第6話 赤の女王
どこか達観した頭でそれを見ていた。
自分そっくりの少女が、モザイク頭の青年と抱き合っている姿を。
アリスは、呆然と立ち尽くしてそれを見ていた。
彼……ラフィと抱き合っている方の「自分」はそっと手を伸ばして、モザイクの奥の顔に触れた。
「ラフィ……あなたの顔を見てみたい」
そう言った少女に、ラフィは少し考えてから答えた。
「……残念だけど、僕に顔はない。存在していないし、与えられてもいないんだ。だから見せたくても見せてあげることはできないな……」
「どうして? 誰があなたの顔を奪っていったの?」
少女の問いに答えず、ラフィは小さく笑った。
「それとも、顔がない僕のことは嫌いかな?」
そう言われ、小さな女の子は顔を赤くして俯いた。
しばらく言葉を発しあぐねていたが、彼女はやがて……。
「好き……」
そう呟いてラフィを強く抱いた。
――そう、これは。
これは、私の記憶ではない。
目の前のこの女の子。
この子が「アリス」……。
この、「本物」の「アリス」の記憶なのだ。
耐え難い悪寒が体を襲い、アリスは肩を抱いて震えながら後ずさった。
「ラフィって、不思議の国のアリスに出てくる『ラフィングキャット』みたい」
少女がそう言うと、ラフィは彼女の体を離し、意外そうにその顔を見下ろした。
「へえ、知らない話だ」
「知らないの? 有名なのに」
「君の名前が入っているね」
「偶然よ。でも……ここって、まるでお話の中のワンダーランドみたい」
少女はラフィの手を握って微笑んだ。
「お話の中のアリスはね、不思議な友達と出会っていろいろな冒険をするの。胸がワクワクするようなたくさんのこと」
「その中の登場人物に、僕が似ているんだね?」
「ラフィングキャットも優しくて、どこか掴みどころがなくて……アリスのことを守ったり、見守ったりしてくれる」
「そうか……」
手を伸ばして少女の頭を撫で、ラフィは優しく言った。
「僕も、君のことをずっと守るよ」
アリスはそこで耐えきれなくなり、耳を抑えて絶叫した。
彼女の体からバンダースナッチが噴出し、周囲の空間を瞬く間に覆い尽くす。
そう、私はバケモノ。
この得体の知れない悪魔を身に宿した、誰でもない存在。
私は、私は何。
私は誰?
ハッとして顔を上げる。
そこは黒い雨が降る森の中だった。
ラフィが大きな樹の下に、黒い雨に体を濡らしながら佇んでいる。
彼は大きなスコップを持っていた。
ポタリ、ポタリとラフィの体から水滴が垂れる。
大きな樹の根本……先程二人が抱き合っていた場所に、ラフィが掘ったのか深い穴が空いていた。
しばらくラフィは穴の底を見ていた。
動かない。
アリスは虚脱して立ち尽くしているラフィの後ろで、震え上がった。
あれを見てはいけない。
心の中で何かが警鐘を鳴らす。
駄目だ。
近づいてはいけない。
しかし、意思に反して震える足は前に進み出た。
よろめきながら近づき、穴の脇にしゃがみ込む。
そしてアリスは目を見開いた。
雨により黒く変色した布に包まれた「自分」が、事切れて穴の底に横たえられていたのだった。
尻餅をついて呆然とする。
死んでいる。
嘘だ。
そんなのは嘘だ。
心の中をグルグルと否定の言葉が回る。
「アリス」は……。
そうだ、本物のアリスは……。
――もう、死んでいる……?
ラフィは腰を抜かして震えているアリスに気づかないのか、やがてスコップを脇の土盛りに差し込んだ。
そしてパラパラと少女の遺骸に振りかける。
その挙動を唖然と見ているアリスの前で、ラフィは淡々と少女に土をかけていった。
やがて完全に土に覆い尽くされた「墓」を前に、黒い水まみれの青年はスコップを取り落とした。
そしてモザイクだらけの顔を両手で掴んで、大声で泣き始めた。
言葉を発することもできずに沈黙する。
――「アリス」は死んだ……?
本物の自分はもう既に息絶えていた。
では、自分やイベリスは一体何だ。
手を広げてそれを見つめる。
ブルブルと恐怖により揺れる指先が、霞んだ視界でブレて見えた。
ラフィは墓の土を手で掴み、嗚咽しながらそれを抱きしめた。
そして絞り出すように言葉を発する。
「すまない……すまないアリス……君を救ってあげることができなかった……君を独りで逝かせてしまった……僕は、僕は君を愛し守ると誓ったのに……」
「…………」
自分ではない何かに声をかけるモザイクの青年を前に、アリスは言葉を失っていた。。
「……こんな世界は君の望むものじゃない筈だ……やめるんだアリス……アポカリクファの終焉なんて馬鹿な真似はやめるんだ……お願いだよ、お願いだ……」
――何だって?
『やめるんだ』……そう、ラフィは言った。
まるで、埋められた少女がこの状況を作り出したかのように言ったのだ。
また嗚咽を上げながら泣き始めたラフィを前に、アリスはよろめきながら立ち上がると、一歩、二歩と後ずさった。
その目が、少し離れた正面の樹の陰から大きな男……頭がライオンのバケモノが現れたのを捉える。
ジャバウォック。
そう、ラフィが呼んでいたナイトメアだ。
スーツ姿のライオン男は、慌てて立ち上がったラフィを前に、口を歪めてニィ……と笑った。
醜悪な笑みだった。
「……やめるんだジャバウォック……アリスが見ている……」
「アリス……? お前がさっきそこに埋めていたボロ雑巾のことか?」
嘲るようにそう言い、ジャバウォックは大股で近づき、ラフィの首を掴んで持ち上げた。
「……や、やめろ……」
「アリス様は死んだ。見てたんだよ俺はずっと。お前が亡骸を埋めるところも何もかもな」
「…………」
「残念だよラフィングキャット。この世界はもらった。後は好きにやらせてもらう」
「……待て……まだ沢山の人がこの中にいる……アポカリクファの終焉だって……今ならまだ……」
「必要ない」
ボギィ、という音がした。
ラフィの体が痙攣して跳ねる。
首を折られたのか、脱力してラフィが血を吐いた。
それをゴミのように脇に投げ捨て、ジャバウォックはアリスの墓に近づいた。
「や……め……ろ……」
手を伸ばして静止しようとするラフィを無視し、ジャバウォックは墓に手をつっこみ、土ごとアリスの亡骸を掘り起こした。
そして脇に抱えて嘲るように嗤う。
「じゃあな。お前とはいい友人になれそうな気はしていたが。こうなればもうお終いだ。そこで苦しんで死ぬがいい」
ジャバウォックの体が陽炎のようにゆらいで消えた。
アリスの亡骸もきれいに霧散してなくなる。
ラフィは血反吐を吐きながら、雨に濡れた土を爪で引っ掻いていた。
◇
「どいつもこいつもバカしかいないのかい!」
ヒステリックなガミガミ声で喚く赤の女王。
同じ、薄暗い部屋にはハンプティとジャバウォックがいた。
壁に寄りかかって腕を組んでいたライオン頭のバケモノが、静かに口を開く。
「……奴らのコアを奪い返さなければならないな」
「双子がやられたのは予想外だった。やはり二人の『アリス』を相手にするときついのかもしれん」
葉巻の煙を吐き出しながら、ハンプティが続けた。
「片方のバンダースナッチは覚醒も近いようだ。完全に覚醒する前に、潰しておく必要があるな」
「私が行く。異論はないね」
赤の女王がギリギリと歯ぎしりをしながら言った。
ハンプティとジャバウォックが顔を見合わせる。
ジャバウォックが肩をすくめると、卵のバケモノは赤の女王を見て口を開いた。
「赤の。お前が出ると跡形も残らん」
「順番的に言うと私の番のはずだ! 二度も仕留め損なったお前に抑えられる謂れはないんだよ!」
指をさされてガミガミと怒鳴りつけられ、ハンプティは息をついた。
「まぁ……好きにするといい。ただし俺とジャバウォックは協力をしない」
「お前らの協力なんているものか!」
押し殺した声で嗤い、赤の女王は曲がった背中を震わせた。
その口元からポタリとよだれが垂れる。
そのよだれは何の反応もなく、丸い穴を床に穿った。
そこから白い煙が立ちのぼる。
上気して瞳孔が開いた顔で、赤の女王はハンプティを睨みつけた。
「私一人で十分さね……」
暗い、呟きのような声は淀んだ部屋の中にたゆたって、そして消えた。
◇
息が苦しい。
頭が痛い。
アリスはそう思って緩慢に目を開けた。
薄暗い集中治療室の中だった。
仰向けに寝かされ、体には毛布がかかっている。
腕には何箇所も点滴が刺さっていて、口には酸素の呼吸器がついていた。
手をゆっくりと動かし、呼吸器を外す。
そして何度か息を吸って、吐いてを繰り返す。
上半身を起こして周りを見回すと、夜中なのか看護師はいなかった。
小さく咳をしてから頭を押さえる。
――あの夢は……。
何だったのだろう。
モザイク顔の青年……ラフィが、ジャバウォックというナイトメアに首を折られて捨てられた。
そして……。
穴の中に埋まっていたのは私。
いや、違う。
『本物』のアリス。
そうだ。
――私は『偽物』なんだ。
そう思って吐き気がこみ上げてくる。
不快感に体を丸めた。
「目が覚めたかい?」
呼びかけられ、そこでアリスは顔を上げた。
少し離れた場所の床に、黒猫のラフィが座っていた。
アリスは猫から視線を離すと、毛布を掴んで俯いた。
「……私は、どうしたの?」
「まだ無理な動きはしないほうがいい。君の脳に多大な負荷がかかったんだ。うまく歩く事もできないはずだ」
「負けたの……? 私……」
ポツリとそう聞くと、ラフィは少し考えて頷いた。
「ああ。イベリスが君を助けてくれた。君は、トゥイードルディとトゥイードルダムのセブンスにやられて、殺されかけていた」
「あの人が……?」
「そうだ。朝になったらお礼を言っておくといい」
「…………」
つらそうに顔を歪め、アリスは小さく呟いた。
「見捨ててくれて、良かったのに……」
「…………」
ラフィはそれに対しては言葉を返さず、アリスに近づいてベッドの脇に座り込んだ。
「……教えて。あなたが知ってることを」
アリスにそう言われ、ラフィは頷いた。
「分かった。その覚悟ができているなら、僕が知っていることを君に教えよう」
「…………」
憔悴した顔で自分を見下ろしたアリスに、ラフィは静かに言った。
「ナイトメアは『セブンス』と呼ばれる超能力のようなものを使う。一体につきひとつ。オリジナルはセブンスを持っている」
アリスの脳裏に、帽子屋やハンプティ・ダンプティの姿がよぎる。
「オリジナルナイトメアには、それを構成する核がある。帽子屋のものを抜き取ったのを覚えているかい?」
「うん……」
「何故核を抜き取ったのか。それは、オリジナルは核さえ無事なら、何度でも無限に再生できるんだ」
ラフィが口にしたあまりにも無残な事実に、アリスは息を呑んで絶句した。
そして弾かれたように、戸棚に入っているはずのナイトメアの核の方を見る。
それを見てラフィは首を振った。
「大丈夫。復活させるためには相応の儀式が必要になる。僕達が持っている限り、再生はしない」
「…………」
「そして、ここからが重要なんだ。よく聞いてくれ。アリス」
ラフィは少女を見上げ、静かな声で言った。
「君にもセブンスが備わっている。その意味が……分かるね?」
アリスは目を見開いた。
そして胸を押さえ、言葉を発しようとして失敗する。
しばらくして彼女はまた俯き、小さな声で言った。
「私も……ナイトメアなんだ……」
ラフィは少しの間アリスを見上げていたが、やがて頷いて続けた。
「そうだね。君はナイトメアだ。そして君の中にいるバンダースナッチもナイトメアなんだ。君達アリスは、バンダースナッチを制御することができるというセブンスを持っている」
「どうして……教えてくれなかったの?」
ラフィはしばらく沈黙してから、淡々と答えた。
「君は記憶を失っていた。すなわち、君達はオリジナルの『原初アリス』のコピーナイトメアであるという、前提の事実を知らなかった。僕には、それが眩しかった」
「眩しい……?」
「生まれたコピーアリス達は、どこか諦めたような、達観した精神を持っていることが殆どだ。でも君は違った。恐怖するし、絶望もするし……喜んだりもする。僕は、そんな君を守りたいと思った。だから一緒にいた」
「…………」
「まるで、アーキアリスを見ているかのようだったんだよ」
「……アーキアリス……『本物』のアリスって、どういう人だったの?」
アリスがそう問いかけると、ラフィは丸い目で彼女を見上げた。
そして首を振ってから答える。
「それは違うよ、アリス。君達……いや、君は『偽物』なんかじゃない。確かに君達はアーキアリスのドッペルゲンガー、つまりシステムにより複製されたクローンのようなものだ」
「…………」
「でも、君達個々には『魂』がある。その魂はアーキアリスのものではない」
ラフィは息を吸ってから、はっきりと言った。
「君のものだ」
アリスは驚いたようにラフィを見た。
しかしすぐに視線を外して、自分の手を見つめる。
熱のせいかそれは揺らいで見えた。
「造られた存在……だとしても?」
「…………」
「ラフィに私の気持ちは分からないよ。私は……私は……」
黙り込んだラフィに向けて、アリスは両手で顔を覆って言葉を絞り出した。
「死ぬべきだったんだよ……」
ラフィは暫くの間沈黙していたが、やがて息をついて口を開いた。
「教えてあげるよ、アリス。このアポカリクファの終焉に向かう『世界』が一体何なのか。君に、それを知る勇気があるのなら」
「…………」
アリスは顔を上げ、涙に濡れた顔でラフィを見た。
そして震える声を発する。
「私には……その勇気がないよ……」
「…………」
「でも……」
少女は小さく震えながら続けた。
「多分、それを知らなければいけない……そうなんでしょ?」
「酷なことは分かってる。多分真実を知ったら、君はすべての希望をなくすだろう。でも、知らないと前に進むことはできない」
ラフィの無残な断言を聞いて、アリスは歯を噛んだ。
沈黙が流れる。
空調のゴウンゴウンという静かな音だけが部屋に響いていた。
やがて、アリスはラフィから視線を離したまま呟くように言った。
「……教えて。すべてを」
彼女の小さな声を聞き、ラフィは息を吸ってから声を発した。
「……この世界は、現実の世界ではない」
ラフィの言葉の意味を理解できずに、アリスはやつれた顔を彼に向けた。
「え……?」
「ここの正式名称は『M.R.O.S』……Mental Rescue Online System という」
「……何を……言っているの?」
「聞くんだ」
わななく少女の声を打ち消し、ラフィは淡々と続けた。
「この世界の『外』で、精神に重大な障害を負った人間の治療を目的としたシステムの中なんだ、ここは。つまりここは仮想現実。バーチャルサーバーの一つさ」
「…………」
「僕達は実体を持たないデータの一つ。そう、君も同じだ」
ラフィの言葉に、アリスは乾いた笑いを発して返した。
「そんな……嘘よ。私達がデータ……?」
「…………」
「だって体はここにあるじゃない……? あなただってここにいるじゃない? ほ、ほら……手を伸ばせば触れる」
ラフィに触れるアリス。
しかし黒猫は首を振った。
「そう思っているだけだ。僕達に実体は存在しない」
「…………」
言葉をなくして停止したアリスに、ラフィは残酷に続けた。
「この電子サーバーの中に、精神に傷を負った人間の意識をダウンロードして格納し、癒やす。そして癒えた後、現実世界の頭の中にエクスポート……『治療』する。ラビリンスとは、そのための医療機関の名前だ」
「癒やす……? こんな世界で……?」
アリスは黒猫の両肩を掴んで大声を上げた。
「こんな世界で何を癒やすって言うの!」
少女の叫びを間近で受けて、ラフィは顔色も変えずに言った。
「……この世界は壊れてしまった。五年前から、外部との連絡が一切絶たれている。僕にもその理由は分からない」
「…………」
「人を癒やすためのシステムは、格納されている人の『意識』を掴んで離さない『檻』と化した。ジャックも、フィルレインも、元はM.R.O.Sに格納された『治療』されている重病人なんだ」
「……そんな……」
「最も、ラビリンスに意識をダウンロードされた際には、過去の記憶の大部分は消されている。治療の妨げになるからね。故に、彼らはこの世界が電子の世界だということを知らない」
「残酷……すぎる……」
わななく声でそう呟き、アリスは手をラフィから離して俯いた。
「人の意識とは『魂』のようなものだ。魂がなくなったら人はどうなるか? ……そう、死ぬ。ここでの死は、おそらく現実世界での死にも直結する。そういう意味では、ここが虚構なのか真実なのかを、僕は断言することはできない」
「……私達……ナイトメアは、どうして生み出されたの……?」
「…………」
アリスの問いに沈黙を返し、ラフィは息をついた。
「……僕達は、患者を癒すためのプログラム生命体だ。でも、五年前にラビリンスに何かが起こり、システムが壊滅的な被害を受けた。そして大部分の治療システムが、逆に『人を殺す』ための動きをするようになった。黒い雨も、汚染された大気もすべてがそれだよ。アーキアリスもそれに巻き込まれて死んでしまった。もう……知っているのかな?」
問いかけられ、頷いたアリスにラフィは続けた。
「僕は暴走した治療システムの一人……現在『ナイトメア』と呼ばれているモノに一度殺された。しかし、死の瞬間にこの猫の意識に自分の情報を上書きして移動したんだ。だから、僕の本体はもう存在してない」
「それじゃ……私は一体何なの? アリスって何……?」
絞り出すようなアリスの言葉を受けて、ラフィは目を伏せた。
「それは……」
言いよどんだ末、彼は言った。
「アーキアリスが、死の間際にプログラムに干渉して怨念を作り出してしまった。君達の『器』は、それを浄化するために、僕がアーキアリスの情報をコピーして複製したモノだ」
「…………」
アリスは言葉を返すことができなかった。
自分達が『アリス』という存在を元にした『造られた存在』だということは、何となく分かっていた。
しかし、告げられた真実はそんなことだけでは収まりきらないほど残酷なものだった。
この世界さえも造られた『存在しない』仮想現実。
自分達は実体を持たないただのデータ。
囚われた人間達は、システムの崩壊により死を待つしかない。
誰もそれを、止められない。
「それが……」
アリスは絞り出すように言った。
「アポカリクファの終焉……」
「…………」
ラフィはしばらく沈黙した後、答えた。
「……そうだよ。終焉は必ず訪れる。ラビリンスシステムに構築されたこの世界は、既に自壊を始めている。たとえナイトメアを絶滅させたとしても、僕達にはそれを止めるすべはない」
「…………」
「いつかは消える。近い将来か、遠い未来かは分からないけれど。僕も、君も。この世界に存在している人間達も……ナイトメアでさえ。誰も終焉を逃れる事はできない」
アリスは考え込んで、口をつぐんだ。
そして沈黙してから小さな声でラフィに問いかける。
「……それはおかしいわ……ラフィ」
「…………」
「あなたは私を助けてくれた。いずれすべてが消えてしまうなら、そんなことをするはずがない。私を助けた……そこには希望があるから、あなたはそうした。違う?」
アリスの言葉に、今度はラフィが黙り込んだ。
少女は顔を上げてラフィをまっすぐ見つめた。
「私に、あなたはまだ隠し事をしてる。話していない……いえ、話せない事があるんだわ」
「…………」
「アポカリクファの終焉を……私達のオリジナルがもし『起こした』のだとしたら……」
アリスは毛布を強く握りしめた。
「その複製である私達が……私達だけがそれを止められるんじゃない? ……違うの?」
「…………」
「答えて……ラフィ!」
すがりつくようにアリスはラフィに向かって叫んだ。
そしてボロボロと涙を落として、両手で顔を覆う。
「……お願い……答えてよ……」
「…………」
「そうだって言って……お願いよ…………」
ラフィは答えなかった。
目を開いた姿勢のまま、どこか辛そうにアリスを見上げていただけだった。
やがて、だいぶ経ってから彼はポツリと言った。
「僕が話すことができる……いや……言い方を変えよう。『権限を与えられている』のはここまでだ。後はアリス、君が自分の目で見て、耳で聞き、頭で考え、判断して行動するんだ。僕はそれがどんな結末になるとしても、君の傍にいる」
「嘘よ……!」
アリスは歯を噛んでラフィを睨みつけた。
「……嘘じゃない」
「いいえ嘘だわ! あなたは私に嘘をついてる。騙して利用しようとしてる!」
少女はヒステリックに大声を上げ、ラフィから視線を離した。
そして腕から点滴をむしり取り、点滴台を苛立ちに任せて押し倒す。
凄まじい音がして点滴剤が床に散乱した。
「何をしている。やめるんだ!」
「ここから出ていって! あなたも所詮ナイトメアだわ! 邪悪な存在よ! もうあなたのことなんて見たくもない!」
「どうしたんだ。ヤケになるのはやめろ!」
「出ていって!」
耳を抑えてアリスは絶叫した。
彼女の声が部屋に反響し、ラフィはしばらく苦しみを顔に張り付かせたまま硬直していた。
アリスはもぞもぞと体を動かすと、毛布を頭まで被ってベッドに横になり、ラフィに背を向けた。
「……分かった。出ていくよ」
ラフィは呟くようにそう言って、ベッドから降りた。
「君をひどく傷つけてしまったようだ。悪かった。こうなることは分かっていたんだ」
「…………」
「でも一つだけ、これだけは信じて欲しい」
出口に向かって歩いていきながら、ラフィは言った。
「君は君の意思で動き、何かを決める権利を持っている。君の魂は誰のものでもない。君自身のものだ。大事にしてくれ」
「…………」
「そしてそれは、僕もまた同じことなんだよ」
とても寂しそうな呟きだった。
絶望と悲哀に満ちた声だった。
背後でラフィの気配が消えるのを感じながら、アリスは毛布の中で自分の体を抱き、涙を流していた。
言葉を返すことも、動くことさえも出来なかった。
もう、誰も信じることができない。
何もかもが怖くて、何もかもが絶望的だった。
世界さえも自分を許容しようとしてはくれなかった。
そうだ。
私は、私達はきっと。
ここにいては……。
…………いけないんだ。
◇
「どういうことだ? アリスは目を覚ましているんだろう?」
僧正の部屋で、意識が戻ったジャックが口を開く。
柱は修繕されていて、僧正はその緑色の液体の中で浮いていた。
フィルレインはまだ目を覚まさない。
車椅子に乗ったイベリスが、珍しく苦しそうな表情で頬杖をついていた。
ラフィが彼女の膝の上で口を開く。
「今は近づかない方がいいと思う。少なくとも、フィルレインの意識が戻るまではそっとしておいてやってくれ」
「しかし猶予がないことも確かです。迷っていられるだけの時間は、私達にはないのですから」
僧正が言うと、イベリスがため息をついて続けた。
「……双子もオリジナルナイトメアだわ。白騎士と白の女王を排除したこのシェルターに、他のナイトメアがコアを取り返しに大挙して押し寄せる可能性だってある。その時に、あの子の手助けを得られないのは『死』を意味するわね……」
「やはり私が説得してこよう」
ジャックが口を挟むが、イベリスは首を振った。
「あなたにあの子の深い絶望を癒やすことはできない」
「そんなこと……やってみないと分からないだろう!」
大声を上げたジャックを見上げて、イベリスは静かに言った。
「分かるのよ。私は、あの子と同じ素材から『造られた』んですもの」
「…………」
息を呑んだジャックを見て、しかしイベリスは語気を強くするでもなく、またため息をついた。
「……自分で乗り越えるしかないわ。それが出来なければ、何もかもから負けるだけ。残酷なようだけど、私達にしてあげられることはないと思う」
「そんな……見ていることしか出来ないなんて……」
ジャックは手を握りしめ、歯を噛んだ。
「残酷すぎるじゃないか……」
「…………」
彼に言葉を返さず、イベリスはラフィに視線を落とした。
「あなた達と私が持っている核は、『帽子屋』、『白騎士』、『白の女王』……そして『双子』の五つ。それで間違いはないわね?」
「ああ。だがそれゆえに、このシェルターは今、オリジナルナイトメアによる脅威レベルがものすごく高いと思われる」
ラフィが答えると、イベリスは顎に手を当てて考え込んだ。
「もし何らかのコトがあって、核が奪い返されたらそれこそ地獄よ。破壊することはできないのかしら……」
彼女の言葉に、ラフィは首を振った。
「それは無理だ。理由は君が一番良く知っている筈だ」
「…………」
イベリスは黙り込んで、息をついた。
「持っていることしか出来ないのか……」
ジャックがそう言うと、ラフィは顔を上げて彼を見た。
「残念ながらね。今のところ核に利用価値はない。だが、保持しておかないと、先に話した通りにオリジナルナイトメアは再生する」
「今までも沢山の『天使』……私達アリスのドッペルゲンガーが、ナイトメアと戦ってきたわ。その中でも、何人かは撃退にも成功してる。でも……」
「…………」
息を呑んだジャックに、イベリスは言った。
「その度に奪い返され、奴らは復活する。そもそもこれは、私達と奴らの絶望的なデスゲームなのよ」
「どうすればいい? その理屈から言うと、もうすぐ次のナイトメアがここを襲うという事になる」
ジャックが問いかけると、僧正が声を発した。
「……このシェルターを放棄するしかないと思われます」
「……何だって?」
目を剥いたジャックに、イベリスが続けて言った。
「ここに生き残っている人達と一緒に、列車で別のシェルターに避難する。ナイトメアの襲撃を振り切ってね」
「しかし……行くあてはあるのか? それに、逃げたとしても追われることにかわりはない」
僧正はそれを聞いて、少し沈黙した後言った。
「あてはあります。第十九シェルターという場所がまだ現存しています。そこにはもう一人、天使がいます」
「何だって……?」
ラフィが僧正を見上げて口を開いた。
「三人目のアリスか。まだ生き残っていたとは……」
「少なくとも、ここで襲撃を待つよりは建設的な案かと思うわ。私一人ですべてを守りきれるかと考えると……」
イベリスはそう言って、苦い顔をして俯いた。
その手が小さく震えていた。
「残念だけど、自信はない」
「…………」
ジャックはイベリスから目を離して僧正を見上げた。
「あなたはどうするんだ?」
「私も第十九シェルターに移動します。このシェルターの管轄システムである私がいなくなるということは、ここは完全に機能を停止します」
「なら……俺に考えがある。どうせ襲われる、廃棄されるシェルターなら試してみたいことがあるんだ」
彼の言葉に、イベリス達が顔を上げて彼を見る。
「試してみたいこと?」
イベリスに問いかけられ、ジャックは頷いた。
「ああ。列車は確か何台かあったな」
「え……ええ。三台保管されているわ」
「僧正も含め、戦える者以外を大至急避難させてくれ。すぐに準備に取り掛かりたい」
「それはいいけど……何をするつもり?」
「白の女王と戦ったときのことだ」
ジャックはそう言って指を立てた。
「俺たちが仕掛けた地雷で、あのバケモノが傷ついていた」
「……何ですって……?」
目を剥いたイベリスに頷き、彼は続けた。
「そこから導き出される結論はひとつ。ナイトメアは崩壊病にかかっていないと認識できないが『確かにそこにいる』……つまり、能力に関係なく通常の攻撃を当てれば、損傷を与えられるということだ」
「成る程……」
「そこで、このシェルターをまず空にして、襲ってきたナイトメアを中に誘い込む」
ジャックは真っ直ぐイベリス達を見た。
「そして、このシェルターごと爆薬で地下に埋めてしまう。よほどの能力でない限り、無駄な交戦も避けることができるし、それで倒すことができる可能性もある」
「ここをそのまま罠にするっていうわけね」
「ああ。敵も慎重に動いてくるはずだ。だから、早く準備を整えた方がいい。どうだろうか?」
僧正はしばらく考え込んでいたが、やがて静かに答えた。
「確かに、それ以上の策を打ち出すのは今は厳しいでしょう。分かりました。より詳しく協議したいので、各エリアの責任者達も大至急呼びましょう」
「あの子はどうするの?」
そこでイベリスが問いかけた。
僧正は、ジャックに向けて言った。
「ジャックさん、少しだけ……あの子と話をしてみてもらえませんか?」
「僧正……でもそれは……」
静止しようとしたイベリスの声に被せるように、僧正は続けた。
「あの子にはきっかけが必要だと思うのです」
「…………」
「それを作れるのは、もしかしたらあなただけかもしれません」
ラフィがイベリスの膝の上で、辛そうに顔を歪める。
ジャックは息をついて頷いた。
「分かった。任せてくれ」
「ナイトメアの襲撃が間もないかもしれません。急いで行動を始めましょう」
頷いてイベリスが車椅子を操作する。
ラフィは苦痛に顔を歪めながら、ジャックのことを凝視していた。
◇
暗い部屋の中で、アリスは入り口に背を向けて、ベッドに横になっていた。
ジャックがドアをノックしてから部屋に入り、電気のスイッチに手を伸ばしてから、それをつけるのをやめる。
そして彼は、足を踏み出してアリスに近づいた。
アリスは足音を聞いてビクッと体を震わせたが、振り返ろうとしなかった。
ベッド脇の椅子に腰を下ろし、ジャックは口を開いた。
「無事で安心したよ、アリス。体は、どこか痛いところはないか?」
静かな彼の声を聞いて、アリスはしばらく沈黙した後、背を向けながら小さな声で答えた。
「……私は大丈夫」
「そうか……」
「バンダースナッチってすごいの。多分そのせいだと思うんだけど、傷の治りが早いんだよ……信じられないくらい」
「…………」
「縫われた傷なんて、もう塞がっちゃった……体はどこも痛くないし……大丈夫、だと思う……」
ジャックは手を伸ばしてアリスの頭を撫でようとしたが、思いとどまって動きを止めた。
そしてしばらく辛そうに顔を歪めてから、手を引っ込める。
「……なぁ、アリス。このシェルターは放棄されることになったよ」
「…………」
「ナイトメアがもうすぐ襲ってくる。シェルターごと、奴らを撃退しようっていう作戦だ」
「私……また戦うの?」
小さな声で問いかけられ、ジャックは首を振った。
「…………いいや。違う」
「…………」
「言っただろう。君は私が守る。だから、アリスがもう、戦いたくないんなら、戦わなくてもいいんだ」
「…………」
「……もうすぐ市民が列車で避難する。君もそれに乗って目的地まで、先に避難してくれ」
アリスはそこではじめて、憔悴した顔をジャックに向けた。
涙のあとがついた顔を見て、ジャックは口をつぐんだ。
「……でも、私が戦わないと同じことだと思うよ」
端的な呟きは、ジャックの胸を抉ったらしかった。
彼はしばらく下を向いていたが、やがて息をついてポケットから薬の小箱を出した。
「大丈夫だ。私には切り札がある」
「…………?」
不思議そうにそれを見たアリスにジャックは続けた。
「崩壊病の治療薬だ。私はこれを摂取することで自ら崩壊病になった。もう……ナイトメアを認識することができる」
静かなその言葉を聞いて、アリスは目を見開いた。
そして体を起こして、ジャックを見る。
「え……?」
「余命がどのくらいあるのかは分からないが……先に君が殺したナイトメア、白騎士の持っていた武器も、ある程度なら扱えるようになった。だから……」
ジャックはアリスに対して、にっこりと微笑んでみせた。
「もう君は、戦う必要はない。私に任せて、逃げるんだ」
「…………」
アリスは震える手を伸ばした。
そしてジャックの片手を両手で包み込み、しばらく沈黙する。
俯いて、彼女は小さく震えだした。
「…………」
沈黙しているジャックに、アリスはかすれた声を投げかけた。
「どうして……? 崩壊病って……治らないんだよね……」
「…………」
「ジャックさん、死んじゃうよ……? どうして……?」
この世界は。
どっちみちもう。
――滅んでしまうんだよ。
その言葉を、アリスは続けることができなかった。
唇を噛んで目を閉じる。
ポタポタと涙が流れ落ちた。
「私は……私は何もできないよ……ジャックさんを助けることも、誰かを救うことだって……自分の足で、立ち上がることもできないよ……私は……」
「…………」
「ここにいたくない……ここにいちゃ、いけないの……多分……」
ジャックは彼女をしばらく見ていたが、やがて手を伸ばしてその痩せた体をそっと抱きしめた。
そして頭をゆっくりと撫でてやる。
「いいかい、アリス。よく聞くんだ」
「…………」
自分の服にしがみついたアリスを抱きしめながら、ジャックは続けた。
「ここにいたくないなら、逃げればいい。どこまでも、どこまでも逃げるんだ」
「…………」
「君には、その権利がある」
「…………」
「君自身が決めるんだ。逃げる場所がないなら、私が作ろう。だから君は、もう気負わなくてもいい。苦しまなくてもいい。逃げるんだ」
言葉を返せずに震えるアリスに、ジャックは静かに言った。
「今から一時間後に、一つ目の列車が出る。そこまで送ろう」
「…………ジャックさん、でも…………」
言いよどんで、アリスは口をつぐんだ。
そして歯を噛んでジャックの服を更に強く握りしめる。
「ジャックさんも逃げよう……? 私と一緒に……」
ジャックは微笑んで、アリスの頭を撫でた。
「それはできない……誰かが、ここに攻めてくるナイトメアの足止めをしないと」
「……どうしてジャックさんなの……? 誰か他の人がやることはできないの? ジャックさん、崩壊病に……」
そこまでアリスが言ったところで、ジャックは彼女を強く抱いた。
そして驚いて硬直した彼女を数秒間、温かさを刻みつけるように包み込む。
「……さよならだ、アリス。逃げてくれ。安心するんだ。君のことは私が必ず守るから」
「ジャックさ……」
プシュ、という音がした。
呆然と停止したアリスの首筋に、小さな空気で針が飛び出すタイプの注射器を、ジャックは押し付けていた。
中の液体が彼女の体に注入されたのか、なくなっている。
「え……?」
「ゆっくり眠っていてくれ。列車まで、私が運ぼう」
アリスの小さな体を抱き上げ、ジャックは微笑んだ。
「怖い敵は、私が倒すから」
「そん……な……」
そこでアリスの意識は、急激に、暗い絶望の淵に落ち込んでいった。
◇
「列車は出たのか?」
ジャックに問いかけられ、ゆらぎの足で地面を踏みしめ近づいてきたイベリスは頷いた。
「ええ。あの子もちゃんと乗せたわ」
「ラフィは……ついていってくれたようだな」
手に持ったダーインスレイブを地面に刺し、彼は脇に立ったイベリスを見下ろした。
「……君も行かないで良かったのか?」
それを聞いて、イベリスは鼻を鳴らした。
「私まで離脱したら、あなたの生存確率はゼロになるわよ」
「…………」
ジャックはダーインスレイブの柄を握りしめて、前を睨みつけた。
「……それでいい。君も、ナイトメアの撃破を確認したら私には構わずすぐに列車を追うんだ」
「……それについてはノーコメントよ。私も無事に戻れるか、どうも自信がないのよ。本当のところ」
イベリスは端的にそう返し、目の前の暗い森を見た。
太陽はもう落ちており、かろうじてシェルター外側のライトに照らされて、薄暗く見えている。
白の女王を迎撃した時に爆発し、抉れた地面の惨状はそのままだった。
シェルターの外側で、ジャックは防護服を着て前を睨んでいた。
イベリスはシャツにスカートという軽装だ。
「……来ると思うか?」
ジャックに問いかけられ、少女は押し殺した声を返した。
「さっきから、バンダースナッチがすごくざわついてる。多分、あっちは私達の存在に気づいてる」
「気づいていて姿を見せないというわけか……厄介だな。どういう能力なのかが全く読めん」
「難しいことはないわ。何かの予兆があったら、シェルターの中に逃げ込むわよ」
「分かってる」
小声でやりとりをした二人は、背中合わせの姿勢になり、腰を落とした。
「その剣は何回触れるようになったの?」
イベリスに聞かれ、ジャックは小さな声で返した。
「三……いや、四回までは……」
「OK。十分よ。後は作戦通りにできるかどうかだけど……」
そこまで言って、彼女は抉りこむような痛みを頭に感じ、呻いて膝をついた。
「どうした!」
「何……この憎悪……怨念の量……」
小さく震えながら、少女は周りを見回した。
「……尋常じゃない……!」
「敵がいるのか? どこだ!」
ダーインスレイブを地面から抜き、ジャックは構えて周りを見回した。
サヤサヤと森の木の葉が揺れる。
そして、次々に……雪のように葉が落ち始めた。
樹々が段々やせ細っていき、枯れ木になって朽ちていく。
「何だ……?」
唖然としてその光景を見る二人だったが、樹木の枯れ木化は止まらなかった。
徐々にその波がシェルターに近づいてくる。
チリン……とそこで、鈴の音が聞こえた。
剣をそちらに向け、ジャックが目を凝らす。
長い杖のようなものを持った人影が、森の奥からこちらにゆっくり近づいてきていた。
その杖で地面をトン、と叩くと、一斉に周囲の樹木が枯れ木に変わった。
そしてまた数歩足を進めて杖で地面を叩く。
老婆……のように見えた。
しかし頭が異様に大きい。
ボコボコに腫瘍のようなコブが浮かんだ醜い顔面だ。
ギョロギョロとした目を周囲に向けながら、彼女はもう片方の手で被っていた帽子の位置を直した。
羽がついた小奇麗な帽子。
そして中世貴族のようなスカートドレスを纏っている。
赤い服だった。
「赤の女王……?」
そちらを見たイベリスが歯噛みする。
「知っているのか……?」
「ナイトメアの中でかなり凶悪なやつよ。私もどういうセブンスなのかまでは知らないけど……」
赤の女王は、こちらに向かって臨戦態勢をとっているジャックとイベリスを見ると、少し離れた場所で足を止めた。
そして杖をコォン、と地面に打ち鳴らす。
その音は周囲に反響し……彼女が立っている場所から半径十メートル程の範囲。
その地面がグズグズの沼になり、沸騰を始めた。
気泡がボコボコと弾け、異様な臭いがあたりに充満する。
後ずさってその沼から離れた二人に、中心部に浮き上がるように立った赤の女王は口を開いた。
「……足りないねェ……ハンプティの話じゃ、アリスは二人ってことだったよ」
しわがれた声を発し、飛び出しそうな目で二人を見るバケモノ。
「……中にいるのかえ? なあお二人さん。怪我でもして出てこれないとか……そういうことかね?」
ニンマリと裂けそうな程口を開いて笑い、「それ」は続けた。
「じゃあ、遠慮なく狩らせてもらうとするかね」
「十分よ……中に入るわ!」
そこでイベリスが小さな声で言い、ジャックの手を引いた。
ハッとしたジャックが赤の女王から視線を離し、腰に下げていた手榴弾のピンを抜きざまに、それに投げつける。
放物線を描いて飛んできた凶器を見て、赤の女王は首の骨をコキコキと鳴らした。
次の瞬間、その眼前で手榴弾が炸裂した。
凄まじい爆炎と空気を破裂させる音。
そして榴弾があたりにばらまかれる。
しかしそれらすべては、赤の女王の体に当たる寸前でグズグズのヘドロのようになり、流れ落ちて消えた。
「…………」
煙が収まり、無傷のバケモノが顔を上げる。
彼女は周りを見回したが、ジャックとイベリスは既にシェルターの入り口に移動していた。
ジャックがダーインスレイブを片手で握りながら、歯を噛む。
そして彼はボタンを押してシェルターの入り口、そのシャッターを閉じた。
閉まる寸前、憎しみに歪んだ瞳を赤の女王に叩きつける。
完全に閉まったシェルターを見て、ナイトメアはニィヤリと笑った。
「何やら考えているようだが……果たしてその努力は報われるかねェ……」
ヒッヒッヒと笑いながら、彼女は沼を踏みしめて歩き始めた。
「Oh,Happy...day...」
小さな声で歌いながら、シェルターに近づく。
その目が真っ赤な血の色に染まり、鈍い光を発した。
◇
ガタン、ゴトン、という電車の音が聞こえた。
アリスは目を開いた。
頭が沼にでも落ち込んだように淀んでいて、視界が薄ぼんやりとしている。
「…………」
頭を押さえて起き上がる。
見覚えある列車の一室だった。
その角のベッドに寝かされている。
靄がかかった思考を無理やり集中させ、前後のことを思い出そうとする。
そこでアリスは、電撃に撃たれたようにジャックのことを思い出し、毛布をはねのけて立ち上がろうとした。
しかし電車の揺れに足を取られ、ふらついてその場にへたり込んでしまう。
体に力が入らなかった。
――ジャックさんだ。
彼が、自分に何かをしたのは明白だった。
眠り薬でも注射されたのだろうか。
今は、あの話をした時からどのくらい経った?
一日? 二日? 一週間……?
心に冷水を浴びせられたかのように青ざめて硬直する。
ジャックさんはどうしたんだろう?
ナイトメアに殺されてしまったんだろうか。
壁に寄りかかって、這うようにして立ち上がる。
「行かないと……」
自分を鼓舞するように呟いて、列車室の扉に近づく。
「助けに……行かないと……」
しかしまた揺れに足を取られ、アリスは盛大にその場に倒れ込んだ。
頭を床にぶつけ、しばらく痛みに呻きながらうずくまる。
そして彼女は、そのままの姿勢ですすり泣いた。
……辛かった。
苦しかった。
もう、訳が分からなかった。
戦ったとしても、この世界はもうじき消える。
そうしたら、自分達、実体を持たない「データ」はどうなってしまうんだろう。
一緒に……もろとも消えてなくなるのだろうか。
それは何よりも恐ろしく。
何よりも残酷なことだった。
勝っても負けても、いずれ自分は消えてなくなる。
守っても守らなくても……。
顔を覆って子供のように泣く。
声を上げて震えているところで、列車の扉が開いて、フィルレインが顔を出した。
そしてうずくまっているアリスに慌てて駆け寄り、しゃがみ込む。
「アリス様……!」
フィルレインにしがみついて、アリスは言葉を絞り出した。
「フィル……! ジャックさんは……」
「…………」
「ジャックさんはどうなったの!」
耳元で叫ばれ、フィルレインは歯を噛んで、アリスの肩を掴んだ。
そしてまっすぐ彼女の目を見て口を開く。
「アリス様、よく聞いてください」
「…………」
「ジャック様とイベリス様は、あなたを逃がすためにシェルターに残ったそうです。数時間前に別れて、この列車は出ました」
絶句したアリスに、彼女は続けた。
「既に数百キロは離れています」
「嘘……嘘よ……」
アリスはガクガクと震えながら、フィルレインの服を掴んだ。
「ジャックさん……死んじゃうよ……? どうして……? 私……」
「落ち着いてください」
しかしフィルレインは静かにそう言うと、アリスの目を見つめた。
「ジャック様達は、あなたに希望を託しました。あなたが先に進み、敵を斃すための未来を作りました」
「…………」
「立ちましょう、アリス様。あなたは、前に進むべきです」
アリスはしばらく唇を噛んで黙り込んでいた。
そしてフィルレインの服から手を離し、俯く。
「……みんな勝手だよ……」
寂しそうな呟き声が、空中に紛れて消えた。
彼女は歯を噛んで拳を握ると、フィルレインに向かって叫んだ。
「勝手だよ……! ジャックさんも……ラフィも……あなただって! 結局は私を戦わせたいんだ。そうなんだ!」
「アリス様」
そこでフィルレインは口を挟んだ。
その顔が悲痛に歪んでいるのを見て、アリスは口をつぐんだ。
「……ジャック様は、そう仰っていましたか?」
静かに言われ、アリスは停止した。
その目からボロボロと涙が流れ落ちる。
彼女は顔を手で覆い、大声で泣き喚いた。
そのアリスの頭を抱き、フィルレインは優しく撫でた。
しばらくしてアリスが嗚咽して歯を噛み締めたのを見て、フィルレインは口を開いた。
「……向かっているシェルターには、もう一人、天使様がいらっしゃいます」
「え……?」
「その天使様には、特別な力があると聞きます。もしかしたら、力になってくださるかもしれません……」
自信なさげに、フィルレインの声が尻すぼみになって消える。
アリスは彼女の顔を見上げて口を開いた。
「どのくらいで……」
「…………」
「どのくらいでそこに着くの……?」
「……あと五時間は……」
壁の時計を見上げ、アリスは歯噛みした。
――私のせいだ。
私が一人で苦しんで、周りを拒絶したからだ。
心の中にドス黒い絶望が湧いてきたが、アリスはそれを無理矢理に飲み込んだ。
「ジャックさん達と連絡は……?」
「これだけ離れれば、無線も使えません。列車を止めるわけにもいきません。市民が大勢……ですから、目的地に向かう以外の選択肢は……」
アリスは小さく息を吸って、吐いた。
助けなければ。
一刻も早く。
だが、その手段は今はない。
自分一人では、どうしようもない
「……フィル、私……間違ってた……」
アリスは小さな声で、呟くように言った。
「アリス様……」
「私は、戦わなきゃいけないんだ」
彼女に掴まって、アリスは歯ぎしりしながら立ち上がった。
「私はジャックさんと……イベリスさんを助けなきゃいけない。だからすぐに戻らないといけない……」
「…………」
「誰に言われたわけでもない……私は、私の意思で二人を助けたい。だから……」
アリスはフィルレインの肩を掴んで、悲痛な声を絞り出した。
「私を『助け』て、フィル……!」
◇
「何だあの力は……!」
隔壁を降ろし、外界とシェルター内を隔絶してからジャックは押し殺した声を発した。
シェルター内壁の開けたホールで、ジャックとイベリスはゆっくりと後ずさった。
既に列車は出て数時間。
市民とアリスは安全な場所まで退避したはずだ。
薄暗く明かりがつき、シェルターがまだ稼働しているのは、予備電源が動いているからだった。
僧正も列車で退避しているはずだった。
「……分からない……おそらく、何らかのトリガーでエネルギーを吸い取るか……腐敗させるか……いずれにせよまだ近づかないほうがいいわね」
「攻撃はしない方がいいか……」
ダーインスレイブを右手で握りしめ、ジャックは言った。
イベリスが頷き、シェルターの入り口と対角側のエレベーター内に入る。
そして停止ボタンを押しながら、ジャックもそこに入るのを待った。
「赤の女王を指定ポイントまで誘導するわ。それまで、私もあなたも奥の手は見せない方がいい。あいつ一体で襲ってきているとも限らないし……」
「伏兵がいる可能性もあるわけか……」
「そういうことね。ナイトメアには知能がある。何をしてくるのか、読み切るまで近づくのはベターではないわ」
「なるほどな……隔壁はどうするんだ?」
「破ってくればそれでいいし、入ってこれないならそれに越したことは……」
イベリスがそこまで言った時だった。
降りていたシャッターが、周囲の壁ごとドロリと溶けた。
真紫色に変色をし、ヘドロのようになって流れ落ちていく。
「……そんな悠長なことも言っていられないようね……」
舌打ちをして、イベリスは溶けた隔壁を踏みしめて、シェルター内に足を踏み入れた赤の女王を睨んだ。
離れたエレベーター内に二人を見つけたナイトメアは、裂けそうな程に口を開いて笑うと、杖と鈴の音を鳴らしながら、老婆の足を踏み出した。
障害を意にも介さずにゆっくりと近づいてくる敵を見て、ジャックがダーインスレイブを構える。
「……まだよ。下がって」
イベリスが小さくそれを静止し、エレベーターのボタンを離す。
扉が閉まり、二人を乗せたエレベーターは下降を始めた。
少女はコントロールパネルの、外部からの操作を切るボタンを押した。
「私達の目的は時間を稼ぐことよ。相手が機敏に動けないタイプなら好都合。このままゆっくりと指定ポイントまで誘導する」
「分かってる」
そう言ってジャックは、ヘルメットを脱いで脇に置いた。
そしてポケットから崩壊病の治療薬を取り出して口に入れる。
噛み砕いて飲み込んだ彼を見て、イベリスは言った。
「……一つ聞いてもいいかしら?」
「何だ?」
「……あなたにとって、あの子……アリスは、崩壊病にかかってでも、守りたいものなの?」
「…………」
ジャックは薬箱をポケットに戻してから、ダーインスレイブを持つ手と逆の手でハンドガンを握った。
しばらくそれを弄びながら、彼は口を開いた。
「……何故だろうな。自分でもよく分からない」
「…………」
「最初は、娘に似ていると思った。一緒に暮らしていて、ナイトメアに引き裂かれて殺されてしまった娘に。守らないといけないと思った。しかし……」
ジャックは息をついて、ダーインスレイブを握る手に力を込めた。
「私は何一つとしてあの子を守れていなかった。あの子の気持ちを踏みにじり、力も及ばず、何もしてやれなかった。だから……」
「代わりに死んであげることは、あの子を守ることではないわ」
イベリスに淡々と言われ、ジャックは口をつぐんで彼女を見た。
エレベーターがとまり、扉が開く。
「あの子を守りたいなら、生き残って側にいてあげて」
「…………」
「女性ってそういうものよ」
ジャックに背を向け、イベリスはゆらぎの足を踏みしめて薄暗い地下ホールに足を踏み出した。
ジャックは息をついて彼女を追った。
すぐ隣は列車の発着駅だ。
作戦は、ホールにナイトメアが入った時点で、各所に仕掛けた地雷を起爆。
崩落を誘発し、そのまま閉じ込めてしまう。
そして自分達は残っている列車で脱出というシナリオだ。
しかし、ジャックには実のところ、離脱するつもりは全くなかった。
イベリスに指摘されて、口ごもってしまったのはそういうわけだった。
彼は死ぬつもりだった。
刺し違えてナイトメアにとどめを刺し、アリスの後方の憂いを断つつもりだった。
(私は……)
ダーインスレイブを握る手に力をこめ、ジャックは歯を噛んだ。
(あの子のために……)
指定の退避ポイントで足を止め、イベリスが振り返る。
そして彼女はジャックに言った。
「……私には好きな人がいたわ」
唐突な言葉に、ジャックは足を止めて彼女を見た。
「え……?」
「意外? ドッペルガンガーにも、人を好きになる権利くらいはあると思うけど」
イベリスはそう言って息をつき、続けた。
「白の女王は何度かシェルターを襲撃してきていたの。一度……私はあいつを追い詰めてね。でも駄目だった」
「…………」
「力が及ばなくて。結局は最後、私が愛していて……私を愛してくれていた人を人質に取られちゃった」
寂しそうに小さく笑い、彼女は設置されていたベンチに腰を下ろした。
「私は守れなかったわ。好きな人を。目の前で八つ裂きにされて、足もむしられちゃった……バカみたいでしょ?」
ジャックはイベリスから視線を離した。
そして天井を見上げる。
「それでも君は、まだ戦い続けている」
彼の小さな呟きを聞いて、イベリスは口をつぐんだ。
そしてしばらく沈黙してから、かすれた声で言った。
「本当は守りたかった。ずっと一緒にいてほしかった。私を助けるために、敵に突撃なんてしないで……一緒に逃げてほしかった」
ジャックは弾かれたようにイベリスの方を見た。
「でも、死んだわ。もういない」
淡々とそう言って、イベリスは大きく伸びをした。
「守れなかった事実は消えないわ。死んだという事実も消えない。どうすることもできない。でもね……想いだけはいつまでも残るわ」
「…………」
「死んだら、一番苦しむのはアリスよ。それをあなたは分かっていない」
「だが……」
ジャックは口ごもった後、続けた。
「……だが、誰かがやらねば」
「…………」
「あの子は笑うことも、幸せになることもできない」
「…………」
イベリスはベンチから立ち上がり、天井を見上げた。
その髪がざわざわと動き、風も吹いていないのになびき始める。
「その通りね……ええ、その通り。誰かが犠牲にならなければ、誰かを助けることはできない。あなたの言うとおりね」
「…………」
ジャックは腰のホルスターにハンドガンを挿し、両手でダーインスレイブを構えた。
そして天井を見上げる。
「忘れて。ドッペルゲンガーのただの戯言よ」
イベリスがそう言った瞬間、少し離れた場所の天井がドロリと『溶け』た。
円形に溶けた天井は、グズグズに沸騰したドス黒いヘドロとなり、ボチャボチャと音を立てて床に垂れ下がり始めた。
それが当たった床の部分も沸騰し、次第に沼のような光景が形成されていく。
「侵入されたわね……あなたは下がって。可能な限りダーインスレイブは使わないで」
「分かった。君は?」
「応戦する」
短くやりとりをして、二人がじりじりと後退する。
やがて赤の女王がヘドロにまみれてボチャリと沼に落ちてきた。
そして浮かび上がり、体中から溶けた建物の建材を垂らしながら、ニィィ……と笑った。
そして二人を指差し、飛び出しそうな目でギョロギョロと見る。
「……ヒトの気配がないな……お前達二人の鼓動しか聞こえない……逃したね? もう一人のアリスと……ここに暮らしてた沢山の肉袋達を」
ケタケタと嗤い、赤の女王は面白そうに杖で沼を掻いた。
「そっちはハンプティとジャバウォックに任せるとするかね」
「何……?」
ジャックが声を上げ、イベリスと顔を見合わせる。
……読まれていた?
ハンプティとジャバウォックと言った。
もし他のナイトメアがアリス達の乗った列車を追っているとしたら……。
「く……」
ジャックは歯を噛み締め、ダーインスレイブを構えてイベリスの脇に並んだ。
「……落ち着いて。誘導尋問よ。冷静に」
イベリスが小声でそう言って、ゆらぎの足で地面を踏みしめて声を張り上げる。
「……そんなことどうでもいいんじゃない? 下劣なナイトメア」
呼びかけられ、赤の女王は目玉を回しながら首の骨を鳴らした。
「へェ。小娘……お前かい? ハッターを殺したのは」
「…………」
イベリスはニヤァ、と笑って肩をすくめた。
「さてね……?」
馬鹿にするような声を聞いて、赤の女王の動きがピタリと止まった。
彼女はイベリスをしわがれた指でさし、打って変わった低い声で威圧するように言った。
「……お前ではないな。ハッターを殺したアリスの行き先を吐きな。あたしが用があるのはそいつだ」
「嫌だ……と言ったら?」
ヘラヘラと笑いながら、挑発するようにイベリスが言う。
赤の女王は僅かに眉を潜め、ジャックのことを指差した。
「その男の四肢を、お前の前でもいでやろうか?」
それを聞いて、イベリスのヘラヘラ笑いが止まった。
赤の女王は鼻を鳴らし、歯を噛んだジャックの方を見て目を細めた。
そして杖を軽く振る。
「図星かね。お前、『白』が足をもいだアリスだろう? 話は聞いてるよ……お前の足は特段『美味し』かったからねェ……」
イベリスが目を見開いて、砕けんばかりに歯を噛む。
握りしめた拳が小さく震えていた。
「おやおや? 怒っているのかね? それとも絶望しているのかね? 涙を浮かべて惨めだねェ……おっと……」
ニヤニヤ笑いながら、赤の女王は沼に手を入れた。
そして中から半ば白骨化した人間の遺骸を抜き出す。
その頭を鷲掴みにし、彼女はブラブラと振ってみせた。
「『コレ』だったかねェ?」
「……何だ……?」
ジャックが小さく呟く。
イベリスは自分を抑えるように、必死に拳を握っていた。
その手の平に爪が刺さっているのか、ボタボタと赤い血が流れ落ちている。
「……イ……イ……ベ……リ……」
呆然としている二人の前で、白骨死体が小さく震えた。
そしてボロボロになった口を開いて、ガクガクと揺れながらイベリスの方に手を伸ばす。
「…………え…………?」
イベリスはその『声』を聞いて硬直した。
そして口元に手を当てて、息を呑む。
顔が急激に蒼白になり、そして彼女は数歩後ずさった。
「寒……い……何……も…も………見え……な、い……」
か細い声がホールに反響する。
「嘘……嘘だ……」
ブルブルと震えながら、イベリスは両手で頭を抱えた。
「そん……そんな……」
「どうした? イベリス!」
ジャックの声が聞こえていないかのように、イベリスは白骨死体に向けて絶叫した。
「アルベール……! どうして……!」
ケタケタケタと笑い、赤の女王はイベリスが『アルベール』と呼んだ呻く白骨死体をブンブンと振った。
「アアアアアアガアガアアアアアア……」
「こいつか! こいつだったかい! ヒャハ! 『白』から『食べカス』を貰っておいてよかったよォ!」
けたたましい声で笑いながら、赤の女王が怒鳴った。
「おおお愛しの『アルベール』ゥゥ……こんな姿になっちまってねェェェ……!」
ズルズルと沼から白骨死体を引き出し、赤の女王はゴミでも投げ捨てるかのように前に放った。
四肢がなく、ダルマのようになった白骨死体は、目玉が飛び出た眼窟を周りに向け、震えながら呻いた。
「イベ……リス……どこ……だ……どこ……なん……ああ……ガガ……ゴゴ……」
「『食べカス』……? 『白』から……? ……う、う……嘘……そ、そんな……そんな……あああ……」
イベリスはよろよろと足を踏み出し、絶叫した。
「……嘘よ……!」
「嘘ォ? ……嘘かねェ……」
ニヤニヤと笑いながら、赤の女王は杖を振り上げ、思い切り白骨死体に向けて振り下ろした。
陰惨な悲鳴が響き渡り、アルベールと呼ばれたそれがガクガクと泡を吹いて揺れる。
「ギャアア……アアア……ガガガ……」
「嘘だってよォ! お前が! 嘘なんだって言ってるよォ! ヒャハ! ヒャハハハ!」
「アガ……! ガガ……」
体中を殴りつけられ、痙攣しながらアルベールが地面に伏せる。
「ころ……して……殺して……」
しゃっくりのような音を出し、彼はかすれた声を発しながら震えていた。
そして、偶然なのかイベリスの方に手を伸ばし、見えていない眼窟で訴えかけるように声を絞り出す。
「お……ね、ねが……いだ……殺して……くれ……おねが……いだ……」
口元に手を当てて呆然と硬直しているイベリスを見て、あまりの光景に言葉を失っていたジャックが慌てて彼女の肩を掴んだ。
「イベリス、しっかりしろ!」
「嫌よ……そんな……そ、そんな……ひどすぎる……こんなの……ああ……」
ブルブルと震えながらアルベールを凝視しているイベリス。
赤の女王は杖を振り上げ、アルベールの背中に突き立てた。
また絶叫が響き渡り、ナイトメアはそれをグリグリとねじ込んで嗤った。
「ヒヒヒ……殺してくれと言っているぞォ? お前の愛しいアルベールは、死なせてくれと言っているぞォォ?」
「や……やめて……」
イベリスはそこで我に返って、青くなって赤の女王に向かって叫んだ。
「やめて! アルベールに……もう酷いことしないで……」
ニヤニヤと笑いながら赤の女王が、舐め回すようにイベリスを見る。
「お願い……お願い…………お願いします……」
膝をついて震えながら、イベリスは赤の女王に言った。
そのゆらぎの足が歪み、弾けるようにして消える。
完全に戦意を喪失した相手を見て尚、赤の女王はアルベールに刺した杖を抜かなかった。
そして鼻を鳴らして足を上げ、彼の頭を踏みつける。
「……やめてええ!」
イベリスが絶叫する。
――彼女は戦えない。
それをいち早く察したジャックが、慌ててその小さな体を片手で掴み上げる。
そして飛び退った二人のいた場所に、赤の女王の足元の沼が盛り上がり、巨大なヘビのようになって吹き上がり襲いかかった。
目の前の地面に紫色の沼が突き刺さり、白い煙を上げて大きな穴を開ける。
「く……!」
歯を噛んで後ずさったジャックの前で、ヘビが突き刺さった場所が沸騰し、またもう一つの沼を形成した。
そこが盛り上がり、ヘドロの蛇が鎌首をもたげる。
「イベリス! 意識を集中させるんだ! バンダースナッチを出せ!」
ジャックに怒鳴られ、しかしイベリスは震えて頭を抱えるばかりで反応ができない様子だった。
ジャックは彼女を地面に下ろすと、庇うように前に立ち、ダーインスレイブを沼蛇に向けて構えた。
(どうする……?)
ぐちゃぐちゃな思考を無理やり現実に引き戻す。
赤の女王が沼の中から出した人間はまだ『生きている』のか、『死んでいる』のかは分からないが……。
あれが、イベリスを庇って殺されたと思われていた男性、アルベールという人間であることは、あの光景が幻覚でなければ合致している可能性が高い。
イベリスは目の前で彼を殺され、自分も足を千切られたと聞く。
戦えない。
戦えるはずがない。
(卑劣だ……)
歯を強く噛みしめる。
おそらくあのナイトメアは、イベリスがこのシェルターにいることを知っていた。
知っていて準備をしてきたのだ。
効率よく狩りをするため。
もしくは……いたぶり嬲るため。
ダーインスレイブを強く握りしめ、ジャックは息を吸って、吐いた。
――そうはさせない。
させてなるものか。
絶対に、この子達をこれ以上苦しめることを。
――許してなるものか。
ダーインスレイブを構えたまま、腰を落とす。
そしてジャックは静かに言った。
「イベリス、そこで私を見ているんだ」
恐怖と絶望、そして涙でぐちゃぐちゃになった顔で少女がジャックを見上げる。
「君も、君の大事な人も。必ず私が助けてみせる。だから……!」
沼蛇が鎌首を上げてジャックとイベリスに襲いかかった。
ジャックは長剣の切っ先で地面を削りながら、大きく横薙ぎにそれを振るった。
沼蛇が胴体の部分から両断され、斬撃はそこで止まらず、赤の女王に向かって吹き飛んだ。
表情一つ変えずに、邪悪なナイトメアが沼に沈みこむ。
その頭上を通過した斬撃は、シェルターの壁に突き刺さり、数メートルも隔壁を抉って、空気の炸裂する音とともに爆発した。
土煙と空気の渦が吹き荒れる。
「泣くな! 私が助ける!」
ものすごい量の汗を浮かべながら、ジャックが雄叫びをあげてダーインスレイブを持って沼に向かって走り出す。
「なるほど……白騎士の『総てを断つ剣』かえ。厄介な代物を使っておるな……」
沼から頭だけを出し、赤の女王が小さく呟く。
沼ごと両断してやろうと、ジャックが長剣を振り上げ、それに踊りかかった。
「だが甘いのォ。やはり人間だなァ」
赤の女王はニヤァ、と笑うと、手を上げて指を鳴らした。
今にもダーインスレイブを振り下ろそうとしていたジャックの足に、そこで激痛が走った。
「ぐっ……」
思わず動きを止め、剣を取り落とす。
ガラン、とくぐもった音を立ててダーインスレイブが地面に転がった。
足首に凄まじい痛み。
振り返ったジャックの背筋に悪寒が走った。
自分の足に絡みつくように、アルベールの体がすがりついていたのだ。
その歯が足首に突き刺さっている。
「アアア……ガガガ……」
呻きながらアルベールはジャックの足を噛んでいた。
凄まじい力だった。
肉が千切られてしまいそうだ。
振り払おうとしたジャックだったが、足に噛み付いた「それ」は骨まで砕かんばかりの力で絡みついてくる。
たまらず地面に転がり、ジャックはそれでもダーインスレイブに手を伸ばした。
操られているのか……!
心の中で舌打ちをする。
どうする?
頭の中をグルグルと思考が回る。
ダーインスレイブを振るえるのは、多くてあと三回。
敵は目の前だ。
しかし……。
足に絡みつくこの人を、自分はどうしてあげることができるのだろうか。
歯を噛み締め、ジャックは足の痛みを無視することにした。
死に物狂いでダーインスレイブを掴み、わけの分からない言葉を叫びながら体を起こす。
「させない!」
ジャックは激痛の中絶叫した。
血走った目を見開き、彼は雄叫びを上げた。
「この子達を、これ以上嬲ることは許さない! この、私が!」
その目に、沼からもう一匹の巨大な沼蛇が鎌首をもたげたのが見える。
頭の部分に赤の女王が乗っていた。
ナイトメアはけたたましい声で嗤いながら、杖でジャックを指し示した。
「お前に何ができる!」
赤の女王は嗤った。
金切り声の声で、それはジャックに向かってがなりたてた。
「ちっぽけな人間! 何の力もない人間! クズのような、ゴミのようなその生命で何ができる!」
「…………!」
歯を噛み締め、ジャックは足にアルベールを絡みつかせたまま立ち上がった。
そして自分に向かって襲いかかろうとしている沼蛇に向けてダーインスレイブを構える。
「何もできない! 正解は『何もできない』だ!」
狂気をまとった嗤い声とともに、赤の女王が杖を振る。
沼蛇がズルズルと沼から体を引きずり出した。
そして完全に地上に現れ、数十メートルもの巨体、その尻尾を鞭のようにジャックに振るった。
ジャックが絶叫してそこに向けてダーインスレイブを振る。
二撃目。
それは沼蛇の胴体と尻尾を両断して吹き飛ばした。
そして空気の炸裂する音とともに、爆炎を上げる。
しかし粉々に飛び散った沼蛇は、ボタボタと地面に垂れ下がると、そこから再生を始めた。
ビデオを逆再生するかのようにゆっくりとせり上がっていき、赤の女王を中枢にするかのように元に戻っていく。
「お前は! 何も! できない!」
ケタケタケタと赤の女王が嗤う。
金切り声のそれを聞き、ジャックは飛び出しそうに凄まじい速度で脈動する心臓を、服の上から押さえた。
そして胸を強く握る。
血走った目、鼻からツゥ……と血が流れ落ち始めた。
額には血管が浮き、噛み締めた歯からはガチガチと鳴る音が響いている。
しかし、彼はまた強くダーインスレイブを握り、ためらいもなく真正面に振り下ろした。
それは予想外だったのか、赤の女王の目が見開かれる。
三回目の斬撃は正確に赤の女王に向かって飛んでいったが、ナイトメアはすんでのところで体を捻ってそれをかわした。
しかし、空気の渦が彼女の右腕をかすめ、凄まじい力でねじり切る。
「ギャアアアアアアア!」
陰惨な絶叫を上げ、沼蛇の頭の上から赤の女王が転がり落ちた。
一拍遅れてドチャリ……とそれの右腕が地面に転がる。
ジャックは歯を噛み締めながら、足を振り上げてその腕を踏みつけた。
「いいや! 違う!」
彼の叫びが空を切った。
千切れた右肩を押さえ、ヒィ、ヒィと泣き笑いのように息をしている赤の女王が顔を上げる。
ジャックは満身創痍の顔で、しかし目はらんらんと輝かせて赤の女王を睨みつけた。
その猛獣のような瞳の輝きを見て、ナイトメアが息を呑み、後ずさる。
「私は! 私達は!」
ジャックはもう一度、ダーインスレイブを構えた。
「理不尽になど負けない……負けない! 私は! お前を……貴様を! ……殺すッ!」
足に白骨死体を絡みつかせながら、ジャックは赤の女王に向けて四撃目の斬撃を放った。
大上段から振り下ろされたはそれは、地面を削りながら赤の女王に向けて殺到した。
ナイトメアが悲鳴を上げて杖を振る。
沼蛇がいくつも沼から飛び出してきて、斬撃に向かって襲いかかる。
周囲に土煙と爆炎が吹き荒れた。
斬撃は途中で止められ、生き残った沼蛇が数匹ジャックに向かって殺到した。
そして一匹が、彼の腹部に深々と突き刺さり向こう側に抜ける。
「ガッ……」
ジャックは一瞬硬直し、凄まじい勢いで血を吐き散らした。
その様子を見て、赤の女王は口を裂けそうな程開き、ニィィィ……と笑い……。
その顔が、ゆっくりと恐怖に引きつった。
腹部を沼蛇に貫通されながら、ジャックはためらいもなくダーインスレイブを更に構えた。
――五撃目だった。
悲鳴を上げて逃げ出そうとした赤の女王の腹部を、空気の渦が薙ぐ。
汚らしい絶叫があたりに響いた。
土煙と爆炎。
数秒後、ジャックは腹部からズルリと抜けた沼蛇に支えられていた体が崩れ、その場に力なく転がった。
少し離れた場所に、腹部から両断された赤の女王が痙攣している。
能力が切れたのか、アルベールの口がジャックの足から離れた。
噛まれていた右足はズタズタになり、骨が見えていた。
「ググ……ゲゲ……」
赤の女王はまだ呻きながらも生きていたようだった。
ジャックは、数歩後ろで呆然と立ちつくしているイベリスに向かって、血まみれの顔でニィと微笑んでみせた。
イベリスがよろめきながら這って近づき、ジャックとアルベールの脇に崩れ落ちる。
「ああ……ああああ……」
少女は呻くことしかできなかった。
――致命傷だった。
腹部から止め処なく血を流しているジャックに震える手を伸ばし、イベリスは傷口を何とか押さえようとしていた。
次から次へと血は流れ出していた。
ジャックは血にまみれた手を上げ、そっとイベリスの顔を撫でた。
そしてアルベールの体を掴み、イベリスに握らせる。
「ああ……う……ああああ……」
言葉を発することができず、うめき声しか上げられないイベリスに、ジャックはもう一度微笑みかけ……その体を強く突き飛ばした。
イベリスがアルベールを抱きながら後ろに転がる。
その目に、ジャックがポケットから取り出した爆薬のスイッチを押すのが見えた。
――悲鳴を上げた。
イベリスの目の前で火柱がいくつも吹き上がった。
ジャックと赤の女王を囲むように爆薬が炸裂していき、シェルターが崩落を始める。
崩れ落ちていく地盤を前に、イベリスは飲み込まれていくジャックを見送ることしかできなかった。
赤の女王とともに、地盤の底に落ち込んでいくジャック。
彼は、落盤に視界を遮られる寸前に、またイベリスに向かって微笑みかけた。