第13話 ルイス・キャロル
大丈夫だよ、と貴方は言った。
終焉がこの世界を包んでも、自分は絶対に離れはしないと。
どんな手を使ってでも「君」を探し出すと。
だから笑って私は返した。
彼に、一言だけ小さく。
「待ってる」
と。
◇
アリスは緩慢な動作で起き上がった。
彼女は光の中にいた。
虹色に輝く飛沫の中で、アリスは顔面がモザイクの男性が、黒いスーツを着て自分を見下ろしているのを見上げた。
モザイクにかき消された顔は見えない。
見えないが、彼はとても悲しそうな顔をしていた。
アリスは立ち上がると、モザイクの男性の前に一歩、足を進めた。
そしてしばらく見つめ合う。
「ラフィ」
アリスはそう言って、そっとモザイク顔の男性を抱きしめた。
ラフィと呼ばれた彼は、しばらく戸惑っていたが、やがて長い腕を伸ばして、アリスをそっと抱いた。
しばらく、二人はそうやって抱き合っていた。
アリスは体を離し、モザイクで隠れたラフィの顔を見上げた。
「さようなら。ラフィングキャット。『私』が一番愛した人……」
モザイクの奥の顔が、少しだけ笑った気がした。
その体が足元から光の飛沫になって、アリスを取り巻く虹色の光に同化していく。
「一緒に行こう」
アリスの右目から、ボボ……と青白い炎が吹き上がった。
「アポカリクファの終焉を、止めるんだ」
◇
殴られたジャバウォックは、しばらくの間呆然としていた。
ジャックが手を離し、彼は力なく膝をついた。
そして体を震わせる。
「これが……恐怖……? これが……生きているという証……? 何を……何を馬鹿な……」
引きつった顔でジャックを見上げ、彼は叫んだ。
「そんなものが存在の証明であってたまるか!」
「…………」
「そんな……そんなもので、俺は自分が生きていると! 思えない! 思いたくない!」
「だから……!」
ジャックは、小さく掠れた声で、彼に言った。
「だからみんな……戦っているんじゃないか……」
「…………」
言葉を失ったジャバウォックが、膝をついたまま愕然と停止する。
そこでジャックは、ジャバウォックの背後に人影があるのを見て、数歩下がった。
そして地面に刺したダーインスレイブを抜き放ち、その人影……ルイスに向ける。
空間を歪めて現れたルイスは、完全にジャバウォックを無視して、ジャックの前に進み出た。
そして興味深そうに彼を見回す。
「ふむ……そんなに強化したつもりはなかったんだがな……」
「貴様……!」
ジャックは折れたダーインスレイブを下段に構えた。
それを見てルイスは、うんざりしたように手をひらひらと振ってみせた。
「ああ、そういうのはもういい。お前達のバグり方にはつくづく感嘆したよ。プログラムもこんなエラーを吐き出すものなんだな。データ生命体と言った方がいいかな。だが、一定値における自己進化の先は見えた。お前達はもう終わりでいい」
「逃さんぞ……ルイス・キャロル……いや、シャルロ・マーヴェルス! 貴様を捕まえ、警察に引き渡す!」
その言葉を聞いて、ルイスは眼鏡の奥の瞳を大きく見開いてキョトンとした顔をした。
そして、数秒後合点が行ったように舌打ちをする。
「……まさか、現実の『私』がまだ生きている……と?」
「…………」
「答えろよホワイトナイト。お前は私が造ったんだぞ」
「それがどうした……何に造られようと、何に変えられようと、私は私だ! この心も、魂も、私だけのものだ!」
ルイスの背後のジャバウォックが目を見開く。
初老の老人は、呆れたように首を振って、肩をすくめてみせた。
「それは全部プログラムだよ。もっと端的に言えば、数字の羅列だ。突き詰めればゼロと1で表すことさえも出来る。感情など、心など、魂など、そんなものはゴミだ。造れる。いくらでも」
「…………」
「自分だけのもの? 何を言う……そんなものは存在しない。私が造れる範疇のものに価値などない」
「…………」
「私が見たいのは、アリスの姿だけだ。ベコベコにヘコんだ汚らしいデータではない。どけ」
ジャックは無言でダーインスレイブを強く握りしめ、構えた。
ルイスはそれを面白くなさそうに見て、投げやりに言った。
「この世界は一度リセットすることにした。シミュレーション自体は成功したからな。アリスという完成体が『創り出せる』ことが分かれば、こんなラビリンスなど、もうどうでもいい。私の体がまだ生きているとなれば、更に急がねばな……」
「……何をするつもりだ……?」
「言ったろ? リセットするんだ。全部」
ルイスの頭上……。
その虚無が浮いた空がうずまき始め、黒い空間……ひずみがあたりを覆い始めた。
「そして内部から外部干渉のロックをかけて、もう一度シミュレーションを繰り返す。次は私の手でアリスを創り出さなければな」
「この世界と共に消えて無くなることが狙いではなかったのか……!」
「は?」
それを鼻で笑い、ルイスは小さく喉を鳴らした。
「どうして? ここは、私が、私の思い通りに造り上げた私だけの『世界』だ。私のユートピアだ。何故私が、私のユートピアから退場しなければいけないんだい? それでは『話』が終わってしまう」
ルイスは面倒くさそうにジャックに向けて右手を伸ばした。
「消えるのは、『お前達バグ』の方だ」
ルイスの周囲に真っ黒い虚無が出現した。
それは光さえも発しない、まるで宇宙を連想させる「何もない」空間だった。
それらは意思を持つようにぐるぐると回転すると、アリスのバンダースナッチのように蠢き始めた。
そしてルイスの頭上から、ハッタとヘイヤが行ったような虚無の侵食が広がっていく。
壊れたデータの断片がパラパラと雪のように降り注ぎ始めた。
「リセット……? 何を言っている……?」
「そのままの意味だよ。最初から、アリスシリーズとかいうバグと、ナイトメアを戦わせていたのは、ただのシミュレーションだ。私はそれをずっと……ずうっと、観測していた」
「…………」
絶句したジャックに、ニタリと厭らしく笑いながら、ルイスは続けた。
「私が手を下してはダメだ。果たして人間の感情を、魂を、データは超えることが出来るのか。システムが、それらを創り出すことが出来るのか。私はそれが見たかった」
ルイスは虚無と共に、ゆっくりとジャックに向けて歩き出した。
「結果、アリスシリーズは完成を迎えた。人間以上の干渉能力を持ち、人間を遥かに超える仮想生命体。本来それは、システムでは創り出せないものなのだよ」
ハッタとヘイヤの時の比ではなかった。
次々に空や地面が消失していく。
「『創れる』それが分かっただけで、私の観測は目的を終えた。次のステージに進みたい。だから、このシミュレーションをもう一度最適化してやり直さなければいけないんだ。それが『リセット』だよ。最初からアポカリクファウィルスは、そうなるように組んでいた。終焉は、間違いなく、必ず、絶対に訪れる」
「そんなことは絶対にさせない……」
ジャックは押し殺した声を張り上げた。
「お前は必ず捕まえる……神にでもなったつもりか? 人間の身で!」
「神……神!」
ルイスはまた足を進めて叫んだ。
そして両手を天に向けて伸ばし、大きく笑う。
「そうだよ! 私は神だ。私はこの世界を創った! すべてを構築した神だ! 私が、私のシミュレーションの為に用意した舞台だ。どうしようが私の勝手だろう!」
「貴様……!」
怒りに震える手で、ジャックはダーインスレイブを中段に構え直した。
「おっと……」
ルイスはそう呟いて、どうでも良さそうにジャックに言った。
「お前のような塵の相手をする気分ではない。その折れた剣で私と戦うつもりかね? 一応言っておくが、『データ』が『消えたら』、もう二度と復活はできないよ? 一度だけ忠告しよう。やめておきたまえ」
ジャックはダーインスレイブを構えたまま、歯ぎしりをするように怒りで体を震わせていた。
その脇を、黒い虚無をまといながら、悠々とルイスが通過していく。
「があああああああああ!」
しかし、そこでジャックが咆哮し、ルイスの首に向けてダーインスレイブを振り抜こうとして……。
ルイスに背後から踊りかかったジャバウォックを見て、すんでのところで剣を止めた。
彼もまた、咆哮していた。
ジャバウォックの動きは予想外だったらしく、ルイスは一瞬だけポカンとして獅子頭のナイトメアを見上げた。
ジャバウォックは腕を振り上げ、渾身の力を込めて振り下ろした。
その腕が虚無を斬り裂き、ルイスの右腕を肩口から薙ぐ。
老人の絶叫が響き渡った。
次の瞬間、ルイスがまとっていた虚無の渦が、大きく横に振るわれて、ジャバウォックの胴体を薙ぎ払った。
下半身を吹き飛ばされたジャバウォックが、ジャックの方に放物線を描いて飛んできて、地面に叩きつけられる。
「魔獣!」
ジャックはそう叫んで、ダーインスレイブを地面に突き刺して、徐々に消えていくジャバウォックを抱き上げた。
「お前……」
「…………」
ジャバウォックは、虚無に侵食されながら、虚空を見上げていた。
その口が緩慢に動く。
「……アリス様はなぁ……優しかったんだ……」
「…………」
「俺は好きだったんだなぁ……アリス様のことが……」
その顔が苦悶に歪んだ。
獅子の瞳から、一筋の涙が流れて、砂漠に落ちる。
「癒やして……差し上げたかった……」
完全にデータの欠片となり消え去ったジャバウォックがいた場所を、ジャックはしばらくの間、抱いた姿勢のまま呆然と見ていた。
ルイスは千切れた右腕を左腕で持ち、歯を食いしばって喚いていた。
「畜生……! 渡した管理権限を行使したな……私の腕が……腕が消える……!」
右腕が塵になり消えていく。
ジャックは、真っ赤な血液を右肩から流しているルイスを見て立ち上がった。
そしてダーインスレイブを地面から抜き放ち……。
背後の空間が歪んで、姿を現した少女に向けて口を開いた。
「……行こう、アリス。終わりにしよう」
「うん、ジャックさん。そうだね」
アリスは、虹色のバンダースナッチを体中にまとわりつかせながら、炎の右目でルイスを睨んだ。
「私達は、お前の創ったこの悪夢から出ていく。すべての人は、お前の支配から解放される……そしてお前は……」
アリスは凛とした声で叫んだ。
「惨たらしく現実世界で裁かれろ!」
ヒー……ヒー……と掠れた息を吐きながら、ルイスは左手で右肩を押さえ、振り返った。
その目は血走っており、憤怒の形相だった。
「データごときが……それも、人間をベースにしていないプログラムごときが……私の、私の腕を……!」
ルイスは足を踏み出したアリスを見て叫んだ。
「データの屑が、神の私を笑うか!」
「神……?」
アリスは口元を歪めて笑うと、また一歩足を踏み出した。
「私達がデータの断片だとしたら、今の貴方は何かしら……?」
そう言われ、ルイスは目を見開いた。
アリスはクスクスと笑うと、ジャックと同時に、またルイスに向けて歩き出した。
「データの『神様』って、いや……『データの集合体』って。別に、ただのダストであって。私達と同じじゃない?」
「……やかましい……」
「ダストがダストに何かをほざいても、何も変わらない。変えられない。変えようとするのは自分の意志。変えられるのは自分の行動。そして、それは他の何者にも支配されない。それが『生きる』ということ」
「やかましいいいい!」
ルイスが怒鳴ると、彼が纏っていた虚無が渦を巻いてアリスに殺到した。
「消えろ! 私の邪魔をするならば! すべてリセットされろ!」
虚無の渦に向けてアリスは右手を伸ばした。
そして銃の形を作る。
「幾百、幾千、幾万の虚無を広げても、私達は消えない。この想いは、この心は、私達が生きた証、生きていることの証明なのだから!」
アリスが纏っていたバンダースナッチが円錐状になり、虚無に向かって撃ち出された。
そして衝突し、激しい対消滅反応を引き起こす。
しかし虚無が広がる……と思った瞬間、アリスのバンダースナッチが大きく広がり、ルイスの虚無を飲み込んだ。
そして猛獣の顎のような形になり、力を込めて『噛み砕い』た。
バラバラと、雪のようにデータの断片が降り注ぐ。
ルイスは呆然とすると、吠えるように叫んだ。
「な……何だ……? 何をした!」
「……虚無はマイナス方向のデータ……このバンダースナッチはプラス方向のデータよ。貴方が創り出した虚無以上の容量をぶつけただけよ」
「…………」
愕然として、ルイスは右肩を押さえながら後ずさった。
「嘘だ……嘘だああああ!」
老人が絶叫し、その周りの虚無が一気に広がった。
それを見てから、アリスは残った左目を閉じて、そっと呟いた。
「フィルレイン……ラフィ……ありがとう。あいつは、私を増悪の塊だと言ったけれど、確かにそうかもしれない……」
「…………」
ジャックがダーインスレイブを構えながら、アリスの脇に立つ。
「でも、増悪の塊でも……それは『力』であることに変わりはない」
ジャックが虚無に包まれる周囲の中、そっとアリスに言う。
「そして、それを使うのはアリス……君自身の『意思』だ!」
アリスはまた右手を伸ばし、左手でそれを支えた。
彼女とジャックは連れ立つように立った。
アリスの銃の形にした指の周りに高密度のバンダースナッチが集まっていく。
それらは反響し、増幅し、無限に膨れ上がっていく。
どこまでも虹色の光が広がっていく。
そしてアリスは、ルイスに。
シャルロ・マーヴェルスに向けてそのバンダースナッチを放った。
◇
「夢から覚める?」
アリスは、顔がモザイクの男性に向かってそう言った。
一面の花畑に座って、花の冠を編んでいた彼は、アリスの方を向いて小さく頷いた。
「ああ。これは夢なんだ、アリス。残念なことにね……だから、もうすぐ君は目覚めなくてはいけない」
「嫌だよ……そんなの……!」
アリスは引きつった声を上げて、モザイクの男性にしがみついた。
彼が編んでいた花の冠が手から離れ、パサリと地面に落ちる。
「私、ラフィと……みんなと離れたくない……! ここにずっといたい。ここで、みんなとずっといたい……!」
いつの間にか、アリスとラフィは沢山の人影に囲まれていた。
彼らは一様に顔にモザイクがかかっていた。
「アリス、僕達はデータだ。プログラムで動いている。でも君は違う。魂が……」
ラフィがそう言うと、アリスは泣きじゃくりながら叫んだ。
「どうして? みんなだって生きているじゃない! どうしてそんな悲しいことを言うの? みんなだって、私と同じように生きてる!」
「アリス」
モザイクの男性は、アリスをそっと抱きしめた。
そして頭を撫でる。
「君はもうすぐ治癒する。心の傷も、膿も殆どもう見られない。君は、君として新しい人生を歩き出すんだ。僕達と一緒に」
「一緒……? 一緒に……?」
意味が分からない、という顔をしたアリスに、ラフィは微笑んだように見えた。
「君の心の中にいる限り、僕達は永遠に『生き』続ける。僕達はこれから、君の心の中で生きるんだ。だからアリス。君はもう独りじゃないよ。ずっと、ずっと一緒だ」
「それって……」
アリスは泣き笑いのような顔でラフィを見上げた。
「これからも、しあわせが続くってこと?」
「そうだよ。HAPPY DAYだ!」
彼らを取り囲んでいた者達が手を叩き、嬉しそうにアリスの名を呼ぶ。
◇
HAPPY DAY。
そうだ。
私は……。
アリスは、広がったバンダースナッチの光の中。
シャルロに、泣き笑いのような顔を向けた。
老人の体が光に包まれる。
そして、光は爆ぜた。
◇
国際指名手配犯、シャルロ・マーヴェルス。
彼は史上最悪のシリアルキラーとして、後世まで名を残すことになる。
裁判は長く続いた。
数百の罪状を一つ一つ紐解いて裁くために、シャルロは幾度も延命治療を受け続けた。
そして、彼は獄中でその生を終えた。
裁判の途中で、判決も全て出ないまま、シャルロは独りで、独房内で死んだ。
一説によると、延命治療に体が耐えきれなかったとも言われる。
しかし、彼をシリアルキラーと言わしめるのはそこではない。
死の直前、シャルロは笑っていたと、後の史実に記載されている。
楽しそうに、歌を歌いながら笑っていたそうだ。
それが何を意味するのか。
何故、シャルロはここまでの大犯罪を犯したのか。
何一つとして、明らかにはならなかった。
そして最期まで彼が開示しなかった、「閉鎖された」M.O.R.Sの病棟サーバーの解除キーは、闇に葬られることになった。
◇
シャルロ・マーヴェルスの「意識」が現実世界に転送されてから、数年が経過していた。
M.O.R.Sの病棟サーバーは、崩壊を免れていた。
そして、現在もまだ稼働を続けている。
そう。
M.O.R.S内からまだ帰還していない患者が、いまだに多数接続されているからだった。
警察の捜査は、引き続き行われている。
定期的に、患者達は目を覚ましていく。
ゆっくりと。
仮想現実の世界から、目を覚ましていく。
全員が「救出」されるまで、M.O.R.Sは稼働を止めない。
◇
シャルロは、現実世界に転送される寸前に、ラビリンス内に外部からの干渉不能の権限を行使した。
彼は、自分と引き換えに、M.O.R.Sを閉鎖していったのだ。
それが何故なのか。
もはや観測されることはない仮想空間の中で、まだ「シミュレーション」は続く。
広大なラビリンスの中で生きる、記憶を失くした人間達。
そして、アポカリクファウィルスは消えなかった。
世界の崩壊はまた緩やかに進行を続け、歪みは新しいナイトメアを生み出していく。
◇
どう、と巨大な影が倒れる。
それはゆっくりとデータの断片になって空中に霧散していった。
「この辺りのナイトメアはほぼ駆除し終わったわね」
バンダースナッチの足で地面を踏みしめたイベリスが口を開く。
折れたダーインスレイブを鞘に収め、ジャックは頷いた。
「ああ。安全は確保されただろう。管理権限を使って、できるだけ早くシェルターの中の人達を、『外』に送ろう」
「ええ」
イベリスとジャックが歩き出す。
「アリスは?」
問いかけられ、ジャックはくぐもった声で応えた。
「シェルターの中だ。入り込んだナイトメアの駆除をすると言っていた」
「そう。じゃあ……」
ポン、と白騎士の肩を叩いて、イベリスはそっと笑った。
「行ってあげて。私はもう、大丈夫だから。患者さん達の転送は、私がやっておくわ。心配しないで」
「…………ありがとう」
ジャックは少し考えて、ダーインスレイブを抜き放ち、空間を斬り裂いた。
◇
アリスは、シェルターの外……その天辺に、両足を抱えてぼんやりと座っていた。
黒い森。
黒い夜が周囲を包んでいる。
「ここにいたか」
ジャックが後ろから声をかける。
アリスは眼帯をつけた顔で振り返り、ジャックを見た。
「あ……ごめん。何も言ってなかったね」
「いいんだ。おいで」
アリスは立ち上がって、座り込んだジャックの上にそっと腰を降ろした。
白騎士が彼女の体をそっと抱きしめる。
「あと何個シェルターってあるのかな……」
「さぁな……」
ジャックは息をついて、白い月が煌々と輝く黒い空を見上げた。
「外部との通信が全くつけられない状況が続いているからな……」
「ねぇ、ジャックさん」
アリスはジャックの腕を抱いて、呟くように言った。
「もしも……もしもね」
「…………」
「このM.O.R.S内にいる患者さんたち全員を助け出したら、ラビリンスは止まっちゃうのかな」
「…………」
アリスの問いかけに、しばらくジャックは答えなかった。
しかし彼は、静かに、アリスに言った。
「止まるだろうな」
「そう……」
「でも、アリス」
兜の奥のジャックが、少し笑ったような気がした。
「それが、私達が生きていることの証だろう?」
「…………」
アリスはジャックの顔を見上げ、その腕と自分の膝を引き寄せた。
そしてフッ、と年頃の少女のように気の抜けた笑顔になる。
「そうだねえ……」
「大丈夫だ。もしここが停止しても、私がいる。そして、この剣も」
「うん」
「アリスとイベリスを連れて、何処までだって行ける。私達は、生きていくんだ」
風が吹いた。
さやさやと凪ぐ、その汚染された空気を受けて、アリスは残った左目で眼下の森を眺めた。
「ジャックさん」
「どうした?」
アリスは少し沈黙していたが、やがてそっと、一言発した。
「次のシェルターに、行こう」
ジャックはそれを聞いて、アリスを抱き上げて立ち上がった。
シェルターの天辺で、真っ白い鎧が月の光を受けて煌めく。
同じ方向をまっすぐ見ながら、ジャックは言った。
「……ああ、行こう」
【屍の国のアリス 終】
すべての不条理に抵抗を。
それを支える光に力を。
あなたの進む道に、明日がありますように。