「これから、このシェルターの核になっているオリジナルナイトメアを狩りに行くわ」
「……何ですって!」
声を張り上げたフィルレインを一瞥し、イベリスは通用口の脇……その鉄格子をバイクで打ち壊して、エアダクトの一部にバイクを滑り込ませた。
「あたし達はナイトメアを根絶させるために生きているのよ。分からないかしら?」
目を異様な色にらんらんと輝かせたイベリスの髪が、虹色のゆらぎを帯びて、ざわざわと動きはじめる。
「ここだって例外ではないわ……!」
「僕達は監視されていた。迂闊なことを口にできなかったんだ。でもイベリス、君が僕の意図を汲んでくれてよかった」
ラフィがフィルレインの膝の上に上半身を起こして口を開く。
「で、でも……ここにいるオリジナルナイトメアの能力で、他の敵からシェルターが隠されているんじゃ……」
「フィルレイン、よく思い出して欲しい。オリジナルナイトメアは、人間を食らう。それはここにいるウミガメモドキという奴も例外ではない」
「……まさか……」
「連れてきた市民が危ない。生贄にされるぞ」
「そういうこと」
イベリスが軽い調子で口を開き、ハンドルを切る。
狭いエアダクトの通路内を、ライトをつけたバイクが疾走する。
「僧正も早く助け出さないと……このままでは始末されてしまう」
焦ったようにイベリスが言うと、ラフィは歯噛みして言った。
「……もう遅いかもしれない。最善策は、優先してウミガメモドキを殺すことだ」
「つ……つまりここって……」
フィルレインは頬に手を当て、青ざめた顔で呟くように言った。
「オリジナルナイトメアの……巣……?」
「楽園という言葉に隠された、ただの餌場だ。あのドッペルゲンガー……ステルシスという女は、多分分かってやっている」
ラフィが淡々と答える。
イベリスは通路内の金網をバイクで突き破って、シェルター内の倉庫と思われる場所に車体ごと飛び出した。
そしてコンテナが立ち並んでいる場所の一角にエアバイクを停める。
エンジンを切って、彼女は暗闇の中バイクの後方から非常用の携帯ライトを取り出し、スイッチを入れた。
「このバイクは目立ちすぎる。ここに隠しておくわ」
「……ここ、何だかとても臭くないですか……?」
立ち上る悪臭に、フィルレインが鼻を摘んで顔をしかめる。
イベリスはそれには答えずに、ゆらぎの足を踏みしめて数歩先に進み出た。
そしてライトを周囲に向けて見回す。
ラフィがその脇につき、猫の目で淡々と周りを見ている。
「アリス様……? 大丈夫ですか? しっかりしてください」
フィルレインに肩を揺すられ、アリスは熱に浮かされたような真っ赤な顔で、虚ろな左目を彼女に向けた。
「フィル……? 頭が痛い……」
「ここを離れなくては……動けますか?」
「……何とか……」
よろめきながら立ち上がったアリスを、イベリスは横目で見てから鼻を押さえた。
「臭いの原因はこれね」
端的に言って、ライトを周りに向ける。
そちらに視線をやったフィルレインは小さく悲鳴を上げた。
天井から沢山の、鎖が垂れていた。
その先端には鉤爪がついており、何かサンドバッグのような物体が吊るされている。
ゆらゆらと揺れるそれは、空調が回る音の中で静かにミノムシのように音を立てない。
しかし、フィルレインはそれを見た瞬間に、「何」であるのかを理解してしまった。
――人間だ。
そう、それは人間……だった。
両手両足を無残に切断された人間の胴体が、首筋に鉤爪を差し込まれて吊るされていたのだ。
全裸に剥かれたそのダルマになった人の死骸は、ボタ……ボタ……とまだ生温かい血液を垂れ流している。
老若男女、様々な人間がいた。
子供、大人、お構いなしだ。
全員絶望と恐怖、そして激痛に歪んで白目を剥いた断末魔の表情で事切れている。
「こ……これ……これって……」
「……ここはナイトメアの『餌』の加工場だな。恐怖を与えて殺した後、保存でもするのか……? よく分からないけど……」
ラフィが歯を噛みながら押し殺したように言う。
こみ上げる吐き気を抑えながら、フィルレインはアリスを支えてイベリス達の背後まで足を進めた。
「……許せないわね。表向きは希望を与える偽善者の顔をして、裏では餌を飼育する養鶏場じゃない。こんなの……」
ギリ……と歯を慣らして、イベリスは小さく吐き捨てた。
「人間のやることじゃない……! あの女も、ナイトメアと同じよ……!」
「イベリス、感情的になるな。敵のセブンスは、自分と周りの認識を操作する。注意深く行こう」
「……分かってる」
言葉を飲み込んで、イベリスは無理やりフィルレイン達の方を向いた。
そして俯いて荒く息をついているアリスに近づき、しゃがみ込む。
彼女の顔を覗き込んで、イベリスは静かに言った。
「……アリス。あなたのことは、あたしが必ず守る。これを持っていて」
手に小さな携帯端末を握らされ、アリスは虚ろな左目で彼女を見た。
「加勢してとは言わない。自分の身を守りなさい。もし、心細くなったらいつでもあたしを呼んで。絶対に駆けつける」
「イベリス様……」
声を発しかけたフィルレインを制止し、イベリスは彼女達に背を向けた。
「……あたしとラフィは、これから生き残ってる市民と僧正を助けに行く。あなたはアリスを連れて、ここから離れた場所に隠れていて」
「……そんな、二人だけじゃ……」
「大丈夫」
ニコッと笑い、イベリスはラフィが肩に駆け上がったのを確認して走り出した。
そして壁を駆け上がり、換気ダクトの通用口に体を滑り込ませる。
アリスは渡された通信端末を握り、虚脱するように停止していた。
右目が熱を持っているらしく、意識が混濁してきているのだ。
フラフラと頭を揺らしている彼女を支えながら、フィルレインは言った。
「……アリス様。ここを離れましょう。ひとまず、身を隠さなくては」
「……うん……」
小さく頷いたアリスの手を引いて、フィルレインは死体を掻き分けて歩き出した。
◇
「……良かったの? アリスについていなくて」
通用口を移動しながら、小声でイベリスが問いかける。
ラフィは彼女の前を先導しながら答えた。
「アリスを守るためにも、このシェルターの敵を速やかに倒さなくては。彼女についていては、それができない」
「……そうね。変なことを聞いたわ」
イベリスはそう言って、網格子になっている部分で足を止めた。
そしてしゃがみこんで下を覗く。
先程の死体保管庫に近いところだ。
白い壁の四方の、工場のような部屋だ。
ベルトコンベアが稼働している。
そこに、死体袋のようなものがいくつも乗って流れてきていた。
「あれは……」
「まだ生きているな。何かで眠らされているのか……? 中に入っているのは、おそらく君のシェルターから連れてきた市民だ」
「……なんてことを……」
歯を噛んで、イベリスが舌打ちをする。
「生きている人は、何とか助けることはできないかしら……」
「どこでどう監視されているか分からない……迂闊に出ていけば、すぐ全滅もあり得るな」
「…………」
押し殺すようにイベリスは息をついた。
「……分かった。感情的にならない」
「懸命だ。捨てられるものは捨てた方がいい」
「全面的に賛同はしかねるけど、勝てなければ意味は無いのは分かる」
「……そうだな」
ラフィはそう言って、格子を踏み越えて足を進めた。
イベリスも屈みながらそれに続く。
「ウミガメモドキの脅威は、周囲のものの認識までできなくすることだ。それがどのくらいの範囲なのか、それとも他にも能力があるのかは分からないけれど、少なくともこの前見た感じで判断すると、これ以上なく戦いにくい相手だと思う」
「……認識ができないだけで……でも『そこにはいる』わけよね?」
イベリスはそう言って、暗い表情で前方を睨んだ。
「つまり……範囲的な攻撃なら、そのまま巻き込むことができる……」
「その通りだ。だからこそ、あのナイトメアは近くにステルシスを置いているんじゃないかな……」
ラフィは自信がなさそうに小さく言ってから足を止めた。
イベリスも足を止め、通風口の奥に視線をやる。
管制室のような、計器が並んだ部屋だった。
ステルシスの取り巻きの男女が、機械を操作している。
この位置からでは見えないが、並んだモニターに何かが表示されている。
「ウミガメモドキの部屋はこの地下だったな……」
ラフィが小声で囁くと、イベリスは頷いてそれに返した。
「ええ……でも、もう移動されている可能性が高いわ」
「場所を把握しないとジリ貧だね。まずはこの部屋を掌握しよう。できる?」
「ナメないで」
イベリスはそう言って、呼吸を整えて意識を足元に集中した。
虹色のバンダースナッチが僅かにゆらめき、枝のように小さく、細いトゲがふくらはぎの部分から大量にせり上がる。
それは瞬く間に通風口に殺到すると、ものすごい勢いで壁を這い、管制室にいる人間達の首筋に同時に突き刺さった。
小さな呻き声が連続して聞こえ、次いで力なく男女が倒れる。
一気に十人近くを無力化したことを確認し、イベリスは足にバンダースナッチが戻ってきたのを見てから口を開いた。
「さ、行きましょう」
通風口を蹴破って、小さな少女がふわりと部屋の中に降り立つ。
騒ぎも何もなく転がっている人間達を見回してから、ラフィはイベリスの顔を見上げた。
「何をしたんだ?」
「首筋の神経に少し細工しただけよ。数時間経てば麻痺も収まって動けるようになる。殺してはいないわ」
何でもないことのようにイベリスは言ってから、大股にモニターに近づいた。
そして椅子に座って気絶している男を引き倒し、腰掛ける。
「ラフィ、見て」
彼女の声に促され、モニターを見上げたラフィは停止した。
裸に剥かれた市民の一人が、磔台のようなものに縛り付けられ、電動ノコで腕を切り刻まれている映像が流れていた。
対毒スーツのようなものを着た人間が、複数で電動ノコを持ち、生きたまま四肢を切断している。
音声は来ていないが、その凄惨な様子は、目を背けさせるに有り余るものだった。
「こいつら……」
歯を噛んで周りを見回したラフィに、イベリスは少し呼吸を整えてから頭を抑えた。
「……冷静に行きましょう。ウミガメモドキを追跡できる手がかりはないかしら……」
「ここからの通信がなくなったのもすぐ感づかれるな。急いで探そう」
ラフィはそう言って、タッチパネルに飛び乗った。
そして肉球でボタンを何度か押す。
その黒い体が僅かに白く輝き始めた。
「……ラフィ?」
「僕は、システムに少しだけ干渉することができるナイトメアだ。それは知っているね? 今から、監視カメラに残されたウミガメモドキの情報を逆探知する。少し待っていてくれ」
数秒でラフィの体の発光は止まり、彼は息をついてイベリスの肩に這い上がった。
「分かった。やはり移動してる」
「どこ?」
「ここから反対エリアの地下だ。ステルシスと一緒にいるようだ」
「読まれてるわね……」
爪を噛んで、イベリスは押し殺した声で言った。
「相手の読みの上を行かないと勝てないわ」
「正面から飛び込むのも得策ではない。見てくれ」
ラフィはそう言って、モニターに視線を送った。
映像が自動で切り替わり、シェルター内の地図が表示される。
「僕達がいるのはここ。この赤い点だ。目的地はこの青い点。地下とはいっても、ここよりも高い場所にある」
「……市民の生活ブロックを通過することになるわね」
「多数の武装した勢力が待ち構えてるのも確かだ。だから、このルートから行こうと思う」
地図上に黄色い線が表示された。
イベリスは少し意外そうにそれを見ていたが、やがて口の端を歪めてニィ、と笑った。
「……なるほどね」
「うまく行けば、あのいけ好かないドッペルゲンガーもろとも敵を無効化できる。どんな能力をもっていようとお構いなくだ」
「さすがね。じゃあその方法でいきましょう」
「話が早くて助かる」
イベリスは倒れている男を踏み越えると、足を進めて通風口に駆け上がった。
そしてその中に身をおどらせる。
部屋の中には無線のノイズ音が響いていた。
◇
「……どういうこと? ステル。私達を探しているわ。あのナイトメア達」
分厚い扉の奥……耐火用のシェルターに入っているウミガメモドキが、爪をガリガリと噛みながら苛立った声で呟いた。
部屋の中にはベッドがあり、生活用品が散乱している。
椅子に腰掛けたステルシスが、近くの男性から耳打ちで報告を受け、顔を歪めた。
「懸命な人間ではなかったということですね。怖がることはありませんよ、ウミ」
「やっぱり始末することになったね」
「私とあなたの能力さえあれば、たとえオリジナルナイトメアでさえ太刀打ちはできませんもの」
ステルシスは微笑んで手を伸ばし、黒い血が流れ始めているウミガメモドキの手をそっと包んだ。
「だからそんなに怖がらないで。あなたのことは私が守るわ」
「約束だよ。ステルは、他の何をさておいても私を守るんだよ?」
すがるようにウミガメモドキに言われ、ステルシスは頷いた。
「ええ。約束、忘れていないわ」
「私はどうすればいい……? このまま隠れていればいいの?」
問いかけられ、ステルシスは暗い笑みを発してそれに返した。
「ええ、このままあの子達をここにおびき寄せましょう。どっちみち、入ってこなければ私達を仕留めることはできません。姿を見せた瞬間に、私のバンダースナッチで『始末』します」
ざわざわと彼女の髪がざわつく。
長く美しい髪から、虹色のゆらぎが立ち上っていた。
それを横目で見ながら、ウミガメモドキはステルシスの手から自分の手を離し、そっと両足を引き寄せた。
「……どうして私を狙うの? あのナイトメア達」
小さな呟きを聞いて、ステルシスは表情を変えずに答えた。
「さぁ……? 懸命でない『馬鹿』の考えることは分からないですね」
「…………」
ため息をついて、ウミガメモドキは続けた。
「どうせ、いずれこの世界はアポカリクファの終焉で終わる。それまでの僅かな間、安息の地を作ることの何が悪いの……?」
「理解してもらおうとはしたんですけれど……」
頬に手を当てて、ステルシスは息をついた。
「とにかく、あの子達は敵です。敵は敵として排除しなければ」
暗い笑みを発した彼女は、どこか瞳孔が拡散したような瞳で扉を見た。
「私達が静かに暮らせませんわ」
「……そうだね」
ウミガメモドキは頷いて歯を噛んだ。
そこで、彼女たちのいる耐火シェルターの頭上で何かが爆発する音が連鎖的に響いた。
小さなナイトメアが悲鳴を上げてステルシスにしがみつく。
ステルシスは慌ててウミガメモドキを抱きしめながら、声を張り上げた。
「……何事です!」
「この部屋の上階で……貯水タンクの一つが爆発したようです!」
取り巻きの男のひとりが、通信で何かを受けてから大声を上げた。
まだ頭上では連鎖的に何かが爆発する音が響いている。
ステルシスは、しかし押し殺した声で周囲に言った。
「慌てず、下水弁を解放しなさい。貯水タンク内の水を外に逃がすように指示なさい。あの程度の爆発では、この中に影響はありません」
「そ、それが……ステルシス様!」
地鳴りのような音が周囲に響いていた。
ウミガメモドキが怯えたようにステルシスの服にしがみつく。
「下水弁の制御システムがクラッシュしていて操作不能とのことです! 水が換気ダクトに逆流して流れ込んでいます! ここを離れてください!」
「まさか……」
ステルシスは歯を噛んで、声を絞り出した。
「あの子達、最初からこっちに攻め込んでくるつもりはなかったわけ……?」
「ステルシス様!」
男達が大声を上げる。
頭上で破裂した貯水タンクの水は、本来流れていくはずの下水を通らず、地下通路の換気ダクトから、ステルシスたちがいるエリアに、洪水のように流れ込んでいた。
地鳴りのようなゆらぎがだんだん大きくなり、扉に凄まじい衝撃が打ち当たる。
まだ完全に遮断していなかった扉の隙間から、凄まじい勢いで流れ込んだ水が部屋の中に侵入を始めた。
――水没。
籠城している自分達に、これ以上ない程の効果的な攻撃。
パニックを起こしている取り巻き達を見回し、ステルシスはウミガメモドキを抱えるようにして立ち上がった。
誘い込むつもりが、逆に仇になっていた。
「……さすがね。戦い慣れてる」
どこか達観したような目で、ウミガメモドキがボソリと呟く。
ステルシスは小さく息をついた。
「……仕方ありませんね。バンダースナッチを解放します。ウミ、目をつぶっていてください」
「分かった」
ステルシスの髪が重力に逆らって浮き上がりはじめ、その全体が白く輝く。
そして髪の一本一本から、虹色のゆらぎがけたたましい絶叫音とともに飛び出してきた。
◇
「成る程ね。地下に閉じこもってるなら、そのまま水で埋めてやれって、あなたも残酷なことを考えるわね」
警報が鳴り響く住宅街……。
逃げ惑う人々を眼下に見つめながら、イベリスは建物の屋上、その縁に腰を降ろしていた。
隣でラフィが淡々とした瞳をしている。
アスファルトの地面からは白い煙、そして水が亀裂から吹き出している。
地下施設の貯水タンクに細工をして爆発させたのはついさっきのこと。
市民達は散り散りに避難を始めている。
「……これで、ステルシスとあのウミガメモドキは外に出てこざるを得なくなる。水中で呼吸ができるような能力を持っているなら、また別だけど……」
ラフィはそう言って考え込んだ。
「準備はいい? おそらく、能力を展開しながら出てくると思う。認識外から攻撃されるよ」
「分かってる」
イベリスはそう言って立ち上がった。
そしてスカートの中の虹色の足を踏みしめ、水浸しになった地面を見下ろす。
次の瞬間だった。
凄まじい音を立てて、地面が爆裂した。
水柱が吹き上がり、周囲に雨のように生ぬるい水が散乱する。
まるで内側から蹴破ったかのように、アスファルトの地面が粉々になって、大穴が開いていた。
一瞬遅れて、そこから貯水タンクの水が噴水のように吹き出す。
「な……何だ!」
ラフィが思わず声を上げる。
イベリスはそれに答える間もなく、反射的に建物の屋上を蹴って空中に身を躍らせた。
二人が今までいた場所に、何か光のようなものが突き刺さった。
空中を弧を描きながら飛んできた、十数本の光の線は、まるで光線のように建物に打ち当たると、爆炎と轟音を上げて炸裂した。
「バンダースナッチ……!」
イベリスが押し殺した声を発して、足のゆらぎを伸ばして街路樹に突き刺す。
イベリスの足が伸縮し、彼女とラフィは一気に街路樹へと引き寄せられた。
枝を掴んで曲芸師のようにくるりと回り、少女は肩にラフィをしがみつかせたまま地面に降り立った。
そのまま衝撃を殺すようにゴロゴロと地面を転がりざまに、もうほとんど反射的に、という動きで足で地面を叩いて跳躍する。
今までイベリスがいた場所に、正確に虹色の光が突き刺さった。
それは一瞬膨れ上がると、たちまち豪炎と爆音を立てて炸裂した。
まるでダイナマイトでも爆発させたかのような衝撃とともに、周囲に瓦礫と土煙、砕けたアスファルトが散乱する。
「……くっ……」
歯を噛んでイベリスは、近くの建物の影に飛び込んだ。
そして体を丸めて息を殺す。
周囲には逃げ惑う市民や、爆発に巻き込まれた人々の絶叫、呻き声がこだましていた。
「お構いなくか……敵味方……!」
「しっ……」
押し殺した声を発したラフィを制して、イベリスは懐から小さな鏡を取り出した。
そしてそれを自分の顔の方に向ける。
頭上を確認し、彼女は鏡を懐にしまった。
そして無言でラフィを抱えて、ゆらぎの足を踏み出して走り出す。
間一髪だった。
彼女達が通りに飛び出し、つんのめるようにして地面を転がったのと同時に、隠れていた建物が豪炎を上げて炸裂した。
白い光がシェルターの天井を焼くほどに膨れ上がり、爆発する。
一瞬視界が見えなくなり、イベリスは小さな悲鳴を上げて顔を手で覆い隠した。
凄まじい突風と土煙が吹き荒れ、吹き飛ばされそうになったラフィが慌ててイベリスのスカートにしがみつく。
イベリスは、いまだ吹き荒れている突風の中、顔を守りながら這うようにしてマンホールに近づいた。
そして蓋をずらし、体を滑り込ませられる程の隙間を無理やり開ける。
突風が収まったのと、マンホールの蓋がずれてしまったのはほぼ同時のことだった。
◇
地下道は、他ならぬ二人の起こした貯水タンクの爆発により、濁った水でほぼ水没してしまっていた。
はしごを降り、途中から下水にためらいもなくイベリスが浮かぶ。
そして立ち漕ぎの要領で、暗い下水道を移動し始めた。
ラフィは頭上でまた大きな爆音が上がったのを聞いて、肩を小さく震わせた。
「……何だあのバンダースナッチは……アリスのものよりも破壊力と速度があるぞ」
思わず呟いて、彼はイベリスの肩の上から彼女を見た。
「よく避けられたな。僕には視認するだけで精一杯だった」
イベリスはぐちょぐちょの服から、小さなライトを取り出してスイッチを入れ、右手に構えた。
そして頭上で爆音が断続的に響いているのを確認してから口を開く。
「……あたしだって見えなかったわ。ただ、あたしがもしあのステルシスとかいう女だったら。地面から飛び出してきたら、こっちをどのように攻撃してくるか予想してただけよ」
「……流石だな。じゃあ君も、敵は見えていないのか」
ラフィが言うと、イベリスは冷たい下水道の壁に寄りかかって息をついた。
「今頃あいつらは、見失ったあたし達を攻撃して闇雲に街を破壊しはじめているわ。しばらくはここで身を潜めていた方がいいわね。確かに、あの破壊力と速さ……正面から戦うのは不利だわ……」
「かすりでもしたらアウトだな。だが分かった事はある」
ラフィは唾を飲み込んで、静かに言った。
「僕も君も、あいつらの姿を『見つけられなかった』ということは、あいつらはウミガメモドキの能力で『隠れて』いるということになる。しかし、飛来した光のようなバンダースナッチは一瞬見ることができた。どういうことか……分かるかい?」
「……つまり、ウミガメモドキの能力で認識を消すというセブンスは、限定的なもの……何らかの制約があるか……」
考え込んで、イベリスは続けた。
「……おそらく、認識を消せるものと消せないものがあるんだわ。どのくらいの数を消せるのかは分からないけれど、あの瞬間ステルシスの『バンダースナッチ』は消えていなかった。高速で飛んでくるのが見えたからね」
「僕もそう思う。多分、干渉能力が自分より強い存在……バンダースナッチとかにはセブンスを使うことができないんじゃないかな。自分が認識できないものは、消せない。簡単に言うとそういうものなのかもしれない」
「成る程ね……」
イベリスは爪を噛んで頭上を見上げた。
「……コトの真相がどうであれ、攻撃してくる瞬間はバンダースナッチを『視る』ことができる。これが鍵になればいいけど……」
息をついて、イベリスは頭上の破壊音が止んだのを感じて口をつぐんだ。
「……相手も馬鹿ではないわ。そろそろ次の手に出てくるはず」
「どうする……?」
「バンダースナッチが飛んできた場所から、おおよそのあいつらの位置は把握できてる。今、そこに向けて移動してる」
また泳ぎ始めながら、イベリスは足に意識を集中した。
ゆらぎの足が強い虹色に発光を始める。
「……こんなに強力な力を持ってるなんて、確かに『戦力を圧倒的に凌駕している』ってのたまうだけの事はあるわね。でも、戦いって単純な破壊力で決まるわけじゃないし」
イベリスはそう言って動きを止め、下水道の上を見上げた。
「あたし達の始末を狙っている相手からすると、ここまでされて逃げられるのは多分、とても癪。だからまず、逃げ道を塞ごうとするはず」
彼女がそう言った途端、轟音を立てて少し離れた場所から衝撃が走った。
下水が大きく波打つ程のうねりだった。
「……何をした……?」
青くなって口を開いたラフィに、イベリスは天井を見上げながら淡々と言った。
「多分、シェルターのこの区画……外部に出れる可能性のある場所を、破壊して回ってるんだと思う」
「逃げ場はなくなったってわけか……」
「下水道に隠れてることもすぐ気づかれるわ。でも、外部への逃げ道を塞いだのは悪手ね。これで一手稼ぐことができた」
イベリスは口の端を歪めて笑うと、スカートのポケットから小さな薬入れのような箱を取り出した。
そしてその背部のシールを剥がし、下水道の壁に押し付けて粘着させる。
「このまま一気に制圧するわよ」
彼女はそう言って、暗い表情で上を睨んだ。
「それは……?」
「ナイトメアと戦うってことは、いろんな状況を想定するってこと。これはナイトメアを殺すことはできないけど……」
イベリスは淡々とした表情で壁から離れるように泳ぎだした。
「人間を殺すことはできるわ」
「制圧すると言っても……相手の正確な位置も分からないんだぞ。それにあの破壊力だ。迂闊に近づくのは悪手じゃないか?」
「そうでもないと思うわ」
イベリスは壁からだいぶ離れたあたりで泳ぎを止め、ライトをまわりに向けた。
頭上から聞こえていた爆発音が止んでいた。
「無差別攻撃を止めたな……」
「多分地上に降りてきてる。ここもすぐ見つかるわ」
「何かしたのか?」
「マンホールの蓋をちょっとね。開けておいた」
何でもないことのようにイベリスはそう言い、ポケットから小さなスイッチのようなものを取り出して指をかけた。
「そろそろこの上を通過するはず。すぐに攻撃がはじまる」
「タイミングは?」
「大丈夫。任せて」
端的にそう言って、彼女は暗い下水道の上を見ていた。
そのゆらぎの足がざわつき、糸のように細い触手が伸びて周囲に広がる。
それはたちまち壁を覆い尽くすと、下水溝などを這って進んでいった。
「なるほど……」
ラフィは小さく呟いて言葉を止めた。
イベリスはバンダースナッチを細かく操作することができる。
おそらく、地上まで伸ばして相手の出方を探らせているのだ。
「かかった」
彼女は短くそう言い、間髪をいれずにスイッチを入れた。
次の瞬間、彼女は濁った水の中にラフィを掴んで頭を突っ込んだ。
その頭上を舐めるように、豪炎と煙が吹き上がった。
水中にまで爆発の衝撃が飛び込んできた程だった。
流れに抗うことができず、イベリスはバンダースナッチを足に戻しがてら、右足を伸ばして排水管に巻きつけた。
そして自分の体を水流から離れた場所に引き寄せる。
彼女の服にしがみついていたラフィが、バラバラと飛び散る水滴を顔に受けながら、爆音による耳鳴りの中叫んだ。
「……やったか!」
下水道は十メートル四方ほどが完全に破壊されていた。
コンクリートの破片が舞い散り、もうもうと土煙、そして熱風が吹き上がっている。
少し遅れて、抉れて開いた穴に、ドッと濁った水が流れ込み始めた。
地上の地面に当たる、下水道の天井は砕け散っており、そこからシェルターの内部が見える。
サイレンの音が響き渡っていた。
イベリスは横目でその穴を見上げてから、排水管を掴んで細い体を引き上げた。
そして砕けた穴から地上に出る。
ビルの一角が粉々になっていた。
瓦礫の端に座り込み、彼女はまたポケットから箱のような爆薬を取り出した。
そして地面に設置しようとする。
そこで、少し離れた場所から声がした。
「……イベリス……とか言いましたか? ドッペルゲンガーの子。聞いているんでしょう?」
ステルシスの声だった。
イベリスが爆弾を設置しようとしている手を止め、瓦礫に体を押し込む。
そして手鏡を取り出し、顔の脇に持ってきた。
背後、十数メートルの近距離……。
そのヒビが入った道路の真ん中に、ステルシスが一人立っていた。
ところどころ焦げて穴が空いたスカートを風に翻し、瞳をどこか異様な赤色に光らせているのが見える。
こちらの居場所には気づいていないようだ。
ウミガメモドキの姿はなかった。
能力で隠れているのか、二手に別れたか。
そこまでの判断はつかない。
「話し合いをしましょう」
ステルシスは、目だけは笑っていない……どこか狂気に包まれた穏やかな表情でそう言った。
「お互いこれ以上、無駄な争いを続けるのはやめませんか? 元はと言えば私達は『同一人物』……戦う理由などないはずです」
何か言葉を発しかけたラフィの口を無理やり抑え、イベリスは息を殺した。
反応がない周囲を見回し、ステルシスは一歩を踏み出した。
「……譲歩案を出しましょうか?」
ステルシスが静かに言った。
彼女がガレキを踏みしめて歩き回る音が、やけに大きく周囲に反響する。
「そうですね……素直に投降してくれるのでしたら、あなたの仲間、フィルレインという子の命は保証しましょう。あなた方も命までは取らないと約束します」
周りを見回し、赤く光る瞳と、ざわつく長い髪をなびかせながら、ステルシスは続けた。
「この提案を飲まない場合、私が持っている、この『システム』を破壊します」
手鏡を見ていたイベリスが軽く歯を噛んだ。
ステルシスが無造作に持っていたのは、ガラスのようなケースに入った人間の脳……イベリスのシェルターを管理していた、僧正だった。
スピーカーがついていないのか、それとももう生きてはいないのか、緑色の液体に脳が浮かんでいるのが見えるだけでそれ以上は確認ができない。
「三十秒だけ時間をあげます。しかし、私は気が短いので。それ以上は待ちません。こちらからは以上です」
カウントが始まったのか、ステルシスが足を止めた。
サイレンの音が反響している中、人々の悲鳴や絶叫が響いている。
イベリスは手鏡をポケットに仕舞って、ニヤリと笑った。
ラフィがその顔を見上げる。
彼の口から手を離し、イベリスは足に意識を集中させた。
触手のようなゆらぎが伸び、持っていた小型の爆弾を包み込む。
そしてガレキの地面を這い、ものすごい勢いで路地を迂回して背後に消えた。
またスイッチを手に取り、彼女は倒壊したビルの影に腰を落とした。
しばらくして、ステルシスがため息をついて僧正の入ったケースを掲げた。
「返答を了承しました。これより、全力であなた方を殺します」
淡々とした声だった。
そしてケースを振り上げた瞬間……。
イベリスは、ためらいもなくスイッチを入れた。
気づいていなかったのか、ステルシスの丁度背後で、先ほどと同じ規模の爆発が起きた。
豪炎と暴風。
そして砕けたアスファルトの嵐と、土煙、熱風。
火柱が吹き上がり、地面もビルも吹き飛ばし、一瞬視界が真っ赤に染まる。
手で頭を守りながら、イベリスは体を丸めた。
実に数秒間も爆発の余波は吹き上がり続け、そして生臭い風を残して霧散した。
ガス管などに引火しているのか、ところどころで火が上がっている。
天井のスプリンクラーが起動し、雨のように濁った水が降り始めた。
戻ってきたバンダースナッチが、少女の足を形成する。
イベリスは地面を踏みしめて立ち上がると、ビルの壁に背中を押し付け、路地の向こうに視線をやった。
結論から言うと、ステルシスは死んでいなかった。
銀色がかった髪をゆらゆらとなびかせ、その一本一本がまるで意思を持っているかのように奇妙な動きをしている。
彼女はその「髪」の揺らぎに守られる形でしゃがみこんでいた。
しかし完全に無傷というわけにはいかなかったらしく、立てないようだ。
爆風と爆音の直撃を受けたため、耳に異常を受けていたのだった。
三半規管が狂ってしまい、視界が回って動けないのだ。
歯を噛み締めながら、ステルシスは衝撃で霞む目をイベリスの方に向けた。
次の瞬間、イベリスの足から視認もできない早さでバンダースナッチが伸び、地面を這って彼女に殺到した。
ステルシスの髪が彼女を守るように動き、双方が衝突して金切り声の高音を発する。
辺りが真っ赤に染まるほどの火花が散った。
地面を裸足の足で踏みしめながら、イベリスは歯を噛んだ。
(強い……すごい力だ。何なのコレ……)
心の中で小さく舌打ちをする。
相当の痛手は受けているはずなのだが、それでも尚ステルシスのバンダースナッチの力は強かった。
明らかにイベリスのものよりも「鋭い」のだ。
自分のバンダースナッチ達にヒビが入り始め、同時にイベリスの存在しない脚に激痛が走った。
「ぐ……ッ」
小さな声で呻いて、イベリスはよろめいた。
そのほんの少しのスキが決定打だった。
相手のバンダースナッチがそれを見逃さず、機関銃のように高速でイベリスに殺到する。
耳がおかしくなるほどの爆音、そして火花。
イベリスを守るように、彼女のバンダースナッチは丸い膜を形成していたが……そこに攻撃が突き刺さるたびに絶叫が迸った。
「破られるぞ……!」
ラフィが青くなって声を上げる。
踏ん張っていたイベリスだったが、徐々にズリズリと押されて下がり始めた。
次の瞬間、ステルシスの髪が大きく広がった。
そして空中に長く伸び、斜めの角度からイベリスもろとも、周囲のビル群や道路までもを巻き込んで削り消し始めた。
周囲のガレキが散乱し、たまらずイベリスは態勢を崩した。
そこで、隣のガス管に火花が引火した。
気づいた時には遅かった。
イベリスとラフィを横殴りに爆炎が吹き飛ばした。
反射的にといった具合で、イベリスのバンダースナッチが広がり、彼女の体を爆風から守る。
そこで、ステルシスの凶器が彼女の右手を薙いだ。
◇
ドチャリ、と異様な音を立ててイベリスが地面に転がった。
ラフィも地面に叩きつけられ、霞む視界でまわりを見る。
何が起こったのか、全く分からなかった。
彼には、自分達が吹き飛ばされたのがステルシスの攻撃によるものなのか、それとも別の何かによるものなのか……その判断さえも出来なかった。
ただ、目に映ったのは。
左手で右肩を押さえ、砕けんばかりに歯ぎしりをしながらなんとか立ち上がろうとしているイベリスの姿だった。
「……イベリス……?」
呆然と呟いて、青くなって大声を上げる。
「イベリス! 血を止めるんだ!」
彼女の右腕が、肩口からなくなっていた。
何か鋭利な刃物で切断されたかのように、綺麗に真っ二つになっている。
地面には、先程までイベリスのものだったそれが、無残な「モノ」として転がっていた。
噴水のように右肩から血液が溢れ出している。
動転しているのか、それを左手で何とか抑えようとしてから、イベリスは歯を噛み締めて何とか意識を集中させた。
バンダースナッチが一拍遅れて動き、彼女の右腕の欠損部分にまとわりつく。
傷口を締め上げているのか、陰惨なうめき声を上げながら、イベリスは立ち上がろうとして失敗し、地面に崩れ落ちた。
「あ……あ……が……」
言葉が出ないらしかった。
体をブルブルと震わせ、彼女は残っている左手で地面を掻いた。
両足のバンダースナッチが白く明滅している。
――消えかけている。
その事実に気がついて、ラフィは大声をあげた。
「集中するんだ、イベリス! 今気絶したら確実に負ける!」
「わ……わかって…………る……」
ギリギリと歯ぎしりをしながら、イベリスは爪をガレキの地面に立てた。
そして血走った目で前を睨みつける。
視線の先には、ステルシスが同様に脇腹を抑えてしゃがみこんでいた。
彼女の白い服に、じわじわと赤い血が広がっていく。
そこでやっと、ステルシスの取り巻きの男女が、手に大型の電撃銃を構えて駆けつけた。
そして少し離れた場所に整列してイベリスとラフィに銃口を向ける。
ステルシスは額に大粒の汗を浮かべながら、鼻を鳴らして笑った。
「……私の勝ち……ですね。正面を切って戦おうとするなんて、何と愚かな……」
「…………」
痛みで震えているイベリスの腕を見て、続けて彼女は自分の脇腹を見た。
かなり深く抉れているようだ。
「まさか、防御が無理だと判断した瞬間に捨て身に出るとは思いませんでした……私のバンダースナッチを掻い潜って、そちらのモノを飛ばしてくるとは……」
双方動けない様子だったが、ステルシスの取り巻き達が、銃を構えながらジリジリと近づいてくる。
「……勝ち……? あたしはまだ負けてないわ……」
イベリスが吐き捨てるように言うと、ステルシスは嘲りの声を上げた。
「その深手でどうしようというのです? 痛みで動けもしないのでは?」
「…………」
「それに、あなた方には最初から万が一にも勝算はないのですよ」
喉を鳴らして断言し、ステルシスは近づいてきた男に支えられて立ち上がった。
手で脇腹から流れ落ちている傷口を抑えている。
「ウミ、いいかしら……?」
彼女がそう言うと、途端、ステルシスの脇の空間が水面のように揺らいだ。
そして何もない空間から突如、ウミガメモドキが現れて地面を踏みしめる。
ナイトメアは、まるでゴミを見るかのようにイベリスとラフィを一瞥してから、ステルシスの方を向いた。
「……随分暴れたね」
「目的は達しました。上々です」
そう言うステルシスの脇腹に、ウミガメモドキは手をかざした。
血がみるみるうちに止まっていき、ステルシスの青かった顔色が元に戻っていく。
「……何だと……?」
ラフィが小さく呟く。
ウミガメモドキの能力は、「モノを隠す」ということのはずだ。
しかし先程も、何もない空間から現れたように見える。
「……まさか……複合的なセブンスを持ってるのか……?」
もし、ウミガメモドキの能力がひとつではないとしたら。
自分達は、最初からとんでもない思い違いをしていたのではないだろうか。
「……あら? 意外でした?」
ステルシスはウフフ、と小さく笑って、パンパンと服の埃を払った。
そしてボロボロの布切れのようになったそれを風にひるがえしながら続ける。
「よく知りもしないあなた方に、どうして私達が自分の能力を馬鹿正直に明かすと思うんです?」
「…………」
イベリスがギリギリと歯を噛みながら唾を飲む。
「あなた方の中枢システムがすでに『死んでいた』のを見抜いたのは流石でしたけれど、お分かりいただけました? 勝ち目はありません」
ステルシスは、赤く光る瞳を細めて笑った。
「さて……火急速やかに諦めて、殺されてください」結論から言うと、ステルシスは死んでいなかった。
銀色がかった髪をゆらゆらとなびかせ、その一本一本がまるで意思を持っているかのように奇妙な動きをしている。
彼女はその「髪」の揺らぎに守られる形でしゃがみこんでいた。
しかし完全に無傷というわけにはいかなかったらしく、立てないようだ。
爆風と爆音の直撃を受けたため、耳に異常を受けていたのだった。
三半規管が狂ってしまい、視界が回って動けないのだ。
歯を噛み締めながら、ステルシスは衝撃で霞む目をイベリスの方に向けた。
次の瞬間、イベリスの足から視認もできない早さでバンダースナッチが伸び、地面を這って彼女に殺到した。
ステルシスの髪が彼女を守るように動き、双方が衝突して金切り声の高音を発する。
辺りが真っ赤に染まるほどの火花が散った。
地面を裸足の足で踏みしめながら、イベリスは歯を噛んだ。
(強い……すごい力だ。何なのコレ……)
心の中で小さく舌打ちをする。
相当の痛手は受けているはずなのだが、それでも尚ステルシスのバンダースナッチの力は強かった。
明らかにイベリスのものよりも「鋭い」のだ。
自分のバンダースナッチ達にヒビが入り始め、同時にイベリスの存在しない脚に激痛が走った。
「ぐ……ッ」
小さな声で呻いて、イベリスはよろめいた。
そのほんの少しのスキが決定打だった。
相手のバンダースナッチがそれを見逃さず、機関銃のように高速でイベリスに殺到する。
耳がおかしくなるほどの爆音、そして火花。
イベリスを守るように、彼女のバンダースナッチは丸い膜を形成していたが……そこに攻撃が突き刺さるたびに絶叫が迸った。
「破られるぞ……!」
ラフィが青くなって声を上げる。
踏ん張っていたイベリスだったが、徐々にズリズリと押されて下がり始めた。
次の瞬間、ステルシスの髪が大きく広がった。
そして空中に長く伸び、斜めの角度からイベリスもろとも、周囲のビル群や道路までもを巻き込んで削り消し始めた。
周囲のガレキが散乱し、たまらずイベリスは態勢を崩した。
そこで、隣のガス管に火花が引火した。
気づいた時には遅かった。
イベリスとラフィを横殴りに爆炎が吹き飛ばした。
反射的にといった具合で、イベリスのバンダースナッチが広がり、彼女の体を爆風から守る。
そこで、ステルシスの凶器が彼女の右手を薙いだ。
◇
ドチャリ、と異様な音を立ててイベリスが地面に転がった。
ラフィも地面に叩きつけられ、霞む視界でまわりを見る。
何が起こったのか、全く分からなかった。
彼には、自分達が吹き飛ばされたのがステルシスの攻撃によるものなのか、それとも別の何かによるものなのか……その判断さえも出来なかった。
ただ、目に映ったのは。
左手で右肩を押さえ、砕けんばかりに歯ぎしりをしながらなんとか立ち上がろうとしているイベリスの姿だった。
「……イベリス……?」
呆然と呟いて、青くなって大声を上げる。
「イベリス! 血を止めるんだ!」
彼女の右腕が、肩口からなくなっていた。
何か鋭利な刃物で切断されたかのように、綺麗に真っ二つになっている。
地面には、先程までイベリスのものだったそれが、無残な「モノ」として転がっていた。
噴水のように右肩から血液が溢れ出している。
動転しているのか、それを左手で何とか抑えようとしてから、イベリスは歯を噛み締めて何とか意識を集中させた。
バンダースナッチが一拍遅れて動き、彼女の右腕の欠損部分にまとわりつく。
傷口を締め上げているのか、陰惨なうめき声を上げながら、イベリスは立ち上がろうとして失敗し、地面に崩れ落ちた。
「あ……あ……が……」
言葉が出ないらしかった。
体をブルブルと震わせ、彼女は残っている左手で地面を掻いた。
両足のバンダースナッチが白く明滅している。
――消えかけている。
その事実に気がついて、ラフィは大声をあげた。
「集中するんだ、イベリス! 今気絶したら確実に負ける!」
「わ……わかって…………る……」
ギリギリと歯ぎしりをしながら、イベリスは爪をガレキの地面に立てた。
そして血走った目で前を睨みつける。
視線の先には、ステルシスが同様に脇腹を抑えてしゃがみこんでいた。
彼女の白い服に、じわじわと赤い血が広がっていく。
そこでやっと、ステルシスの取り巻きの男女が、手に大型の電撃銃を構えて駆けつけた。
そして少し離れた場所に整列してイベリスとラフィに銃口を向ける。
ステルシスは額に大粒の汗を浮かべながら、鼻を鳴らして笑った。
「……私の勝ち……ですね。正面を切って戦おうとするなんて、何と愚かな……」
「…………」
痛みで震えているイベリスの腕を見て、続けて彼女は自分の脇腹を見た。
かなり深く抉れているようだ。
「まさか、防御が無理だと判断した瞬間に捨て身に出るとは思いませんでした……私のバンダースナッチを掻い潜って、そちらのモノを飛ばしてくるとは……」
双方動けない様子だったが、ステルシスの取り巻き達が、銃を構えながらジリジリと近づいてくる。
「……勝ち……? あたしはまだ負けてないわ……」
イベリスが吐き捨てるように言うと、ステルシスは嘲りの声を上げた。
「その深手でどうしようというのです? 痛みで動けもしないのでは?」
「…………」
「それに、あなた方には最初から万が一にも勝算はないのですよ」
喉を鳴らして断言し、ステルシスは近づいてきた男に支えられて立ち上がった。
手で脇腹から流れ落ちている傷口を抑えている。
「ウミ、いいかしら……?」
彼女がそう言うと、途端、ステルシスの脇の空間が水面のように揺らいだ。
そして何もない空間から突如、ウミガメモドキが現れて地面を踏みしめる。
ナイトメアは、まるでゴミを見るかのようにイベリスとラフィを一瞥してから、ステルシスの方を向いた。
「……随分暴れたね」
「目的は達しました。上々です」
そう言うステルシスの脇腹に、ウミガメモドキは手をかざした。
血がみるみるうちに止まっていき、ステルシスの青かった顔色が元に戻っていく。
「……何だと……?」
ラフィが小さく呟く。
ウミガメモドキの能力は、「モノを隠す」ということのはずだ。
しかし先程も、何もない空間から現れたように見える。
「……まさか……複合的なセブンスを持ってるのか……?」
もし、ウミガメモドキの能力がひとつではないとしたら。
自分達は、最初からとんでもない思い違いをしていたのではないだろうか。
「……あら? 意外でした?」
ステルシスはウフフ、と小さく笑って、パンパンと服の埃を払った。
そしてボロボロの布切れのようになったそれを風にひるがえしながら続ける。
「よく知りもしないあなた方に、どうして私達が自分の能力を馬鹿正直に明かすと思うんです?」
「…………」
イベリスがギリギリと歯を噛みながら唾を飲む。
「あなた方の中枢システムがすでに『死んでいた』のを見抜いたのは流石でしたけれど、お分かりいただけました? 勝ち目はありません」
ステルシスは、赤く光る瞳を細めて笑った。
「さて……火急速やかに諦めて、殺されてください」
追い詰めた、と思っていたが一転して絶体絶命だった。
自分達の読みが甘かったのだ。
まさか、ここまでステルシスの力が「強い」とは思わなかったのが大きな敗因だった。
追い詰めてからの押し返しが強すぎた。
自分達が想定していたレベルの敵なら、あの場で仕留められていたはずだ。
――しかし結果は結果。
自分達は、ここで殺される。
負けたのだ。
完膚なきまでに。
立ち上がろうとして失敗し、顔面から地面に崩れ落ちたイベリスに這うように近づき、ラフィは歯を噛んだ。
彼女のバンダースナッチは、辛うじて保たれている状況だ。
止血をするのに精一杯で、今にも消えそうなほど明滅している。
いや、消えるだけならまだいい。
イベリスは損傷を受けすぎた。
このままでは……。
ラフィは唾を飲み込んでから、腕組みをしてこちらを見ているウミガメモドキと、ボロボロの服を気にしながら立っているステルシスを見て、イベリスを守るように地面に立った。
そして声を張り上げる。
「……お前は……完全なナイトメアだな!」
それを聞いて、ステルシスの顔に浮かんでいた微笑が引きつった。
彼女はイベリスにトドメを刺そうと近づいていた周囲の男女を手を上げて静止すると、横のウミガメモドキを見た。
「どうします、ウミ?」
「……ステルの好きなようにすればいいよ。死ぬ前に捕まえて、生きたまま頭か胸を開いて食べればいい」
「ウミはいいの?」
「何だか嫌な気分。予感と言うか……私はいい」
ウミガメモドキは早口でそう言うと、そっと後退した。
その後ろの空間が水面のように揺らぐ。
「待て!」
ラフィは青くなって叫んだ。
今ウミガメモドキに、謎の能力で隠れられたらそれこそ本当に勝機はなくなる。
意外なことに、ウミガメモドキは足を止めると腕を組んでラフィを見た。
その目が怪訝そうに彼を凝視している。
「…往生際が悪いね。何か言いたいことでもあるの?」
吐き捨てるように言われ、ラフィは押し殺した声で彼女に言った。
「……妙だな」
ラフィにそう言われ、ウミガメモドキは首を傾げた。
「……何が?」
「お前とステルシス……僕達は、お前がオリジナルナイトメアで、ステスシスがアリスのドッペルゲンガーかと思っていた。だが、そこからして大きな間違いだったんだ」
「…………」
ウミガメモドキの顔色が変わった。
それを見て、ステルシスが歯噛みする。
周囲の男女が困惑したように自分達を見たのを確認し、ステルシスは遮るように大声を上げた。
「撃ち殺しなさい!」
「オリジナルナイトメアはお前もだな、ステルシス!」
周囲の男女が一斉に銃を構える。
ラフィは絶叫のような大声を上げた。
「お前も本物の『ナイトメア』、『人間の敵』だ!」
「構いません、やりなさい!」
ヒステリーを起こしたようにステルシスが怒鳴る。
瞬間、電撃銃の爆音が周囲をつんざいた。
◇
頭上で爆音が連続して響き、パラパラとガレキの砂煙が降ってくる。
フィルレインは薄暗い地下トンネルの片隅で、アリスを抱いてうずくまっていた。
もう、体力的にも限界だった。
先程から何度もイベリスの携帯端末にコールしているが、応答がない。
まさか……。
やられてしまったのか……?
イベリスも、ラフィも。
心の中にドス黒い不安が広がる。
一瞬、あの人間工場のように、四肢を切断されて吊り下げられ、事切れたイベリスの姿が脳裏をよぎった。
首を振って眠気と疲れ、そして恐怖を振り飛ばしてから、フィルレインは震えているアリスに呼びかけた。
「アリス様……もっと離れましょう? ここは危険です」
「…………」
アリスはブツブツと、虚ろな瞳で何かを呟いていた。
彼女の潰れた右目から、包帯越しに血が滲み、残った左目の焦点が合っていない。
先程からずっとこの状態なのだ。
彼女の口元に耳をやると、誰かと話しているのか、ぼんやりとした声で
「……うん……うん……うん……」
と定期的に頷いているのが聞こえる。
フィルレインは唾を飲み込むと、アリスの肩を掴んで乱暴に揺さぶった。
「しっかりしてください!」
彼女の絶叫が、地下道に響き渡った。
ウワンウワンと反響した声がアリスの鼓膜を打ったのか、彼女は顔を上げて、左目でフィルレインを見た。
その瞳に段々色と焦点が戻ってくる。
「……フィル……?」
「…………」
フィルレインは大粒の涙と鼻水を流して嗚咽していた。
歯を噛み締めて息を何度も吐き出してから、彼女はアリスの服にしがみついた。
「……しっかりしてください……アリス様……」
「……どうして……泣いているの……?」
ぼんやりとした声で問いかけられ、フィルレインはポツリポツリと呟くように言った。
「……イベリス様も……ラフィさんも……戦っています。もう……殺されてしまったかもしれません……連絡がつかないんです……」
「…………」
「しっかりしてください……お願いします。ここから逃げなきゃ……早く、早く逃げなきゃいけないのに……」
フィルレインは目を閉じてボロボロと涙を流し始めた。
言葉にならなかったらしかった。
アリスは残った左目で彼女を見ていたが、やがて息をつき……そしてそっと微笑んだ。
「大丈夫だよ、フィル」
優しく言葉をかけられ、フィルレインは涙と鼻水でズルズルの顔を上げた。
そしてアリスを見つめる。
「え……?」
「大丈夫。二人は死なないし、私達も死なない。だって、私が守るもの」
憔悴した顔でアリスは微笑んでから、ゆっくりと緩慢に立ち上がった。
その右目から青白いバンダースナッチが、湯気のように立ち上り始める。
包帯が焦げ始め、真っ黒い「空洞」が顕わになった。
フィルレインは一拍後、呆然としてからアリスの手を掴んだ。
「いけません、アリス様! 力のみでどうにかなる相手ではないということです。ここは逃げなくては!」
「分かってる。だから『お話』をしてたんだ」
アリスはそう言って、フィルレインの手を握り返した。
「迎えに行かなきゃ……ジャックさんを」
◇
爆風で鼓膜が弾け飛んだのが分かった。
抗えない力の渦に吹き飛ばされ、捻り切られ、体の端々までが千切れ飛んでいく。
霞んだ真っ赤な視界の端に、ナイトメアが同様の肉片になって飛び散っていくのが見えた気がした。
――赤の女王。
オリジナルナイトメア。
倒した……のか?
おぼろげな思考の中で、ジャックはそう思った。
――否。
違う。
倒していない。
まだ、ヤツは生きている。
落盤の崩落に巻き込まれ、バラバラになっていく赤の女王。
ジャックは血走った目で、落下しながら右手に握るダーインスレイブを見た。
骨が浮いたボロボロの手。
千切れ飛んでいく自分の体が、やけに客観的に認識できる。
しかし、思考は驚くほどクリアだった。
まるで、この体が自分の体ではないような……。
そう思った瞬間だった。
目玉だけになった赤の女王のそれがギョロリと動き、ジャックを見た。
そして頭の中に突き刺さるように、グオングオンと響く金切り声が、崩れていく地盤の中に轟いた。
「人間ンンンン! ちっぽけなァァァア! 人間のくせにィィィィイイ!」
狂気を孕んだ絶叫だった。
血走った目玉がギョロギョロと動き、そこからどす黒い沼が噴出する。
――ダメだ。
今こいつを、再び地上に向かわせたら。
イベリスが。
……アリスが!
(行かせない……)
ジャックは砕け散った歯を噛んだ。
粉々になった手で、ダーインスレイブを握りしめた。
(絶対に……行かせない!)
その鼻、そして目から垂れていた真っ赤な血液が、徐々に黒く変色していく。
それは崩壊した世界が流す雨。
そのヘドロの色に酷似したモノだった。
「いがセナアァァァァァア!」
言葉にならない絶叫を、ヘドロとともにジャックは吐き出した。
瞬間、握っていたダーインスレイブが黒く、鈍い光を発した。
その柄の部分が粘土のようにぐんにゃりと歪み、ジャックの右手も同時にドロリと溶け、柄と一つに交わる。
「ガアアアアアアアア!」
猛獣のように絶叫しながら、ジャックはダーインスレイブに喰われるように吸い込まれていった。
彼の体が完全に掻き消える刹那、その見開いた目玉が赤の女王を睨みつける。
『コロス!』
ジャックの声……やけにノイズを含んだ、ザラザラしたそれが轟音で崩れる空間に響いた。
赤の女王が、自然落下しながら黒く光るダーインスレイブを見て青ざめる。
「人間ンンンン! 何ヲヲヲ! 何ヲシタアアアア!」
空中に浮かんでいたダーインスレイブが、何かに振り抜かれるように大きく横薙ぎに回転した。
それが起こした強大な斬撃に薙がれ、赤の女王の二つの目玉が両断されて弾ける。
同時に、ナイトメアの核……オレンジ色の球体が右目の奥から弾け飛んできた。
ダーインスレイブがひときわ白く輝き、核を寸分違わずの軌道で両断する。
周囲の空間に、赤の女王の陰惨な断末魔が響き渡った。
(ああ……アリス……)
落下しながら、ジャックは自分がもはやどこにいるのかも分からない思考の中、ぼんやりと思った。
(アリスの所に……行かないと……)
そこで、ジャックの意識は黒い渦に飲み込まれ、そして消えた。
◇
どれくらい時間が経ったのだろうか。
それすらもジャックには分からなかった。
いや、自分はそもそも「ジャック」という人間なのか。
彼には、それを思い出すことさえできなかった。
……考えてみれば。
自分は何なんだろう。
いつからこの崩壊した世界にいる?
いつ、ナイトメアに家族を殺された?
ナイトメアを憎んでいるのは、いつからだ?
分からない……。
その「過去」の部分だけがスッポリと、空洞のように抜け落ちている。
そこで、パチッ、と音がして視界の端に白く明かりがついた。
そこは黒い、果てしなく黒い海の底のような空間だった。
どろどろしたヘドロのようなものがたゆたっていて、周囲を、ジャックの体を気持ち悪く包んでいる。
不思議と息苦しくはない。
両手を見る。
薄ぼんやりとした空間の中、見える。
ちゃんと存在している。
ちぎれ飛んでいる箇所もないようだ。
服はまとっていないようだが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
――どこだ、ここは……?
そう思った視界に、ヘドロの海の中に一つだけ、電源がついた小さなブラウン管のテレビが浮かんでいるのが見えた。
少し迷った後、泳ぐようにしてそれに近づく。
ブラウン管の画面には、砂画面が映し出され、ノイズ音が流れている。
「おめ……とう。おめ……う」
そのノイズに紛れ、うっすらとくぐもった男性の声が聞こえた。
耳を凝らすと、段々はっきりと鼓膜を打ってくる。
「名誉ある……死……おめで……う。三百四十五番……」
――何だ? 何の話だ?
ジャックは口を広げて怒鳴った。
彼の声はヘドロに吸い込まれて、不愉快に消えていった。
ブラウン管の奥の「声」はケタケタと耳障りに笑うと、ゆっくりと嘗めるように続けた。
「君……選択……権利……君には……選ぶ自由が……る」
ところどころノイズが強くて、よく聞こえない。
「この……ま……死ぬ……? それ……も、生きた……か……?」
死ぬか、生きるかと聞いているのか?
訳が分からなくなり、ジャックは再び怒鳴った。
――ここはどこだ! お前は誰だ!
「……私の名……ルイスだ。好きに呼……といい。三百四十五番……君は死んだ……だよ。選べ……時間はあ……ない」
――私が……死んだ……?
脳裏に、赤の女王の断末魔がよぎる。
その後自分は……落下して……。
そこから先の記憶がない。
訳がわからなくなり沈黙したジャックに、ブラウン管の向こうの「ルイス」はもう一度言った。
「選べ……選択……時間……ない。早……」
生きるか、死ぬか。
それをどうしてここで決めなければならないのか。
この「ルイス」というノイズの音の外にいる男は何なのか。
三百四十五番?
自分のことか?
ここはどこだ?
どうしてしまったんだ?
何が起こった?
頭の中を沢山の疑問符と質問が踊り狂う。
しかし、それを言葉にしようとした時、ジャックは本能的に口をつぐんだ。
何故だか、「余計な言葉」を発してはいけないような気がしたのだ。
ブラウン管の奥の存在も沈黙し、しばしの間ヘドロの空間に、耳障りなノイズ音だけがこだまする。
――一つだけ質問させてくれ。
ジャックは沈黙の末、押し殺すようにそう言った。
ルイスは少し考えてから答えた。
「……だろう。言いたまえ」
――赤の女王は死んだのか?
ジャックの問いに対し、彼は小さくクククと笑ってから言った。
「死んだ。君……殺したよ。データ『二千五十八D-37タイプ』は、君……した、データ『二千八百五十二D-48タイプ』の演算処理能力……り、完全……デリートされた」
小さな笑いが、次第に大きなケタケタ笑いに変わっていく。
ルイスはゲラゲラと笑いながら、手を叩いているのかパンパンという音とともに、喚くように続けた。
「見事……ああ、見事だ! 君達『ダスト』が、『オリジナル』をデリート……初めての例だ。その健闘を……君に、『ご褒美』をあげようと思って……している」
ところどころ聞こえない。
……「ダスト」?
……「オリジナル」?
何をどう指しているのか、ジャックにはよく分からなかった。
しかし、この「ルイス」という存在が言うことによると、赤の女王は死んだと取っていいようだ。
心の中で深く安堵し、ジャックは小さく息をついた。
その、困惑のさなかにいた目に再び光が戻ってくる。
彼はまっすぐにブラウン管のテレビを見つめると、砂嵐の画像に向かって言った。
――私は行かなければ。アリスを助けに。
「なるほど……」
ルイスはそう答えると、面白そうに声を弾ませながら続けた。
「君……データを修復する。しかし、生命保存の法則により、君の……は喪失している。よって、現存しているデータ『二千八百五十二D-48タイプ』の残骸に……の、コアデータをダウンロードしよう」
……何を言っている……?
発しかけた言葉を無理矢理に飲み込む。
そこで、ザザ……という音と共にブラウン管に一瞬だけ何かが映った。
目を凝らして砂画面を見る。
そこに映し出されていたのは、研究室のような虫かごと瓶が、壁の棚に一列に並んだ狭い部屋だった。
正面の椅子に、ニコニコと不気味な……能面のような笑顔を顔に張り付かせた初老の男が座っていた。
白髪をオールバックにまとめている男だった。
彼はニッコリと笑うと、ジャックの方に手を伸ばして何かのツマミを回す動作をした。
しかし、ジャックの視線はその「ルイス」には向かっていなかった。
一点を凝視して停止する。
壁の棚。
その一面に並んでいるビンに入っているのは。
――脳。
人間の脳だ。
コードのようなものを接続され、中に満たされた何かの液体の中に浮いている。
さながら僧正のような形になった脳が、ルイスの周囲の棚に所狭しと並んでいる。
そして手前の棚……。
そこには虫かごが並んでいて。
中には、大小様々なネズミ……白い体毛のモルモット達が震えていた。
そのモルモット達の頭にもコードのようなものが……。
そこまで見たジャックの目の前で、ルイスは満面の笑みでツマミを押した。
「それじゃ、頑張って」
何故かその声だけはっきりと聞こえた。
ジャックの体中に悪寒が走る。
本能的に理解したのだ。
こいつは。
この「男」は……。
違う、「神」ではない。
こいつは、「悪魔」だ。
そう、私はこいつの名前を知っている。
この男……ルイス。
「ルイス・キャロル」とは。
アポカリクファ……。
こいつは、「アポカリクファの終焉」だ。
◇
気づいた時、ジャックは泥の中に横たわっていた。
頭のどこかにもやがかかったように、少し前のことを思い出そうとしても、何かに思考がかき消されるようになってしまい、考えることができない。
(どこだ、ここは……)
目を見開いて……閉じる。
否、閉じようとしてジャックは「瞬き」ができない事に気がついた。
ずっとカメラの視界のように、周囲の空間が広く見えている。
段々、「悪寒」が現実味を帯びてくる。
揺らぐ視界に、広げた手を見る。
ガチャガチャという金属音。
――金属音?
そこは、薄暗い塹壕のような空洞の中だった。
声を発しようとして、ジャックは自分に「口」がないことに気がついた。
呼吸も……していないのか……?
愕然として、震える手から視線を離して後ずさる。
金属音。
重い何かが動く音。
(何だ……何だ!)
パニックになって、背中を崩れたガレキに打ち当てる。
そこでジャックは上を見上げた。
はるか上空に、バチバチと千切れたケーブルが跳ね回り帯電しているのが見える。
崩れ去った岩盤の最下層。
目の前には黒い水の濁流が流れている。
よろめきながら、ジャックは黒い水に近づいた。
かなり暗いはずなのだが、瞬きもできない視界にははっきりと反射している「自分」が映った。
ジャックは声にならない絶叫を上げた。
手前の水たまりに映っていたのは。
白銀に輝く無骨な鎧の塊。
――白騎士。
そう、そこには白騎士が立っていた。
鎧兜の奥で真っ赤な目が光っている。
手で顔を覆う。
汚物の水たまりに映る「白騎士」も顔を覆い後ずさる。
あいつは……!
「ルイス」は……!
もしかして……もしかして!
やけにクリアな視界に、腰の鞘に収まっているダーインスレイブが映る。
――「白騎士」として、自分を生き返らせたのではないか。
ゾッとして、存在しない心臓が止まりそうになった。
◇
多数の銃口に囲まれているのが分かる。
それらすべてが自分達を向いているのも分かる。
イベリスは残った左腕で地面に爪を立て、砕けんばかりに歯を噛み締めた。
体中を、跳ね回るようにバンダースナッチが蠢いているのが分かる。
痛い。痛い。痛い。痛い。
痛すぎて視界が真っ赤に明滅する。
それは腕を切り落とされたからではなかった。
バンダースナッチが、イベリスの体から逆流して「外」に逃げていこうとしているのだ。
つまり、イベリスという「宿主」の「死」の臭いを感じ取ったバンダースナッチ達は、彼女の体を放棄することを選び。
イベリスは、その逆流の直撃を受け、体の内部から裂かれるような猛烈な痛みに、体を痙攣させていたのだ。
とても、それらを操るような余裕はなかった。
言うことを聞かない。
……こいつらは。
この「生き物」達は。
もう、私のことを見捨てて別の宿主を探すつもりだ。
イベリスは必死に体の中にバンダースナッチを押し込もうとした。
しかし脳をかき回されるような絶叫……ノイズが頭を反響し、悲鳴を上げてのたうち回る。
「早く! 撃ち殺しなさい!」
ステルシスがヒステリックに喚いている。
その脇で、目を見開いて口元に手を当て、ウミガメモドキが後ずさった。
その様子を見て、イベリスはやっとラフィが口走った言葉の意味を理解した。
そうだ。
……あれは。
違う。
最初から、「仲間」なんていなかった。
ステルシスという存在は、既に。
「殺されて」いるんだ。
そこまで思考してから、真っ赤に染まった視界の中で残った左腕に意識を集中させる。
だとしたら……。
だとしたら、今だ。
今、殺らないと……。
私達は、勝てない。
僅かに言うことを聞くバンダースナッチが指先に集まる。
そこで彼女は、電撃銃が連続して射撃音を発するのを聞いた。
◇
その瞬間、何か白い閃光のようなものが空中に跳ね上がった。
それはイベリス達とステルシス達を分断するように地面の下から吹き上がると、それでも足りずにシェルターの天井に突き刺さって、轟音を上げて爆発した。
バラバラと鉄骨や鉄煙が撒き散らされる。
何か金属がひしゃげるような音が連続して聞こえる。
青白い電撃銃の火花がそこかしこに飛び散る。
イベリスは赤く染まっている視界を必死に上に向けた。
真っ二つに裂けた地面から、白銀に輝く鎧の腕のようなものがせり上がった。
それは、地面の中というよりは空間それ自体……まるで、別の場所から空気を切り裂いて出てきたかのような異様な光景だった。
空間の端を、その「腕」は掴むと、ズズ……と巨体を引きずり出した。
(……あれは……)
薄れていく視界に、必死に捉えようとする。
――白騎士!
殺したはずのナイトメアが、兜の奥の瞳を真っ赤に明滅させながら、空間の裂け目から体を抜き出す。
その左腕に抱かれるように、アリスとフィルレインがいた。
フィルレインは唖然とした顔で白騎士にしがみついている。
アリスがステルシスに向けて右手を真っすぐ伸ばしていた。
彼女のバンダースナッチが盾のように半球状に広がり、電撃銃の一斉射撃を難なくいなす。
シェルターの天井……その一部の鉄骨が砕けて街に落下する。
口々に悲鳴を上げたステルシスの取り巻き達に向けて、アリスは瞳孔が半ば拡散した、無機質な表情で人差し指を伸ばした。
そして片手でピストルのような形を作り、半開きになった口から、声にならない「絶叫」を絞り出す。
高密度で圧縮されたそれら「バンダースナッチの塊」は、アリスの指先で真っ黒い「何か」を形成した。
渦巻く、おぞましい「何か」だった。
唖然として停止しているステルシスとウミガメモドキ。
そして兵士達全てに向かい、アリスは思考する間も、躊躇することも何もなく、それを撃ち放った。
白騎士に抱えられたアリスから放たれた「何か」が、鼓膜を破壊するほどの超高音を発しながら、回転して一瞬で前方数百メートル範囲に、放射状に広がった。
射線上にあったすべての建物も、道路も、人でさえも。
何もかもが削れ、絶叫音と共に「なくなっ」た。
右目の空洞から青白い煙を発したアリスが、すり潰されてミンチとなった兵士達「だったもの」がバラバラと空中から降り注ぐ中、淡々とした表情で白騎士の腕から地面に降りる。
そして横目でイベリスを見た。
フィルレインがそこでやっと我に返り、白騎士の腕を飛び降りて、意識を失っているイベリスに駆け寄る。
「イベリス様! イベリス様!」
泣き喚くように悲鳴を上げ、フィルレインは無残に腕が両断され、傷口から血を垂れ流しているイベリスを抱く。
アリスは歯を噛んで、しかし削れた空間にドチャリドチャリと肉片の雨が降る光景を見ながら、白騎士の脇に移動した。
そして口を開く。
「……にがした?」
「そのようだな」
白騎士からくぐもった声が流れ出す。
それを聞いて、ラフィが目を見開いた。
黒猫はアリスの足元に移動すると、彼女を見上げた。
「アリス……なのか? それに、そっちは……」
「話は後だ、ラフィ。敵はまだこの近くにいるようだ」
白騎士がラフィの名を呼んで、アリスと背中合わせになるように腰を落とし、ダーインスレイブを構える。
「ジャック……! どうして……」
「ラフィ、下がって」
アリスが冷静な、淡々とした声でラフィに言う。
傷だらけの黒猫は、よろめくようにしてイベリスの手当をしているフィルレインの方に下がった。
ジャック、と呼ばれた白騎士が、赤い目を周囲に向けながら言う。
「アリス、何かを感じるか?」
「……何も感じない。でもいる。バンダースナッチがうるさいもの」
「なるほど。そういうセブンスか」
彼女達が短くやりとりをした瞬間。
白騎士が、人間には到底出来ない反応速度で巨体を動かした。
そしてアリスを庇うように体を反転させ、両手に持ったダーインスレイブを大上段に振り下ろす。
先程「削った」反対側のビルの屋上から、ステルシスのバンダースナッチが、絶叫しながら凄まじい勢いで殺到していた。
光のように飛来したそれらが、ダーインスレイブの一閃を受けて、ガラスが割れるような音を立てて砕け、飛散した。
ビルの方から陰惨な悲鳴が聞こえた。
「……当たったな」
「うん」
ジャックとアリスが落ち着いた声音で言葉をかわす。
アリスはまた指をピストルの形にして、悲鳴が聞こえた屋上に向けた。
次の瞬間、躊躇も何もないバンダースナッチの一撃が「そこ」を薙いだ。
何か得体の知れない「おぞましいもの」の集合体に、ビルが根本から粉になって削られて吹き飛ぶ。
「やったか?」
「うぅん。また逃げたみたい。でも近くにいる。諦めてないと思う」
アリスは右目から青白い煙を吹き出しながら言った。
「ラフィ、敵の能力分かる?」
アリスが白騎士と背中合わせになるように立ち、周囲を見回しながら口を開く。
ラフィはいろいろな感情を押し殺して息を飲んでから、それに答えた。
「……おそらくは、『ウミガメモドキ』というナイトメアのセブンスは、空間を操作することだと思う」
「…………」
「ステルシスというドッペルゲンガーは、多分もう殺されてる。アレは『屍』なんだ。そして多分、何か別のオリジナルナイトメアに乗っ取られてる」
「なるほど」
アリスは別人のように落ち着いた、淡々とした声で相槌を打ってから息をついた。
そして右手の人差し指を伸ばして、ピストルの形をまた作る。
「……あの出たり消えたりするナイトメアが『ウミガメモドキ』?」
「ああ……空間操作でそう見えているようだ。君達がさっき使ったようなものかもしれない」
「あれはダーインスレイブで、私達がいた場所とここの『距離』を斬り払っただけだ」
白騎士がくぐもった声で応答する。
「厄介だな……」
「そうだね」
彼……ジャックとアリスが短く言葉をかわす。
曖昧な状態だったはずのアリスがしっかりと動いていることに違和感を感じながら、ラフィは続けた。
「もう片方の能力で逃げられたらコトだ。何とか仕留めたい」
「大丈夫。まだこの近くにいる。バンダースナッチがざわついてるもの」
アリスが、残った左目を異様な色……紫色のような、黒い闇色に輝かせながら周囲を睨む。
「……イベリスさんは? バンダースナッチの波長を感じないけど」
周りを見ながらアリスが言う。
フィルレインが自分の着ていたコートをナイフで切って、イベリスの腕をきつく縛りながら言った。
「……まだ息はあります。でも出血が激しすぎる。早く手当しないと、いくらなんでも……」
「分かった。ジャックさん、早めにケリをつけよう」
「そうだな……」
アリスは淡々と応えてから、息を吸って、そして自分を落ち着かせるように吐いた。
……おそらく、敵の「オリジナルナイトメア」二匹は、近くに隠れて様子をうかがっている。
バンダースナッチが破壊されたことにより、宿主が相当な衝撃を受けているはずだ。
次の手では何の策もなしに攻撃してくるとは思えなかった。
横目で白騎士と化したジャックを見上げる。
できれば、彼にラフィとフィルレイン。
そして傷ついたイベリスを安全な場所に避難させてもらいたい。
しかし、自分ひとりであの光のようなバンダースナッチを防げるかと考えれば疑問はあった。
……ならば答えは一つだ。
さっさとあいつらを始末して。
そしてイベリスさんを安全な場所に運ぶ。
それしかない。
◇
「何なの……何なのあれ!」
ヒステリーを起こして、甲高い声でステルシスが喚く。
白騎士のダーインスレイブでバンダースナッチが破壊されたことにより、彼女の右腕に大きく裂傷が広がっていた。
しかし傍らにしゃがみこんでいたもう一人の「ナイトメア」がそこに触れると、たちまち傷が塞がった。
「大丈夫。まだあいつらは、大事なことに気づいてない」
落ち着いた声でもう一人……「ウミガメモドキ」が口を開く。
彼女達は、周囲が水面のように揺らめいた奇妙な空間に浮かんでいた。
真下にアリスと……そして剣を構えた白騎士を捉えている。
しかし動くことが出来ない。
さきほどの白騎士の反応速度。
そして増援に現れたアリス……。
あのドッペルゲンガーの操作するバンダースナッチの威力は、異常だった。
少しのスキで痛手を被る可能性が大きく、それを悟った二人は動けなかったのだ。
「あいつらは、私とあなたで『一人』だということを、まだ分かってない。だから、まだ反撃の余裕はあるわ」
「…………」
ウミガメモドキの言葉に、ステルシスは歯を噛んだ。
「でも……あなたを危険に晒すことになる。ここは一旦ひきましょう、ウミ。体勢を立て直してからでも……」
「それはダメ、ステル」
ウミガメモドキは強く、ステルシスの言葉を否定した。
「……私達の『楽園』を守らなきゃ。アポカリクファの終焉から……」
「…………」
「逃げたら守ることは出来ないわ。それに、ルイス様はきっとお怒りになる」
その名前を聞いて、ステルシスは強く歯を噛んで、膝の上で拳を握りしめた。
「ルイス……ルイス!」
ヒステリックに喚いて、ステルシスはウミガメモドキの両肩を強く掴んで揺さぶった。
「いつまであんなのに縛られてるの! あいつが……あいつが私達に何をしてくれたっていうのよ! 目を覚まして、目を覚ましてよウミ!」
「ステルこそ!」
ウミガメモドキは目に大粒の涙を浮かべて叫んだ。
その顔を見て、ステルシスがハッとして肩から手を離す。
「……ご、ごめん……」
「……うぅん……あなたの気持ちも分かる。あなたは元々ドッペルゲンガーだったから。だからルイス様の声が聞こえないんだ」
「…………」
「仕方ないよ……」
寂しそうにそう言って俯いたウミガメモドキを、ステルシスは手を伸ばして引き寄せた。
そして軽く抱きしめる。
「ごめん、ごめんね……」
「…………」
「分かった。逃げない……今、ここで。私達であいつらを『駆除』しよう。私の『ウミガメモドキ』のセブンスと、あなたの『グリフィン』のセブンスで」
コクリ、とウミガメモドキが頷く。
二人の少女は、水の中のような空間で同時に、足下にいる「敵」を睨みつけた。
◇
アリスは、サイレンと、そして天井の崩落音が鳴り響くシェルターの中、極めて冷静な……感情を感じさせない表情で周りを見ていた。
不意に、その首筋……うなじの部分にビリッと電流のような衝撃が走る。
——来る来る来る来る来る殺来る来る殺殺
頭の中で幾重にもバンダースナッチの「声」が反響した。
彼らが向いている方に視線を向けて、アリスはジャックに向けて叫んだ。
「上!」
ジャックの反応は早かった。
考える間もなく、白騎士の巨大な体を動かしてアリスを庇うように立つ。
しかし振り抜こうとしたダーインスレイブが、飛来した「何か」と衝突して猛烈な火花を散らした。
「ム……強いな」
白騎士が小さく呟いて、火花を上げ続けるダーインスレイブを握り、足を踏み固める。
何か回転ノコでも受け止めているかのように、凄まじい衝撃と真っ赤な火花……いや、炎が飛び散っていた。
「ジャックさん、大丈夫?」
その脇に立って空を見上げながらアリスが言う。
白騎士は剣から炎を吹き上げながら、鎧全体をガクガクと揺らして言った。
「ダーインスレイブを封じに来たな。『見えない』が、物凄い密度の攻撃だ。アリスのバンダースナッチよりも硬いかもしれない……」
「なるほどね。全力の攻撃を、能力で『消して』放ってきた……」
アリスが右手をピストルの形にして構えながら言う。
それを遠巻きに見ていたラフィが大声を上げた。
「違う! 敵の能力は、バンダースナッチを消すことはできない。気をつけろ!」
「成る程。バンダースナッチではないのか、これは……変質した『何か』だな」
白騎士が、ついにはその「何か」に押されてズリズリと後退を始める。
アリスはまた首筋に電流のような「危険信号」を感じて、白騎士に背中を押し付けて右手を振り上げた。
その指先から放たれたおぞましい「何か」が、絶叫を上げて飛来したステルシスのバンダースナッチを、アリスの顔面数センチのところで捉える。
見開いたアリスの額から、パッ! と赤い血が散った。
「アリス!」
白騎士が飛び散ったアリスの血を浴びて声を上げる。
しかしアリスは口の端を歪めて笑うと、目の前で青白い火花を散らしている相手と自分のバンダースナッチを睨みつけた。
そのピストルの形だった指が、次第に何かを掴むような形をつくる。
「殺す……殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!」
噛み締めた歯をガチガチと鳴らしながら、その隙間から呪詛のように呟くアリスに、もう一度白騎士は大声を上げた。
「正気を保て! 抑えられるのか!」
ニィィ……とアリスは邪悪に、異常な表情で嗤った。
その見開いた、残った左目が真っ黒に染まり、一つの「空洞」のような色を発しはじめた。
「アリス! 返事をしろ!」
そこまで怒鳴って、白騎士はしかし何か「異様な」力でダーインスレイブを叩き押さえられてまた数センチ後退した。
ジャックの声を聞いて、アリスの目の「空洞」が若干揺らぐ。
彼女はその、人ならざる顔のまま右手を振り上げ、強く振り下ろした。
何か、紙をちぎり破ったような無残な金切り音が響き渡った。
少し離れた上空から、ステルシスのものと思われる絶叫と、水袋が爆裂したような濁った音が響く。
次の瞬間、雨のように赤黒い血液が周囲に飛び散った。
飛沫と化したステルシスのバンダースナッチが、バラバラと周囲に散らばる。
次いで、何もない空間が水面のように揺らいで、ぐちゃぐちゃの叩き壊されたマリオネットのようになったステルシスの体が投げ出された。
それが血しぶきを発しながら地面に崩れ落ちる。
「ウゥゥゥゥゥ! アアアアアアア!」
もはや言葉と呼べるものではなかった。
何か得体の知れない「言語」を喚きながら、アリスは白騎士を押さえつけている「何か」に向けて全力の「おぞましい」力を放った。
ズゥン、と空間が揺れた。
アリスのバンダースナッチと、「それ」が衝突した途端、周囲の空間それ自体が水のようにたわんで、衝撃を波紋として発した。
ビリビリと揺れるシェルターをその衝撃が反響し、凄まじい勢いで壁や天井に亀裂が走っていく。
「ヌゥ……ン!」
アリスの一撃で、ダーインスレイブを押さえている「何か」が若干浮き上がったのを感じ、白騎士はそのまま長剣を振り抜いた。
高音と火花を散らしながら見えない「何か」が両断され、次いで真っ白な光に収束し、チカチカと明滅した後……炎の柱を吹き上げて爆発した。
その柱はたやすくシェルターの天井を貫通し、周囲の壁を吹き飛ばし、住民の居住エリアの一角を薙いで行く。
「……!」
アリスは、歪む視界の端でラフィ達が炎に飲み込まれそうになる瞬間。
自分と、彼らを白騎士が抱え込んでダーインスレイブを振るのを見た。
◇
廃墟と化したシェルターの居住地区。
その一角に、ウミガメモドキは立っていた。
彼女の体には幾つもの切り傷がついており、そこから黒い血液が流れている。
バチバチと送電線が所かしこで火花を散らし、周囲は赤い非常灯の光で照らされていた。
彼女は、ちぎれた水道管から汚水が溢れ出しているのを踏み越えて、足を引きずりながら、無残な肉塊に変わっているステルシスの前に立った。
「……ッ……」
その顔がつらそうに歪み、彼女はしゃがんで肉塊にそっと触れた。
そこで急激に「映像」が巻き戻るように、ステルシスの体が「逆再生」されていく。
ひしゃげた腕がもとに戻り、潰れた頭に飛び散った脳髄が吸い込まれていく。
数秒も経たずに、ボロボロの服を着たステルシスがその場に膝をつき、大粒の汗を流して激しく息をついた。
「ッはァ! ゲホッ! ゲホッ!」
何度も咳をして吐瀉物を撒き散らすステルシスの背中を撫で、ウミガメモドキが口を開く。
「しっかりして。もう大丈夫」
「あい……つらは! どうなったの!」
血の混じった唾と共に言葉を絞り出した彼女に、ウミガメモドキは答えようとして……弾かれたように振り返った。
「……逃したなァ。見事に仕留め損ないやがった」
落ち着いた男性の声が、瓦礫の方から聞こえてきたのだ。
ステルシスがよろめきながら立ち上がり、ウミガメモドキを背中に構えるようにして唸り声を発する。
「……誰?」
彼女の声を聞き、瓦礫に腰を下ろしていた男……ライオンの頭をした、スーツ姿の彼「ジャバウォック」は、軽く片手を上げて顔の前で振りながら答えた。
「おっと。『同族』同士で争うなんて勘弁だ……それに俺と戦っても、アンタ達にメリットは何もない」
「誰だと聞いている!」
ステルシスに怒鳴られ、ジャバウォックは指先でたてがみを撫でながら言った。
「俺はジャバウォック。君達と同じ『オリジナルナイトメア』の生き残りだ」
「ジャバウォック……!」
彼の名乗りを聞いて、ステルシスが一気に緊張して青ざめる。
ウミガメモドキが、そこで彼女を押しのけて前に出た。
「……『魔獣』ね。何の用?」
「そう邪険にすることもないだろう。ウミガメモドキ……そして『怪鳥』よ」
ジャバウォックは馬鹿にするように肩をすくめた。