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第4話 白の女王

はじまりは、突然だった。

目の前に広がる美しい世界に、アリスは唖然とした瞳を向けた。

どこまでも広がる青空。

緑の木、綺麗な澄んだ小川。

見たこともない種類の蝶が飛び交い、小鳥の鳴き声が響いている。


「どこ……ここ……?」


呆然として呟く。


「ようこそ、ワンダーランドへ」


背後から声を掛けられ、アリスは弾かれたように振り返った。

そして小さく声を上げて後ずさる。


少し離れたところに、シャツとジーンズ姿の男性が立っていた。

男性だと分かったのは、彼の体つきと声のせい。


顔は、見えなかった。

正確には彼の顔にはモザイクのようなジャギジャギの模様がまとわりついていて、見ることが出来ない。

彼は両手を広げて、怯えるアリスに優しく言った。


「僕は、ナビゲーターのラフィ。このラビリンスシステムで、君を案内する水先案内人のようなものだと思ってくれていい」


ラフィと名乗った男性は、小さく首を傾げた。


「どうしたんだい? アリス。何だかとても怖がっているようだ」

「あ、あなた……顔が……」


震える声で呟くと、ラフィは頷いて、鼻の頭と思われる場所を指先で掻いた。


「ああ……これか。怖がらなくて大丈夫。僕にはそもそも『顔がない』からね」

「…………」

「僕は何にでもなれるし、何にもなれない。だから、君の好きな人物像を投影できるように、僕には顔が与えられていない」


よく分からないことを言い、ラフィはゆっくりとアリスに近づいてきた。

そして手を伸ばし、ポン、と彼女の頭を撫でる。


「今まで、辛かっただろう。ラビリンスは君を歓迎するよ。ここで、僕と一緒にゆっくり休もう」

「休む……? 休めるの……?」


アリスはラフィのモザイク顔を見上げ、驚いたように問いかけた。


「私は、もう苦しい思いをしないでいいの?」

「ああ。ここは、君の心を最適に保つための君が望むワンダーランドだ。君が思う通りに形を変え、そして君の傷ついてボロボロになった心を癒す。君は、もう痛い思いも、苦しい思いもすることはない」


ラフィの優しい声を聞いて、アリスは周りを見回した。

そして戸惑いがちに彼に聞く。


「ここは天国……? 私は、死んじゃったの?」


ラフィはそれを聞くと小さく笑って答えた。


「違うよ。ここはラビリンス」


彼はそう言って、指を伸ばし、トン、とこぎれいな洋服を着たアリスの胸を叩いた。


「君の願う世界だ」



異様な物体が部屋の中を蠢いていた。

無数のそれは、体を尺取虫のように曲げてゆらゆらと揺れていた。


腕があり、足があり、頭がある。

人間のように見えるが、そうでもない。

芋虫のような体にそれがくっついている。

頭には銀の兜がはめられていた。


そのうちの数体が、きらびやかな玉座に腰を下ろした女性の足の爪や手の爪を、やすりで少しずつ磨いていた。

後ろにいる尺取虫人間が、大きなうちわを仰いでいる。


暗い玉座に腰を下ろしていたのは、すらりとした体型をした、美麗な女性だった。

白いドレスに身をまとい、雪のように白銀の髪は長く床に垂れ下がっている。


しかし、彼女には顔がなかった。

マネキンのようにつるつるの、のっぺらぼうの顔だった。

目も鼻も口も、耳さえもない。


その不気味な女性は、扉を開けて入ってきたモノに顔面を向けた

何もない顔から静かな女性の声が流れ出す。


「白騎士。何かあったのです?」


白騎士と呼ばれたのは、全身を武骨な鎧に包んだモノだった。

純白の、美しい造形の鎧だ。

生身の部分が一切見えない。

頭を覆っている兜の目当ての隙間から、わずかに赤い光が漏れ出していた。

それは白い女性に膝まづくと、押し殺した男性の声で答えた。


「白の女王様、ご報告がございます」

「申してみなさい」

「ハンプティ・ダンプティが見えています」

「…………」


白の女王と呼ばれた女性は、のっぺらぼうの顔を指先に向け、とがった爪を目の前でゆらゆらと振って、感触を確かめてから言った。


「通しなさい」

「ハッ!」


頭を下げて白騎士が立ち上がり、暗い部屋の奥に消える。

ほどなくして葉巻の煙をくゆらせながら、卵型の化け物が現れた。

彼は着ているタキシードを指先で直すと、玉座で足を組んだ、のっぺらぼうの白の女王を見上げた。


「久しぶりだな、白の」

「卵か……こんなところに足を運ぶなんて、何かあったのですか?」


穏やかに問いかけた白の女王に、ハンプティは答えた。


「いや……何。帽子屋が殺されてね」

「へえ……」


どうでもよさそうに生返事を返して、白の女王は足で芋虫人間を脇に追いやった。


「……で?」

「殺したのは、新型のアリスだ。少し前に交戦してきた」

「殺したんでしょう?」


気だるそうにそう言われ、ハンプティは少し考えこんでからぎょろぎょろした目を彼女に向けた。


「いや、少し思うところがあって生かしてある」

「……あら、珍しい。あなたが敵に情けをかけるなんて」

「情けをかけたのではない。どうも、今までのアリスとは様子が違った。異様に硬いバンダースナッチを纏っている。帽子屋は不意を突いて殺されたようだ」

「ふむ……」


少し興味がわいてきたのか、白の女王は小さく呟いて、指を鳴らした。

暗がりから白騎士が姿を現し、膝をつく。


「どんなに硬かろうが、白騎士……あなたなら斬り裂くことができますね?」


問いかけられ、白騎士は頭を下げて言った。


「御意に。総てを斬り裂いてみせましょう」

「様子を見てきなさい。できればその奇妙なアリスをここに」

「ハッ!」


白騎士の足元の地面が、途端に沼のようにグズグズに変質した。

彼がゆっくりとそこに沈み込み、やがてトプリ……と音を立てていなくなる。


「大したもてなしはできませんが、少し休んでいくといいでしょう」


白の女王は小さく息をつきながらハンプティを見た。


「新鮮な血でも飲みながら……ね」



アリスが目を覚ましたのは、中継駅のシェルターが火災爆発を起こしてから、二日ほど経った夜のことだった。

ガンガンと痛む頭を押さえて、呻きながら上半身を起こす。


揺れている列車の中のベッドではなかった。

固定された、綺麗な寝台に引かれた白いマットレスに寝かされている。

洋服は寝間着に着替えさせられていて、体には毛布がかけてあった。


横を見ると、すぐ傍の椅子に座ったフィルレインがスゥ、スゥと寝息を立てながら頭を揺らしていた。

頬や腕に膏薬が貼り付けてあったり、包帯が巻いてある。


怪我をしたらしい。


何があったのか思い出そうとして、アリスはまた頭に抉りこむような痛みが走り、無言で悶絶した。

ハンプティ・ダンプティに吹き飛ばされたところまでは覚えている。

しかしそれからの記憶がない。


まさか……。

また、私はあのバケモノを殺したのだろうか。


震える手を広げて見つめる。

動悸が激しくなる。


私は何なんだろう。

アレらと同じ、バケモノなんだろうか。


言い知れぬ不快感が湧き上がってきて、アリスは嘔吐感を堪えきれず、ベッド脇のテーブルに置いてあった水差しに手を伸ばした。

途端、フワリと、伸ばした右手の指先から虹色の「何か」が出た。

それは、異常なほどゆっくりと水差しに伸びていき……。


金切り声のような金属音がした。


ビクッとして慌てて手を引っ込める。

音で起きたのか、目を丸くしてフィルレインが顔を上げた。


「天使様!」


呼びかけられてハッとする。

その怯えたような瞳を見て、フィルレインは数瞬迷った末、ニッコリと笑ってみせた。


「おはようございます」


彼女の笑顔で過呼吸のようになっていた鼓動がゆっくりと収まっていく。


「……アリス、起きたかい?」


静かに足音からそう言われ、アリスは額から汗を垂らしながら、ベッドの下にいるラフィを見下ろした。


「私……」

「君は、ハンプティ・ダンプティと戦って意識を失ったんだ。あの時から少し時間が経っている。ずっと眠っていたんだよ」

「私……戦った? アレと……?」


オウム返しにそう聞き返し、アリスはテーブルに目をやって硬直した。

水差しが、バラバラになっていた。

何か鋭利な刃物で切り刻んだかのように、八つ裂きになって転がっている。

床にポタポタと水滴が垂れ落ちていた。


「これ……」

「君が今しがたやったんだ。アリス、バンダースナッチを引っ込めるんだ。そのままの状態では君は危険すぎる」

「バンダー……スナッチ?」


そう言って手を見たアリスはまた呆然として固まった。

何かが自分の体を覆うように、膜を作っていた。

よく見ると虹色のゆらぎは、体全体を包んでいた。


その手で毛布を掴もうとする。

虹色のモノが形を変えて広がり、金属音がした。

触れた部分の毛布が粉々になり、あたりに合成繊維が撒き散らされる。

呆然として固まっているアリスに、ラフィが静かに続けた。


「バンダースナッチは君であり、君ではない。そこにいるようで、そこにはいない。曖昧な存在なんだ。君がそれを自覚しない限り、それは君のモノにはならない」

「何を言っているのか……」

「気持ちを落ち着けて、静かに僕の話を聞くんだ。まず深呼吸をしよう」


ラフィに言われ、アリスは震える手を太ももの上に置いて、何度か息を吸い、そして吐いた。

ラフィはそれを確認し、ゆっくりと落ち着いた声で言った。


「君の中には、その『ゆらぎのようなもの』……僕達が『バンダースナッチ』と呼んでいるモノがいる。それが何なのか、そこまでは悪いけど分からない。でも、アリスの中にはバンダースナッチがいる。その定義は崩れたことはない」

「これ……生きてるの……?」


震える声で問いかけたアリスに、ラフィは少し考えてから答えた。


「多分……生きてるんだとは思う」

「私の中に、このバケモノがいるのね……? これが、帽子屋とハンプティ・ダンプティを殺したのね?」


小さな声でまくし立てるように言うと、ラフィは首を振った。


「ハンプティ・ダンプティはまだ生きている。何故か君を見て逃げていった。また、多分襲ってくるだろう」


アリスの脳裏に、不気味な人皮が張り付いた卵のバケモノがフラッシュバックする。

歯を噛んで下を見たアリスの髪がざわつき、周囲に虹色のゆらぎが広がり始めた。


「アリス」


その動きを端的な声でラフィが止めた。


「ここは、第四シェルター。たくさんの人間達が避難している。君がそうやって感情のままバンダースナッチを開放したら、今までのシェルターのように、全てが廃墟になってしまう結末を迎えるよ。それでもいいのかい?」

「…………」


アリスは顔を上げて、泣きそうな顔でラフィとフィルレインを見た。


「アポカリクファの終焉を、止めたいんじゃなかったのか?」


寂しそうに小さな声で言われる。


「君はあの時、確かに僕に、そう言ってくれたじゃないか。アリス。もう、忘れてしまったのかい?」

「…………」


ラフィの問いは分からなかった。

分からなかったが、彼の悲哀に満ちた声を聞いて、アリスは小さく息を吐いた。


胸の奥がズキリと痛む。

ゆっくりと、虹色のゆらぎが口からアリスの中に戻っていった。


細切れになった毛布を手で掴んで、アリスはそれを顔に押し付けた。

恐ろしかった。

訳がわからなかった。

嗚咽し、涙を流し始めたアリスにフィルレインがやっと近づき、その頭を優しく抱きしめる。


「落ち着いてください、天使様。フィルはここにおります……」

「どうして私なの……? どうして、私の中にこんなモノが……」

「それは違う。正確には……」


ラフィがそこまで言ったところで、ポン、と音がしてインターホンが鳴った。


『アリス、目が覚めたのか? 話し声がしたが……』


ジャックの声だった。

それを聞いてアリスのやつれた顔が、わずかにパッ、と明るくなった。


「ジャックさん!」


ラフィが忌々しそうな顔をして黙り込む。

フィルレインが立ち上がり、インターホンに近づいた。


「申し訳ありませんが、今はちょっと……」


彼女が戸惑いがちに言ったのを打ち消すように、アリスは声を上げた。


「大丈夫! 扉を開けて」

「しかし……」

「私は大丈夫。ほら……」


フィルレインに両手を広げてみせ、アリスは訴えかけるように言った。


「お願い……」

「…………」


フィルレインは小さく息をついて、ロックパネルを操作し扉を開いた。

松葉杖をついたジャックが部屋に足を踏み入れ、八つ裂きになった水差しと毛布を見て一瞬立ち止まる。

そして頼りなげな顔をしたアリスに目をやり、松葉杖を鳴らして近づいてきた。


「……体は、大丈夫なのかい?」


壊れたモノには触れず、ジャックはアリスに問いかけた。

少女は小さく微笑んで彼に答えた。


「ジャックさんこそ……」

「私は大丈夫だ。今の医療技術はすごくてね。シェルターの設備で治療してもらったよ。しばらくは松葉杖を使わなければならないがね」


ジャックはそう言ってアリスの脇の椅子に腰を降ろした。

そして手を伸ばしてアリスの頬に触れる。

優しく撫でられ、涙の痕をつけた顔を向けて、アリスは続けた。


「ジャックさん、私……」

「大まかな内容は、フィルレインから聞かせてもらった。一人で、ずいぶんと辛い思いをしたんだな……」


静かに言われ、アリスの両目に涙が盛り上がる。

ジャックはそんな彼女の頭を撫でてやり、言った。


「ラフィ……と言ったか。黒猫さんも、そこにいるんだな?」


呼びかけられたラフィは


「僕は猫じゃない……」


と毒づいてアリスを見上げた。

そしてラフィはアリスに言った。


「……この人間には、フィルレインを介して一連の事情は説明させてもらったよ。でも、他の人間には基本、あまり喋らないほうがいいと思う」

「ジャックさん、ラフィが見えるの……?」


問いかけると、ジャックは首を振った。


「いや。私にはやはり何も見えない。しかし君の助けはしていくつもりだ。出来る限り、アリス……君の力になる」

「ありがとう……」


俯いて小さな声で呟く。

その震える手を、自分の大きな手で包み込んで、ジャックは続けた。


「君にどんな事情や秘密があるのかは分からない。でも、今後何があろうと……私と、ここにいるフィルレインは味方だ。それだけは信じて欲しい」

「僕ももちろん味方だけどね……」


呆れたようにそう言ったラフィの声は聞こえていないのか、ジャックはアリスの手を引いた。


「このシェルターの長老が、君と話をしたがっている。フィルレインも来て欲しい」

「しかし……」


フィルレインは戸惑いの表情で粉々になった水差しと毛布を見た。

ジャックは小さく笑って彼女に言った。


「私がいる。大丈夫だ。そうだろう、アリス?」

「……うん」


頷いて、アリスはよろめきながら立ち上がった。



寝間着から用意された普段着に着替えて、フィルレインとおそろいの白いリボンを頭につける。

そしてアリスはジャックと手を繋いで白い廊下を歩き出した。


いつの間にか、目的のシェルターに到着していたらしい。

列車の中で世話になった男達とも途中で会って、頭を下げる。

彼らは目が覚めた様子のアリスを見て一様に嬉しそうに、いろいろ語りかけてきた。

目を白黒させながら相槌を打つ。

男達の一人がジャックに向かって問いかけた。


「君は大丈夫なのか? まだ安静では……」

「一刻も早くこちらの長老に伝えたいことがある。寝ている場合ではないからな」


頷いてそう答え、ジャックは男達と一緒に歩き出した。

こちらのシェルターでは、前の時のように居住区は通らなかったようだった。

何度かエレベーターに乗り、下の方に下っていく。

不安げに肩をちぢこませたアリスに、フィルレインが優しく声をかけた。


「大丈夫です。僧正様は、とてもお優しい方です」

「僧正様?」

「こちらでは、長のことをそう呼んでいます」


足元のラフィが退屈そうに大きなあくびをする。

暫く進むと、ジャック達のシェルターと同じような、円形の部屋に出た。


違ったのは祭壇のようなものが部屋の中央にあり、その真ん中に緑色の液体が満たされた柱があったことだった。

やはり中央に脳が浮かんでいる。

周囲にフィルレインと同じような銀色の髪をした女の子が数人いる。

彼女達はフィルレインの姿を見ると、バラバラと足音を立てて近づいてきた。


「フィル……! よく無事で……」

「心配したのよ……」

「私は大丈夫。天使様をお連れしたわ」


フィルレインが静かに言うと、女の子達はアリスに向けて深々と頭を下げた。

何人かが、アリスの足元にいるラフィに視線をとめ、怪訝そうな顔をフィルレインに向けたが、誰も言葉は発しなかった。

背後の扉が空気が抜ける音と共に締まり、薄暗い円形の部屋の中に、柱のスピーカーから、静かな老婆の声が流れ出した。


「あなたがアリスですね」

「は……はい」


隣の、ジャックの手をギュッと握りしめる。

気をしっかり持っていないと、不安と恐怖でどうにかなってしまいそうだった。

ジャックはアリスの手を握り返すと、僧正に向けて言った。


「救援を出してくださったこと、感謝の極みです。私達はそれで救われました」

「天使様が現れなくなってから、既に数年が経過しています。ここで動かなければ、今まで防備を固めてきた意味がありません」

「そうですね……」

「そちらのシェルターの皆様は、気の毒でした……あまりご自分を責めないよう」


穏やかにそう言われ、ジャックは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」

「ことのあらましは、フィルレインから聞いています。天使様、よくぞ無事にここまでたどり着いてくださいました」


呼びかけられ、アリスは視線を落として小さな声を発した。


「でも……」

「…………」

「でも、私のせいで、沢山の人が死んでしまいました……私、覚えていない所もあって、わからないことも多くて……」


小さく体が震えだす。


「怖くて……仕方ないんです……」


「…………」


僧正はしばらく考え込んでいたが、やがて穏やかに言葉を続けた。


「自分を責めてはなりませんよ、アリス。あなたに、この世界の人間全て……その生命の責を負う義務はありません。そこにあった生命が無くなり、ロストした。それだけのことです」

「…………」

「永遠にロストした生命を、あなたはどうにかすることができますか? アリス」


静かに問いかけられ、アリスは俯いてジャックの手を強く握った。


「……できないです……」


だいぶ考えた後、彼女は小さな声で答えた。

ジャックが何か言葉を発しかけ、飲み込んで僧正を見る。


「起こったことを悔み、嘆き悲しんで恐怖するよりも、現在、そして未来を把握して対処することが重要です。特に……天使であるあなたには」

「教えてください……!」


僧正の言葉を遮って、アリスは問いかけた。


「天使って、何なんですか? どうしてナイトメアは私を追ってくるんですか? 私の中にいる何かって何ですか?」

「…………」

「何も分からない……怖い、すごく怖いんです……」


ポタポタとアリスが涙を床に垂らす。

その頭を撫でたジャックは、松葉杖に寄りかかって僧正を見た。


「少なくとも貴女は、それを知っているから私達に救援を出した。違いますか?」

「その通りです。しかし、私が知っている情報も所詮断片に過ぎませんが……」


僧正は淡々とそう言った。

そしてアリスに向けて続ける。


「……天使とは、あなた方『アリス』と呼ばれる存在のことです」


意味不明なその答えに、アリスは柱の脳を見上げて、必死に言葉を返した。


「どういう意味なんですか? 私は、私はここにしかいません! 私は世界に一人です!」

「あなたは天使という端末のひとつです。この世界には、無数の『アリス』が存在します」


残酷なほど静かに僧正は続けた。


「無数の……アリス?」


呆然とした少女を、ジャックが辛そうな顔で見下ろす。


「もちろん同一と言うわけではありませんが、天使はほとんど同じ姿形をしている存在です。外気に触れることができ、ナイトメアを見ることができる。崩壊病にかかることもなく、不思議な力を使うことができる……」

「…………」

「どこから天使が現れ、そして何故現れるのか。それは私達にも分かりません。ただはっきりしているのは、天使はナイトメアに対抗できる力を持ってこの世界に顕現します。あなたも、それは分かっているはずです」


アリスはジャックの手を握っている方と反対の手を広げて、震える視線をそこに向けた。


「私が……他にもいるんですか……?」


単純な質問は、動揺で大きくブレていた。


「天使様、それは……」

「イベリスを呼んできなさい」


僧正がそう言うと、言葉を発しかけていたフィルレインが弾かれたように脳を見上げた。


「僧正様……!」


戸惑いの声を発したフィルレインに、しかし僧正は断固とした声で続けた。


「この子と、イベリスを会わせる必要があります。彼女をここに」

「…………はい」


頷いてフィルレインが奥のエレベーターに消える。


「イベリス……?」


聞きなれない単語を繰り返したアリスに、僧正は言った。


「このシェルターには、もう一人天使がおります」

「……えっ?」


驚いて大きな声を上げる。

ジャックも目を見開いて僧正を見た。


「成る程……それじゃ、ここに入ってから感じていたおかしな気配はそれか……」


ラフィがアリスの足元で小さく呟く。


「ナイトメアは、天使であるあなた達の血液を体に取り込むと、どうやら進化するようです。イベリスが、前にそう教えてくれました」


ポン、という音がしてフィルレインが出ていった方のエレベーターのドアが開く。

そこに目をやったアリスは、呆然として硬直した。

ガラガラと車椅子を押して部屋に入ってきたフィルレインが、戸惑いの表情で僧正を見上げる。


「イベリス様をお連れしました……」

「よろしい。イベリス、少し話はできますか?」


僧正が車椅子に乗った少女に向けて優しく声を発する。

イベリスと呼ばれた少女は、ゆっくりと目を開けると、小さく咳をした。


……彼女には両足がなかった。

スカートを履いているが、その部分がすっぽりと何もない。


アリスそっくりの姿かたちをした少女だった。

金髪に鳶色の瞳。

背丈も、目つきも、体つきも、全てがほぼ同じ。

違ったのは、イベリスという彼女には足がなく、病院服を着ているということ。

そして彼女は、異様なほどやつれていた。


目だけがギラギラと光る猛禽類のように輝いている。

彼女はその鋭い瞳で、呆然としているアリスを見ると、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「……何? 久しぶりに同族が来たと思ったら、ずいぶんと頼りなさそうな子ね」


高圧的に言われてアリスが萎縮する。

イベリスは、アリスの足元のラフィを見ると眉をしかめた。


「…………」


何か言葉を発しかけてそれを飲み込み、彼女は僧正を見上げた。


「……で? 私に何をさせたいの?」


アリスと同じ外見なのに、威圧感がある。

呆然としているアリスに向け、僧正は言った。


「この子が天使、イベリスです。以前ここを襲撃したナイトメアと交戦し、私達を守るために足を失ってしまいました」

「……私の落ち度みたいに言わないでくれません?」


忌々しそうに吐き捨て、イベリスは僧正に言った。


「あなた達のバックアップが下手過ぎたからこうなったのよ」


彼女の車椅子を押していたフィルレインが萎縮して肩をすぼめる。


「イベリス……それは……」

「……何ボケッとしてるの? 呆けるだけならサルにでもできるわ」


僧正を無視したイベリスにきつく言葉を投げかけられ、アリスがビクッと体を震わせ、後ずさる。

その異様な様子を見て、車椅子の少女は首を傾げた。


「何怯えてるの?」


威圧的に声を投げかけられ、アリスは益々萎縮し、ジャックの影に隠れてしまった。


同じ顔。

同じ声。


イベリスは髪を上げ、後頭部で一つに結んではいたが、並べば混乱しそうなほど似ている。

否、似ているのではない。


同一なのだ。


本能的な部分でそれを自覚し、アリスは反射的に恐怖した。

訳が分からない。

分からないが……これは。

異常なことだ。


彼女の様子を見て、イベリスはため息をついて少し考え込んだ。

そして先程よりは落ち着いた声で、アリスに問いかける。


「もしかして……記憶がないの?」


アリスはしばらく戸惑いの表情をイベリスに向けていたが、やがて小さく頷いて、答えた。


「はい……」

「……元々私達にはたいした記憶は与えられてないけど……久しぶりの増援がコレとはね……」


呆れたように呟き、彼女は後ろのフィルレインを見上げた。


「で……?」

「アリス様は、前のシェルターでオリジナルナイトメアを倒したそうです」


フィルレインが小さな声でそう言うと、イベリスは鼻を鳴らして答えた。


「オリジナルを……? 記憶もない不完全な天使が倒せるわけないじゃない」

「しかし……」

「本当のことだ。アリスは、ナイトメアを殺し、私達を助けてくれた」


ジャックがアリスを庇うように進み出て口を開く。

イベリスは馬鹿にしたように彼を見て、吐き捨てた。


「人間なんかと喋る口はないわ」

「アリスと違ってずいぶんと喧嘩腰なんだな……しかし、本当のことだ。先の駅でも、オリジナルナイトメア……と君達が呼ぶモノに襲われたと聞く。アリスは一人でそれを退けてる」

「…………」


イベリスは怯えて縮こまっているアリスを見て、首を傾げた。


「嘘よ」


鼻で笑われ、アリスは唇を噛んでジャックの服の袖を掴んだ。

早くこの異常な場所から離れたかった。

イベリスと、会話をしたくなかった。

そこで静かに聞いていた僧正が口を挟んだ。


「嘘だと思うなら、イベリス。貴女なりの方法で試してみなさい。その結果どういう判断を下すのかは、あなた達自身に委ねましょう」

「…………」


イベリスはそれを聞くと、ギラついた目のままアリスを睨みつけた。


「そうさせてもらおうかしら。このままでは話が進まないしね」


途端、彼女のスカートの足の部分にゆっくりと虹色のゆらぎが現れ、たゆたい始めた。

次の瞬間、イベリスの足から伸びたゆらぎは、金切り声の金属音を立ててアリスに向かって殺到した。

それを見て、アリスが悲鳴を上げて尻もちをつく。


「アリス!」


見えていないジャックが慌ててアリスを抱えようとして……アリスは、虹色のゆらぎがジャックに向かって突き進んで来るのを見てしまった。

スローモーションのように、ゆっくりと「何か」がジャックの体を薙ごうとして……。

金属と金属を擦り合わせるような、凄まじい高音が上がった。

ギュリリリリ……と虹色のゆらぎが……アリスの口から溢れ出したゆらぎ、バンダースナッチと衝突して、火花を上げていた。


「…………」


イベリスの顔つきが変わった。

彼女の下半身にゆらぎが戻っていき、そして虹色にブレている『足』を形成する。

ゆっくりと立ち上がり、イベリスはゆらぎの足で地面を踏みしめて腕組みをし、アリスを睨んだ。


「ダメ……」


アリスは口からバンダースナッチを吐き出しながら、額に大粒の汗を浮かべ、イベリスに叫んだ。


「逃げて!」


そう言うのが精一杯だった。

アリスの体から這い出したバンダースナッチが、周囲に金属がこすれる高音を発しながら広まり始める。


「成る程……」


イベリスはそう言うと、考え込むように呟いた。


「……見たところ、制御できていないようね。でも、何この感じ……」


怖気がするような感覚を感じているらしく、イベリスは歯を噛んだ。


「あなた達は離れなさい。この子の相手は私がする」


フィルレインやジャック達にそう言い、イベリスはゆらぎの足でしっかりと床を踏みしめ、無造作にアリスに近づいた。

床にへたりこんだアリスの目から、徐々に輝きがなくなっていく。

空洞のような、赤く光る瞳をイベリスに向け、アリスは別人のように首をゆらゆらと振りながら立ち上がった。


「アリス……!」


近づこうとしたジャックをイベリスが手で押しのけた瞬間、今まで彼女達がいた場所を、空気を切る音がして何かが通過した。

それが見えているのか、首をひねってかわしたイベリスが、右足をトン、と床につける。

亡者のようにふらふらと立っているアリスに向かって、イベリスの右足から伸びたゆらぎが広がり、殺到した。


静かな動きだったが、素早かった。

瞬く間にアリスを取り囲んだ虹色のゆらぎが、キチキチキチ……と蟲が鳴くような音を立てる。


「先輩に対しておイタがすぎるわよ」


イベリスは高圧的に言うと、パチンと指を鳴らした。


「……新入り!」


彼女の声と共に取り囲んでいたゆらぎ……イベリスのバンダースナッチが、アリスを包むこむように膨らんだ。

そして彼女ごと押しつぶすかのように、球形に広まって中心部を圧縮し始める。

ゆらぎに包み込まれ、アリスはバンダースナッチごと身動きが取れなくなり、ガクガクと体を揺らした。


「乱暴はやめろ! アリスに戦う意志はない!」


ジャックに肩を掴まれ、イベリスは冷たい瞳でそれを払い除けた。


「私に触るな」


端的に言葉を吐き捨て、彼女は身動きが取れないでいるアリスにゆっくりと近づいた。


「少しその暴走しているバンダースナッチを痛めつける必要があるわね。確かに危険……」


ギリギリギリ……と空気が鳴る。

イベリスはそこではじめて怪訝そうに顔をしかめた。


「……何……? 砕けない……異様に硬いわね……」


アリスの体を包んでいるバンダースナッチが、一拍遅れて金切り声で「絶叫」した。

空虚な目をしたアリスが大きく口を開け、同時に「声」を発する。

その耳には聞こえない叫びは、瞬く間に周囲を駆け巡り、アリスを包んでいるイベリスのバンダースナッチ内を幾重にも反響した。


「……ッ!」


声にならない呻きを上げ、イベリスが痛みに苦しむようによろめく。

次の瞬間、ガラスが割れるような音を立てて、イベリスのバンダースナッチが砕け散った。

虹色のゆらぎの足で立っていたイベリスが悲鳴を上げて後ろに倒れ込む。


「イベリス様!」


フィルレイン達が慌てて駆け寄ろうとしたが、足がなくなって地面に転がった姿勢で、イベリスは彼女達に手を伸ばして押しとどめた。


「来るな! 死にたいの!」


端的な声で警報を発し、彼女は意識を集中するように呼吸を整えた。

下半身から再びバンダースナッチが流れ出し、虹色の足を形成する。

立ち上がり、首をぶらぶらさせながら足を踏み出したアリスを見て、イベリスは歯噛みをした。


「……確かに、強力なバンダースナッチを飼っているようね。悔しいけど強い。私のを逆に砕くなんて、信じられないわ」


しかし彼女は、先程までの馬鹿にしたような表情とは一転した、暗く冷たい目でアリスを見て、言った。


「でもね、別に戦いって純粋な力だけで決まるわけじゃないわけ」


またパチンと指を鳴らす。

彼女の指の音に合わせて、砕け散って散らばっていた虹色のゆらぎが、それぞれ脈動した。

そして空中に浮かび上がり、散弾銃のような炸裂音を立ててアリスに殺到する。


特に周囲を見ていない様子だったが、アリスは空虚な瞳でまっすぐイベリスを見つめ、そしてまた叫び声を上げた。

音も何も聞こえなかったが、瞬きする間にアリスのバンダースナッチが膨れ上がり、イベリスに襲いかかろうとして……。

無数の砕けたゆらぎに全体を貫かれ、後ろに弾き飛ばされた。


壁の所々を砕きながら磔にされた形で、アリスのバンダースナッチが一瞬動きを止める。

アリス自身も壁に叩きつけられ、少しの間動きを止めた。


「これでも砕けないとはね……呆れるくらい硬いわね」


そこでアリスは、目の前から声が聞こえて顔を上げた。

いつの間に移動したのか、イベリスが冷たい瞳で自分を見下ろしていたのだった。

ハンプティ・ダンプティの高速移動に匹敵する動きだった。

瞬きする間に肉薄され、アリスの反応が一瞬遅れる。


「でもね、私のバンダースナッチはあなたのものよりも、圧倒的に疾いのよ」


イベリスはそう言うと、腰のベルトから抜き出した大型のスタンガンをアリスの胸に押し付け、無造作にスイッチを押した。

一瞬周囲に真っ白い放電が走り、電灯が誤作動を起こして消えた。

そして一拍遅れてまた点灯する。

あたりに焦げ臭い臭いが漂い、イベリスは手に持ったスタンガンをフッ、と口で吹いてからベルトに指した。

体から白い煙を発したアリスが、気絶して床にぐったりと伸びていた。


「対ナイトメア用の大型電気銃を直撃させたわ。いくら固くても、しばらくはおとなしくしてると思う」


彼女はつかつかと足を進めると、車椅子に疲れたように腰を下ろした。

ゆらぎの足が消えて、霞のように霧散する。


「……アリス!」


ジャックが声を上げてアリスに駆け寄る。

そして彼女の体を抱き上げ、何度か揺すった。

意識はないようだったが、胸は上下している。

驚くべきことに外傷はないようだ。


「どうしてだ! アリスに戦う意思はないと言っただろう!」


怒号を浴びせられ、イベリスは肩をすくめた。


「どこをどう見てそう判断するの? 眠らせなければ私達は皆殺しにされていたわ」

「何だと……!」

「この子の中にいるバンダースナッチの正体は分からないけれど、全く制御はできていないわね。乗っ取られかけてる」


静かにそう言って、イベリスは自分で車椅子を操作してエレベーターの方に向かった。


「……その子が目を覚ましたら、私の部屋によこしなさい。話したい事があるわ」

「…………」


無言で彼女を睨みつけたジャックを横目で見て、イベリスは吐き捨てるように言った。


「その子の為でもあるしね」



いろいろと手続きを済ませ、ジャック達が部屋に戻り、目を覚まさないアリスをベッドに寝かせてから半日ほどが経過していた。

フィルレインが椅子に腰掛けて考え込んでいるジャックに、紅茶が入っているカップを渡す。


「どうぞ。少し私達も休憩しましょう」

「ああ……ありがとう」


紅茶をすすって、ジャックはフィルレインに問いかけた。


「あの天使は、少し度が過ぎないか? いきなりアリスに電撃銃を当てるとは……」

「申し訳ありません……イベリス様は、以前はお優しい方だったのですが……」


フィルレインは下を向いて唇を噛んだ。


「二年ほど前に、白の女王に……意識のある中、足を千切られてから変わってしまいました」

「白の女王……?」

「この周辺を統治しているオリジナルナイトメアです。強力な……悪魔です」


そこまでフィルレインが言った時だった。

黙って話を聞いていたラフィが顔を上げ、目を見開く。


「……来た……」


黒猫がそう呟き、立ち上がる。

フィルレインが「どうしたのですか?」と声を発しかけたところで、遅れて非常灯が点滅し、サイレンが鳴り響いた。


「ナイトメアか……!」


ジャックが松葉杖を手にして声を上げる。

フィルレインは壁のインターホンに駆け寄り、何事かを口にしてからジャックを見た。


「アリス様を連れて、ここを離れましょう。シェルター内のホールに、オリジナルナイトメアが現れたようです!」

「何だって……!」


青くなってジャックが息を呑む。

フィルレインは歯を噛んで、叩きつけるようにインターホンの受話器を壁に戻した。



シェルター内にサイレンが鳴り響く。

赤い非常灯が点滅する中、講堂と思われる広い場所に、白銀の髪をした少女達が短銃などの武器を構え、円陣を作っていた。

銃口は中心部を向いている。

そこには、真っ白な鎧を纏い、目当てを赤く光らせた巨大なナイトメア……白騎士が、両刃の長剣を床に刺した状態で、背中を伸ばして立っていた。


「くっ……ナイトメア……」


巫女の少女達が悔しそうに歯噛みしている。

堂々と、彼女達を意に介さない様子で白騎士はぐるりと周りを見回した。


「アリスを出せ……」


白騎士の仮面の奥から、低い男性の声が流れ出す。

彼はそう言うと、剣を地面に突き刺したまま、ぬらりとまた周りを見回して黙り込んだ。


「ナイトメア風情が……!」


短銃を持った巫女の一人が悲鳴のような声で号令を上げる。

白騎士を取り囲んでいる彼女達の銃が一斉に火を吹いた。

狙いは正確のようだった。

銃弾は全て白騎士の体に着弾し……そして、まるで溶かしたかのように、吸い込まれて「消え」た。


「イベリス様を! 早く!」


巫女の一人が大声を上げる。

数人の女の子達が、射撃をしながら後ずさり、その場を離れる。

白騎士は悠々と立っている状態で銃撃の嵐を浴びながら、フゥ、と小さく息をついた。


「もう一度は言わん……アリスを出せ」


冷たい、鉄のような声だった。

銃撃を浴びているというのに、白い甲冑には傷一つついていなかった。

まるで虫に刺されてもいないような涼しい様子で、彼は地面に刺さっていた剣を抜き取った。


「……やかましいぞ。ゴミ共が!」


低い声だったが、それは周囲に響き渡った。

彼は大きく野獣のように咆哮した。

周囲の空気がグワングワンと反響し、シェルター内が大きくたわむ。

耳を抑えて銃を取り落とした一部の巫女達が、悲鳴を上げて後ずさる。


「女王陛下の慈悲さえも届かぬ愚かな血袋共が……」


忌々しそうにそう言いながら、白騎士はゆっくりと足を踏み出した。


「撃ちなさい! 射撃を止めてはダメ!」


女の子の一人が大声を上げる。

そこで、落ちた銃を取ろうとした女の子達……。


その首から、一斉に血しぶきが上がった。


何が起こったのか分からない、という顔で彼女達が地面に崩れ落ちる。

両断された体と首がバラバラと地面に転がる。


噴水のように吹き荒れる血液の雨を浴びながら、白騎士はゆっくりとした動作で足を進めた。

一瞬で半数以上の巫女達が屍に変えられたのを見て、女の子達の顔色が変わる。

震えだし、尻もちをつく子もいた。


少し離れた場所に銃を持った男達がバラバラと足を踏み入れてきた。

彼らは、首と体が両断されて転がっている巫女達の亡骸と、血まみれの床を見て息を呑んだ。

そして隊長らしき男が叫ぶ。


「巫女は下がれ! 俺達の目になるんだ!」


白騎士はゆっくりと足を踏み出し、腰を抜かして震えている巫女の一人……その頭を掴んだ。

絶叫して足をバタバタさせている巫女を、頭を支点に軽々と持ち上げる。


「助けて……助け……!」


林檎を潰すような簡単な音がした。

頭蓋骨をメチャクチャに破壊された女の子が、ビクンビクンと痙攣しながら投げ出される。

そして、一拍遅れて逃げようとしていた巫女の数人が、先程と同様に首から血しぶきを上げて崩れ落ちた。

ゴロゴロと小さな頭部がボールのように転がる。


地獄のような血まみれの惨状になった講堂に、悲鳴が響き渡る。

真っ白い鎧を返り血で赤く汚しながら、白騎士は手についた脳漿を振り払った。

そして両刃の長剣を中段に構え、腰を落とす。


彼の足元の「影」がざわついた。

影だというのに、まるでアメーバのようにぐんにゃりと形を変えて周囲に広がり始める。


「撃て! 撃て!」


男達が、転がるように避難してきた巫女達を庇いながら銃の引き金を引いた。

それら銃弾は全て白騎士の鎧に当たる直前に、吸い込まれて消滅していく。

よく見ると影が、銃弾の「影」を覆い隠すように動いていた。


「我がダーインスレイブの贄となれ」


そう低い声で言い放ち、彼は中段に構えた長剣を大きく横へ振った。

途端、彼の身長分程の長さしかなかった筈のそれが、一瞬で十数倍の長さに伸びた。

男達の一部が、そこに避難していた巫女もろとも、胴体から両断されて吹き飛び、壁に叩きつけられる。


「何だ……!」

「下がれ! 下がれ!」


周囲に噴水のように血しぶきが吹き荒れる。

生き残った男達と巫女が、悲鳴のような声を上げながら後退し始める。


白騎士が長くなった剣を振ると、元の長さに瞬きする間に戻った。

彼は周りを見回すと、何か声を発しようとして……そこで、講堂の入り口に目を留めた。

車椅子を一人で操作したイベリスが、冷たい目でこちらを睨んでいたのを目に留めたからだった。


「…………」


軽く首を傾げるような動きをし、白騎士は小さく笑った。


「……アリスか?」


問いかけられ、イベリスはゆらぎの足で立ち上がり、血溜まりを踏みしめながら言った。


「ええ、そうよ。私がアリス。馬鹿なナイトメアには覚えていることじゃなかったかもしれないけれど」


白騎士は、イベリスの足のバンダースナッチを見てから、剣を下段に構えて腰を落とした。


「貴殿であったか。我が盟友、帽子屋ハッターを屠ったというのは」

「…………」


無言でそれを聞き流し、イベリスはトントン、と足で地面を叩いた。


「聞きたいことがあるならかかってきたらどう? 私を痛めつけることができれば、教えてあげなくもないわ」

「面白い」


白騎士は構えた姿勢のまま、ゆっくりと足を踏み出した。

進行方向にあった巫女の頭を踏み潰し、体を蹴り飛ばして、その鈍重な体が、いきなり列車のように、ものすごい勢いでイベリスに向かって突進する。

イベリスはそれを見て、ゆらぎの足で地面を蹴った。

彼女の小さな体がふわりと宙に浮き、まるで軽業師のように空中を回転し、突進してきた白騎士を飛び越える。


「死ね……ナイトメア!」


空中でイベリスは叫び、右足を大きく振った。

金切り声の金属音が響き、彼女の足が一瞬で長く伸びた。


そして白騎士の鎧……その首筋に正確に突き刺さる……と思った瞬間、白騎士は人間業とは思えない反応速度で振り返り、無造作に手を伸ばしてイベリスのバンダースナッチを掴み取った。

そのまま彼は、バンダースナッチごとイベリスの体を大きく振り回し、講堂の反対側の壁目掛けて投げ飛ばした。

凄まじい速度で吹き飛んだイベリスが、壁にぶつかって轟音と土煙を上げる。


「イベリス様!」


巫女の女の子達が、口々に声を上げる。

バラバラと壁の破片が周囲に散乱し、土煙が周囲を覆った。

白騎士が鎧の埃を手で払い、振り返ってイベリスが突き刺さった方角を見る。


次の瞬間、土煙の中から無数の破片に変化したイベリスのバンダースナッチが、金切り声の金属音を立てながら、空気を切り裂いて飛来した。

それらが白騎士の頭や腕、胴体……体全体に突き刺さり、一拍置いて轟音と爆炎を上げた。


体に薄く、虹色のモヤをまとわりつかせたイベリスが、砕けた壁から体を引き剥がして地面に降り立つ。

講堂の一角が燃え盛っていた。


白騎士のバラバラになった体が散乱している。

彼女は、しかしその場から動かずに、黒い液体だまりの中に転がっている白騎士の鎧を見回した。


「……これくらいで死ぬとは思えないけど……」


イベリスが小さく呟いた時だった。

白騎士の鎧がグズグズと音を立てて沸騰し始め、黒い液体溜まりの中に沈み込み始める。


「左様。これしきでは死なぬ」


背後から静かな声を投げつけられ、慌てて振り返ったイベリスの頬に、風を切って繰り出された、巨大な白騎士の拳が突き刺さった。

薄くまとっていたバンダースナッチを砕き散らし、悲鳴を上げてイベリスが吹き飛ぶ。


地面に叩きつけられ、口の中を切ったのか、血反吐を吐き出しながら起き上がろうとしたイベリスだったが、白騎士は無機質な動作で剣を振り上げ、そして振り下ろした。

彼女の両足のバンダースナッチが太ももの部分から断ち切られ、パァンッ! とガラスが砕けるような音を立てた。


白騎士は、殴られた衝撃がまだ残っているのか……頭をゆらゆらとさせているイベリスに近づくと、再び拳を振り上げ、また頬を殴りつけた。

小さな少女が、圧倒的な暴力に叩き伏せられ、地面に投げつけられるかのように崩れ落ちた。

鼻血をとめどなく流しているイベリスの髪を掴んで無理やり引き起こし、白騎士は両刃の剣を彼女の腕に当てた。


「抵抗されても面倒だ……その両腕も、落とさせてもらう」


無情な言葉を聞き……しかしイベリスは血まみれの顔でニィ、と笑ってみせた。


「ナイ……トメア、は……本当……バカね……」

「…………」

「やりなさい!」


イベリスの発した声とともに、切断されたゆらぎの足がアメーバのように広がった。

そしてイベリスごと、白騎士の体を球形に包み込む。

内部に力を入れながら、その球体が小さく圧縮を始めた。


「もろとも潰れましょうか……?」


口を裂けそうなほど開いてイベリスが笑う。

彼女の髪を掴んだまま、身動きがとれないのか、白騎士は押し殺した声を発した。


「貴様が先に潰れるぞ」

「望むところよ」


小さく笑いながらイベリスが言う。

しかし白騎士は、自分を完璧に囲んでいるバンダースナッチを見てから、軽く鼻を鳴らして言った。


「……それは困る」


彼の指先が動き、両刃の剣が横に振られる。

ヒィィイ……ン、という奇妙な音が周囲に走った。

空気というよりも、虚空を「斬った」かのような、異様な音だった。


「ダーインスレイブは、総てを切断する」


白騎士とイベリスを囲んでいるバンダースナッチが、ズルリとズレた。

輪切りにされたオレンジのように、鋭利な切断面で中心部から斬られたゆらぎが、悲鳴のような金切り声を発してボロボロになり砕け散った。


「……グッ……!」


うめいたイベリスの病院服……その胸から、切り裂かれたようにドッと赤い血液が流れ出した。


「おっと……」


白騎士は小さく言うと、イベリスの両腕を掴み、魚の干物を持つかのように、その痩せた体を空中にぶら下げた。

そしてダーインスレイブを地面に刺し、懐から酒を入れるボトルを取り出して、流れ落ちてきた血の雫をそれで受け始める。

胸の傷はかなりの深手らしく、イベリスは苦しそうに血反吐を吐き出しながら、荒く息をついていた。


「まだ死なれては困るが、貴様の血は貴重でな。女王様に献上させていただく」

「…………」

「我が受けし令は、女王様の眼前に『アリス』を連れていくこと。貴様がこれ以上抵抗をしなければ、この『巣』にこれ以上の損害を与えるつもりはない」


ボトルが一杯になったのを確認して、白騎士は片手で蓋を締め、懐にそれをしまった。


「ぐ……う……」


呻きながら、イベリスが視線を横にスライドさせる。

砕け散ったバンダースナッチの破片がカタカタと振動を始め……。


間髪をいれずに、白騎士が無慈悲に繰り出した拳が彼女の腹に吸い込まれた。

ゲボッ、と血を吐き出して、小さな少女がぶら下げられたまま脱力する。

そこで、砕けていたバンダースナッチが全て空気中に、光になって霧散した。


「手こずらせおって……」


忌々しそうにそう言い、白騎士は沈黙している周りを見回した。

そこで彼は、怪訝そうに動きを止めた。


「……この臭いは……」


目当ての奥が赤く光る。


「……まだいるのか、ここにアリスが」



「そんな……イベリス様が……」


通信端末ごしにそう言ったフィルレインが、震える声で続ける。


「……分かりました。私達は裏から脱出します」

「何だ! あの子はやられたのか!」


松葉杖をつきながら、アリスの小さい体をおぶったジャックが声を発する。

フィルレインは歯を噛んで振り返り、彼に言った。


「……今はとにかく、アリス様を守らなければ……」

「走るんだ。白騎士がこっちに気づいてしまった」


足元でラフィが声を上げた。

フィルレインが舌打ちをして、ジャックの手を引く。


「話している暇がありません。敵がアリス様に気づきました!」

「何だって……?」


青くなったジャックが、松葉杖を鳴らしながら駆け出し始める。


「どこに逃げるんだ?」

「僧正様のお部屋から、外に出ることができます。列車までたどり着ければ……」


「間に合わない……来るぞ!」


ラフィが怒鳴る。

反射的にフィルレインがジャックを掴んで、エレベーターに突っ込んだ。

今までジャックの頭があった場所を、ヒィィ……ン……と奇妙な音を立てて「何か」が通り過ぎる。

一拍遅れて、壁に一文字にえぐり傷のような切断痕が走った。


「うっ……!」


右肩を浅く斬られたフィルレインが、呻きながらエレベーターに飛び込み、ボタンを押す。

扉が閉まる寸前に、床にできた蛍光灯の影から、沼から浮き上がるように白騎士の体がせり上がってくるのが見えた。

フィルレインが、その兜の奥の赤い光と目が合ってしまい、息を呑んで硬直する。


「大丈夫か!」


アリスを床に降ろし、ジャックは右肩を抑えて崩れ落ちたフィルレインに駆け寄った。

傷は浅いようだが、広い。

血が流れ出しているのを手で押さえ、彼女はジャックを押し返した。


「私よりもアリス様を! 武器は壁の緊急箱に入っています!」

「わ……分かった!」


頷いて、ジャックは緊急箱の弁を叩き割って、中から拳銃を取り出した。

チェックしてコッキングしたところでエレベーターが止まる。


「僧正様! 今すぐに避難を……!」


中に向かって声を発したフィルレインだったが、転がるように外に出て硬直した。

僧正の柱……その脇の影がざわつき、白騎士の頭がせり上がってくる。

彼は数秒も経たずに完全に影から「出現」すると、小さな声で鼻歌を歌いながら、ドチャリと手に持っていたイベリスを床に落とした。


「Oh,Happy……Day……」


低い声が僧正室の中に反響する。


「イベリス様!」


フィルレインが、手を口に当てて悲鳴を上げる。


「くそ……やはりやられたのか……!」


ラフィが歯を噛んで呟く。

ジャックはフィルレインを押しのけるように体を突き出すと、銃をコッキングして前に向けた。


「ナイトメアがいるんだな! どこだ!」

「ダメ……私達では太刀打ちができない……」


震えながらフィルレインが、足を踏み出した白騎士を見る。

白い悪魔は、鼻歌を歌いながらゆっくりとエレベーターに近づいてきていた。


「フィル! 逃げなさい!」


硬直しているフィルレインに、柱のスピーカーから僧正の声が突き刺さる。

慌ててエレベーターのパネルを操作しようとしたフィルレインだったが、白騎士はそれを見て、軽くダーインスレイブを振った。

剣が一瞬で数メートルも長く伸び、エレベーターの制御パネルを貫いて破壊する。


尻もちをついて呆然としたフィルレインを見て、ジャックが雄叫びを上げて前方に拳銃を乱射した。

ダーインスレイブがもとの長さに戻り、白騎士は銃撃を浴びながらジャックの方を向いた。

そして下段に剣を構え、ゆっくりと呼吸を始める。


「我がダーインスレイブは総てを切断する」


鼻歌を止め、くぐもった声でそう言う。

青くなったフィルレインが、アリスの方を見て……そして彼女は、息を呑んだ。


ざわざわとアリスの髪が揺らめいていた。

彼女の目は見開かれていたが、空虚だった。

真っ赤に瞳が発光しているのだが、どこも見ていない。

何も映っていない。


それは空虚、虚無。

何も存在しない「穴」だった。


首をゆらゆらと揺らしながら、アリスは口を半開きにして立ち上がった。


「死ね」


それが見えていないのか、白騎士がジャックとフィルレインを胴体から両断する軌道でダーインスレイブを振るった。

奇妙な音がして、空気が裂ける。

その瞬間、アリスは口を大きく開けて「絶叫」した。


声は聞こえなかった。

音も何もなかった。


しかし彼女の「声」と共に、爆発的に周囲に広がったバンダースナッチが、エレベーター全体を守るように壁を作る。

そこにダーインスレイブの斬撃が突き刺さった。


凄まじい火花が散った。

金属の塊に回転ノコを押し付けたかのように、周囲に細かい爆発が飛び散る。

高音の異様な音が鳴り響いた。


「ム……」


剣を振り抜いた姿勢のまま、白騎士は不思議そうに呟いた。


「硬いな……」


彼はもう一度、今度は上段にダーインスレイブを構え、そして二撃目を振り抜いた。

再び、同じ斬撃がアリスのバンダースナッチに突き刺さった。


「声」を発していたアリスの目が見開かれる。

次の瞬間、ガラスの砕ける音がして、虹色のゆらぎが砕け散った。


「……きゃあ!」


悲鳴を上げ、アリスがエレベーターの壁に叩きつけられる。

頭を打ってしまい、ズルズルと地面に崩れ落ちながら痛みに耐えたアリスだったが、ハッとして自分の胸に手を当てて唖然とした。


深い切り傷が開いていた。


ジワァ……と洋服の部分に赤いシミが広がる。

次いでえぐりこむような熱さと痛みが襲い掛かってきて、アリスは胸を抑えて歯を噛み締めた。


「ア……アリス!」


ジャックが駆け寄り、アリスを抱えて前に銃を向ける。


「どこだ! ナイトメアはどこなんだ!」

「ダメだ……強い!」


ラフィが押し殺した声で呟く。

白騎士は、エレベーターの中でうずくまっているアリスを見てから、鼻を鳴らして床にダーインスレイブを突き刺し、息をついた。


「貴様か……二人目のアリスは」


イベリスは気を失っているようで、動きはない。

血まみれの胸が若干上下している。

まだかろうじて生きてはいるようだ。


「私が時間を稼ぎます……みなさんは向こう側の緊急避難口から出てください」


フィルレインが、服の袖から長い針を出して構える。

アリスは胸を押さえながら声を上げた。


「ダメ……殺されちゃう……」

「イベリス様を頼みます!」


アリスを無視して、フィルレインは叫び声のような声を上げて駆け出した。

白騎士が無反応で腕を振り上げる。


「ダメ!」


アリスは叫んで、ジャックの手を振り払い、つんのめりながら前に足を踏み出した。

砕け散っていたバンダースナッチの欠片、それぞれが蠢き始め、空中に浮き上がる。

次の瞬間、一つ一つの欠片が膨れ上がり、金切り声の絶叫を上げた。


「……!」

「何だ……?」


フィルレインが足を止めて、慌てて振り返る。

白騎士も怪訝そうに顔を上げた程の「音」だった。


生命の「危険」を感じさせる音。

それはつまり、命の根幹に関わる部分への警戒。


警報。


本能が告げる危機を無理やり呼び起こさせるような「音」だった。

無数のその叫び声が膨れ上がっていき、ビリビリと空気が揺れはじめる。


次いで、周辺の壁が奇妙な音を立てて裂け始めた。

僧正の入っている柱にも一瞬でヒビが広がり、緑色の液体が溢れ出しはじめる。


「僧正様……!」


青くなって駆け寄ろうとしたフィルレインだったが、広がった「叫び」が発する異常な振動の前に、地面に膝をついて歯を食いしばった。

その鼻から一筋鼻血が流れ出す。


「ア……アリス……」


フィルレインと同様に鼻血を流して崩れ落ちながら、ジャックはアリスを見上げた。

アリスは、ガチガチと歯を鳴らしていた。


無意識なのか、意識的なのは分からないが。

彼女は目を見開いて、猛獣のように歯を鳴らしながら、体に精一杯力を込めて、足を踏み出した。


ドォン、という少女が踏み出したにしてはあまりにも大きな音があたりに響いた。

アリスの目が真っ赤に充血し、両目から赤い血液が流れ出す。

彼女はその自分の様子に構うことなく、大きく手を横に振って叫んだ。


「『敵』を……!」


噛み締めた口から、舌を噛んだのかダラリと血が流れる。


「敵を……殺すなら敵を……!」

「何だ……一体、何が……」


ラフィが小さく呟いて後ずさる。

アリスは血反吐を吐き散らしながら絶叫した。


「敵を殺しなさい!」



声が聞こえた。

無数の声だった。

例えるなら、ざわめき。

幾千、幾万、幾億もの、無数の『意思』を持った何か。


それが体の周りをたゆたっていることを、アリスはその時はじめて自覚した。

アリスの周りをたゆたっているもの……『無数』の『バンダースナッチ』達は、それぞれが金切り声を上げていた。


怒り狂っていた。

飢えていた。

底なしの憎しみ、まるで虚無。


血を求め、死を求め、肉を裂き、総てを切り裂くことを要求する声。


そうだ。

これは……『声』なんだ。


どこかスローモーションのようにゆっくりと動いているように見える周囲の中で、アリスは、誰に教えられるわけでもなくそう自覚した。

沢山の……数え切れない、認識できないほどの『声』が、ひとつひとつは無力な生き物達が同時に発している。

それが幾重にも反響し、反響し、反響し……そして増幅され、数万、数億、数京倍の波長となって垂れ流されていたのだ。


『声』は一斉に言った。


殺せ。殺せ。殺せ。

肉を裂け。

血飛沫を上げろ。

命を潰せ。

死を。

総ての敵に死を。

死、殺す、滅する、絶やす。

砕け、砕け、裂け、にじれ。

総てを殺せ。

総てを殺せ。


そう、それらは総て、『死』を望んでいた。


新鮮な死を。

無残な死を。

絶望を、吸わせろ。

恐怖をよこせ。


ガタガタと体が振動する。

空気総てがその『殺意』に押しつぶされるかのように震え出した。


それは思い。

願い。

総ての死を望む、圧倒的な憎悪。

バンダースナッチ達は、一斉に総てを憎んでいた。

総てを、憎んでいたのだ。


アリスは言葉を発することができなかった。

その思いに圧倒され、憎しみに打たれ、感情を発することができなかった。


横に向けた視界に、ジャックとラフィの姿が見えた。

前に向けた視界に、フィルレインと白騎士の姿が見えた。

イベリスは、倒れたまま動こうとしない。

動けないのだろうか、死んでしまったのだろうか。

とっさにアリスは、歯を鳴らしながら必死に足を踏み出し、そして叫んだ。


「敵」を、「敵」を殺せと。


――その瞬間、アリスとバンダースナッチ達の意識は一つになった。


「殺せ殺す殺せ殺す殺せ殺す殺せ」


正気を失ったようにブツブツと呟きながら、アリスは真っ赤に充血した目を白騎士に、まっすぐ向けた。

両目や鼻、口の端から血液を垂れ流して、彼女は大きく右手を振り上げた。

周囲に霧散し、憎しみを吐き出し続けるバンダースナッチ達が金切り声を上げる。


次の瞬間だった。


白騎士が視認もできない程の速度で、『空間』が動いた。

何が動いたのではない。

バンダースナッチが存在している空間が、無数の密度の塊となって白騎士の胴体を薙いだのだった。


「ガ……ッ?」


言葉を発することもできずに、白騎士は胴体から両断されて地面に叩きつけられた。

間髪を置かずに、白騎士を中心とした床が、ズンッという重低音とともに数メートルも抉って陥没した。


「ぐううおおおおお!」


ありえないほどの力がかかっているのか、陥没した中心にいる、両断された白騎士が絶叫する。

彼の体が沸騰し、足元の影に沈み込もうとするが、バンダースナッチの『空間』は、影ごと白騎士を踏み潰そうとしていた。


殺せ、殺せ。

あれは敵だ。

私の、いや。


私達の敵だ。


アリスはもう一度腕を振り上げ、そして白騎士目掛けて振り下ろした。

金属が砕ける音がした。

周囲に真っ黒な液体が、噴水のように飛び散る。


そこでアリスは歯を鳴らしながら膝をついた。

一拍遅れて、彼女の胸からドッと血が溢れ出す。


そのまま脱力して意識を失ったアリスに伴って、周囲に広がっていたバンダースナッチが空気に霧散し、そして消えた。

ガラン……と陥没した地面に、白騎士が持っていた剣、ダーインスレイブが転がった。


ひしゃげた鎧。

虫のように平らに鋳造し直されたそれは、まるで一枚の板のごとく形に圧縮されている。


そう、虫のように。

無慈悲に叩き潰されたのだった。


半径二メートル程の陥没した地面に、黒い液体が溜まっている。

白騎士の血液だった。


「やった……のか……?」


ジャックが呆然としながら、這いずるようにアリスに近づき、彼女の肩を揺する。


「アリス! おい、アリス!」


必死に呼びかけるジャックの声も聞こえていないのか、アリスは深い闇の中に、ゆっくりと意識を落としこんでいった。

ジャックの声と、サイレンの音が響いていた。



白の女王は、のっぺらぼうの顔を床に向けて、呆然と停止していた。

言葉を発することもできず、彼女は尺取り虫のような生き物達を押しのけ、立ち上がるとそこに近づいた。


彼女が顔を向ける先には、潰れてグチャグチャになった白騎士の鎧……その残骸が転がっていた。

鎧の隙間からドロドロと黒い液体が流れ落ちている。

今わのきわに移動してきたのだろうか、既に事切れているようだ。


「白騎士……?」


白の女王はそう呟くと、膝をついて白騎士の残骸を掴んだ。

巨大な白騎士の大きさに勝るとも劣らず、彼女も大きな姿だった。

身長は二メートルを超えるだろうか。

白いドレスが白騎士の黒い血液で汚れていく。


「どうして……」


疑問符を口に出すことしかできなかったらしく、唖然として白の女王が黙り込む。

彼女はしばらく白騎士の反応がないことを確かめるように、彼の兜を見つめていたが、やがてそれを胸に抱いて嗚咽を始めた。


壁の隅から、ハンプティ・ダンプティが顔を覗かせて沈黙する。

そして彼は、白の女王の嗚咽が小さくなったところで足を踏み出した。


「やられたのか……?」


ビクッと頭を上げ、彼女はハンプティの方に顔面を向けた。


「そんなはずはありません!」


キンキンと響く金切り声で絶叫し、白の女王は白騎士の兜を抱いたまま立ち上がった。


「今に再生が始まるはずです! 白騎士を侮っては……」

「正気に戻れ、白の」


ハンプティが静かにそう言う。

白の女王は言葉を止め、俯いた。


騎士ナイトはやられた。その事実を君が認めないで、誰が認めるというのだ」


卵のバケモノは足を踏み出し、崩れ落ちている白騎士の残骸に近づいた。

そして鎧の縁を指でこすり、鼻で臭いを嗅ぐ。


「フム……」

「…………」

帽子屋ハッターの死体についていた臭いだ。俺が戦った、あのアリスに狩られたな」


ギリリ……という歯ぎしりをするような音が、白の女王の頭から発せられた。

彼女は巨大な身体でハンプティに覆い被らんばかりに近づいた。

その上半身がドレスごと膨れ上がり、風船のようにボコボコと波打ちながら膨張を始める。

白い指から刃のように長い爪が伸びた。

のっぺらぼうの顔……その口に当たる場所がパクゥ……と割れる。

中から鮫の歯のような無数の棘が覗いた。


「案内しなさいハンプティ……」

「…………」

「私がそのアリスを挽肉に変えて、血を搾り取る……異論はないわね……?」

「……分かった。残り香から『アリス』の場所まで君を誘導しよう。それから先は好きにするがいい」


ハンプティはそう言って、何でもないかのように異形に変化した白の女王の脇を通過した。

その手に、白騎士が持っていた、イベリスの血を採集した瓶が握られている。

気づいていないのか、白の女王は天井に顔面を向け、裂けた口を大きく開き、金切り声の咆哮を上げた。

その様子を横目で見たハンプティが、ニヤリと口の端を歪める。


(やはりあのバンダースナッチは……だとすると正面で相手をするのは危険だ。戦うのは単細胞の馬鹿がやればいい。俺は手頃なところで引き上げさせてもらう……)


心の中で小さく呟き、彼は懐に瓶を仕舞った。



集中治療室のベッドに、アリスとイベリスは隣り合って寝かされていた。

沢山の医師達が手術服を着て彼女らの周りを動き回っている。

二人の口には酸素吸入器が取りつけられていて、はだけられた胸の傷は縫われ、膏薬と包帯がいたるところに貼り付け、巻きつけられていた。


意識はないらしい。

松葉杖をついたジャックが、ガラスごしに二人を見ていた。

そこに、右手を三角巾で吊ったフィルレインが近づいてきた。

片手に甘い匂いのする液体が入ったカップを持っている。


「ジャック様、ずっとそこにいらしても、アリス様達は当分目覚めません」

「あ……ああ。だが……な」


ジャックは言いよどんで黙り込むと、彼女の方に体を向けた。


「お飲み物をお持ちしました。少し、お休みになった方がよろしいかと。お二人は私が診ておりますので」

「君の方こそ大丈夫なのか?」


問いかけられ、ジャックにココアのカップを渡してから、フィルレインは微笑んで見せた。


「大丈夫です。私、こう見えても鍛えていますから!」

「……強いな……」


呟いたジャックの声を聞いて、彼女は黙り込んだ。


「君も、アリスも……イベリスというあの子も、強い。ナイトメアを見ることができるだけではない。得体の知れない何もかもに、君達は向かっていく」

「…………」

「私は無力だ……何もできなかった。何も」


ココアの水面を見つめながら、ジャックは小さく呟き、カップに口をつけた。

フィルレインはしばらくジャックを見ていたが、やがて懐から小さな薬箱を取り出して、彼に差し出した。


「悪夢を見る覚悟が、おありですか?」


問いかけられ、ジャックは顔を上げてフィルレインを見た。


「悪夢……?」

「このシェルターで開発されている、崩壊病の治療薬です。これは、崩壊しかけている私達の体の構成を保つ作用があります」

「…………」

「これに使われているのは、崩壊している細胞の因子です。同系統の波長を合わせることで抑制しています。通常の人間が服用すると、崩壊病にかかるかわりに、私達と同じような存在になります」


薬箱を受け取り、ジャックは呆然としてフィルレインを見た。


「私に……巫女のようなモノになれと?」

「決めるのはあなた自身です。私は、どちらかというと『やめておいたほうがいい』としかお伝えできませんが……このままでは、あなたは間違いなく巻き込まれて死んでしまうと思います。その前に、ナイトメアに触ることができる存在になっておいたほうがいいのかと……」

「…………」

「正直……打算です。すみません……」


目を伏せてフィルレインが呟く。

ジャックはしばらく考えていたが、やがて小箱を片手で開き、中の錠剤を見つめた。


「私の家族は、ナイトメアに殺された」

「…………」

「目の前で肉を裂かれ、首を捻りきられて死んだよ。私は何もできなかった。逃げただけだった」


壁のくぼみにカップを置き、彼は薬を一錠指で摘んだ。

そして口に入れ、飲み込む。


「私にも戦わせてくれ」


フィルレインは少しの間、悲しそうな顔でジャックを見つめていた。

そして薬箱を差し出され、首を振る。


「私の分はあります。崩壊病に自らかかったあなたは、いずれ、その薬を一日何錠か飲まないと、体が消えてしまうことになるでしょう」

「問題はない。もとより死んだような身だ」


端的にそう返し、ジャックは息をついた。


「もう私はナイトメアを見ることができるのか?」

「数時間後には、効果が現れてくると思われます。痛みはありませんが、つらいですよ」

「…………」


フィルレインに沈黙を返し、ジャックは薬箱をポケットに入れた。

そしてココアのカップを手に取る。

水面は黒く、ゆらゆらと揺らめいていた。


「……沢山の巫女が、先程のナイトメアの攻撃で命を失いました。自警団の人も……」

「そうか……」


ジャックはココアを口につけ、小さくため息をついた。


「……残念だ」

「本当に……」


フィルレインはジャックの隣に足を進めると、ガラス越しにイベリスとアリスを見つめた。


「イベリス様が足をなくしたのは、私達巫女を守るためだったのです」

「…………」

「白の女王がこのシェルターに攻めてきた時、イベリス様はお一人で、三日三晩戦いました。私達はただの足手まといで……殺されるしかない、肉の塊でした。結果……」


彼女は俯いて呟いた。


「イベリス様は、人質に取られた方を助けるために、自分の両足を千切り取られてしまいました。その無念は、推し量ることはできないと思います」


ジャックは少し黙り込むと、フィルレインに向き直って問いかけた。


「……長老、いや……僧正様は無事なのか?」

「先程無事が確認されました。かなり危うい状態でしたが……そのおかげで、このシェルターはまだ機能することができます。不幸か、幸いか……」

「今はまだどっちとも言えないがな……」

「…………」


それに沈黙を返すと、フィルレインはだいぶ経ってから囁くようにジャックに言った。


「アリス様が斃した敵は、白騎士……この土地を治める、白の女王の尖兵です。いずれ、白騎士を殺されたヤツは、怒り狂ってここを襲撃することと思われます」

「まだ終わってはいないのか……」

「アリス様とイベリス様が目覚める前に、襲撃が来るかもしれません。私達はそれに備えなければいけません」


フィルレインはジャックを見上げて、続けた。


「ジャック様、少しお休みになった後、僧正様のお部屋にいらしてください。ラフィがあなたを呼んでいます」

「ラフィ……黒猫君のことか」

「はい。白の女王の襲撃に、そこで備える会議をします」


フィルレインは頷いて、手を伸ばしてジャックの大きな手に触れた。


「ごめんなさい……巻き込んでしまって」


その小さな呟きは、空調の音に紛れて消えた。



数時間後、ジャックは壊れたエレベーターではなく、非常階段から僧正の部屋に入った。

中央の柱や壁に走った亀裂、部屋の一部を抉っている巨大な穴や斬撃の跡が、先程の戦いの物凄さを物語っている。

僧正は、簡易的に移されたのか、別の大きな試験管のような容器に浮いていた。

ジャックが足を踏み出すと、集まっていた男達や生き残りの女の子達が、暗い表情を彼に向ける。


「申し訳ない、少し待たせてしまったようだ」


ジャックがそう言うと、僧正の声がスピーカーから流れ出した。


「いえ、大丈夫です。お体の具合はどうですか?」

「今のところは何とも。変化は見られないが……」

「そうかな。僕のことはまだ見えないかい?」


そこで足元から声をかけられ、ジャックは視線をそちらに向けた。

いつの間に現れたのか、彼の脇に黒猫が座っていた。


「君は……ラフィ……?」


問いかけると、集まっていた男達が顔を見合わせる。

巫女達はホッとしたような顔をしていた。


「その通り、そこにはアリス様が伴ってきたナイトメアがいます。ラフィ……彼が、あなたを崩壊病にすることを提案しました」

「ナイトメア……これが……」


ラフィに向かって手を伸ばしたジャックだったが、彼はそれを押しとどめ、引っ込めた。


「……よろしく頼む、ラフィ。君がアリスを守ってくれていたことは聞いている」

帽子屋ハッターの時から、あなたのことはよく見ていた。力を貸して欲しい」


ラフィはそう言うと、アリスが穿った巨大な穴に近づいた。

そしてジャックの方を振り返って口を開く。


「穴の中を見てくれ」


言われ、ジャックは穴に近づいて覗き込んだ。

底の方に、何かが突き刺さっているが他には何もない。


「何だ……?」

「アリスの攻撃は白騎士を、たしかに殺した。しかし死の寸前に、奴は白の女王のところに戻ったらしい」

「瀕死だったのに動けたのか……!」

「しかし致命傷だ。おそらくもう命はない。問題は、アレだ」


ラフィに言われて目を凝らすと、巨大な両刃の長剣……のようなものが、底に刺さっているのが見えた。


「あれは……」

「白騎士が持っていたナイトメア、ダーインスレイブだ。あれはナイトメアだが、生命はない。つまり、ナイトメアが使う道具なんだ」

「…………もしかして、あれを私に使えと?」

「察しがいいな。巫女にやらせてみたが、重くて振るえないようなんだ。どの道生身でナイトメアに対抗するのは無謀だ。武器は多いに越したことはない」


ラフィに頷いて、ジャックは穴にかけられていたはしごを伝って下に降りた。

そして刺さっていたダーインスレイブを抜き、持ち上げる。

かなり重かったが、しっかりと重量が感じられる剣だった。


「ナイトメアに……触われる……」

「崩壊病にかかったせいだ。取り扱いは注意してくれ。白騎士は、その剣は総てを切断すると言っていた」

「あ……ああ……」


戸惑いがちに頷き、ジャックはダーインスレイブを持ったままはしごを登った。

だいぶ足の怪我は痛みも引いてきている。

そうではなくても、根をあげている場合ではなかった。

ダーインスレイブを床に刺して息をついたジャックを見て、僧正が言葉を発した。


「それでは、白の女王の侵攻への対策会議を始めます。よろしいですね?」



凄まじい音がして、地震と地鳴りが響き渡ったのは、会議が終わってから数時間経った頃だった。


防護服に身を包んだジャック、そして巫女と数人の武装した男達がシェルターの外で膝をつく。

もうもうと土煙と水柱が上がっていた。

次いで、バラバラと黒い液体が空から降り落ちてくる。


シェルター前の、黒い水に汚染された川の中央に大きな穴が空いていた。

一瞬遅れてそこにドッと水が流れ込み、流れのベクトルが変わった川が大きく横に溢れ出した。

その水に膝までを濡らしながら、ジャックは歯を噛んで、川の中央に鎮座している巨大な「モノ」を見上げた。


「おいおい……」


防護服のヘルメット内で、彼の頬を冷たい汗が流れた。


「ウソだろ……」


空から降ってきたのは、芋虫のように膨れ上がった、いびつなマネキン人形のようなモノだった。

横に伸びた芋虫状の胴体には、幾つもの女性の足がついていてそれがカサカサと動いている。


胴体だけで、ゆうに十メートルは超えるだろうか。

その中央に塔のように、やけに細いマネキン人形の上半身がくっついていた。

それも大きい。

遥か上空……五メートル以上先に頭があり、のっぺらぼうの口は大きく裂けて、中から無数の棘が覗いていた。


「……白の女王……」


ジャックの後方で銃を構えていた巫女の子が、小さく呟いて震え出す。

白の女王と呼ばれたバケモノは、口を大きく開けて絶叫した。

その胴体の先端がブチュリ、と音を立てて裂け、中から兜と剣、そして盾で武装した、同様の尺取り虫のようなモノが這い出す。

次から次へ、蟲のように這い出して尺取り虫人間達は剣を構えて整列し、キィキィと金属をひっかくような声を立てた。


「何……だ、あれ……」


呆然としてジャックは呟き、硬直した。


ナイトメア。


それは分かっていた。

目にしている光景を頭が受け付けないということもある。

あるが、それだけではない。


怖気。


胸の奥から湧き上がる不快感。

あれは……。

そう、あれは。

存在してはならないものだ。


本能的な部分で、ジャックの何かが警鐘を鳴らす。


逃げろ。


心の奥で誰かが言った。

早く逃げろ、何をしている。

死ぬ、死ぬぞ。

殺されるぞ。

八つ裂きにされ、血を搾り取られ、無残に殺されるぞ。

逃げろ、逃げろ、逃げろ。

逃げるんだ。


尺取り虫の兵士達が足を踏み出したところで、ジャックの足が震え出した。

アリスは……アリス達は……。

ずっとこんなものと戦っていたのか。


信じられなかった。

信じたくなかった。


こんなの……斃せる訳が、ないじゃないか。

震え上がった心で絶望する。


早く逃げなければ。

死ぬ……殺される。

死にたくない。

電光のようにそこまで思ったところで、ジャックは耳元で叫ばれてハッとした。


「ジャック様! お気を確かに!」

「…………!」


気づいた時には、ジャックはダーインスレイブを構えたまま数歩下がっていた。

自分のその行動に一拍遅れて愕然とする。

何だ……?

私は今何をしようとしていた?

まさか……。


逃げようとしていたのか……?


歯を噛んで、重い両刃剣を中段に構える。


……違う!

断じて違う!

私は殺すのだ、ナイトメアを。


この手で……!


「ナイトメアは、できるだけ正面からは見ないようにしてください。恐怖心を煽られます!」


フィルレインが巫女達に聞こえるように大声を上げる。

既に戦意を喪失して震えている子もいた。


キチキチ……と蟲の鳴く音を立てながら接近してくる尺取り虫のような兵士達をジャックが睨みつけたところで、白の女王から甲高い、ヒステリーを起こしたような笑い声が聞こえた。

それは次第に金切り声の叫び声に変わり、長く刃のように伸びた爪をブンブンと振るい、白の女王は怒鳴り始めた。


「アリスを出せ! アリスを! 出せ! 連れてこい! ここに! 出せええええ!」


それはもはや、理性を失っていた。

純然たる怪物。


異形。


ジャックはダーインスレイブを構えたまま、フィルレインと目配せをした。

川の向こうに小さな人間……ジャックが、ダーインスレイブを構えているのを見たのか、白の女王の動きが止まる。

尺取り虫兵士達が、口々に鳴いて、鈍重な外見からは考えられない速度で、群れをなして駆けてきた。


「ダーインスレイブ……? 何故人間が持っている……! 人間風情が! 何故!」

「…………」


大きく息を吸い、ジャックは剣を握る手に力を込めた。


「白騎士のおおお! ダーインスレイブを! 何故貴様が持っているうううう!」


両手を広げ、白の女王の巨体が動き出した。

川の水が更に氾濫を始める。


巨大な怪異を目の前にして、ジャックは押し寄せる黒い水と、尺取り虫のような異形達。

そして迫りくるバケモノ……白の女王を睨みつけてから、静かに目を閉じた。

巫女と男たちが、ジャックの様子を見て後ろに下がる。


「総てを切断する……総てを、総てを切断する……総てを切断する……!」


小さな声で呟きながら、彼は尺取り虫兵士の一匹が剣を、その頭に振り下ろそうとしたところで、カッ、と目を開けた。


「死ねえええええ!」


憎悪と共に絶叫して、ジャックは大きくダーインスレイブを横薙ぎに振るった。

ヒィィィィン……! と、空間が裂ける異様な音がした。

ジャックが剣で切り裂いた空間が、そのまま雪崩のように襲いかかっていた尺取り虫兵士達数十匹の胴体を薙いで、津波のようになっていた黒い水も裂き、白の女王に突き刺さる。


「ッぐ……!」


剣を振り抜いたところで、ジャックはダーインスレイブを地面に刺して膝をついた。

ゴボッ、とヘルメットの内側に血の塊を吐き出し、クリア素材のバイザーが真っ赤に汚れる。


一拍遅れて、まずは尺取り虫兵士達の一部が黒い血しぶきを上げて吹き飛んだ。

津波が横に斬れた。

水が衝撃波に薙ぎ倒されたかのように白の女王に向かって逆流する。

残っていた尺取り虫兵士達がそれに巻き込まれて後方に流れ始めた。

次いで、白の女王の胴体にバクッ、と亀裂が入った。


「な……ッ」


彼女の驚く声と共に、そこから滝のように黒い血しぶきが撒き散らされはじめる。


「……まだだ……」


吐血したジャックは、しかし歯を食いしばってダーインスレイブを握りしめ、再び立ち上がった。


「ナイトメアは、人の生命を吸う」


会議の途中でラフィはそう言って、ジャックのことを見上げた。


「生命……?」

「そのためにナイトメアは血液や人間の体を貪るんだ。それは、その剣……ダーインスレイブも同様だ」


手の中の長剣を見て、ジャックはラフィに問いかけた。


「それでは、こいつは私の生命を吸って力を発揮すると?」

「察しが良いな。そのとおりだ。あなたが意識をそれに繋げ、振るうと、ダーインスレイブは生命を吸う代わりにおそらく力を発揮する」

「振るえば振るうほど死に近づいていくというわけか……」

「ジャック様……」


フィルレインが怯えたような顔でジャックを見る。

彼はそれを見返すと、剣を床に刺して言った。


「面白い。それくらいしなければ、復讐はできん」

「…………」


ラフィは少し黙り込むと、ジャックに言った。


「生命力というのは、限りがある。ある程度は人の体内で生成されるが、一気に抜かれると昏倒する。おそらく、ダーインスレイブの攻撃を繰り出せるのは、二回」

「二回……」


繰り返したジャックに頷いて、ラフィは続けた。


「二回以内に決めるんだ。それ以上を振るうのは無理だと思う」



(こんなにきついものだとは……)


ジャックはもう一度ダーインスレイブを持ち上げ、よろめきながら構えた。

視界がグワングワンと揺れ、耳鳴りが聞こえる。

頭は沸騰したかのように熱く、鼻血がボトボトと流れ出していた。


剣を振るった瞬間、体の中の力が全て持っていかれたような、そんな感覚。

頭を振って無理やり意識を前方に集中させる。


ダーインスレイブの一撃は、凄まじい威力だった。

両断とまではいかなかったが、白の女王の不気味な胴体を半分ほど裂いている。

触れてもいないのに、振るっただけでこの威力だった。

しかし……。


(やはり……直接叩き込むしかない……)


ジャックは心の中で歯噛みした。

絶叫した白の女王が、黒い血液を撒き散らしながら体を震わせたのだ。

まだ生きている。


確かに、ラフィの言うとおりにもう一度振るうのが限界のようだ。

ジャックは右手を上げると、大声を発した。


「今だ! 起動しろ!」


呆然としていた男達がハッとして、バラバラと配置につく。

そして彼らは発破をかける爆破スイッチを、それぞれ思い切り踏み込んだ。


凄まじい爆音、爆炎と衝撃が周囲を包んだ。

連鎖的に地面が爆破していき、それが川まで走る。


事前にこのシェルターの人々がセットしていた、起動式の地下地雷だった。

それは川を一気に崩落させると、黒い水と白の女王、そして尺取り虫のようなナイトメア達を一気に飲み込んだ。


「アリスウウウウウウウウウ!」


白の女王が絶叫する。

その巨体が爆発に巻き込まれ、そして川が崩れ落ち始めた。

このあたりの地層は、柔らかく脆いらしい。

そして少し離れた場所は崖になっている。

そこに向かって崩落した水が流れていき、白の女王達も凄まじい勢いで流され始めた。


「ぐおおおおおおお!」


爆発の直撃を浴びて、所々がグジュグジュの肉塊になっている白の女王が雄叫びを上げながら態勢を崩す。

そして彼女は、そのまま背後の崖に流されて、転がり降ちた。


「やった……!」


フィルレインがジャックの背後で声を上げる。

しかしジャックは、体をビリビリと刺激する何か……そう、白の女王の「怒り」の感覚に歯を噛み締めた。

ダーインスレイブを通して、痛いほど伝わってくるのだ。


「まだだ……!」


羽音が聞こえた。

高周波のような空気を揺るがす音。

巫女も、男達まで耳を塞いだほどだった。


崖の下から、蜂の羽のようなものを背中から生やし、高速で振動させて空中を舞いながら、白の女王が浮き上がってきたのだった。

バケモノは、鈍重な巨体から黒い血液を撒き散らしながら、空中からジャックに向けて金切り声を発した。


「殺す……殺す……コロスウウウウウ!」


棘だらけの口中から怨嗟の声を発し、もはや何なのかもわからない形に変わっている白の女王は、空中に手を伸ばした。

途端、彼女の手に囲まれた場所に、真っ黒な「穴」が出現した。

それはたちまち渦を巻いて回転しはじめると……ジャックは、体を何かに吸い取られるような強烈な吸引感を感じ、慌てて足を踏みしめた。


「何だ……!」


大声を上げる。

周囲の水がざわざわと揺らめき、あろうことかその黒い球体の方に引き寄せられるように移動を始めた。


「白の女王の能力です! 何かに掴まって!」


フィルレインが叫んで、男達に支えられて後退する。

ジャックも逃げようとしたが、足に力が入らず、その場に膝をついてしまった。


「ジャック様!」


フィルレインが絶叫する。

ジャックは慌ててダーインスレイブを地面に刺し、それに掴まった。


一人、二人と巫女達が悲鳴を上げて空中に浮かび上がり、黒の球体に向かってものすごい勢いで吸い込まれていった。

陰惨な悲鳴が響き渡る。

球体の中から真っ赤な血液が吹き上がる。

それを浴びながら、白の女王はゆっくりと、羽を鳴らしながらジャックに近づいてきた。


「ぐううう!」


体全体を引き寄せられる感覚に、ジャックはダーインスレイブを掴んで必死に体に力を込めた。

目が霞む。

頭が痛い。

このままでは……。


「貴様はすぐには殺さない……体中の骨を砕いて輪切りにしてやろう……頭を開いて脳みそをかき回してやろう……地獄の中で死にたいと懇願させてくれる……」


ブツブツと呟きながら、醜悪な口を開いて白の女王の巨体がジャックに近づく。

体全体を吸い込まれる感覚に、ジャックの足が地面から浮く。


フィルレインが男達に支えられながら何かを叫んでいる。

ジャックはそちらを見て。

そして、ダーインスレイブを抜いて、無事な方の足で地面を蹴った。

黒い球体に向けて吸い込まれ……いや、ジャックが宙を舞って突進する。


「ム……!」


白の女王が小さく呻く。

ジャックは、黒い球体に吸い込まれる瞬間、体を回転させてそこに向けてダーインスレイブを大きく振るった。


考えて動いたわけではなかった。

ほとんど本能的な動きと言っても良かった。


ジャックが振るったダーインスレイブから、ヒィィィン……と空間が裂ける音がする。

一瞬、長剣が十数倍の長さに伸びた。


それは正確に白の女王の、のっぺらぼうの顔面を薙ぎ……胴体までもを通過して、地面を大きく抉った。

暴風が吹き荒れた。


大きく裂かれた空間にドッと空気が流れ込み、ジャックはその奔流に吹き飛ばされ、ヘルメットの中で鼻血と血痰を撒き散らしながら地面に叩きつけられた。

黒い水に背中から打ち付けられ、目の前に星が散る。

離さなかったダーインスレイブを持つ手がブルブルと震えている。

立ち上がることができずに、黒い水をかき分けてもがきながら、ジャックは必死に顔を起こした。


白の女王は、両手を天に上げたまま停止していた。

上に掲げた黒い穴の回転が止まっている。

一拍遅れて、まずは「穴」が中ほどから切断され、下半分が糸を引いて地面に落ちた。

そしてドロドロのヘドロになって霧散する。


「ガ……ガ……」


小さくうめいた白の女王の顔面。

何もないマネキンのようなそれが、顔の部分だけズル……と重力に引かれてズレた。

切断面から噴水のように黒い血液が撒き散らされる。


胴体までもが真っ二つに切断され、あたりを吹き上がった女王の血液が汚した。

二つに割れた白の女王の胴体が、前後それぞれに水の中に倒れる。

盛り上がった水。

それに煽られる形で、ジャックはダーインスレイブもろとも、シェルターの方に押し流された。


「ジャック様!」


フィルレインが叫び、水をかき分けながらジャックに飛びついた。

慌てて男達が彼女達の体を掴み、シェルターの影に引き寄せる。

切断され、顔面がなくなった白の女王は、それでも尚水の中でもがいていた。


「ゲゲ……ゲ……」


奇妙な音を出しながら、彼女は真っ黒な頭の切断面をシェルターの方に向け、痙攣する手を伸ばした。


「アリ……ズ……ア……リ……ズ……」


呪詛のように呟きながら、白の女王は爪を地面に突き立て、ズルズルと体を引きずってシェルターに這い寄り始めた。

生き残っていた巫女の子達が悲鳴を上げて硬直する。


フィルレインは、慌ててぐったりと脱力したジャックを見た。

ヘルメットの中が血に染まっていて、表情は見えないが気絶しているようだ。


(……私が……私がやるしか……)


彼女は、間髪を置かずにジャックの手からダーインスレイブを毟り取ると、地面に切っ先を引きずりながら、ブルブルと痙攣しつつにじり寄る白の女王に近づいた。

過呼吸のように荒く息をしながら、飛び出しそうな心臓を、無理やり息を吸う事で落ち着けようとする。


「ブブ……ブ……ヴヴ……」


蟲の羽音のような不気味な音を発しながら、白の女王が震える手を延ばす。

それを冷たい目で無視し、フィルレインは女王の前に立った。


「アリ………………ズ…………ヲ…………」


執念の怨嗟の声を上げて痙攣するバケモノを前に、少女はダーインスレイブを力の限り握った。


「シロ…………キ…………シ…………」


そして、フィルレインは大きく剣を振った。



グチャグチャの肉塊に変わり果て、もはや動くこともなくなった白の女王の亡骸の前に、空中に浮かんでいたハンプティ・ダンプティが降り立った。

口には葉巻が咥えられていたが、その顔は嫌悪に歪みきっていた。


黒い血液を踏みながら、白の女王に近づく。

顔面の断面に小さな穴が空いていて、そこが空洞だ。

コアは持ち去られたらしい。


「…………」


無言でそれを見て、ハンプティは舌打ちをして白の女王の胴体を軽く蹴った。

そして葉巻を摘んで、フーッと息を吐き出す。


「……また君に会うとはね」


そう言ったハンプティの背後……シェルターの柱の陰から、鋭く目を光らせながらラフィが顔を覗かせる。

黒猫はそのまま出てくると、ハンプティから距離を取ったところで座り込んだ。

その背後に、大型のスタンガンを握った巫女の子達が怯えた顔で数人控えていた。


「こちらには、帽子屋と白の女王のコアがある。いくらお前でも、二つのセブンスと二人のアリスを相手に、無事で済むとは思わないが……?」


ラフィはそう言って口の端を歪め、ニィ……と笑った。


「どうする?」

「…………」


振り返って手を腰に当て、ハンプティは息をついた。

そしてギョロギョロした目で巫女を見回し、ラフィに視線を向ける。


「成る程。取引か」

「取引ではない。警告だ」


ラフィが断固とした口調で言う。

しかしハンプティは楽しそうにクックと笑ってから、葉巻を摘んで煙を吐いた。


「警告……警告ね。面白いことを言う」

「…………」

「いいだろう。その『警告』とやらを間に受けるのも面白そうだ。だが、覚えておくといい。子猫さん」


卵のバケモノは、ラフィの前に指を突き出した。

そしてゆっくり、一本、二本と折る。


「こんなことわざを知らないかな? 『ホトケの顔も三度まで』とな」


三本目を折り、彼はいきなり口に力を入れて葉巻を吹き矢のように噴き出した。

流星のように、誰も反応できない速度で飛んだそれは、弾丸に貫かれたかのように巫女の一人……その頭に突き刺さり、パァンッ! と軽い音を立ててそれを破裂させた。

周囲に真っ赤な血液が撒き散らされ、巫女達が後ずさって息を呑む。


「次はないぞ」


ハンプティの体が、蜃気楼のように掻き消えた。

ドチャリ、と頭が砕かれた巫女の体が地面に倒れる。

ラフィは小さく息を吐いて、シェルターを見上げた。


(まずいことになった……ヤツはここのことを仲間に報告するつもりだ)


猫の頬を冷や汗が流れる。


(さて……どうする……?)

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