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第3話 ハンプティ・ダンプティ

グジュル、グジュル、という何かがかき回される音が響いていた。

そして、何かを吸い上げる汚らしい音。


フォークとナイフが音を立てる。

アリスは、ポカンとしてその光景を見ていた。


細長い、長方形の大きなテーブルに、大小様々な奇妙な形をした「モノ」が座り、何かを貪り食っていた。

テーブルの上に、肉の塊のようなものが乗っている。

薄暗い蝋燭の火に照らされたそれは、皿からポタポタと……真っ赤な血を垂らしている。


「…………」


体が動かなかった。

視線を動かすこともできない。


暗がりで、何かを貪り食っている者達の顔は見えない。

しかし妙に光る赤い瞳はそれぞれ見ることができた。


ムシャリ、とそのうちの一人が皿から何かを取りあげて口に運んだ。

それを見たアリスはヒッ、と息を呑んだ。


腕だ。

子供の腕。

人間の子供の腕が半ばから引きちぎられ、妙な方向にバキバキに折れている。


それを家畜の肉のように口に運び、骨をバリバリと噛み砕く。

視線がスライドし、別の者に移る。


そいつは、足を食っていた。

よく見ると皿には、ぐちゃぐちゃの臓物の塊が乗っていた。

動悸が激しくなる。


あれは……。

あれは、まさか……。

金色の血に濡れた髪があった。

血溜まりの中に転がっている。


首だった。


……首。


首?


アリスの頬を冷や汗が流れる。

あれは……。

もしかして……。


鳶色の見開かれた、魚のように死んだ目が空虚にこちらを見ていた。

それを認識した瞬間。

アリスは金切り声の絶叫を上げた。


それは私。

あれは私。


私のことを、あいつらは貪り食っている。



緩慢に目を開く。

口の中に入った黒い雫をえづいて吐き出す。

何とも苦く、毒のように酷い味がした。

地面にうつ伏せに突っ伏しているアリスの頬を、ペロペロとラフィが舐めていた。


「アリス、しっかりするんだ。この雨の下では、いくら君とはいえ長時間さらされるのは無謀だよ」


耳元で言われ、咳をして上半身を起こす。

服も何もかもが黒い液体でドロドロになっているのを見て、アリスは呆然と地面にへたり込んだまま、周りを見回した。


黒い雨が降っていた。

地獄だった。


飛び散った人間の欠片。

抉れた地面。

倒れた樹木。

ヘドロのような塊の山。


そして……。

帽子屋の生首が、目の前にあった。

悲鳴を上げて後ずさる。


「その様子を見ると、また半覚醒に戻ったようだね。良かった。僕の事がわかるかい?」


ラフィに問いかけられ、アリスは震えながら服をたくし上げ、自分の体を抱いた。


「な……何が……?」


帽子屋に石を投げつけた。

そして……。

それから後の混乱が上手く思い出せない。


しかし、死んでいる。

断末魔の恐怖を醜い顔に刻みつけて、帽子屋は死んでいた。


目が半ば飛び出している。

右目は眼窟から外れて、地面に転がっていた。

舌がやけに長くだらりと垂れ、地面についている。

気味が悪い……というよりは、生理的嫌悪を催させる様子だ。


「こ、この人……」

「大丈夫だ。もう死んでいる」


ラフィが足元でそう言う。

アリスは胸を抑えて引きつった声を上げた。


「死んでる……? 死んでるの……?」

「君が数分前に殺した。ラビット達も、創造主の帽子屋ハッターが死亡したから自壊した」

「私が……」


そこまで言って、アリスの側頭部にズキリ、と抉りこむような痛みが走った。

頭を抑えた彼女を見て、ラフィが足を踏み出す。


「セブンスの使いすぎだね。それに、汚染水に当たりすぎてる。早くあのエレベーターから、地下通路に入ろう」

「ま……待って……」


アリスはそう言って、倒れているジャックに駆け寄った。

そしてヘルメットの奥の顔を覗き込む。

水蒸気で白く曇っていたが、胸は上下していた。

まだ生きている。

防護服の中の空気が抜けているようで、体にぴっしりとまとわりついていた。


「ア……アリス……か?」


掠れた声でジャックは言った。

アリスの両目に涙が盛り上がる。


「ジャックさん……! 良かった!」

「ナイトメアは……死んだのか……?」

「死んでる……全部死んでるよ。私、何も覚えてないの……一体何が……」


小さな声でそう言ったアリスに言葉を発しかけ、ジャックはそれを飲み込んだ。

そして立ち上がろうとして失敗する。


「君だけでも逃げろ……これが、地下通路へ繋がる扉のカードキーだ……」


ポケットからカードを取り出し、ジャックはアリスにそれを握らせた。

しかしアリスは、それをジャックの手に押し戻して強く言った。


「ダメ! 一緒に逃げるの!」

「しかし……」

「私につかまって!」


アリスは短くそう言うと、ジャックの重さにガクガクと体を震わせながら、小さな体で彼を支え、起き上がらせた。

そして肩を担ぎ、大人一人を引きずるようにして必死に歩き出す。


「アリス、その人間は捨てて行くんだ」


ラフィが呆れたように言う。

アリスは首を振って、大粒の汗を顔に浮かべながらジャックを引っ張った。

ラフィは一つため息をつき、地面に転がっている帽子屋の右目を足でつついた。


「分かった。君は一度決めたらおいそれと意思を変えない子だったね」


黒猫はそう言ってから、アリスを見上げた。


「じゃあ難しいことは言わない。その代わり、このコアを持っていくんだ」

「……コア……?」


荒く息をつきながら聞き返す。

ラフィは頷いて答えた。


「これには、帽子屋ハッターのセブンスが詰まっている。いずれ必要になる時が来る」


しばらく躊躇したが、アリスは頷いてしゃがみ、帽子屋の右目を掴んでポケットに入れた。

そしてジャックを引きずりながらエレベーターの方に歩き出す。


生き残った人間は、ジャックだけだった。

無残な肉の塊になって、一面に飛び散っている。

吐き気を抑えながら、アリスはぬかるんだ地面を踏みしめ、歯を噛んだ。


エレベーターのドアが締まり、空気が抜ける音がして下降をはじめる。

ジャックは必死に防護服のボタンを押し、ヘルメットを取り外した。

そしてゼェ、ゼェと荒く息をつく。

汗だくになった彼は、憔悴した顔で、床にへたり込んだアリスを見た。


「ジャックさん……大丈夫……?」


問いかけたアリスは、ジャックの顔を見て唖然とした。


薄れている。


見た目ではない。

まるで霧のように、ジャックの顔が薄れて歪んでいた。

向こう側が透けて見えている。


ガコン、とエレベーターが止まり、空気の抜ける音と共に開いた。

ジャックは扉の一時停止ボタンを押してから、体を動かしてエレベーターの外を見た。

ドームの内部と同じような、白いきれいな通路が広がっていた。

ところどころ電気が切れていて、薄暗い。


「ナイトメアは? いるのか?」


ジャックに押し殺した声で聞かれ、アリスはラフィを見下ろした。

黒猫が首を振ったのを確認して、口を開く。


「何もいないみたい……」

「そうか……」


そこでやっとジャックは、床に大の字になって息をついた。


「その……体……」


戸惑いと共に問いかけると、ジャックは荒く息をつきながら言った。


「外気に触れ過ぎたんだ。このままだと、私の存在がロストしてしまう。すまないが、壁の緊急セットからアンプルをとってくれ」


言われ、アリスは立ち上がって壁に取り付けられている救急セットの箱を外した。

そして蓋を開け、中から小さな注射器型の薬瓶を取り出す。

金色の液体が入っていた。


「これ……?」

「それだ。服を脱ぐのを手伝ってくれると嬉しい」

「う……うん」


頷いて、ジャックの体に張り付いた防護服を脱がせる。

手が出ると、彼はアリスからアンプルを受け取って、針を首に突き立てた。

中身を体に流し込み、息をつく。


「だ……大丈夫……?」


おどおどしながら聞いてきたアリスに頷いて、ジャックは目尻を指先で揉んだ。


「ああ……かなり強いクスリなんだが、これで抑えられるはずだ……」


やがて、徐々に彼の体に存在感が戻ってきた。

半透明だった体がゆっくりと実体を持ち、透けがなくなる。

顔の汗を手で拭ってから、ジャックはアリスを見た。


「ありがとう……君がいなかったら、私は消えてなくなっていた。ナイトメアも……」


そこまで言って、ジャックは言葉を止めた。

そして言いかけていたものを飲み込んで、アリスから視線をそらす。


「ジャックさん、崩壊って……? さっき、体が透けてるように見えた……」


アリスに問いかけられ、ジャックは頷いて言った。


「ああ。私達人間は、汚染された外気や汚染物に触れると、体が徐々に実体を失って、やがて消える。この防護服は、その崩壊から体を守るものなんだ」

「でも、私外にいても何ともない……」

「それは君がエンジェルだからだ。私達の希望なんだ」


彼は壁に寄りかかって立ち上がると、エレベーター内の通信パネルと思われる端末を指で叩いた。


「君のことは、何が何でも守る。命を救われた恩もある」


体が痛むのか、ジャックは歯を噛んで端末の子機を掴んで耳に当てた。


「何を……」

「少し離れたシャルターに救援を頼む。今は私も君も休息が必要だ……私達のドームは、もうダメだ。戻ることはできない。長老が死んでしまった」


アリスの脳裏に、ぐちゃぐちゃに潰されて垂れ下がっていた「脳」がフラッシュバックする。

通信が繋がったのか、ジャックは暫くの間状況を向こうに説明していた。

そして、しばらく話してから端末のスイッチを切る。


「少し時間がかかるが、救援をよこしてくれるそうだ。ナイトメアの襲撃さえなければ、避難できる」


そう言ってジャックは無理やり立ち上がった。

足が折れているのか、右足が奇妙な方向に曲がっていた。

痛みにうずくまった彼を慌ててアリスが支える。


「ジャックさん、足が……」

「あっちのシェルターにさえ避難できれば、治療システムがあるから治せる。しかし……」


歩こうとして失敗し、ジャックは呻いた。


「これでは歩けないな……おとなしく救援を待っていた方が良さそうだ……」

「教えて。エンジェルって何? 長老は私に何を言おうとしたの……?」


アリスに問いかけられ、ジャックは首を振った。


「すまない。私も詳しい話は分からないんだ。全ては長老が知っていた。避難先のシェルターにも、あちらの長老がいるはずだ。聞いてみるといい」

「長老って……何人もいるの?」

「それぞれのシェルターに一人ずつ、中枢システムとして配備されてる……君は何も知らないんだな」

「ご、ごめんなさい……」


思わず謝ってしまったアリスの頭を撫で、ジャックは足を庇いながらエレベーターの壁によりかかり、ズリズリと腰をおろした。


「ナイトメアがもういないというなら、少し休もう。救急セットの中に毛布が入っている。取ってくれ」


アリスは頷いて、箱から折りたたまれた毛布を取り出して広げた。



「…………」


暗がりの中、複数の人間大の「モノ」達が動きを止めた。

そして血みどろのテーブルから視線を外し、全員一時に天井を見上げる。


「へぇ……」


一人が口を開くと、少し離れたところに座っていた「モノ」が、キンキンとした耳障りな声を上げた。


帽子屋ハッター……? あああ……帽子屋ハッター!」


絶叫を上げて机を叩くそれを見て、葉巻をくゆらせた別の「モノ」が言った。


「あいつ、俺達に秘密で手を出したな。その罰を受けたんだよ」

「でもそう簡単に帽子屋を殺れるアリスがいるとは思えないけど」


子供の声がした。

それと全く同じ調子で別の子供の声が言う。


「バグかな?」

「いずれにせよ、おそらく帽子屋は殺られたな」


葉巻をくゆらせた「モノ」が、冷静な調子で言った。


「殺してやる……」


歯を噛みながら立ち上がったモノを見て、腕組みをして壁に寄りかかっていたモノが口を開いた。


「待て」

「世界で一番むごたらしい方法で殺してやる……殺してやる!」


キンキンという金属をこすり合わせるような老婆の声で喚くそれに、腕組みをしたモノは静かに言った。


「待てと言っている。次はお前の番ではない。順当に行けば……」

「俺だな」


葉巻をくゆらせていたモノが冷静な声でそう言い、煙をふかした。

老婆の声のモノが金切り声で喚いた。


「順番変わりなさいよ! あたしが一番多く殺してるんだ!」

「関係ないだろう。順番は順番だ」


葉巻のモノがそう言うと、二人の子供の声がケタケタと笑った。


「何がおかしい!」


ヒステリーを起こして喚く老婆声に、腕組みをしたモノは言った。


「掟は絶対だ。逆らうというのか?」

「…………」


歯噛みして老婆の声が黙り込む。

葉巻をくゆらせたモノは、煙を吐き出すと床に降りた。


「帽子屋はどこで殺られた?」

「あの感覚だと、おそらく白の女王の居城近くだな」


腕組みしたモノから言われ、それは頷いて答えた。


「成る程。では白の女王に知らせがてら、今度のアリスを殺してこよう」

「独り占めしちゃダメだよ、ハンプティ」


子供の声に言われ、ハンプティと呼ばれたモノは、口元の葉巻を手に取り、指先でジュッ、と音を立てて火を摘み潰した。


「さぁ、それはどうかな……」



いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

アリスは、ガタン、ゴトン、という列車が走るような音を聞いて目を開けた。

体がかすかに揺れている。

頭が熱い。

小さく咳をしたアリスの耳に


「エンジェルが目を覚ましたぞ!」


という声が聞こえる。

バタバタという足音と共に、複数の足音が彼女が寝かされているベッドの周りに群がった。

全員、手術服にゴーグル、そしてマスクをつけている。

ギョッとしたアリスに、そのうちの一人が表情を崩して笑いかけた。


「……災難だったね。君と同行していた彼から状況は聞いている。私達は治療団だ。この指は何本に見える?」


指を三本立ててアリスの前でゆっくり振る。


「さ、三……?」


小さく答えると、マスクの男達は頷いて手元の機器を操作した。


「汚染レベル、安全域です」

「エルパー指数固定。空間固着率も問題ありません」

「ナイトメアの反応は?」

「周囲百キロ圏内にはありません」


口々に言っている男達を不安そうに見回し、アリスは上半身を起こした。

ベッドの足元にラフィが丸くなっていた。

眠っているらしい。


「あの……」


自分の血にまみれた服が着替えさせられて清潔な洋服になっているのを見て、アリスはわずかに頬を赤くした。

足や腕の擦り傷にも綺麗に包帯が巻きつけてある。


毛布を手繰り寄せて体を隠したアリスの様子を見て、男達の一人が頭を掻いた。


「ああ……すまないね。君を着替えさせたり処置をしたのは我々ではない。我々は、先程までお連れの男性の手術オペをしていた」


それを聞いて、アリスは口元に手を当てて声を上げた。


「ジャックさんは! ジャックさんは無事なんですか?」

「かなり酷い怪我だったが、命に別状はない。右足に大きな金具は挿入したがね。ドームに帰ってきちんとした処置をすれば、すぐ歩けるようになるはずだ」


ホッとして胸をなでおろす。

そこで、コンコンと扉を叩く音がした。

男達の一人が扉を開けるスイッチを押して、外に立っていた者を招き入れる。


「紹介しよう、エンジェル。暫くの間君の身の回りを世話をする巫女、フィルレインだ」


視線をスライドさせると、手に食事を乗せたトレイを持っている、小さな女の子が立っていた。

巫女、と呼ばれた少女……フィルレインは、にっこりと優しく笑うと頭を下げた。


「天使様、フィルレインと申します。フィルとお呼びください」


真っ白い、光り輝く銀色の髪の毛をしている少女だった。

瞳の色は僅かに赤い。

身長はアリスと同じくらいだろうか……年の頃は十二、三……いずれにせよ小さい子供だ。


フィルレインはアリスの足元で眠っているラフィをチラリと見てから、何事もなかったかのように視線を伏せて進み出、ベッド脇のテーブルにトレイを置いた。


「説明が遅れたな。ここは、私達の第八シェルターに移動するための地下列車の中だ。近くに駐屯していたところ、レスキューの依頼を受けて駆けつけた。ドームへは、まだ到着まで丸五日はかかる。ナイトメアの気配もない。しばらくここで休息を取っていて欲しい」


男の一人が言うと、フィルレインは頭を下げてアリスの脇に立った。


「お世話は私がさせていただきます。何なりとお申し付けください」

「同じ女性の方がいいだろうと思い、君の手当や着替えはこの子がやっている。何でも命じてくれ」


手術服の男に言われ、アリスは戸惑いながら頷き、フィルレインを見上げた。

美しい少女だった。

長い銀髪を腰のあたりで結っている。

少し彼女に見とれ、そしてハッとしてアリスは言った。


「ジャックさんに会わせてください」


そう口に出すと、困ったように男達は顔を見合わせた。

そのうちの一人が申し訳なさそうに首を振る。


「まだ麻酔で眠っている。話ができる状況ではないし、列車の中の特殊治療室にいるんだ。面会は、ドームに着いてきちんと治療が終わってからにした方がいい」


言われてアリスは、発しかけていた言葉を飲み込み、俯いて頷いた。

しばらく日用品などの説明をして、男達が部屋を出て行く。

息をついたところで、フィルレインが微笑んでアリスの脇に腰を下ろした。


「大丈夫ですか? 天使様。大分お疲れのよう」


問いかけられて、アリスは目尻を指で抑えてか細い声を発した。


「うん……頭が痛い……」

「お薬を出しますね。ちょっとお待ち下さい」


フィルレインがそう言って立ち上がる。

そこで足元のラフィが目を開け、赤い瞳で彼女を見上げた。

その表情が僅かに険しくなる。

カチャカチャと戸棚の中を弄りながら、背を向けた状態でフィルレインは言った。


「そう、敵意を向けないでくださいな。子猫さん。感知されてしまいますよ」


「ラフィが見えるの……?」


アリスに問いかけられ、戸棚の薬瓶を開けながらフィルレインは頷いた。


「はい。はっきりと」

「…………」


ラフィは黙ったまま立ち上がると、アリスとフィルレインの間に移動して腰を下ろした。

そして重苦しく口を開く。


「レプリカンごときに猫呼ばわりされる言われはないね」

「気に障ったのなら謝ります。他意はありませんよ」


ニコニコとした表情のまま、フィルレインは振り返ってアリスに近づいた。

そして手の平に乗った錠剤を差し出す。


「頭痛薬と、少し眠ることができる薬です」

「あ……ありがとう」


戸惑いながら受け取り、食事のトレイの上に置く。


「頭痛薬だけは今お飲みになった方がいいかと」


フィルレインに言われてコップを手に取ったアリスに、ラフィはいつもとは違う低い声で言った。


「アリス、油断しないで。こいつはレプリカンだ」

「え……? レプリカンって……」

「不完全な人間だ。病に冒されてる」


端的に答えたラフィに、フィルレインはニッコリと笑いかけてから頷いた。


「さすが、天使様についているナイトメアですね。色々ご存知な様子」

「ナイトメア……?」


アリスはフィルレインの言葉を繰り返して、目の前のラフィを見た。


「ラフィ、ナイトメアだったの……?」


震える声でそう言って、猫から後ずさって体を離す。

ラフィは横目でアリスを見てから、苦い声でフィルレインに言った。


「余計なことを……アリスに無駄な恐怖を与えるのはやめてくれないか?」

「しかしナイトメアはナイトメアでしょう? 私からすれば、どうしてセンサーがあなたを感知しないのかということと……」


シャコ、という金属がこすれる音がした。

どこから出したのか、フィルレインの服の袖からアイスピックのような長い針が見えていた。

笑顔を顔に貼り付けたまま、彼女は針をラフィに向けて構え、腰を落とした。


「どうして天使様と一緒にいるのかということの方が気になりますけれど」

「やめて!」


アリスはそこで慌てて声を上げると、フィルレインのことを見上げた。


「この子はラフィ。私をずっと助けてくれてるの。そんなに怒らないで……」

「…………」


笑顔のまま凶器を引こうとしないフィルレインに、ラフィはため息をついて首を振った。


「参ったな……まさかこんなところでレプリカンに遭遇するとは思わなかった」

「ラフィ、レプリカンって……?」


おどおどとアリスが問いかけると、ラフィは静かに答えた。


「崩壊病に生まれつきかかっている人間だ。体が進行性の消去症状にかかっている代わりに、ナイトメアを見ることができる」

「私は巫女です。レプリカンなどという不躾な呼び方はやめてもらいたいですね、ナイトメア」

「レプリカンはレプリカンだ」


ラフィが吐き捨てるように言う。

フィルレインはしばらく忌々しそうにラフィを睨みつけていたが、アリスが怯えたような顔をしているのを見て、また金属音を立てて針をしまった。

そしてアリスに深々と頭を下げる。


「申し訳ありませんでした、天使様。怖い思いをさせてしまいましたね。あなたのお連れの者でしたら、ナイトメアであろうと、猫であろうと、それは私の友人です。歓迎いたします」

「どう見ても歓迎しているようには見えないな……」


毒づいたラフィを無視して、彼女はポケットから丸い塊を取り出した。

それを見てアリスが息を呑む。

帽子屋の眼球だった。


「救助された時、あなたのポケットにこれがはいっていました。ナイトメアの一部ですね。良ければ、事情をお話いただけませんか?」


フィルレインは進み出て、アリスの手に目を握らせた。

そしてラフィを見下ろして、その隣に腰を下ろす。


「お食事でもとっていただきながら。ナイトメアは……ああ、食事をとる必要はありませんでしたね」

「嫌味な女だ……」


ラフィが吐き捨てる。

アリスは服の胸を抑えながら、ラフィのことを見た。


「あなた、ナイトメアなのね……?」

「隠していたわけじゃないよ、アリス。僕もオリジナルのナイトメアだ。しかし、帽子屋達とは別の行動をしているし、君の味方だ」

「帽子屋はあなたのことを知らなかったの?」

「…………」


その問いには答えず、ラフィはアリスがポケットに帽子屋の眼球をしまったのを確認し、彼女の膝の上に移動して丸くなった。


「僕に敵対意思はない。レプリカン、アリスのためにも事を荒立てるつもりはないことは分かるな?」


フィルレインは軽く鼻を鳴らしてから肩をすくめた。


「……分かりました。報告はしないでおきます」

「助かる」

「帽子屋……もしかしてあなた達は、帽子屋の襲撃を受けたのですか?」


問いかけられて、アリスは頷いた。


「うん……これは、その人の目玉だよ……」


おぞましい義眼を手にとってフィルレインに差し出す。

彼女は息を呑んで口元に手を当てると、しばらくそれを見つめていた。


「……驚きました。まさかオリジナルナイトメアを殺す事ができる天使様がいるなんて……」

「私、何も……」


言いかけてアリスの頭にズキリとした痛みが走った。

声を上げて頭を押さえる。


ズルリとズレた帽子屋の首。

驚いたような、絶望を顔面に貼り付けた帽子屋の顔。

吹き出す黒い液体。


それらが一気に頭にフラッシュバックしたのだ。


「天使様! お薬を……!」


フィルレインに支えられ、薬を受け取る。

彼女は錠剤を水と共に喉に流し込んだ。

そして息をついて目尻を押さえる。


「私が……」


やっとの思いで彼女は声を絞り出した。


「私が殺したの……? 帽子屋を……」


「残念ながらね。確かに帽子屋は君が殺した」


ラフィが淡々と言う。

フィルレインは首を傾げてアリスを見た。


「……覚えていないのですか?」

「うん……思い出そうとすると頭が痛い……」


こめかみを揉んで軽く頭を振る。

頭痛はまだ収まらない。


「恐怖による一時的なショック症状かもしれません。お食事をして少しお休みになったほうがいいでしょう」


ナイフでパンを食べやすい大きさに切って、フィルレインは皿にそれを並べた。

アリスは息をついて彼女を見た。


「あ……ありがとう。でも、どうして……?」


どうして私の世話を? と問いかけようとするとフィルレインはニッコリと微笑んでから言った。


「お気になさらずに。私達巫女は、天使様をお守りするためにいるのですから」



フィルレインが身の回りを世話をしてくれるため、ほとんど不自由はなかった。

ガタンゴトンと揺れる列車の動きにも直に慣れ、アリスは薬の影響もあって泥のように眠りに入ってしまった。

部屋の隅の椅子に腰を掛けて書物を読んでいるフィルレインに、アリスの脇に丸くなったラフィが声をかける。


「お前は休まないのか?」

「もう少ししたら、そちらのソファーで眠らせていただきます。ナイトメアなどに気を遣われるいわれはありませんよ」

「いちいち挑発的な女だ……こちらに敵対の意思はない」

「……分かっています。あればとっくにこの中は血みどろになっているでしょうからね」


淡々とそう言い、フィルレインは息をついてラフィを見た。


「本当に、オリジナルナイトメアを殺したのですか? お話はお伺いしましたが……一概には、私はとても……」

「……話しておいたほうが良いかもしれない」


ラフィはそう言って、赤い瞳を真っ直ぐフィルレインに向けた。


「アリスの中にはバンダースナッチがいる」

「……バンダースナッチ?」


聞き覚えがない単語だったのか、フィルレインが聞き返す。

ラフィは頷いて続けた。


「バンダースナッチは、いつもはアリスの体の中をたゆたっているだけの存在だ。しかし彼女の身に危険が及ぶと、外に出てきて外敵に攻撃を加える」

「帽子屋を殺したのは……その、バンダースナッチという『モノ』なのですか?」

「そうだ」


端的に彼女の言葉を肯定し、ラフィは息をついた。


「『今まで』は、ある程度バンダースナッチをアリスはコントロールしていた。しかし、『今回』のアリスは、どうも記憶の大部分を欠落して生まれてしまったようだ。バンダースナッチのコントロール法も忘れているみたいで、とても危険だ」


フィルレインは口元に手を当て、息を呑んだ。


「僕の話を大部分は理解できないだろうが、これだけは言える。バンダースナッチが外に出ると、アレは敵味方の区別をしない。アリスの周囲の『生物』は、総て一切の例外もなく、無音で瞬殺される」

「……どうすれば?」


フィルレインが小さな声で聞くと、ラフィは押し殺した声で答えた。


「なるべくアリスに恐怖を与えないことをオススメするね。悪いけど、アレの制御法は僕も知らない。この子は、今とても危険なんだ」



ガタン、ガタン……と列車が揺れ、空気が抜ける大きな音と共に止まった。

既に帽子屋と戦ってから三日が経過していた。

アリスの体力もだいぶ戻ってきていた。

停まった列車を感じ、彼女は食事のトレイを下げようとしていたフィルレインに声をかけた。


「フィル、列車が止まったよ?」


フィルレインは頷いて、壁の時計を見上げてから言った。


「ええ、そろそろですね」

「そろそろ?」

「列車は地下道に張り巡らされた線路を通って走っています。その中継地点には『駅』があるのです」


指先を上に向けて、フィルレインはくるくると回した。


「駅と駅を結んで線路が構築されています。私達は、列車の燃料や積荷を駅で補給しながら移動しているんですよ」

「そうだったんだ」

「半日ほどこの駅で停車します。地下街にはマーケットもありますから、何かご入用のものがありましたら、私が調達して参ります」

「半日も停車してて大丈夫なのか?」


ラフィが口を出すと、フィルレインは頷いて言った。


「停車するマーケットは、簡易ですがシェルターに囲まれています。いざとなれば列車で逃げればいいだけですし……」


アリスの脳裏に、シェルターの中にも問題なく侵入してきたナイトメア達の姿がフラッシュバックする。

首を振ってそのイメージを振り飛ばしたアリスに、フィルレインは少し笑って声をかけた。


「……一緒にマーケットに行きますか?」


きょとんとしたアリスに近づき、フィルレインはトレイを置いて彼女の手を握った。


「ずっと閉じこもってばかりでは気分も暗くなります。少し外の空気を吸ったほうがいいかもしれませんね」

「おいおい……」


何かを言いかけたラフィの声を遮って、アリスは口を開いた。


「ちょっとだけ見てきていい?」

「アリス、ここを出るべきじゃない。いくら離れたといえ、ナイトメアは君を狙っているんだ」


呆れたように言ったラフィに、アリスはしゅんと肩を落として言った。


「そう……そうだね」

「…………」


ラフィはそんなアリスの様子を見て、ため息をついた。


「……分かった。僕も一緒に行こう。危なくなったらすぐ列車に戻るんだよ」

「いいの?」

「少しくらいなら……それに、閉じこもって君に与えられるストレスの方が心配だ」


それを聞いて、フィルレインが僅かにハッとした表情をする。

しかし彼女はすぐに笑顔を顔に貼り付けて、アリスの手を取った。


「下車の許可をもらいに行きましょう」

「うん」


笑顔でアリスがそれに返す。

ラフィは彼女たちについていこうとして……その髭がピクリと動いた。

猫は空中を見上げ、歯を噛んだ。


(もうか……存外に早いな……)


吐き捨てるように胸の奥で呟く。

そして黒猫は、二人の少女を追って足を踏み出した。



列車の男達にフィルレインが事情を話し、下車の許可は意外なほどあっさりと出た。

一時間で戻ってくるようにという話だったが、ずっと列車の狭い部屋に閉じこもっていたため、アリスは揺れない地面に降り立って大きく息をついた。


地下だったが、綺麗に整備された施設だった。

ジャック達がいたシェルターのように、白い壁で囲まれたエリアを通路がそれぞれ繋いでいる。

まるでアリの巣のようだ。


「全然薄暗くないね」


アリスがフィルレインにくっついて歩き出す。

フィルレインは笑ってそれに答えた。


「天井に大量に永久灯が埋め込まれていますからね。それに、空調がきいていますから不自由はないはずです」

「ここも外からは切り離されてるの?」

「はい。私達は生身で外気に触れることはできませんから……」


そう言って彼女は、持っていたカードキーをゲートと思われる扉の前でかざした。

軽い電子音がしてゆっくりと扉が開く。

二人と一匹は、それをくぐってマーケットの中に入った。


各地から行商人が集まっているらしい。

フィルレインの話だとだいぶ人がいる、ということだったが、出ている露店はまばらだ。


ほとんどが固形の食料品を売っている店だった。

生鮮食料品は一つもない。

一つの露店から、麻袋に入った固形スープを買い、フィルレインはそれを肩に担いでから、店番の女性に金を払った。


「あら、フィルちゃん久しぶりだねえ」


彼女に呼びかけられ、フィルは顔を上げ、目を見開いた。


「あ! まだここでお店してたんですね!」

「三ヶ月ぶりくらいかね。大きくなって。後ろの子はお友達かい?」


問いかけられ、アリスは戸惑いの表情をフィルレインに送った。

フィルレインは軽く笑ってアリスの手を取り、頷いた。


「はい!」

「そうかいそうかい。ちょっと待っていなさい、オマケしてあげよう」


女性は奥に引っ込むとやがて棒についたキャンディを持ってきた。

そしてアリスとフィルレインに握らせる。


「最近はナイトメアの攻撃も激しいって聞くからね。十分気をつけるんだよ」


アリスの脳裏に、前のシェルターで、炎に嘗められ黒焦げになり崩れていった市民達の姿がフラッシュバックした。

僅かにキャンディを持った手が震えた。

無意識のことだった。

それを横目で見て、フィルレインは女性に一礼し、アリスの手を引いて歩き出した。


「天使様、大丈夫ですか?」


心配そうに問いかけられ、アリスはハッとして彼女を見た。

そして何度か頷く。


「うん……うん、大丈夫……」

「キャンディは貴重品ですから、列車に戻る前に食べてしまいましょう」


ニッコリと笑ってフィルレインが言う。

キャンディを舐めながらアクセサリーの露店を見始めた少女二人を、なんとも言えない表情でラフィが見ていた。

やがて、フィルレインに買ってもらったのか、おそろいの白いリボンを頭につけた二人が、道端であくびをしていたラフィのところに戻ってきた。


「ラフィ、見て。かわいいでしょ?」


少し表情が明るくなったアリスが言う。

ラフィが興味なさそうに彼女達を見上げ……。

そして、黒猫とフィルレインは同時に、弾かたように振り返った。


フィルレインが少女の動きとは思えないほどの機械的な動作でアリスの腕を掴み、自分の背後に庇う。

そして彼女のもう片方の服の袖から、金属音を立てて長い針が飛び出した。


「ど……どうしたの? 二人とも……」


アリスが怯えたように小さな声を発する。

ラフィはそれには答えずに、歯を噛んで押し殺した声で言った。


「……いるね」

「ええ。先程チラッと見えました」


フィルレインが周囲を赤い瞳で見回しながら言う。

アリスは息を呑んで呟いた。


「まさか……ナイトメア……」

「シェルターの隔壁をものともしないナイトメアなら、おそらくオリジナルだ。センサーも反応してない……何だ……?」


ラフィが言うと、フィルレインが後ずさってアリスを背後の、通路の壁に押し付けながら続けた。


「天使様を列車に逃がします。猫、あなたは天使様と走ってください」

「僕は猫じゃない……」


毒づきながら、ラフィはアリスを見上げた。


「行くよ、アリス。オリジナルの臭いが近くでする。早くここを離れた方がいい」

「で……でも、フィル……」


手を伸ばしたアリスの手を軽く握り返し、フィルレインは微笑んだ。


「大丈夫です。すぐ追いつきます」

「そんな……」


帽子屋の高笑いが頭の裏で響いた気がした。

狂気に満ち溢れたおぞましい怪物たち。

八つ裂きにされる自分。

貪り食われる顔とフィルレインが重なり、アリスは強く首を振った。


「ダメ! 逃げよう、一緒に!」


フィルレインの手を掴んで強く引く。


「天使様!」

「フィルも一緒じゃなきゃやだよ! 早く走って!」

「……残念だが、そうはいかない。君達はここで殺させてもらう」


そこで落ち着いた静かな声が、アリス達の耳を打った。

心臓が何かに鷲掴みにされたかのように硬直する。


目を見開いて顔を上げる。

マーケットの人混みの向こう……少し離れた露店のテント屋根の上に、「何か」がいた。


人間大の卵……のような形をしているモノだった。

小洒落たシルクハットを被り、卵型の胴体にタキシードを着ている。

胴体の脇から小さな腕、そして妙に大きな足が突き出ていた。


口があった。

目があった。

卵の殻に当たる部分に、人間の顔の皮膚に見えるものが縫い付けてある。


その目がギョロリと動き、アリスを見た。

口元が裂けそうに開く。

やはり、周囲の人間達には見えないようだ。


「ハンプティ・ダンプティ……」


ラフィが歯噛みして呟く。

ハンプティ・ダンプティと呼ばれた卵型の「モノ」は、懐から葉巻を取り出すと、先を歯で噛みちぎってマッチで火をつけた。

そしてフーッ、と息を吐き出して、マーケットの地面にふわりと降り立つ。

重量を感じさせない動きで周りを見回すと、ハンプティはギョロギョロとした目を細めて笑った。


「あいにくと俺は無駄が嫌いでね。帽子屋のようにここの人間達を皆殺しにしてもいいんだが……それではちょっと気品が足りない。無駄な汗もかくしな。だからスマートに君を殺しに来た」

「…………」


アリスが、不気味なバケモノを前にして小さく震える。


「とりあえず、久しぶり……と言った方が良いかな? アリス」


指がある両手を脇に広げて、「それ」は低い男性の声で続けた。


「二、三……質問してもいいかな?」


「質問……?」


震える声で聞き返したアリスに、ニヤァリと嫌らしい笑いを向け、ハンプティは道端の露店、その荷物箱に腰を下ろし、足を組んだ。


「帽子屋を殺したのは君で間違いがないかな?」


端的に核心を突かれ、アリスはグッ、と息を呑んだ。

そして唇を噛んで、後ずさろうとして壁に背中を押し付ける。


「ふむ……」


その様子を興味深そうに見て、卵型のバケモノは続けた。


「いや、何。意外だと思ってね」

「意外……?」

「今までのアリスは、俺達と渡り合うことは出来ても、殺しきった子は一人もいなかった。どうやって殺したのかな? 不意をついたのかな? それにしても、帽子屋レベルのナイトメアを簡単に殺れるとは思えない」


指を一本立てて天井に向け、それを軽く振りながらハンプティはギョロギョロした目で、アリスを舐め回すように見つめた。

まるで他にも「アリス」がいる、と言っているようなその言葉を聞いて、他ならぬアリスが混乱し、足元のラフィを見る。

黒猫はアリスと目を合わせると、歯噛みして周りを見回した。


「アリス、動かない方がいい。ハンプティのセブンスは危険だ」


押し殺した声でラフィが言う。

フィルレインがアリスを庇うように体を広げ、手に持った長い針をハンプティに向けた。

少女の鬼気迫る様子に、周りの通行人達が怪訝な顔を向ける。

しかしハンプティは、ラフィとフィルレインをまるでいないかのように無視すると、アリスに対して、立てた人差し指を向けた。


「聞いても答えないだろうことは分かっている。しかし、どうやら君が帽子屋を殺したことは間違いがなさそうだ。奴の核を持っているね」


ハッとしてアリスはポケットに手を当てた。

その様子を見て、ハンプティは吐き捨てるように言った。


「それは返してもらおう」


次の瞬間、フィルレインに庇われていたアリスの体が消えた。

いや、消えたのではない……凄まじい速度と力で、空中に跳ね上げられたのだった。


「天使様!」


フィルレインが、天井までまるで砲丸のように吹き飛んでいくアリスの小さな体を見て悲鳴を上げる。


「しまった……!」


ラフィが叫んで、フィルレインに向かって怒鳴った。


「レプリカン、ここを離れるんだ!」

「しかし天使様が……!」

「皆殺しにされるぞ……アリスに!」


凄まじい速度で吹き飛んでいくアリス。

気を失っているようで、体は弛緩している。

それを追うように、ハンプティの卵型の体が、弾丸のように空中を飛んでいた。



気づいた時には、ハンプティの気持ち悪い顔が目の前にあった。

フィルレインもラフィも気づいていない……いや、反応もできない速度だった。


アリスの目には、何故かゆっくりと、スローモーションのようにハンプティの動きが見えていた。

卵の怪物は、重さを感じさせない動きで地面を蹴り、凄まじい速度でアリスに肉薄したのだった。

彼に腕を掴まれ、悲鳴をあげようとした時には宙を舞っていた。

アリス自身も重さがなくなったかのように軽々と振り回され、弾き飛ばされる。


訳がわからなかった。

時間にして、一秒……二秒にも満たない間の出来事だった。

目をむいて必死に上を見る。

ありえない速度で天井が近づいてくる。


いや、違う。

私が……。

私が天井に向かって吹き飛んでいるんだ。


止まらない。

もがくこともできない。

このままでは、ぶつかって……。


ぶつかって……?


死ぬ……?


凄まじい衝撃がアリスの体を、内臓を、脳みそまでシェイクするほどの轟音を立てて襲った。

グラグラとシェルター全体が揺れ、あたりに重低の炸裂音が響き渡る。


そう思った瞬間、二度目の爆音が響き渡った。

アリスが突き刺さった天井に、一拍遅れて正確にハンプティも突き刺さったのだった。


太い足で流星のように、天井に突き刺さったアリスを蹴り上げ……周囲に砕けた壁の破片と、炸裂した空気の衝撃波が広がる。

遅れてシェルター内に突風が吹き荒れた。


「ム……?」


しかし、少女を蝿のように叩き潰した……という動きをしたはずのハンプティは、飛び出しそうな目を上に向けて、歯を噛んだ。


「帽子屋を殺したのは、それか……」


金属製の天井が、クレーターのように歪んでいる。

その中心にアリスは叩きつけられていた。

首は力なく垂れ、瞳に光はない。

体は金属にめりこみ、動けない様子だった。


しかし、アリスは生きていた。

見たところ外傷もないようだ。


ハンプティは自由落下する寸前で、軽く足で空中を蹴った。

途端、彼の体がふわりと宙に浮く。

腕組みをしてアリスを見つめ、彼は軽く後退して彼女から距離を取った。


「……バンダースナッチ……? それにしては見たことのない形だ……」


小さく開いたアリスの口から、白いモヤのようなものが流れ出していた。

それが彼女の体を覆うようにまとわりつき、守っていたのだ。


アリスは僅かに身じろぎをすると、バキッ……と金属を砕きながら体を引き抜いた。

彼女の口から伸びたモヤが天井に突き刺さり、アリスは宙吊りになったような状態でぶらりと天井から垂れ下がった。


その赤く、鈍く光る瞳……まるで空虚な「穴」のように何も映さない漆黒の「モノ」をハンプティに向け、アリスはブラリブラリと首を揺らした。

まるでマリオネット……単なる操り人形のような姿だった。

少女の不気味な様子を見て、ハンプティは空中に浮きながら鼻を鳴らした。


「成る程。それが本性と言うわけか。今度のアリスは随分と歯ごたえがありそうだな」


飛び出しそうな目の瞳孔が開き、まるで猛禽類の顔のようになった卵の化物が、裂けそうなくらいに口を広げて笑う。


「久しぶりに遊ぶとするか! なぁアリスよ!」


ハンプティの姿が消えた。

視認もできない速度で彼の体が、予備動作もなしに吹き飛んだ。

弾丸のように繰り出された足がアリスに突き刺さる。

パァンッ、という空気が破裂する音。

次いで暴力的な突風が吹き荒れ、アリスの小さな体は抵抗もできずに背後に向かって光のように、一直線に吹き飛ばされた。


轟音。

爆炎が上がった。


天然ガスの燃料タンクにアリスが突き刺さり、それが一拍遅れて豪炎を上げた。

周囲に炎が吹き荒れ、シェルターの中に警報が鳴り響く。

天井の永久灯が赤に変わり、点滅を始めた。

人々が悲鳴を上げて逃げはじめる。


ラフィは、燃え盛るガス施設に向かって走り出したフィルレインに向けて叫んだ。


「ダメだ! アリスに近づくな!」


フィルレインはそれを無視し、手に長い針を持ったまま、華奢な足で炎に向けて走っていった。

それを見て、ラフィは舌打ちして慌てて彼女を追った。


ガスに引火したのかしていないのか、炎の勢いが強く、状況が分からない。

熱風が吹き荒れていた。

一拍遅れて天井から消火剤が混じった水が、スプリンクラー越しに噴出される。

少し熱気は収まったが、炎の勢いは弱まらなかった。


「天使様!」


絶叫してフィルレインは炎の中に飛び込もうとして……そのスカートの裾をラフィが噛んで止めた。


「死ぬぞ! 下がるんだ!」

「しかし……天使様が……!」

「これしきのことでバンタースナッチは壊れない!」

「フム……」


そこで二人は、背後からハンプティの声がしたのに気づいて、慌てて振り返った。

フィルレインのすぐ後ろ……手を伸ばせば触れる距離に、ハンプティが立っていた。

僅かに彼女よりも小さい背で、不気味な能面のような顔を上に向けてニィ、と笑う。


「ナイトメアアア!」


瞬間、フィルレインの顔が憎悪で歪んだ。

瞳孔が開いた、発狂したような目で、彼女は手に持っていた長い針を振りかぶって、ハンプティに向けて振り下ろした。

一抹の躊躇もない動きだった。


しかし、突き刺さる……と思った瞬間、ハンプティの卵型の体が消えた。

空を切った針を呆然と見たフィルレインを無視し、ハンプティは硬直しているラフィに覆いかぶさるようにしゃがみこんだ。


「お前……猫じゃないな。臭いがしない……生物の臭いも、ナイトメアの臭いもしないぞ」


目を細めて手を伸ばし、彼はラフィの首を掴んで持ち上げた。

小さな子猫が、息が吸えないらしくバタバタと暴れる。


「何だコレ……?」


不思議そうにラフィを見つめ、彼は飛びかかろうとしたフィルレインに手を向けた。


「おっと……」


ピンッ、とハンプティは彼女に向けて指を弾いた。


「邪魔だよ、バンビーナ」


一拍遅れて、フィルレインの体を凄まじい空気の渦が襲った。

まるで弾丸のような空気の壁に吹き飛ばされ、小さな少女は数メートルも宙を舞うと、そのまま地面に叩きつけられ、受け身を取り損なったらしくゴロゴロと転がった。


「さて……それにしても何だこれは」


怪訝そうにラフィを見回し、ハンプティは子猫の頭に指を当てた。


「頭を開いてみれば分かるかな……」


怖気のするセリフをサラリと言い放つ。

そこで、ラフィは喉を握られているため、かすれている押し殺した声を発した。


「僕の頭を開くのは勝手だが、今はここを離脱することを優先した方がいいと思うよ、ハンプティ・ダンプティ」


話しかけられたことを意外と感じたのか、ハンプティは目を開いて猫を見た。


「へえ……俺の名前を知っているのか」

「生憎と情報だけは耳によく入ってくるものでね……」

「どうしたものかな。しかし逃げる理由がない。今回のアリスも、どうやらこの爆発で死んでしまったらしいからね」

「…………」

「こんがり焼けたところで持ち帰ろうと思うんだが、君のことは気になるな……」

「忠告は二度はしない。お前達は、バンダースナッチの本当の恐怖を知らない……」


ラフィがそう言った瞬間、ハンプティはラフィを放り出して飛び退った。

今まで彼が立っていた場所に、空気が鳴る音がして、「何か」が突き刺さった。

それは突き刺さっただけでは止まらず、地面を鋭利な刃物で削ったかのように、深い切れ込みを入れながら突き進み、直線状にあった露店を粉々にしながら、空気が爆ぜる音とともに爆裂した。

ガラガラと崩れたシェルターの破片が天井から落ちてくる。


『外気侵入。外気侵入。汚染レベルが上昇しています。市民の皆様は即刻地下への避難をお願いします』


サイレンの音に混じって、切羽詰まったアナウンスの声がシェルター内に響き渡った。

地面に爪を立てながら、なんとか起き上がろうとしたフィルレインが、前を見て目を見開く。


炎の中から、髪を異様な形に逆立てたアリスが、まるで無傷の状態でゆっくりと歩いて出てきたのだった。

周囲に虹色の歪みのようなものがまとわりついている。


彼女の目は、空洞だった。

何も移していない。

光さえない。


虚無。


赤い底抜けの「穴」で周囲を見回すと、アリスはゆらゆらと首を振った。

ハンプティが歯を噛んで後ずさる。


「……確かにな。これは相手をする時ではないようだ」


彼は地面を蹴り、空中に飛び上がった。

そして軽々と空中に浮かび上がる。


「アリス、今日は出直すとしよう。いずれまた君には会いに来る。その時まで、どうか別の奴らに殺されないでくれよ」


そう言ったハンプティの体が、蜃気楼のように掻き消える。


「逃げた……?」


フィルレインが小さく呟く。

そして彼女は、ハッとしてアリスに向けて叫んだ。


「天使様! お心を確かに! 敵は去りました!」

「無駄だ……! この周辺の僕や……君を殺し尽くさないと、バンダースナッチの怒りは止まらない……!」

「そんな……」


蒼くなったフィルレインの目に、アリスがゆっくりと口を広げるのが見え……。


「アリス!」


そこで、切れ切れの男性の声が響いた。

空虚な穴がゆっくりとそちらを見る。

松葉杖をついて、必死に足を引きずりながら、ジャックが炎に向けて近づいてきていた。


「アリス、もう大丈夫だ。早く列車に戻ろう。迎えに来るのが遅れてすまなかった!」


ジャックは、動きを止めたアリスに近づき、白い煙を発しているその体に覆いかぶさるように、ゆっくりと抱きしめた。


「大丈夫だ。大丈夫……私が来た、もう怖いものはない。落ち着くんだ……」


ゆっくりと、虹色のゆらぎがアリスの体の中に戻っていく。

そして少女は、ゆっくりと目を閉じ、ガクン、と脱力した。

気を失ってしまったようだ。

ジャックはアリスの頭を撫でると、立ち上がったフィルレインに向けて声を張り上げた。


「助けを呼んで来てくれ! 私一人ではこの子は運べない!」

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