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第2話 狂った帽子屋

黒い雨が降っていた。

どこまでも続く黒い雲から、黒い雨が止めどなく流れ落ちてくる。


「この世界は汚染されてしまった」


私の隣に立っている人が言った。

私は彼の顔を見上げた。

不思議なことに、彼の顔にはぐしゃぐしゃの金網を擦りつけたかのようなモザイクがかかっていた。

彼は、私達が立っている樹の下で、黒い雨粒を手で受けてから悲しそうな声で続けた。


「僕と、君のユートピアもこれでおしまいだ。アリス……残念だけど、物事にはすべからく終焉が訪れる」


彼はモザイクだらけの顔をこちらに向け、私を見下ろした。

私は彼のシャツの裾を掴んで、必死に言った。


「そんな……まだアポカリクファまでは時間があるよ。私が、あなたの魂を探し出してあげる。そうすればあなたも、この世界も消えずにすむわ!」


彼はしばらく私の顔を見下ろしていたが、やがてゆっくりと首を振った。


「それは無理だよアリス。終焉はもう、すぐそこまで来てる。君も、僕と同じような存在になってしまう」

「それでも……!」


私は彼の服にしがみついた。

そして頭を、その花の匂いのするシャツに押し付ける。


離したくなかった。

離れたくなかった。

彼のいない世界なんて、到底思い浮かべる事はできなかった。


「お願い……終わりだなんて、そんな悲しいことを言わないで。私も、あなたと一緒に連れて行って……」

「……ダメだ」


彼はしばしの沈黙の後、硬い口調でそう言った。

呆然として顔を上げた私に、彼は断固とした口調で続けた。


「君も僕と同じになってはいけない。君はもともと、この世界の住人ではないんだ。いずれ目覚めなければいけない。ラビリンスだって永遠じゃない。いつかは壊れる時が来る」

「…………」

「エラーを吐き出した時に、気づくべきだったんだ。こんな世界は、こんな汚染はあってはならないことだって。でも……」


彼は手を上げて、私の頭を自分の胸に引き寄せた。

そして樹に背を預けて、呟くように言う。


「君がここにいたから……僕にはラビリンスを止めることができなかった。本当ならあの時に僕はシステムと一緒に消えるべきだったんだ……」

「そんなこと……そんなことないよ。あなたは私を救ってくれた! 私をこんなにも助けてくれた! あなたは死ぬべきじゃない、生きるべきよ!」


私は必死に叫んだ。

彼の服を掴んで、黒い雨にかき消されないように。

泣きじゃくりながら叫んだ。

モザイク頭の青年はこちらを向くと小さく頷いた。


「泣かないでアリス。僕も、君のことは好きだ。愛している。だから、このまま何もしないで朽ちていくつもりはない」

「でも……でも!」

「君は帰るんだ。こんな汚染された世界からは抜け出して。元の世界に戻るんだ」


彼ははっきりそう言って、私の頭を優しく撫でた。


「大好きだよ、アリス。ここで、僕達はお別れだ。ラビリンスが完全に停止する前に、君は君のワンダーランドに、早く戻るんだ」



ゆっくりと目を開ける。

しばらく、ここがどこだか分からなかった。


周囲を沢山の人が歩き回っている。

視線を横にスライドさせると、薄い防護服とヘルメットをつけた人達が周りで何か計器を操作していた。

体にかけられていた毛布を押しのけて、上半身を起こす。

ボロボロになっていた病院服は脱がされ、ゆったりとしたズボンとシャツを着せられていた。


「…………」


ポカンとして周りを見回す。

少し広めの、手術室のような部屋だった。

ガラス張りの壁に囲まれている。

アリスが起き上がっているのを見て、近くを歩いていた男性が声を上げた。


「エンジェルが目を覚ましたぞ!」

(エンジェル……?)


その声を聞いて、周りの大人達が一斉にこちらを向いた。


「おお……良かった!」

「目が覚めたぞ!」

「空気を抜け! 汚染レベルは低い」

「食事を持ってくるんだ!」


バタバタと動き出した周りを戸惑いの目で見ながら、アリスは近づいてきた男性に目をやった。

男性がヘルメットを脱いで、アリスに会釈する。

顔面に深い切り傷がある、壮年の男だった。

目の部分に一文字に疵が走っている。

怯えたような顔をしたアリスに、男は慌てて笑顔を作ると、優しく言った。


「おはよう、小さな天使さん。ここは第十五シェルターの中だよ。気分はどうかな?」


静かな声に少し安心して、アリスは小さく声を発した。


「シェルター……?」

「外に倒れていた君を保護した。夜になる前に助けられて良かったよ。なにせ、このあたりは崩壊の度合いが強い」

「…………」

「おっと、自己紹介が遅れたな。私はジャック。このシェルターの管理者をやっている」

「ジャック……さん?」

「ああ。君の名前を教えてくれるかな?」


問いかけられ、アリスは少し躊躇した。

その視界に、自分が寝かされているベッドの隅にラフィが丸くなっているのが見える。

ラフィは顔を上げると、アリスを見て口を開いた。


「大丈夫だよ。この人間達はナイトメアじゃない。無害だ」


ラフィの声は周りには聞こえていないようだ。

それどころか、事前に言っていたように、そこに猫がいることも認識していない様子だった。

アリスは息をついて、ジャックを見上げた。


「アリス……と、言います……」


尻すぼみになって、自信なさげに声が消える。

ジャックは俯いてしまったアリスを見下ろし、困ったように鼻を指先で掻いた。


そこに、トレイの上にパンと水が入ったコップ、そして美味しそうなにおいを発しているスープが入ったお椀が乗ったトレイを、別の男が運んできた。

そのにおいを嗅いで、アリスのお腹がグゥと鳴る。

喉がカラカラで、お腹も空いている。

体がとてもダルかった。


「君の傷の手当もさせてもらった。少し縫ったけど、すぐ良くなると思う」


ジャックにそう言われ、アリスは自分の肩を見た。

包帯が綺麗に巻かれている。

もう痛くない。

足にも包帯が巻きつけてあった。


「とりあえず、お腹に入れるといい。その後、少し話を聞かせてくれないかな?」



のろのろとパンとスープを食べ終わり、アリスは倦怠感の中、やっと息をついた。

歩き続けたことで、体力は限界に差し掛かっていた。

ニコニコした優しそうな顔の壮年の女性にトレイを渡し、アリスは静かな笑顔でこちらを見ているジャックと、数人の男性達を見上げた。


「ありがとうございます……でも、どうして……」


「どうして」と口に出したが、まず何を聞いたらいいか分からずに言葉を飲み込む。

少女の様子を見て、ジャックが近くの椅子に腰掛けた。

そして周りに目配せをする。

男性達は頷いて、ガラス張りの部屋を出ていった。

ジャックに任せるということらしい。


「私達に、君への敵意はない。それは分かるね?」


静かに問いかけられ、アリスは頷いた。


「あの……お食事と、傷の手当、ありがとうございます……」


頭を下げたアリスに、ジャックは手を振って答えた。


「そんなにかしこまらなくてもいい。所詮私達は、ドームの中でしか生きられない出来損ないだ。君達エンジェルとは違う」

「エンジェルって、何ですか……?」


伺うように問いかけた少女を怪訝そうに見て、ジャックは少し考えこんだ。

そして問いかけには答えずに口を開く。


「……どこから来たんだい? その様子だと随分歩いていたようだ。何かに襲われたようでもある」


アリスの脳裏に、けたたましい笑い声と、凶器を振り回す兎の顔がフラッシュバックする。

震えて肩を抱き、彼女は小さな声で答えた。


「ここから少し離れた……森の中の建物です」

「……『遺跡』から? どうしてまたそんなところに、君みたいなエンジェルが……」


戸惑ったような声でそう返したジャックに、アリスは何度も首を振ってから言った。


「分からない……何も分からないんです。気づいたら建物の中の部屋にいて。目が覚めたら……」

「アリス、それ以上は言わない方がいい」


そこで突然、足元からラフィの声が聞こえて、アリスは慌てて口をつぐんだ。

視線を下にやると、ラフィが赤い瞳を爛々と輝かせてこちらを見上げていた。


「ナイトメアの感覚は、人間には分からない。理解を促すだけ無駄だと思う」


でも、と言いかけたアリスの視線を追って床を見て、ジャックは問いかけた。


「目が覚めたら、どうしたんだい?」


やはりラフィのことはわからない様子だ。

アリスは数秒間迷った末


「追いかけられて……」


と小さな声で言って、俯いた。

ジャックは考え込んでから手を伸ばし、アリスの頭を優しく撫でた。


「もう大丈夫だ。遺跡に行く前にはどこにいたんだい?」

「それが……どうしても思い出せなくて……」


ジャックの温かな手の感触に、ジワ、と目に涙が滲む。

安心からだろうか、アリスはポタポタと涙を垂らしながら、両手で顔を覆った。


「ここはどこなんですか……? 私はどうしちゃったの……? 何も、何も分からない……」

「…………」


ジャックは息をついて、立ち上がってからアリスの隣に腰を下ろした。

そして彼女の小さな頭を抱き寄せて胸に引き寄せる。

びっくりしたような顔をした少女に、ジャックは言った。


「少しこのままでいるといい。安心するまで」


何度も頷く。

しばらくして、やっと泣き止んだアリスにジャックは口を開いた。


「ここは『帽子屋ハッター』の領地だよ。その中でも、十五番目のシェルターに当たる」

帽子屋ハッター……?」

「私達が『ナイトメア』と呼んでいる悪魔のことだ」


その単語を聞いて、アリスは息を呑んだ。


「このワンダーランドは、変わってしまった……いつの頃からか、奴らはナイトメアとなり、私達を殺して回るようになった。このシェルターは、ナイトメアから私達を守る特別な石でできている。中にいれば安全さ」

「ナイトメア……って、何ですか?」


問いかけたアリスに、ジャックは少し迷ったようだったが答えた。


「それが分かったら、私達も少しはどうにか動けるんだがな……」

「…………」

「ナイトメアは目で見ることも、耳で聴くことも、臭いさえも感じることはできない。ただ確かに『そこ』にいるんだ。『そこ』にいて、私達を殺すスキを伺ってる」


目の疵を指でなぞり、ジャックは呟くように言った。


「私の妻と娘も、ナイトメアにやられた。目の前でね……切り裂かれて死んでしまったよ」


アリスは、細切れになり血を撒き散らした兎を思い出した。

吐き気が胸に湧き上がってきて、ジャックの服を強く掴む。

その頭を撫でながら、ジャックは言った。


「記憶喪失……と言っていいのかな。そんな状態の君に頼むのは気がひけるんだが、もう少ししたら一緒に来て欲しい」

「どこにですか……?」


不安そうな顔をしたアリスに、彼は続けた。


「長老に会って欲しいんだ。そしてエンジェルの力で、私達を助けてくれ」



太陽が沈み、あたりを暗闇が包んだ。

生き物の気配がない森には、黒い水が流れる音と、樹木が風になびくザワザワとしたノイズ以外響いていない。


空には真っ白い満月が浮かんでいた。

数え切れないほどの星がきらめいているが、空の色はヘドロのように歪んでいる。

気味の悪い雰囲気、そして光景だった。


その中を足音も立てずに、俯いた大勢の兎人形と、頭が異様に大きな醜男が歩いていた。

男は鼻歌を歌い、手に持ったステッキを振り回しながら歩いている。

右目の義眼がカチ、コチ、という音とともに時計回りに回転しあらぬ方向を向いている。

そこで彼は、懐から


「ピリリ……」


という鈴の音がしたのに気づいて足を止めた。

軍隊のように、ボタンの目を赤く光らせた兎達も歩みを止める。


男は懐から金色の懐中時計を取り出し、蓋をパカリと開けた。

そこから、妙にざらついた女性の声が響く。


帽子屋ハッター! やっと出たかい! このトントンチキが!』


ハッターと呼ばれた醜男は、また鼻歌を歌いながら歩き出した。

兎達もそれに続く。


「何だい、赤の女王様様様じゃないか!」


ハッターがそう返すと、赤の女王と呼ばれた女性は、懐中時計の向こうでキンキンと喚いた。


『何してるんだい! お茶会はとっくに始まってるんだよ!』

「知ってる。知ってるさ。だけどちょっと大事な用事ができてね」


ハッターは崖下の白い壁に囲まれた建物を見下ろし、舌でゾメリと唇を濡らした。


「お茶会には少し遅れるが行くよ。そう、とびきりのお土産を持ってね!」



しばらくしてアリスが落ち着いたのを確認して、ジャックは彼女の手を引いて部屋を出た。

真新しい靴も履かせてもらい、普通の町娘のような格好になったアリスは、部屋の外を見回してポカンとした。

そこは、真っ白い壁に囲まれた清潔そうな施設だった。

沢山の部屋が立ち並んでいる。


ガラス張りの扉の向こうに、沢山人が歩いているのを見て、アリスは胸を抑えた。

やっとホッとしたような気がしたのだ。


「ちょっと待ってくれ。今内圧を下げるから」


そう言われ、アリスはジャックの手を離した。

ジャックは出口に近づくと、インターホンに向けて何言か口に出した。

途端、ガラス張りの扉からプシュー……と音がして空気が中に流れ込んできた。


小さく咳をしたアリスは、軽い耳鳴りに頭を抑えた。

数秒間空気は流入すると、やがて止まって、ゆっくりと扉が開いた。


『汚染レベル、三十五%デス』


機械的な淡々とした女性の声が、天井のスピーカーから聞こえる。


「さ、行こうか」


ジャックはそう言ってアリスの手を優しく掴んだ。

頷いて後に続く。

ラフィもアリスの脇に並んだ。

そこで、数人の男達が駆け寄ってきた。


「ジャック、もう大丈夫なのか?」


問いかけられ、ジャックは頷いて立ち止まった。


「ああ。長老様は目覚めているかな」

「ちょうど今目覚めたところだ。エンジェルと話をしたいと申されている」

「分かった。私が責任を持って送り届ける」


ジャックはそう言って、アリスに微笑みかけた。


「大丈夫だ。長老様も、私達も君に対して危害は加えない」


アリスは戸惑いながら、ジャックと男達に続いて歩き出した。

隣のラフィを見下ろしたが、黒猫は興味がなさそうな顔をして黙々と歩いているだけだった。


人がたくさんいる居住区を抜けて歩く。

人々はみな、アリスをニコニコして、嬉しそうに見ていた。

中には手を振る子供もいた。


しばらく進んで、白い階段を何回か降りる。

そしてアリス達は、やけに電灯が眩しい扉の前で止まった。


「長老様、エンジェルをお連れしました」


ジャックがインターホンに向かってそう言うと、特に返事が返ってくることもなく、扉が自動的にスライドして開いた。

男達が先に部屋に入り、ジャックに手を引かれてアリスも中に入る。


真っ白い円形の部屋だった。

何もない。

部屋の中央に、何か緑色の柱のようなものが建っていて、天井にくっついているだけだ。


いや……。

違う。


柱の中ほどが透明な素材になっていて、中が見えるようになっている。

それを見つめて、アリスは息を呑んでジャックにしがみついた。


人間の脳が浮かんでいた。


沢山のケーブルがあり、脳髄に接続されている。

中は何かの液体で満たされているらしく、時折ゴポポと白い気泡が浮かんでは消えていた。


「え……?」


呆然としてジャックを見上げる。

彼はアリスに微笑みかけると、「脳」に頭を下げた。


「こちらがアリスというエンジェルです」


しばらく部屋を沈黙が包んだ。

やがて、柱の側面についていたスピーカーから、しわがれた男性の声が響いてきた。


『アリス……? 君がアリスか……?』


訳が分からず、アリスは目を白黒とさせて後ずさった。

その様子を何かで見ているのか、柱から優しく男性は語りかけてきた。


『私はこのドームの中枢システムだ。君を待っていた、アリス。よく私達を助けに来てくれた』

「助け……? え……? 私、あの……」


口ごもって顔を青くしているアリスに、しばらくして怪訝そうに男性の声は続けた。


『どうした? エンジェルではないのか?』

「長老様、この子はどうやら、記憶の一部をなくしてしまっているようです。かなりの恐怖を与えられたせいかと……」


ジャックが進み出て助け舟を出す。

アリスは、そこでやっと、目の前の脳から声が発せられているということを認識して、震える声を発した。


「あなたは……何、ですか……?」

『何だ、とは異なことを聞く。しかし、記憶をなくしているのなら、あるいは何もわからないのかもしれぬな……』


小さくため息を付き、長老は言った。


『君がアリスなら、私達が長い間待ち望んでいた助けだ。ナイトメアから、このドームを救って欲しい』

「でも……でも私、何も分からないんです。ここがどこかも、自分が何なのかも!」


アリスは切羽詰まった声で精一杯訴えかけた。

男達がざわついてジャックを見る。

ジャックは手を上げて彼らのざわつきを止めると、長老に向けて口を開いた。


「しかしGMD指数は、彼女をエンジェルと断定しています。現に、汚染された森を生身で歩いて、ここまでたどり着いたようです」

『成程……』


長老は少し考え込んだふうに沈黙してから言った。


『このユートピアが崩壊に襲われ、ナイトメアが悪魔に変わってから、我々はドームの外に出ることさえもできなくなった……草木は汚染され、水は枯れ、今や人間達は、この生命維持機関から一歩でも外に出れば、永遠に存在をロストしてしまう』

「…………」


訳が分からず沈黙したアリスに、長老は続けた。


『外の世界で活動できる、君達エンジェルだけが、ナイトメアを殺し、我らが外に出るための鍵を持っている筈なのだ。アリス、君が「アリス」であるのならば尚更のことだ』

「私……私そんなの分からない……」


アリスは震える声を絞り出した。

そしてブンブンと首を振った。


「私何も知りません! 何も持ってない! 私の方こそ、助けて欲しいです……!」

『…………』


長老は何か言葉を発しようとして……。

次の瞬間、部屋の中の電灯がいきなり赤に暗転した。


「ヒッ……!」


ウィーン、ウィーンというサイレンの音に驚いて硬直したアリスを自分の方に引き寄せ、ジャックが怒鳴った。


「ナイトメアの反応だ! 隔壁を降ろせ! 早く!」

「近いぞ……! 外のビーコンは一体何をしてた!」


男達が悲鳴のような声を上げながら、バラバラと部屋を出て行く。

アリスの足元で、ラフィが歯噛みしたような顔で言った。


「存外に早かったね……もう少し休めると思ったんだけど……」


呆然と自分を見下ろしたアリスを見上げ、ラフィは淡々と言った。


帽子屋ハッターだ。セブンスを自由に使えない君では勝ち目がない。逃げる準備をしよう」


帽子屋ハッター……!」


小さく悲鳴のような声を上げてしまい、慌てて口をつぐむ。

非常灯とサイレンが鳴り響く部屋の中、ジャックがアリスの手を掴んで引いた。


「アリス、もっと奥に退避するんだ。万が一ということもある。長老様も、防護壁をおろして下さい」

「待って! 私、まだ聞きたいことが……」


慌てて口を開いたアリスだったが、長老の入っている柱を囲むように、円形の壁がせり上がってきた。

そして外界と柱の中を隔絶してしまう。


「アリス、早く!」


ジャックに手を引かれ、アリスは走り出した。

その脇を駆けながら、ラフィが言った。


「途中で外に出るよ」


驚愕の顔で自分を見下ろしたアリスを見て、黒猫は続けた。


「オリジナルが来てる。この感覚は、間違いなく帽子屋ハッターだ。このシェルターはもうだめだね」


ラフィはそう言って、アリスの背に駆け上がると、右肩にぬいぐるみのように張り付いた。

そして耳元で淡々と言う。


「ここの人間たちは皆殺しにされる。巻き込まれる前に、この領地から離れよう」

「でも、逃げるってどこに!」


アリスは走りながら悲鳴のような声を上げた。

そしてハッとして口をつぐむ。

ジャックは自分が言われたのかと勘違いしたらしく、通路を走りながら振り返って小さく笑った。


「大丈夫だ。地下に崩壊も耐えた防御室がある。そこならナイトメアも侵入できないはずだ」


少し先に、沢山の人が通路を走って退避していた。

そして階段を更に降りようとしたところで……。


「アリス、止まるんだ!」


耳元でラフィの大きな声が聞こえ、アリスは慌ててその場に足を止めた。

そしてジャックに手を引かれ、つんのめって前に倒れる。


「アリス!」


ジャックが叫んで身を屈めた瞬間だった。

真っ赤な炎が、階段の下から吹き上がった。

周囲の壁に一瞬で燃え移り、炎はそれぞれ意思を持っているかのように、蛇のごとき動きでのたうち回った。


「何だって……!」


ジャックが押し殺した声で言い、炎からアリスを守るようにその体を抱きしめる。

一拍置いて、二度目の爆発。

丁度二人がいる場所は爆風から死角になり、通路の角になってはいたが、ものすごい熱量の煙と風が体を凪いだ。


「くそ……内部に侵入されたのか……!」


ジャックの毒づいた小さな声を聞きながら、アリスは視界の向こうで、断末魔の絶叫を上げながらボロボロと崩れていく……人間のような黒い塊を見てしまった。

大小様々な黒い塊……焦げた肉の塊達が、炎の中でもがき、苦しみ、金切り声の悲鳴を上げながら崩壊していく。


崩れていく。

なくなっていく。


炎に飲み込まれ、階下に逃げ込もうとしていた人間達が生きたまま焼かれているのだ。


「嫌……嫌……」


アリスは目を閉じて頭を抱えて絶叫した。


「嫌あああああああ!」

「Oh,Happy....day....」


そこでアリスは、耳の奥にやけにはっきりと「歌」を聞いて硬直した。


「アリス、走るんだ!」


ラフィがまた大声を上げる。

反射的に床を蹴り、ジャックの手を引いて今来た道を戻るように駆け出す。


今までアリスの頭があった場所に、正確に湾曲した大鎌が振られ、壁に重低音と共に突き刺さった。

視線だけを後ろに向けると、天井の換気ダクトから、兎のぬいぐるみが上半身を覗かせて、こちらを見た目と目が合ってしまった。


「アリス! アリスだ!」


換気ダクトから頭を覗かせている兎が、けたたましい声で笑った。


「アリスだアリスだアリスだ」


ドチャリ、と肉感的な音を立てて兎が床に落ちる。

続いて、なめくじのように何匹もそこから通路に落ちてきた。


「アリス! また会ったね!」

「再会記念日だ! 嬉しいね!」

「Happy day! Happy day!」


数匹の兎達の数を数えることもできずに、アリスは恐怖で引きつった顔のまま、ジャックの手を死に物狂いで引いた。


「アリス、どこに行くんだ!」


狼狽したジャックが叫ぶ。


「兎が……!」


悲鳴のような声を上げながら、アリスは施設の中を走った。

背後から、短い足でピョンピョンと跳ねながら、兎の化け物たちが鎌を振りかざして追ってくる。


速い。

異様な速さだ。


ジャックは振り返り、炎がなめるように壁を伝って追ってくるのを見て、青くなった。


「あそこにナイトメアがいるのか? 君はナイトメアを、見ることができるのか!」

「ジャックさん走って! 殺されちゃう!」


アリスが絶叫する。

ジャックはそこでやっと状況を理解したのか、慌ててアリスを抱えるようにして、通路脇のエレベーターに駆け込んだ。

そしてボタンを押す。

いやに扉が閉まるのが遅い。


「早く! 早く!」


アリスが通路から兎達が顔を覗かせたのを見て悲鳴を上げる。

ジャックは歯を噛み締めて、エレベーターのドアを掴んで無理矢理に閉めた。

エレベーターがゆっくりと上昇を始めた。


「奴らが……奴らが来てるのか……!」


ジャックの歯から、ギリリと音がした。

見上げたアリスがビクッとして息を呑む。

それほど、彼の顔は憎悪に歪んでいた。



エレベーターは暫くの間上昇を続け、その間にジャックは壁に取り付けられていた救急セットのような箱の蓋を叩き壊し、中から防護服を抜き出した。


「君は……大丈夫だな。すまない。私達は生身で汚染された外気に触れることができない」


ジャックはそう断ってから急いで防護服を着て、白いヘルメットを被った。

服のボタンを操作すると、パシュッと音がして防護服内に空気が入る。

何度か呼吸ができるのを確認して、彼は停まったエレベーターの扉脇、そこにあったハンドルを思い切り回した。


そしてゆっくりとエレベーターの扉を開く。

外気が一瞬滝のように流れ込んできて、アリスは慌てて目をつむった。


その手をジャックが引き、彼はもう片方の手で箱に入っていた短銃を取り出し、慣れた手つきでコッキングした。

物騒な凶器を目の前にして、アリスが息を呑んで硬直する。


「とにかく、近くの別のシェルターに避難だ。ナイトメアに入り込まれたら、ここはおしまいだ。君だけはなんとしても守らなければならない」


歯を噛んで、ジャックは短銃を脇に抱えた。

次の瞬間、ドームの建物内から火柱が吹き上がった。

悲鳴を上げて頭を抑える。

そこで


「ジャック! 無事だったか!」


という声とともに、バラバラと防護服を着た男達が走ってきた。

別のルートから脱出したのか、しかしそれでも数名だ。


彼らは短銃を構えてアリスを守るように周りを見回した。

ドームがまた爆発し、空中に火の粉を吹き上げる。


「どういうことなんだ! 隔壁は降りていただろう!」

「分からない。もしかしたら……」


ジャックは歯を噛み締め、目を憎悪に燃え上がらせながら言った。


「『奴』が来ているのかもしれない……」


彼の言葉を聞いて、周りの男達がハッと青くなった。

ジャックは彼らを見回し、そして愕然としているアリスを抱き寄せてから大声を上げた。


「ここから離れて地下道に逃げるぞ! 森を抜ける!」

「懸命な判断だ。この人間は使えるね」


アリスの肩に張り付いたラフィが小さく言った。

ジャックはドームを背にして、迷うことなく森に向けて走り出した。


アリスが来た方向とは逆の向きだ。

空には真っ白な月が一つ。

ドロドロとした汚泥のような空だった。


「ジャックさん! 他の人達が……」


ドームを指差して声を上げたアリスを抱えるようにして走り、ジャックは押し殺した声で言った。


「ドームの市民は、もうダメだ。振り返らずに走るんだ」

「ジャック!」


そこで追走していた男の一人が叫んだ。

ジャックは森の中の開けた場所に出たところで足を止めた。

そしてアリスを背後にかばい、銃を構える。

生き残りの男達も、アリスを囲んで銃を構えた。


「何が……」

「だめだ、読まれてたね」


ラフィが冷静にアリスの肩で口を開く。

ジャックの背後から前を見たアリスは、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。


おそらくジャック達が目指していたであろう地下トンネルと思われる場所への入り口がある。

そのエレベーターの周りに、多数の兎達が軍隊のように整列していた。

全員鎌を持って、頭をたれて小さくケタケタと笑っている。


少し離れたところに、ドームの外に逃げようとしたのか……防護服を来た市民達がまとめられていた。

兎一匹一匹が市民を地面に押さえつけている。


「ナイトメアに捕まったのか……? アリス、何かいるのか!」


ジャックが押し殺した声を発する。

彼らには兎は見えていないらしい。

アリスは震えながら口を開けた。


「う……兎が……鎌を持った兎が、か、数え切れないくらい沢山……! 他の人が、捕まってる!」

「くそ……!」


ジャックが毒づいたときだった。

カッチ、コッチ、という時計の音が広場に響いた。


「……帽子屋ハッターだ」


ラフィが歯噛みして口を開く。

エレベーターがゆっくりと開き……。

その中から、砕けた緑色の柱を無造作に持った、「人間のようなモノ」が這い出してきた。


頭が異様に大きい。

禿頭にシルクハットをかぶっている。

飛び出しそうな両目に、コブだらけの顔。

緑色の気色が悪い肌。

背虫のように曲がった背中にしては、両手両足がやけに大きかった。


「それ」は、右目を時計の音をさせながら回転させていた。

左目をぐるりと回してアリスを見て、ケタケタケタと、その醜い男は笑った。


「アリス! アリスじゃないか! いやあ久しぶりだなあ待ってたよ!」

「何だ……? 長老が浮いてるぞ……」


その男の姿も見えていないのか、アリスの背後の男が小さく呟く。

その醜男……「帽子屋ハッター」は、長老が入った砕けた柱を、無造作に投げ落とした。

中から紫色の液体と、ぐちゃぐちゃになった脳髄が流れ落ちる。


「そこにいるのか……」


ジャックは目を怒りに燃え上がらせながら、銃を帽子屋に突きつけて叫んだ。


「そこにいるのか! ナイトメア!」


帽子屋は不思議そうにジャックを見て、そしてぐるりと首を回転させた。

考え込む仕草をしてから、懐からヌルッ、とラッパのような形をした散弾銃を取り出す。


「今日は良き日だ!」


けたたましい声で喚いて、彼は無造作に、地面に組み伏せられている市民に向けて散弾銃を発射した。

阿鼻叫喚の、地獄のような悲鳴と絶叫が響き渡る。


何度も何度も執拗に散弾銃を撃ちまくり、彼はフーッ、とラッパ型の銃口を口で吹いた。

市民の一部が動かぬ屍に変わっていた。

組み伏せていた兎も同様に、滅茶苦茶の肉の塊になっている。

流れてきた血溜まりを見て、アリスは引きつった声を上げてジャックの服にしがみついた。


「ナイトメアがそこにいる! 撃てえ!」


ジャックが叫ぶ。

男達とジャックの銃が一斉に火を吹いた。

連続した射撃音とともに、薬莢が周囲に飛び散る。

帽子屋は


「フン」


とそれを見て鼻を鳴らすと、近くに立っていた兎の頭を掴み、自分の前に盾のように突き出した。

盾にされている兎に多数の銃弾が突き刺さり、ビクンビクンと魚のように跳ねる。

帽子屋は全く銃弾の雨に気兼ねすることもなく、そのまま悠々とアリス達に向かって足を踏み出した。


「アリス! ナイトメアには当たっているのか!」


短銃を乱射しながらジャックが怒鳴る。

アリスは地面にへたりこみ、抜けた腰で必死に後ずさりながら声を上げた。


「近づいてくる! ダメ! 当たってないよ!」

「全員後退するぞ! ナイトメアが近づいてきている!」


ジャックが叫んだ途端だった。

アリスの目に、兎を掴んでいる方と別の手を上げ、人差し指を軽く振った帽子屋の姿が写った。

その口が醜悪に


『逃さないよ』


とゆっくり動く。

目を見開いたアリスに、帽子屋は盾にしていた兎を振りかぶり、思い切り投げつけた。

滅茶苦茶の肉の塊になった人間大の物体が、無残にボールのように飛来する。


絶叫したアリスの目の前で、兎の死骸は銃を乱射していた男の一人に衝突し、弾丸のように後方に弾き飛ばした。

血反吐を吐いて吹き飛んだ男を見て、ジャック達が青くなる。


「だめだ……見えない……!」


ジャックは砕けんばかりに歯を噛み締め、射撃をやめて、殆ど反射的と言っていい動きでアリスの手を掴んだ。


「私にはナイトメアは見えないのか……!」


絞り出すように吐き捨て、ジャックはアリスを抱きかかえてドームに向かって走り出した。

それを見て、帽子屋は足を進めて来た兎達の一匹の頭をまた掴んだ。


その右目がギュン、と回る。

掴まれている兎が、瞬間氷のように動きを止めた。


彼はそれを振りかぶり、大きく弓なりに上に投げ飛ばした。

そこで右目が、カチ、コチ、という音とともにゆっくり回転を始める。


「逃げるという選択肢はいいけどね! アリス、避けないと死ぬよ!」


ラフィが空を見上げて口を開く。

アリスがこちらに向けて飛来する兎のぬいぐるみを見て青くなった。


動きが止まっているように見える。

本能的な部分が警鐘を放っていた。


なんだか分からない。

分からないが……。

アレは、危ないものだ。


「ジャックさん危ない!」


悲鳴を上げてジャックの服を強く引く。

もんどり打って倒れたジャックに巻き込まれて、したたかに体を地面に打ち付けながら、アリスは彼の手を引いて道端の樹の陰に転がり込んだ。


兎が、銃を乱射しながら逃げようとしていた男達の中心に落ちる。

カチリ、という音がした気がした。

帽子屋の右目が中心部で止まり、彼はニヤアリと笑った。


大爆発が起こった。


まるで地雷でも踏んだかのように、空中に爆炎が吹き上がった。

悲鳴を上げて頭を押さえる。

そのアリスの体を、ジャックが必死に抱き寄せた。


周囲に弾丸のように砕けた地面が飛散する。

それに体を叩きつけられ、吹き上がった炎に嘗められるように巻き込まれ、男達がバラバラに吹き飛んだ。


巻き上がった炎は、まるで意思を持っているかのようにのたうち回り、男達のかぶっているヘルメットの内側に滑り込む。

陰惨な絶叫がいくつも上がった。

目を覆ったアリス達の目の前で、防護服の内側から蒸し焼きにされた男達が、力を失って次々に倒れていく。


「ん? んん? ん?」


帽子屋はゆったりと足を進めると、軍隊のように進んでいた兎達を、右手を上げて止めた。

そして少し離れた場所で足を止めて口を開く。


「さぁ、アリス。出ておいで。おじさんとイイ~ことしようねぇ。君の体中の骨を、パキッ、パキッと砕いて、足元からおおーきなジューサーでミンチにしてあげよう! どんなメロディを聴かせてくれるのか、楽しみだよォ! 今日はイイ日だ! HAPPY DAYだね!」

『HAPPY DAY! HAPPY DAY!』


兎達が鎌を地面に打ち当てて大声で喚く。

アリスは、ゆっくりとした動きで多数の兎達が自分とジャックを円形に取り囲んだのを見て、震えながら彼にしがみついた。


「何だ……? アリス、落ち着いて状況を説明してくれ」


ジャックが押し殺した声で囁く。

アリスは歯を鳴らしながら言った。


「囲まれてる……兎達と、頭の大きな人……私を殺すって言ってる……」

「くそ……!」


そこで絶叫が響いた。

帽子屋が長い手を伸ばして、組み伏せられて生き残っていた市民の女性を一人、掴んだのだった。

その右目がぐるりと回転し、カチ、コチと動き始める。


「何だ……浮いてる……?」


樹の陰からそれを見たジャックが呟く。

アリスは心の底から青くなった。


もしかして。

あの頭の大きな化物……帽子屋は。

さっき兎をやったように、掴んだモノを爆弾にできるのではないだろうか。

ドームの隔壁もそうやって破壊したのではないだろうか。


「…………!」


声にならない悲鳴を上げて、ジャックの手を掴む。

そして転がるように樹の陰から飛び出した。


一拍遅れて、氷のように固まった、防護服を着た女性が吹き飛んできた。

彼女は今までアリスたちが隠れていた樹に打ち当たると……。

カチリ、という音と共に火柱を拭き上げて炸裂した。

爆裂した木の破片が、アリスをかばったジャックの背中や腕に突き刺さる。


「グゥ……!」


呻いて倒れ込んだジャックと一緒に地面を転がったところで、燃え盛る樹がいくつも、根本から地面がえぐれたせいで倒れてくるのが眼に写った。

まずい、と思った時には遅かった。


ジャックがアリスを突き飛ばす。

地面に盛大に頭をぶつけたアリスの目に、轟音を立てて倒れてきた大樹に煽られてジャックの体が吹き飛ぶのがうつった。


「ジャックさん!」


絶叫したアリスの耳に、背後から鈍重な足音が近づいてくるのが聞こえた。

ジャックは反対側の樹に衝突し、気を失ってしまったようだ。

彼の防護服から空気の抜ける音がしている。


「ああ……あ……」


震えるアリスを覗き込むように、背後に帽子屋が立っていた。

彼は杖でツンツン、とアリスをつついた。


怯えて絶叫した少女を嬉しそうに見下ろし、振り向いたアリスの髪を掴む。

そしてそのまま、魚のように彼女を引き上げた。

頭皮が異様な音を立て、首と頭に激痛が走る。


アリスはバタバタと暴れながら悲鳴にもならない泣き声をあげた。

それを怪訝そうに見て、帽子屋は口を開いた。


「何だ……? 何だいアリス。つまらないな。もっと、こう、抵抗とかないのかい?」


面白くなさそうに彼は言い、アリスを脇に投げ飛ばした。

小さな少女の体が地面をゴロゴロと転がる。


「アリスが遊んでくれないなら、あそこのしぶとい人間と遊ぼう。そうだ、そうしよう。このままじゃ消化できない、まったくもって消化不良だ」


ブツブツと毒づきながら、帽子屋は気絶しているジャックに向かって足を踏み出した。


恐怖と痛みと混乱、そして絶望で歪む視界。

地面を爪で引っ掻いて顔を上げたアリスの目に、気絶したジャックの首を掴んで、帽子屋が彼を持ち上げたのが見えた。

ジャックは、打ちどころが悪かったのか、ダラリと体を弛緩させて動こうとしない。


「アリス、このスキに逃げるんだ」


肩に張り付いていたラフィがアリスに小さく囁いた。


「帽子屋の相手をするのは無理だ。あの人間を殺している間に、なんとかここを離脱しよう」


ラフィの声を聞いて、アリスは投げ飛ばされた時に噛んでしまった唇から血を流しながら、やっとの思いで口を開いた。


「で……でも、ジャックさんが……」

「もともと君とあの男は他人だ。無関係だ。それに、無力な人間を庇いながら逃げ続けるのは、残念だけどあまりオススメしない」


見捨てろということだった。


アリスは憔悴した目で周りを見回した。

鎌を持った兎達が、じわじわと包囲網を狭めてきていた。


たとえジャックを見捨てたとして。

あの兎達の群れから逃げられるのだろうか。

アリスの心に、真っ黒な絶望が広がる。


死ぬ。

私はここで殺される。


あの気持ち悪いバケモノの言うとおりに、体中の骨を潰され、足元からミンチにされて死ぬのだろうか。


怖い。

怖い。

死にたくない。


誰か、誰か助けて。

誰か。


「逃げるんだ、アリス。早く!」


ラフィが耳元で囁く。

そこで、息を吹き返したのか、体を弛緩させていたジャックがもがき始めた。


帽子屋が目を剥いてニヤリと笑う。

凄まじい力がかかっているのか、ジャックの防護服がメキメキと音を立てて凹んでいく。

しかしジャックは、防護服のポケットに手を入れると、小さな銃を掴みだした。


「死ねェ……ナイトメア!」


怨嗟の叫びを上げ、彼はピストルの銃口を前に向けて乱射した。

至近距離で射撃され、しかし帽子屋は全くひるまなかった。

その右目が急速に回転する。

途端、彼の体に当たった瞬間、まるで凍らせたかのように銃弾が空中で止まった。


「一時停止ィ……」


面白そうに帽子屋が呟く。

ジャックは、眼前で停止した銃弾を見て唖然とした。

そして歯を噛み締めながら何度もピストルの引き金を引いた。

他の銃弾も同様だった。


「アリス!」


ラフィが耳元で怒鳴る。

ビクッとして腰を浮かせたアリスを横目で見て、ジャックは持ち上げられたまま怒鳴った。


「逃げろ!」


アリスはギュッ、と目をつむり……。

転がるように駆け出そうとして……。



コツン、コロコロ……。

乾いた音が響いた。

帽子屋が一瞬、何が起こったのか分からないという顔でこちらを向いた。


「あ……」


アリスは、足元の小石を投げつけた姿勢のまま硬直した。

ギョロリとした醜い眼球と目が合ってしまったのだ。


「どうして逃げないんだ!」


ラフィが叫ぶ。

考えて動いたわけではなかった。


反射的に、足元の小石を掴んで帽子屋に投げつけてしまったのだ。


何故そんなことをしたのか。

アリスには分からなかった。


しかし。

ただ、本当に少しだけ。

アリスの胸にドロドロとした赤い、熱い感情が湧き上がってきていたのだった。


それは憎悪。

怒り。

負の感情。


そう、アリスは。

目の前の兎達を。

帽子屋を。

憎いと、そう思ったのだ。


銃弾を空中に固定した状態で、ぐるりと帽子屋がアリスの方を向いた。

まだジャックは掴んだままだ。


「逃げ……ろ……」


息ができないのか、ジャックの声がかすれて消える。


「んっん~……? ん? んんんんんん?」


帽子屋はもう片方の手で、杖を動かして自分の体に当たった石ころをつついた。

そしてニンマリと裂けそうに口を開いて笑った。


「アァリス……! やっと遊ぶ気になったんだねぇ! 嬉しいよ!」

「ジャ……ジャックさんを……」


アリスはガクガクと震える足を無理矢理に奮い立たせ、目をつむって絶叫するように叫んだ。


「ジャックさんを離せ!」

「嫌だね!」


ケタケタと笑いながら、帽子屋はジャックをモノのようにブンブンと振った。

そして杖を放り出し、顔の前で停止していた銃弾をゾロリと一気に掴む。


「アリス! 楽しく殺し合おう! 楽しいねえええ!」


そう言って帽子屋は、躊躇も何もなくアリス目掛けて銃弾を投げつけた。

カチ、コチ、と右目が回り出す。

一瞬、飛来する銃弾が見えた気がした。


……死ぬ。

死ぬ……!


――死。


頭の中に真っ赤なその文字が何百何千と浮き上がる。

次の瞬間、飛来した銃弾が一斉に火柱を拭き上げた。



吹き上がった炎を見て、帽子屋はピョンピョンとその場を跳びはね、嬉しそうにゲラゲラと笑った。


「何人目だったかな! 分かんないなァ! 何かよく分からなかったけど、コレで通算、私が一位だ!」

『HAPPY DAY! HAPPY DAY!』


燃え盛る火柱を囲みながら、兎達もケタケタと笑う。


「しあわせだ……」


けたたましい声で喚こうとした帽子屋の声が止まった。

彼は、きょとんとして今までジャックを掴んでいた方の腕を見た。


ズルリ、と、帽子屋の肩が「ズレ」た。


そしてジャックごと地面に、彼の腕がゴトリと落ちる。

一拍遅れて噴水のように帽子屋の肩から、真っ黒い液体が噴出した。


「ギイヤアアアアアアアアア!」


情緒も何もなく絶叫してよろめいた帽子屋の目に、燃え盛っていた炎がパァン、と空気の炸裂する音と共にはじけ飛んだのがうつった。

周囲を一瞬、竜巻のような風が吹き荒れる。


力なく咳をしたジャックの視界に、目を爛々と赤く輝かせた少女……先程まで震えて、怯えて、ちぢこまって逃げようとしていたアリスが、しっかりと地面を踏みしめてこちらを睨みつけているのがうつった。


「な……何だ……?」


地面に崩れ落ち、掠れた声でジャックは呟いた。

こちらを睨みつけているアリスの体の周りが、虹色に歪んでいるのが見えたのだった。

湯気のようなものが立っている。


「アリス……なのか……?」


……いや……。


違う。


……違う?


違う!


頭の中に本能的に浮かんだ文字に混乱する。


『アレ』は違う。

アリスではない。

もっと邪悪で……。

もっとどす黒い何か……。


見たこともないのに、本能的な部分でジャックは震え上がった。


怖い。

怖い……。


ちっぽけな少女にしか見えない「それ」を見て、ジャックは体中がすくみ上がる感触に襲われた。



少し離れた地面に立ったラフィが、異様な雰囲気を発しながらゆらりと足を踏み出したアリスを見て、歯を噛んだ。


「アリス……やっと目覚めたのか……? でも様子がおかしい……」


右肩を何かに両断された帽子屋が、地面にうずくまってヒー、ヒーと泣いていた。

まだ黒い液体はビシャビシャと流れてあたりを濡らしている。

彼は転がっている右腕を左腕で掴むと、ぐちゃぐちゃの泣き顔でアリスを見た。


「ヘヘ……ハハハハハ……アヒャヒャヒャ!」


笑っていた。

泣き笑いで絶叫しながら、彼は腕の切断面と右肩をグチャリと合わせた。

体の肉が一瞬膨れ上がり、脈動して縫い合わせるように腕と肩を結合していく。

数秒後、元の体に戻った帽子屋は、涙をボタボタと落としながら口を開いた。


「痛いよ……凄く痛い! アリス! イイ! それイイよ! もっとだ! もっと楽しく遊ぼう!」


彼は、ゆっくりと自分に向けて足を進めるアリスを指差し、パチンとそれを鳴らした。

周囲のおびただしい数の兎達が奇声を上げ、鎌を振りかざしながら飛び上がる。

そして雨あられのようにアリスに向かって飛びかかった。


真っ赤な血のような色の目を周囲に向け、アリスは別人のように、能面を連想させる無表情で体を丸めた。

そして、次の瞬間……。

彼女は口を大きく開け、「叫び」を上げた。


それは声ではなかった。

およそ意味を持つ言葉でもなかった。


耳に聞こえた音でもなく、アリスの口から発せられた「モノ」は、一瞬で周囲の空間に、まるで光のように広がった。

誰も、それを見ることはできなかった。

感じることさえもできなかった。


空中に飛び上がった兎達が、総てその場で静止していた。

キィィ……ン……という、空気が鳴動し、何か金属が高速で擦れるような、凄まじい高音が遅れてあたりに響く。


次の瞬間。

アリスに飛びかかっていた兎達が、全員空中で爆裂した。


爆発したのではなかった。

総て、まるでシュレッダーにかけたかのように細切れのミンチ肉になって、空中ではじけ飛んだのだった。


ドチャドチャドチャと肉の塊が地面に降り注ぐ。

赤黒い液体で体中を汚しながら、アリスは顔を上げた。


圧倒的な無表情だった。

目の瞳孔が開き、瞳が真っ赤に発光していた。

そう、言うなればそれは。


虚無。


何もない。

恐れも、ためらいも、全ての感情が存在しない顔。


口から白い煙を上げながら、アリスはゆらりと体を起こした。

そして足元に転がっていた、ぐちゃぐちゃになった兎の頭をブヂュリ、と踏み潰して、何事もなかったかのように足を進めた。


「ギャハハハ! アヒャヒャヒャヒャヒャ!」


そこでけたたましい笑い声が響いた。

帽子屋が血みどろの光景を見て、楽しそうに嬌声を発しながら飛び退る。

そしてポンポンポンポン、と地面にへたり込んでいる市民達の頭を叩く。


「じゃあこれならどうかな!」


子供のようにワクワクした声を抑えることもせずに、彼は両手でゾロリと停止した市民達を抱えた。

そして力を入れて空中に放り投げる。


次々に砲丸投げのようにアリスに向けて人間達を投げつけていく。

アリスは無表情でそれを見ると、放物線を描いて飛来する人間達に向けて……。


「何か」を、口から発した。


彼女の絶叫とも悲鳴ともつかない、圧倒的な絶望を孕んだ「何か」は、飛来してきていた人間達を無慈悲に、簡単に薙いだ。

空中で一瞬人間達が止まり……。

その場で爆炎を噴き上げた。


地面が抉れ、木々に炎が燃え移り、あたりに土煙と土砂が巻き上がる。

熱風に顔を守って目をつむった帽子屋だったが、彼はすぐ顔を拭い、小さく息をしながらニィ、と笑った。


「急にやる気になったみたいだね……でもそうじゃなきゃお茶会のお土産話にも……」


そこまで言って、彼は言葉を止めた。

足元で、小さな少女……アリスが自分を見上げていたのだ。


「あ……?」


それを見下ろした帽子屋は、マヌケな声を発して停止した。

アリスの真っ赤な瞳。

それを真正面から見てしまったからだった。


そこには、何も映っていなかった。

自分も、細切れになって崩れ落ちた兎達も。

空中で粉微塵になった市民達さえも。


焦点が合っている、とかそういう問題ではなかった。

空洞。


穴。


何もない底抜けの虚無を間近にして、ナイトメアは動きを止めたのだった。

アリスは血まみれの体で、ゆっくりと口を開いた。

そこから、「何か」が這い出してくる。


見えない。

聞こえない。

感じることもできない。

においさえない「それ」がゆっくりと蠢く。


帽子屋は、次の瞬間、反射的に地面を蹴って後ずさろうとした。

空気が鳴った。

キィィ……ン……という高音。

あたりに耳鳴りのような大気の震えが反響する。


一歩、二歩と帽子屋は後ずさった。


「アリス……ああ、アリス……」


彼はブルブルと体を震わせた。

その鼻と口から、ドッと黒い液体が流れ出す。


「お茶会に行かないと……みんなが待ってる……だから、早く行かないといけないんだ……」


彼の首から、ドロリと何かが流れ出す。

次の瞬間、ズル、と帽子屋の首がズレた。


重低音を立てて、異様な生首が地面に転がる。


膝をついた帽子屋の体……その切断された首から、噴水のように黒い液体が飛び散った。

それを真正面から浴びながら、アリスは無表情で周りを見回した。


舌を出して事切れている帽子屋の頭ごしに、生き残っていた兎達が、とたんにグジュグジュの汚らしいヘドロのように崩れ、地面に流れていくのが映った。

そのアリスの瞳が、ゆっくりと輝きを失っていく。

やがて彼女は目を閉じ、帽子屋の血溜まりの中に、濁った水音を立てて崩れ落ちた。


木々に燃え移った炎は、いつの間にか消えていた。

死屍累々の地獄絵図が広がっている。

ポツ、ポツ……と空から水滴が落ちてきた。

黒い雨だった。


帽子屋の血液のような漆黒のそれは、たちまちのうちに大雨になり、アリスと、周りの亡骸達を打ち始めた。

誰も、言葉を発する者はいなかった。

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