第7話 魔獣
「アリス様……本当によろしいのですか?」
フィルレインに問いかけられ、アリスは歯を噛んで息を吸い、頷いた。
揺れる列車の最後尾の車両に、彼女達はいた。
列車は先頭と最後尾が、エンジンがついている他の車輌を牽引可能な車体になっていた。
壁のパネルを操作しながら、フィルレインが唇を噛む。
――最後尾の列車を切り離す。
アリスが言ったのは、そういうことだった。
列車を停止させることなく、最後尾だけを別行動にし、シェルターに戻る。
そしてジャックとイベリスに加勢。
コトが済んだら乗ってきた列車か、現地の列車で離脱する。
……アリス一人ではできない。
ある程度機械の操作ができる者が同行する必要があった。
ラフィにはこのことは伝えていない。
壁のスピーカーから僧正の声が流れ出した。
『フィル、今から列車を僅かに減速させます。そこで連結を切り離しなさい』
僧正には説明をしてあった。
勿論戻ることは反対された。
しかし、アリスは強固に『戻る』、と主張したのだ。
「分かりました。長距離無線装置も稼働しています。ある程度なら通信も使えるかと……」
フィルレインはそう言って、服を握りしめて席に腰を下ろしているアリスに向けて言った。
「列車を……この車両を切り離します」
「うん……お願い」
「……ジャック様は、あなたを戻らせるために逃したのではありませんよ……?」
フィルレインはそこで、アリスに向き直って静かに言った。
「今ならまだ、中止できます。この先のシェルターに一緒に避難しましょう」
「…………」
しかしアリスは首を振った。
その意志が固いことを見て、フィルレインは唇を噛んで、壁の操作パネルに向けて言った。
「切り離します!」
僧正の声と同時に彼女がパネルを操作すると、ガコン、という音がして、二人が乗っている車両が逆方向に流れ始める。
そして何度か振動した後、しばらくしてゆっくりと止まった。
「エンジンを起動します……全速で戻ります!」
フィルレインがパネルを操作すると、もと来た道を列車が走り始めた。
段々加速していく。
歯を噛んでアリスは服を握りしめていた。
ジャックさんは……イベリスさんも、無事だろうか。
それしか頭になかった。
「アリス様……」
切羽詰まった様子のアリスにフィルレインが声をかけようとした時だった。
アリスの頭に、抉りこむような痛みが走った。
思わず悲鳴を上げて頭を押さえる。
心臓の脈動が飛び出しそうに早くなり、鼓動が耳に反響する。
そして胸に、何かほの暗い……淀んだ黒い感情が近づいてくるのが感じられた。
「……あいつらだ……」
アリスはギリ……と歯を噛み締めて立ち上がった。
「え……?」
「ナイトメアだ。この列車、追われてる」
アリスの髪がざわざわと揺らめき始め、その口から虹色のゆらぎが漏れてくる。
それを見てフィルレインの顔色が変わった。
「まさか……それじゃ……」
ジャックとイベリスは、失敗した……?
その事実を考えるより先に、アリスは列車の先頭に向かって走り出していた。
「あなたは列車の操縦をしてて!」
フィルレインが静止する声を聞かず、彼女に向かって声を張り上げながら、何重かになっている扉を開いて向こう側に抜ける。
そしてエアコックを回した。
列車内がロックされ、外部から凄まじい勢いで空気が流入する。
そしてアリスは、列車の扉を開けた。
ものすごい勢いで列車は、地下の暗いトンネルを爆走していた。
風に吹き飛ばされそうになりながら、脇のはしごを登り、列車の屋根に上がる。
バンダースナッチを食いつかせて屋根に張り付きながら、アリスは暗闇のトンネルを睨みつけた。
――何か来る。
それは間違いない。
この列車は追われている。
誰に言われたわけでもないが、その事実だけは確信できた。
どうやって追ってきている?
分からないが、敵なら……。
蹴散らして進まなければいけない。
私は、二人を助けに行かねばならない。
そこでアリスの胸に、猛烈な悪寒が走った。
体が反応するより早くバンダースナッチが動き、高速で飛来した何かからアリスの体を守る。
巨大な何かが体当たりをするかのようにアリスにぶつかってきていた。
「ウッ……!」
呻いて抵抗もできずに弾き飛ばされ、列車から転がり落ちそうになる。
屋根の上を転がりながら、アリスはとっさに手を伸ばして屋根の一部を掴んだ。
バンダースナッチも伸びて絡みつき、かろうじて落下を免れる。
……暗い。
バンダースナッチの虹色のゆらぎで薄っすらと周りが見えていた。
屋根の上に、何かが突き刺さっていた。
卵型の物体だった。
頭から突き刺さったそれが、屋根から体を引き抜く。
そして服についた埃をポンポンと手で払った。
巨大な卵に人面疽がついたような怪物、ハンプティ・ダンプティだった。
そしてそれにしがみついていた人影……その巨体が、ぬぅ、と体を起こす。
頭が……ライオンのように見える。
たてがみを風になびかせ、そいつ……「ジャバウォック」は身をかがませてアリスを睨んだ。
――二匹。
ハンプティの能力で飛んできたらしい。
もし列車を切り離していなければ、市民を守りながら戦わなくてはいけなかった。
その点では「最悪」の状況は避けられたが……。
アリスは強く歯を噛んで、声を張り上げた。
「ジャックさんを……! ジャックさんとイベリスさんをどうした!」
憎悪のままに言葉を叩きつける。
ハンプティとジャバウォックはそれを聞いて、にやにやといやらしい笑みを浮かべて顔を見合わせた。
ハンプティが肩をすくめて、列車の屋根をトントンと足で叩く。
そして口を開いた。
「さてね……どうしたと思う?」
クックック……とジャバウォックが笑う。
「答えろ!」
アリスが細い声を張り上げて激高した。
それを見て、ジャバウォックがニヤニヤ笑いを止め、歯を噛んで腰を落とす。
「誰に物を言っている……小娘……?」
周囲にビシビシと空気の鳴るような音が走った。
何だ……? そう思うよりも早く、アリスは高速で飛来した物体を手で弾いた。
手の甲に集中したバンダースナッチで弾き飛ばされたのは、ただの石ころだった。
逆手で弾くように、ジャバウォックの手から放たれたのだった。
しかしそれは、凄まじい速度で走っている列車の上から吹き飛ぶとトンネルの壁に突き刺さって、その一部を砕いた。
土煙が後方で吹き荒れる。
そこでガコン……と列車が減速を始めた。
フィルレインが停車の操作をしたらしい。
列車のライトが付き、周囲が照らし出される。
ゆっくりと停止した列車の上で、ニヤニヤといやらしく笑いながらハンプティが周りを見回す。
「止めたか……まぁ、妥当な判断だな……」
そこで列車の後方の扉が開き、マスクと防護服を着たフィルレインが散弾銃を構えて屋根に登ってきた。
彼女は腰を屈めたアリスの脇に立ち、散弾銃をコッキングした。
そしてジャバウォックを見て眉をひそめる。
「……見たことのないナイトメア……?」
「ジャバウォック。魔獣って呼ばれるヤツよ」
押し殺した声でアリスが言う。
そして彼女は、銃を構えたフィルレインを手で押しのけた。
「列車を発進させて」
それを聞き、フィルレインは唖然として口を開けた。
「で……でも!」
「私は大丈夫。早くジャックさん達を助けに行かないと……」
アリスは歯を強く噛んで、二体のナイトメアに向けて足を踏み出した。
「こんなところでこんな奴らに邪魔されて、足止め食らってちゃ世話ないわ」
彼女の人格が変わったような冷たい言葉を聞き、フィルレインの背筋に悪寒のようなものが走った。
――いけない。
この人を、一人で行かせてはいけない。
「私も……!」
私も戦います! そう叫ぼうとしたフィルレインは、言葉を飲み込んだ。
ヒィィィ……ン……と空気が鳴る音がした。
彼女の顎をかすめるように、アリスの体から鋭い剣のようになったバンダースナッチが伸びていたのだ。
「下がって。邪魔よ」
冷たいアリスの声を聞き、フィルレインは一歩、二歩と後ずさった。
彼女の目が、どこかほの暗く、真っ黒な穴となり輝いていたのだ。
黒に輝くという表現はおかしいかもしれない。
しかし、光っていた。
漆黒に。
目玉のある場所がどす黒い色にきらめいている。
その人間ならざる顔で、アリスは吼えた。
「列車を発進させて! 私が、私でいられる間に!」
フィルレインが後ずさってはしごを降りる。
彼女は意図せずに震えだした体を抑えるように、列車の中に転がり込んだ。
それをニヤニヤと笑いながら見ていたハンプティが、懐から葉巻を取り出して口にくわえる。
「あらまぁ……いいのかい? 折角の加勢を引っ込めてしまって……」
「問題ないわ。あなた達をすぐ死体に変えれば済む話ですもの」
アリスは押し殺した声でそう言い、無造作に、動き出した列車の上を歩き出した。
「ナメられたものだな……」
ジャバウォックがそう言ってスーツの体を動かし、アリスに向かって歩き出す。
腕を組んで、ハンプティはそれを見ていた。
やがて、走っている列車の上で、アリスとジャバウォックは睨み合った。
体格差が二分の一もある少女が、目を真っ黒に爛々と輝かせながらバケモノを見上げる。
ジャバウォックは腕を振り上げ……渾身の力を込めてアリスに向けて振り下ろした。
巨大な腕の破城槌のような攻撃は、正確にアリスに向かって撃ち落とされた。
しかし、少女は腕を振り上げ……大量のバンダースナッチを体にまとわりつかせて輝く体で、その腕を横に弾いた。
細腕で弾かれたジャバウォックの体には凄まじい力がかかったようで、彼は大きくよろけて列車の上を転がった。
そのまま転がり落ちそうになり、彼は屋根を掴んで体制を立て直した。
そして列車の屋根を凹ませながら、雄叫びを上げて走り出し、アリスに襲いかかる。
巨体から繰り出された拳を、アリスは特に見もせずにまた腕で弾いた。
ジャバウォックが吹き飛ばされ、トンネルの壁に突き刺さる。
土煙を上げて巨体が壁に沈む……と思ったところで、バケモノは壁に足をめり込ませて走り始めた。
そして難なく列車に追いつき、飛び乗る。
そのままの勢いで空中を舞い、彼はアリスにかかとを叩き込んだ。
アリスは軽く体を捻り、繰り出された足を掴んだ。
そして片手でジャバウォックの体を振り回し、蹴りの勢いそのままにトンネルの天井に叩きつける。
轟音と土煙が吹き上がる。
アリスはもはや声とも叫びともつかない「音」を発しながら、ジャバウォックを何度も何度もトンネルの四方八方に叩きつけた。
数秒後、ボロ雑巾のようになった黒い血まみれのジャバウォック……その巨体を、アリスはゴミのように眼前に投げ落とした。
トンネルの後方にジャバウォックが落ちていき、見えなくなる。
彼女は
「ウルルル……ウルル……ウル……」
ともはや意味さえも持たない言葉の羅列を漏らしながら、腕組みをしてこちらを睨みつけているハンプティに向けて足を踏み出した。
髪は逆立ち、瞳は漆黒に明滅している。
口からは虹色の煙が絶えず吐き出されていた。
その様は、もはや人間と呼べるモノではなく。
まさに悪魔。
悪鬼の類の姿だった。
「フム……」
ポケットからマッチを取り出し、丸くした手の中で火をつけて、ハンプティは葉巻に火を移した。
そして煙を吸って、吐いてからアリスに向かって言う。
「飲まれかけているな」
「…………」
「それもまたいいことだが、少々俺の想定していた未来とは違う。それに……」
ハンプティはニンマリと笑い、煙を吐き出した。
「冷静な状況判断ができないと、どうしても……な?」
次の瞬間、アリスの後頭部に凄まじい力が叩きつけられた。
小さな体が耐えきれずに列車の前方に吹き飛ばされる。
そのまま弾丸のように飛んだアリスは、トンネルの壁に轟音を立てて突き刺さった。
ボロボロのスーツを纏ったジャバウォックが、飛びかかりざまにその後頭部を蹴り上げたのだった。
グラグラとトンネルが揺れる。
凄まじい速度で走っている列車に、アリスが突き刺さった場所からバンダースナッチが伸びた。
そして屋根に絡みつき、伸縮して小さな少女の体を引き戻す。
無傷で問題なく戻ってきたアリスは、再び列車の屋根に仁王立ちになると、所在なさげに首をブラブラと振った。
「ウル……ウレロ……ウルルア……ウレロ……」
小さな言葉で何かを呟いている。
真っ黒い瞳は焦点が合わず、周囲をさまよっている。
軽く首の骨を鳴らし、アリスはそこで歯を強く噛み締めて、両手を握った。
そして押し殺した声で叫ぶ。
「私の……! 私の言うことを……! 聞け……!」
ガクガクと足を揺らしながら、彼女はジャバウォックとハンプティを睨みつけた。
そしてまたブツブツと呟き始める。
「……どっちから殺す……?」
「殺す……?」
「……殺す……?」
「潰す……? 砕く……?」
「捻り切ろう……」
「そうしよう」
「そうしよう」
「そうしよう」
腰を落としてアリスが、口を裂けそうなほど開いて笑った。
正気を失ったような少女の様子に、ジャバウォックとハンプティも互いに腰を落として戦闘の姿勢をとる。
ジャバウォックは着ていたスーツの切れ端を破り捨てると、吐き捨てるように言った。
「……確かに硬い。そしてほぼバンダースナッチに『なって』いるな……」
「お前一人では骨が折れるかもしれんな」
葉巻をプッ、と吐き出し、ハンプティが押し殺した声を発した。
「加勢しよう」
「助かる」
ハンプティは服のポケットに手を入れて、ジャラジャラと音を立てながら何かを取り出した。
パチンコ玉のようにも見える。
黒色の鉄礫を手で握りしめ、彼は大きく振りかぶった。
そしてアリスに向けて躊躇なく叩きつける。
衝撃音と衝撃波。
一瞬列車が大きくたわんで揺れるほどの空気を炸裂させ、散弾銃のように鉄礫がアリスに飛来した。
それを追うようにジャバウォックが雄叫びを上げて走り出す。
「フッ……フッ……フッ……」
断続的に歯ぎしりの隙間から息をしながら、アリスは次の瞬間、口を大きく開けて絶叫した。
彼女の回りに半球状にバンダースナッチが固まり、そこに銃撃のような音を立てて鉄礫が突き刺さった。
全てアリスの体に到達しなかった。
空中で止まり、火薬でも仕込んであるのか、一拍遅れて火柱を噴き上げて爆発する。
小さなアリスの体が後ろに弾き飛ばされ、列車の屋根を転がる。
そこに踊りかかったジャバウォックが、腕を振り上げてアリスの顔面に向けて打ち下ろした。
反応できなかったアリスの額にモロに拳が打ち込まれ、突き刺さる。
そのままアリスは跳ね上げられ……ジャバウォックは機械のような正確な動きでその足を掴み、先程自分がやられたように、アリスの小さな体を天井に叩きつけた。
しかし叩きつけられながら、アリスは体を捻って手を伸ばした。
そして自分の足を掴んでいるバケモノの腕を殴りつける。
ジャバウォックの腕が半ばから千切れて吹き飛んだ。
列車の天井に降り立ったアリスを、ジャバウォックは残った腕で捉えた。
アリスの腹に、反応もできないほどの高速で打ち出された拳がめり込む。
「……ッ……」
目を見開いたアリスが、舌を噛んだのか小さく血を吐き出す。
打ち上げられた彼女を、今度は振り上げた足で列車の屋根に打ち落とす。
小さな少女の体は屋根を軽々と貫通し、車輪近くまで車体を抉った。
真っ黒な目を上げて車内を見回す。
フィルレインは操縦席に移動しているようだ。
ジャバウォックが首の骨を鳴らしながら列車の中に降り立つ。
その後ろから、また鉄礫をジャラジャラと手に持ったハンプティも続いた。
「…………?」
そこでアリスは怪訝そうにジャバウォックを見た。
先程吹き飛ばしたはずの腕。
それが、ある。
服はなくなっているが、問題なく動く腕がついている。
よく見ると、ボロ雑巾のようにされた体に汚れはついているものの、傷はどこにも見えなかった。
――再生した……?
それがジャバウォックの能力……?
そこまで考えて、頭の中に響く幾億ものバンダースナッチの「怒号」に頭を割られそうになり、歯を噛みしめる。
もう少し……。
もう少しだけ私の言うことを聞いて……。
バンダースナッチ達の怒りは、既にアリス一人では抑えられない領域まで達していた。
怒りの許容範囲を突き抜けて、体中がしびれたようになってうまく動かない。
――殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。
バンダースナッチが喚く。
憎しみ、苦しみ、怨嗟……。
総ての黒い感情を乗せて、悪魔達が叫ぶ。
そう、そこには理性も、情愛も、およそ他の感情と呼べるものは、何もなかった。
ただ憎み、死を望む。
怨念の固まりが、アリスを取り囲んでいた。
体を覆うバンダースナッチが、勝手にアリスの体をゆらりと立ち上がらせる。
ジャバウォックはアリスに近づき、鼻を鳴らした。
「お前の仲間は……あっちか……」
下卑た笑いを発して、彼は動き出そうとしたアリスに言った。
「相手をするのは少々骨だ。まずはこの列車を壊させてもらおう」
「前の女は絞り殺してもいいだろう。喉が渇いた」
ハンプティが小さく笑ってそう言う。
半壊した列車の操縦で手一杯なのか、フィルレインは姿を見せない。
高速で動いている列車だったが、車輪から火花が散っていた。
速度の制御系がやられたのかもしれない。
アリスは歯ぎしりをしながら、くぐもった声を発した。
「……私を狙って……いるんじゃ、なかったの……?」
「嫌なら止めてみるがいい」
ジャバウォックがそう言って列車の床に向けて腕を振り上げる。
アリスは必死に体を動かし、ジャバウォックに飛びかかった。
次の瞬間、ハンプティが投げつけた鉄礫を真正面から浴び、少女の小さな体は空中に跳ね上げられた。
屋根に空いた穴から外に吹き飛ばされる。
しまった、と思った時には遅かった。
列車の床を蹴って空中に飛び上がったジャバウォックが、アリスと、そしてバンダースナッチが反応するより早く。
彼女の頭を掴んで列車の前方に投げ飛ばした。
訳がわからなくなったアリスの体を、尋常ではない衝撃が襲った。
ジャバウォックに殴られた時と比較にならない衝撃だった。
そう、列車だった。
走っている列車の前に投げ飛ばされ、轢かれたのだ。
体中がばらばらになるような衝撃を分散させることができずに、一瞬視界がレッドアウトする。
その彼女の目に、屋根に駆け上がったハンプティが、懐から短刀を取り出すのが映った。
頭の中のバンダースナッチ達が警報を鳴らしたのと。
アリスの右目に短刀が突き刺さったのは、ほぼ同時のことだった。
激痛が頭に広がる。
右目が熱い、と感じた直後に耐えきれない抉り切るような激感が走り、アリスは頭を抑えて絶叫した。
バンダースナッチが勝手に動き、彼女を列車の屋根の上に引き戻す。
そのまま力なく屋根の上に転がり、アリスは右目から凄まじい勢いで血を流しながら、震える手を握りしめた。
列車に轢かれた衝撃と、右目に短刀が突き刺さっている痛み。
轢かれた衝撃はすぐに分散して消えたが、右目の激痛が止まらない。
あまりにも痛くて何も考えられない。
残った左目の視界が赤く明滅していた。
「当たったか……」
鼻を鳴らしてハンプティがまたポケットに手を入れた。
そして鉄礫を握り出す。
遅れてジャバウォックも列車の屋根に上がってきた。
うずくまって震えているアリスに、ハンプティは静かに言った。
「お前……自分のセブンスを理解していないな?」
痙攣するように喉を鳴らしながら、アリスは何とか立ち上がった。
戦わなければ。
殺される。
殺されたら。
ジャックさんを、イベリスさんを。
助けに行けない。
その単純な事実だけが頭を回っている。
アリスは雄叫びを上げて、右目に突き刺さった短刀を掴んで抜き取った。
まぶたから切断されていた右眼窟が潰れてぐちゃぐちゃになっていた。
ガラン……と短刀を脇に投げ捨て、アリスはブルブルと震えながら腰を落とした。
ハンプティが目を細めてそれを見る。
彼は鉄礫を持っている方と逆の腕を上げて、指を立てた。
「いいことを教えてやろう。バンダースナッチは無敵ではない」
「…………」
何を言われたのか分からずに、歯ぎしりして痛みを抑えようとしているアリスが、卵のバケモノを見る。
「それはお前の精神に感応して動くナイトメアだ。本能的な部分の意識に連動して動作する。つまり……」
ハンプティはニィ……と醜悪に笑った。
「お前の認識できない領域からの攻撃は防いではくれないわけだ。俺達は、既にそれを知っている」
ジャバウォックが進み出て腕組みをする。
「このアリスを始末したら、帽子屋達の中核を回収する。おそらく、先に逃げた列車の中にあるんだろう」
「赤の女王も、残ったシェルターのアリス達を始末したはずだ。早く合流するとしよう」
――始末したはずだ。
そう、ハンプティは言った。
それを聞いてアリスの頭に一気に血がのぼった。
そうだ。
右目なんてなんだ。
この痛みなんてなんだ。
早く、早く行かないと。
早くジャックさんに会いたい。
もう一度抱きしめてもらいたい。
もう一度抱きしめたい。
今度はしっかりと。
離さないように。
絶対にもう離さないように。
「始末なんて……させない……」
砕けんばかりに歯を噛んで、アリスは言葉を絞り出した。
その口から虹色のゆらぎが凄まじい勢いで漏れ出した。
「お前達は……ここで……殺す……」
ガクガクと体中を揺らしながら、残った左目で二体のナイトメアを睨みつける。
「私……が……! ここで! お前たちを! 殺す!」
アリスは吼えた。
それは、ハンプティとジャバウォックがとっさに身を屈めて戦闘態勢を作ったほどの気迫であり。
異常な重圧感を含む、「叫び」だった。
「ジャバウォック、お前は先に行け!」
ハンプティがとっさに怒鳴る。
「帽子屋達を取り戻せば、奴らを再生できる! それからでも遅くはない!」
「させるかあああ!」
アリスの潰れた右目から、虹色のゆらぎ……バンダースナッチが炎のように噴出した。
ゆらぎはアリスの体全体を包んだ。
小さな体から湯気のように立ち上っている。
髪は逆立ち、アリスの体自体が半透明になり、揺らめいていた。
次の瞬間、アリスの体が消えた。
足元の電車の屋根が砕け散り、宙に舞う。
視認もできない程の速度で動いたのだった。
彼女は一瞬でジャバウォックに肉薄すると、その腹部に拳を叩き込んだ。
完全に反応できていなかったジャバウォックが、胴体から両断されて吹き飛んだ。
ナイトメアの上半身がトンネルの壁に突き刺さる。
もうもうと土煙が上がったが、そこから五体満足のジャバウォックが飛び出してきて……列車の屋根を蹴って肉薄したアリスが、その頭を掴んでハンプティに叩きつけた。
弾丸のように飛んだジャバウォックが卵のバケモノに打ちあたり、二体がもんどり打って列車の外に吹き飛ぶ。
またアリスの体が消え、彼女はトンネルの壁に叩きつけられたハンプティに、固めた握りこぶしを振りかぶり……思い切り突き刺した。
「ガッ……」
ハンプティの人面皮の眉間にぶつかった拳が、半ばまでめり込む。
彼の卵型の体に一瞬でヒビが広がっていき、中からドロリと卵の白身、そして黄身のような物体が流れ出す。
「ギ……ィヤアアアアア!」
体中から不気味な液体を吹き出して、絶叫しながら卵のバケモノが崩壊していく。
「……ハンプティ!」
線路の上に転がったジャバウォックが叫び、地面を蹴ってアリスに躍りかかる。
アリスは、ハンプティの体の中心部から黄色い玉を握りだすと、体中から虹色のゆらぎを噴出させ、右手を振り上げた。
彼女の右手に「空間」が集まっていく。
白騎士を斃した高密度の、縋のようなそれをアリスはためらいもなくジャバウォックに向けて振り下ろした。
轟音と爆炎が吹き上がった。
ライオン頭のナイトメアが、抵抗もできずに叩き潰され、黒い染みとなり地面に広がる。
そこでアリスの体からバンダースナッチが伸び、小さな体は高速で走る列車に引き寄せられていった。
◇
「…………」
無言でジャバウォックは立ち尽くしていた。
目の前には、砕けた卵の殻と染みになった中身が散らばっている。
「……チッ……」
彼は小さく舌打ちをすると、苦悶の表情を張り付かせて転がっていた、ハンプティの人面皮の部分を踏み潰した。
そしてアリス達の列車が走り去った方と、彼女達が来た方を順繰りに見る。
暗闇の中で、彼のライオンの顔……その目が怪しく光っていた。
「さて……どうしたものかな……?」
呟いた口元が歪み、小さく笑う。
そしてジャバウォックは前に向けて足を踏み出した。
◇
歯を食いしばりながら、フィルレインが列車のレバーを操作する。
ものすごい軋み音を立てながら、車輪から火花をちらしつつ列車が減速を始めた。
そして数分間かけてゆっくりと止まっていき、やがて線路の途中で停止する。
防護服の中で息をしながら、フィルレインは右目を押さえてうずくまっているアリスを見た。
「アリス様……駄目です。停止させることには成功しましたが、後は歩いていくしか……」
そこまで言って、彼女は言葉を止めた。
荒く息をつきながら、憔悴した顔でボンヤリと前を見つめるアリス。
その体が、服ごと薄く発光していたのだ。
「アリス様!」
慌てて呼びかけられ、アリスはハッとしてフィルレインを見た。
右目の血は止まっていたが、眼球と瞼がぐちゃぐちゃに破壊されている。
痛みに顔をしかめながら、アリスはよろめいて立ち上がった。
「う……うん……分かってる。行かないと……」
「少し……お待ち下さい」
フィルレインは唇を噛んでアリスに近づくと、救急セットから包帯を取り出し、右目にガーゼを当ててきつく縛り付けた。
「応急処置ですが……」
「……ありがとう。早く……ジャックさん達のところに……」
ゲホ、と血の混じった咳をしてから、アリスはふらつきながら列車を降りた。
その後ろから、携帯端末とライトを持ったフィルレインが続く。
「シェルターのすぐ近くです。十分ほど歩けば……」
「行こう」
しっかりと言って、アリスはわずかに足を引きずりながら歩き出した。
程なくしてシェルターの隔壁が見え、フィルレインがタッチパネルを操作してそれを開く。
エアロックの内側に入ってヘルメットを脱いだ彼女と奥に進む。
そして、アリスは列車の発車駅近くのホールに入って足を止めた。
凄まじい爆発があったようだった。
床も壁も、粉々に破壊されている場所がある。
まだパラパラと瓦礫が流れ落ちていた。
あたりには火薬臭いにおいが充満している。
壁のランプの電気系統は、途切れかけているのか、断続的に点滅していた。
「何……これ……」
震える声でそう呟き、アリスは周りを見回した。
爆弾で吹き飛ばされたような跡だった。
地面が陥没して、遥か下の下水路が見えている。
「ジャックさん……?」
ジャックの名前を呼びながら、アリスは瓦礫の山に向かってヨロヨロと足を進めた。
「私……来たよ? ジャックさん……どこ……?」
ガラガラと瓦礫の崩れる音が遠くで聞こえる。
アリスは細い声を張り上げて叫んだ。
「ジャックさん! 返事をして! どこ? どこなの!」
――明白だった。
何か、大惨事が起こったことは。
誰の目から見ても明らかだった。
フィルレインは喚いているアリスに近づこうとして、動きを止めた。
そして伸ばしかけていた手を引っ込めて俯く。
ジャックも……。
イベリスでさえ、到底生きているとは思えなかった。
「ジャックさ……」
そこでアリスが、走り出そうとして潰れた右目の死角、その瓦礫に躓いて盛大に転んだ。
彼女は悲鳴を上げてうずくまり、足元の土を掴んで歯を噛んだ。
「私……私……」
「…………」
掛ける言葉が分からず、フィルレインが口ごもる。
「間に……合わなかったの……?」
小さく問いかけられ、彼女は唇を噛んだ後、引きつった声を発した。
「……探してみましょう」
アリスが憔悴した顔をフィルレインに向ける。
巫女の少女は頷いてアリスの手を取った。
「あのしぶといジャック様とイベリス様です。ナイトメアを撃退して、どこかに避難しているのかも……」
「…………」
「一緒に行きましょう。もしかしたら、別の線路でもう脱出したのかもしれませんし」
アリスがひくっ……と声を上げて、残った左目から涙を流す。
「そう……だよね? そうなんだよね……?」
彼女は涙を手でぬぐって、よろめきながら立ち上がった。
そしてフィルレインと手を繋いで歩き出す。
周囲は、目も当てられない惨状だった。
砕け散ってボロボロになったホール。
瓦礫の山が崩れ落ちたシェルター。
不安げに二人の少女はその中を歩きながら、小さく震えていた。
ライトを、落盤した天井に塞がれた道に向け、フィルレインが足を止める。
「…………ここまでみたいですね……」
だいぶ経って、彼女はそう、呟くように言った。
アリスは呆然と、崩落したシェルター内を見回した。
もう、声を発する気力がないようだった。
フィルレインが下を向いて唇を強く噛む。
――間に合わなかった。
何が起こったのかは分からないが、それは確かだった。
明らかなことだった。
「…………」
アリスは陥没した地面を見つめていた。
言葉を、発することはなかった。
気力が抜け、落ち窪んだ目で彼女はただ暗闇を見つめていた。
フィルレインが近づいてきて、その手を強く握る。
「アリス様……」
彼女は小さくそう呟いて、首を振った。
それを見てアリスは小さく、乾いた笑いを発した。
「…………嘘だよ……そんな……」
「…………」
「嘘だ……」
アリスはフィルレインの手を力なく離し、その場に膝をついて、手で顔を覆った。
「……嘘だぁ……」
しばらくアリスの嗚咽だけが響いていた。
ガラガラと瓦礫が崩れる音が断続的に聞こえる。
「……戻りましょう。アリス様」
だいぶ経ってからフィルレインがそう言った。
アリスは彼女を見上げて、震える声で言った。
「ダメだよ……まだジャックさんを見つけてない……私を、待ってるはずなんだよ……」
「それは……」
「助けに行かなきゃ……行かなきゃいけないよ……行かなきゃいけないのに……」
アリスは地面に爪を立てて、言葉を絞り出した。
「…………行かなきゃ…………いけないのに…………」
後は言葉にならなかった。
顔を覆い、うめき声を上げるアリスを、フィルレインは見つめることしかできなかった。
少しして、意を決して声をかけ直そうと口を開く。
そこで彼女の持つ携帯端末が、ピピ……と小さな電子音を立てた。
「……これは……」
小さく呟き、フィルレインは押し殺した声を発した。
「……イベリス様の端末反応が近くにあります。まだ、電源が生きているようです……」
最後の言葉は、自信がなさそうに尻すぼみになって消えた。
端末だけかもしれない。
もしかしたら、そこでイベリスもジャックも事切れているのかもしれない。
そう、思ってしまったからだった。
アリスは瓦礫を掴みながら立ち上がった。
そしてフィフレインに近づいて、顔を見る。
憔悴しきったその顔に、少女は息を呑んだ。
「……行こう」
小さく言われ、それに頷く。
二人の少女は手を繋いで、暗い陥没した地面の方に足を踏み出した。
◇
「…………ベリス様! イベリス様!」
耳元で叫ばれ、目を開ける。
猛烈な倦怠感に疲労感。
頭を打ったらしく、耳鳴りがガンガンとしていた。
体中が痛い。
よろめきながら上半身を起こす。
「…………」
荒く息をつきながら、イベリスは自分に覆いかぶさるようにして名前を呼んでいるフィルレインを見た。
「……フィル……?」
「良かった……生きていらした……!」
フィルレインが叫んで、イベリスの体を強く抱きしめる。
彼女の温かい体の感触を感じながら、イベリスはまだ自分が生きていることを信じられず、呆然としながら周りを見回した。
少し離れた場所にアリスが立ち尽くしていた。
満身創痍の様子の彼女を見て、イベリスは口を開いた。
かすれた声が出た。
「あなた達……どうして……?」
「援軍に来たんです。作戦は……作戦はどうなったんですか?」
フィルレインに問いかけられ、イベリスは頭を押さえて続けた。
「……ナイトメアは、撃破したと思う……私じゃなくて、ジャックさんが……」
ジャックの名前を聞いてアリスが弾かれたように顔を上げた。
彼女はよろめきながらイベリスに近づくと、その前に膝をついた。
「……ジャックさんは……?」
震える声でそう聞かれる。
しばらく、周囲を沈黙が包んだ。
イベリスはしばらくアリスを見ていたが、やがて視線をそらして唇を噛んだ。
アリスが歯を噛んで手を伸ばし、彼女の胸ぐらを掴みあげる。
「答えなさいよ……! ジャックさんはどこ!」
「……彼は……」
イベリスはアリスから視線を外したまま、小さな声で言った。
「彼は、ナイトメアと戦って……爆発に巻き込まれて……」
「…………」
「水路に飲み込まれていったところまで見ていたわ……」
イベリスの目に涙が盛り上がる。
彼女はボロボロと涙をこぼしながら言った。
「……何も……何もできなかった……ごめんなさい……」
「ウソだ……」
壊れたように笑って、アリスはイベリスの服から手を離した。
「ジャックさん……? ジャックさん!」
そして金切り声でわめきながら、陥没した地面に向かって走り出そうとする。
「いけませんアリス様! 崩れています!」
フィルレインが彼女の手を掴んで止めた。
アリスは、どうしようもないほど破壊された地面と、地下を流れる水脈の音を聞いて、しばらくそちらを凝視していたが……やがて膝をついて、肩を落とした。
「……ごめんなさい……」
イベリスが小さな声で繰り返す。
アリスは、それには答えずに地面を凝視していた。
そこでフィルレインが、少し離れた地面に何か人間大のモノが転がっているのを目に留めた。
それに近づいて息を呑む。
腕と足がなくなり、皮がめくれた白骨死体が転がっていた。
動き出す感覚はなく、完全に停止している。
「これは……」
呟いたフィルレインの方を見て、イベリスの目が大きくなる。
しかし彼女は、アリスと同じように俯いてから、かすれた声で呟いた。
「……そう……赤の女王が死んだから、解放されたのね……良かった……」
「赤の女王……」
「ええ。二人共、ここを脱出しましょう」
イベリスの足にゆらぎが集まり、脚部を形成する。
瓦礫に捕まりながら何とか立ち上がった彼女は、アリスに近づいて彼女を見下ろした。
「……行きましょう……」
小さな声で呼びかける。
アリスはイベリスを見上げて、首を振った。
それを見てイベリスがつらそうに顔を歪める。
「行かなきゃ……」
「私……私も死ぬ……」
アリスはそう呟いて壊れたように引きつった声で笑った。
「私も……ジャックさんのところに行く……」
「そうね……よく分かるわ。私もそう」
イベリスに静かに言葉を肯定され、アリスは唇を噛んだ。
「……あなたに何がわかるの……?」
「…………」
「ジャックさんを守れなかったあなたに! 何が分かるの!」
怒鳴られて、イベリスは言い返さずにアリスを見下ろした。
「…………私を憎むなら憎むといいわ。あなたに殺されてあげてもいい。でもね……」
だいぶ経ってから、イベリスは押し殺した声で続けた。
「それは、ここじゃない。お互い満身創痍よ。私を殺したいなら、場所と時間を変えましょう?」
「…………」
「約束するわ……あなたに、いつでも殺されてあげる……」
イベリスの両目から涙が流れる。
アリスはそれを見て、発しかけていた言葉を飲み込んだ。
「だから……お願い。一緒にここを離れましょう……?」
だいぶ長いこと、二人の間を沈黙が包んでいた。
アリスの視界が歪んでいく。
心臓の動悸が早くなり、耳鳴りがする。
絶望。
それは絶望だった。
張り詰めていた緊張の糸が急激に切れ、アリスはその場所に力なく倒れ込んだ。