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第12話 ハッタとヘイヤ

アリスが気を失い、昏睡状態になったのは、ルイスが逃走して程なくしてのことだった。

地下道の地面に崩れ落ちたアリスを見て、ジャックが青ざめた声で叫ぶ。


「アリス!」


彼は駆け寄ろうとして……反射的に足を止めた。

アリスを覆っていた虹色に歪んだバンダースナッチの塊が、空中をぐるぐると回転して、彼女を繭のように包み込み始めたのが見えたからだった。


「……ジャックさん、下がって。できるだけ音を立てずに、ゆっくり。『それ』を刺激してはいけない……」


そこで掠れた声が背後から投げかけられ、ジャックはハッ、と我に返った。

地面に転がったイベリスが、残った左腕で上半身を起こして、荒く息をついていた。

彼女は、状況が分からないのか、周囲を見回してからもう一度ジャックに言った。


「もっと下がって。喋る時もさっきみたいに大声を上げちゃダメ。猛烈な殺意を感じる。このバンダースナッチは、敵味方の区別が今ついてない」


ジャックはゆっくりと後退し、折れたダーインスレイブを拾い上げた。

そして鞘に収めて、イベリスに近づいて助け起こす。


「…………」


イベリスは、アクセスポイントの前にぶちまけられた「人間だったモノ」を見て、息を呑んだ。

そして、状況を理解したらしく、唇を強く噛んでジャックの鎧を掴んだ。


「フィルレイン……」

「……すまない。ナイトメアの奇襲に対応することが出来なかった。アリスはおそらく……」

「ええ。フィルレインを『食べ』たわね」


苦しそうにそう言い、イベリスは横目でバンダースナッチの繭を見た。


「あのバンダースナッチはアリスを守ってる……これから何が起こるか分からない。早くここを離れたほうがいいと思う」

「アリスを置いてはいけない」

「よく考えて。フィルレインを『捕食』したということは、アリスは……もう人間ではないわ。あなたと同じ『ナイトメア』に変質してる。そしてあのバンダースナッチ……異常だわ。絶対に離れたほうがいい」


ジャックは少しの間、バンダースナッチの膜の中にいるアリスを見ていたが、やがて小さく呻き、イベリスを抱きかかえて立ち上がった。

そして片手で折れたダーインスレイブを抜刀し、空間を斬り裂く。

そこに開いた穴に、彼は体を踊らせた。



「……成程。ルイスの狙いは、アリス……あの子が憎しみで変質する姿……」


管理システムの脳が浮かんでいるカプセルの前で、イベリスは車椅子に座った状態で口を開いた。

シェルター内は度重なる戦いの影響で、電気関連が不安定になっているようで、時折電灯が明滅している。


部屋の中には管理システムとイベリス、そしてジャックしかいなかった。

他の者は現在、シェルター地下のアリスがいる区画を閉鎖する作業をしている。


「そこがどうも分からない……」


ジャックは押し殺した声を発した。


「何故だ。増悪の形を見ることが、ルイス・キャロルの目的なのか? そしてアリスの何が違うというんだ」

「……私を含めたアリスシリーズはラフィが創り出した、不完全なデータの集合体……アーキアリスの複製品よ。つまり、最初から『人間ではない』の。本来、私達の憎しみや苦しみ……感情というものは、プログラムでしかないのよ」

「そんな……」

「残酷なようだけど事実よ。だから、ルイスが予測する範囲内の行動しか本来はできない。でも、アリスは違った。あの子は一つのプログラムではなく、仮想生命体として、自立した進化をしているわ。おそらくルイスの目的は、その『研究成果』を得ること」

「研究だって……?」


イベリスの言葉を聞いて、ジャックは手を強く握りしめた。


「これだけの人を虐殺して、苦しめて、アリスをあそこまで追い込んで……それが、『研究』……?」

「私も断言はできないけれど……ルイスは、増悪の『形』にこだわっていたそうね。なら、この仮想世界のフィールドを地獄にした理由も納得がいかないかしら。最初からM.O.R.Sを医療機器として利用する気は、彼にはなかった。彼は彼自身の目的で、つまり……『人間の感情の形を可視化する』ことをしたかったのではないかしら。それも、普通の感情ではない。負の、苦しみの感情を……」

「そんなことをして何になるっていうんだ!」

「落ち着いて。それは私にも分からない。でも仮説のひとつとしては考えられないかしら?」

「…………」


ジャックは大きく息をついた。

そして管理システムの方を見る。


「……すまない。少々取り乱した。アリスは大丈夫か?」

「今の所、封鎖されたアクセスポイント付近には何の動きもないですね。誰も入れないように処置はしてあります」


答えた管理システムに頷いて、イベリスは口を開いた。


「ありがとう。作業をしてくれた人達に、すぐに上に戻るように伝えて」

「かしこまりました」


座り込んでいたジャックが腰を浮かせる。


「私は、アリスの傍に……」

「大丈夫。もう少し待って」


しかし、ジャックの声を打ち消してイベリスは続けた。


「ラフィが外部に転送されてから、少し時間が経ったわ。彼の話では、外部からこちらにコンタクトを求めている端末があったそうね」


それを聞いてジャックがハッとする。


「絶対に外部から接触があるわ」

「お話の途中ですが、よろしいでしょうか?」


そこで管理システムが口を挟んだ。

イベリスが口をつぐむと、システムは淡々と続けた。


「M.O.R.S外からの通信要請です。IDは4592ER-3。緊急ラインを使用します。接続の許可をお願いします」


「緊急ライン……!」


声を発したジャックを手で制止し、イベリスは管理システムに言った。


「私が話す。すぐに繋いで」

「かしこまりました」


管理システムがそう言う。

次の瞬間、凄まじいノイズ音が部屋の中に響き渡った。


「何だ……!」


ジャックが鎧の体を硬直させて呻く。

イベリスも顔をしかめながら、管理システムに向けて声を張り上げた。


「妨害されてる! ホットラインを別の場所に切り替えて! そうしたら、すべての内部からのアクセスを一度遮断しなさい!」


しばらくして、ピー……というビープ音が響いた後、唐突にノイズ音が消えた。

そして管理システムが端的に告げる。


「ホットライン、G30に接続が成功しました。外部との通信を開始します」

「外部……」


ジャックはそう呟いて息を呑んだ。


この世界の外部。

外の、「本物」の世界。

そう、今ここにいる自分。

この悪夢の世界はすべて造られたもの。


「偽物」なのだ。


『……こえるか? 応答をして欲しい。こちらは、イタリア機動警察一課の、ジョゼ・アルフォンソだ。生きている人がいたら、何でもいい、応えてくれ!』


くぐもった青年の声が、わずかにノイズをまといながら部屋に響き渡った。

イベリスはそれを聞いて、ハッとした顔で静止した。

その、残った左手が車椅子の縁を掴んでいる。

血管が浮かぶほど握りしめ、ブルブルと震えていた。


彼女の様子を見て、ジャックがそっと口を開いた。


「……イベリス。頼む」


そこでイベリスは我に返った。

そして息をついて、静かに声を発する。


「この通信は、恐らくすぐに切れます。不要な会話は避けてください。私はイベリス。この世界の中で生み出された、自立型AIです」


ジャックが兜の奥の目を見開き、固まる。


『AI……? 生存者はいないのか?』


ジョゼと名乗った青年の声が、奇妙にブレながら問いかける。


「その問いにはうまく答えることができません。ただ、生存者はいます。数を把握はしていません」

『…………』

「こちらから転送したデータを確認されていると思います。現在、このデータワールドは、M.O.R.Sの開発者、シャルロ・マーヴェルスのテロ行為により攻撃されています。そちらでの、『シャルロ本体』の確保を、大至急お願いします」

『やはり……』


ジョゼは呻くと、押し殺した声で続けた。


『シャルロ・マーヴェルスの身柄は既に拘束されている。だが、彼は我々の確保の瞬間、拳銃で自らの頭を撃ち抜いた』

「え……?」


予想外の言葉に、イベリスは青くなった。


「そ、そんな……」

『……だが、安心して欲しい。彼はかろうじて「生きて」いる。脳組織の縫合と治療を、現在進めている。意識を脳に戻すことができれば、そちらに退避したシャルロを、こちらの体に呼び戻すことは可能だ』

「…………」


イベリスは少し沈黙してから、静かに問いかけた。


「それにはどのくらいかかりますか?」

『現在、厳戒態勢で集中治療中だ。48時間以内には……』

「遅すぎる……」


歯噛みして、イベリスは細い声で続けた。


「治療が完了する前に、この世界はアポカリクファウィルスにより『終焉』を迎えます。シャルロは最初から生きるつもりはありません。世界とともに消えることが、恐らく彼の望みなんです」

『分かっている。分かってはいるが……』


そこでザザ……と通信にノイズが入り始めた。

それを聞いて、イベリスが早口で続けた。


「内部のシャルロが通信を妨害しようとしています。外部からの支援を、即急に願います」

『……君達が送信してくれた「データ」には、大まかな経緯と、その地点の座標があった。これから、イベリス……と言ったな。君に、こちらの操作で干渉し、「管理権限」を付与する』

「…………」

『それで、シャルロを止めて、48時間以内に「彼の意識」を、無傷で確保して欲しい』


イベリスは目を閉じてしばらく沈黙していたが、やがて、ゆっくりと顔を上げ、目を開けた。


「分かりました。お願いします」



笑い声が響いていた。

そして、けたたましい、調子の外れた歌が聞こえていた。


Oh,HAPPY DAY.


その「終焉」は、堰を切った濁流のようにやってきた。


「まったく! アタシ達を使うだなんて、ルイス様の頭の中は本当にHAPPYだわネ!」


頭が異様に膨らんだ、異様な風貌の醜い小男が、キンキン声で喚いた。

赤いスーツを着ている。

その隣には、青いスーツを着た、同じ顔の小男が、けたたましい笑い声を上げながら歩いていた。


二人共、金色の蝶ネクタイを締めている。

何か楽しいところに行くかのように、悠々と歩いていた。


彼らの後ろには、「何もなか」った。


足を踏み出す。

その後ろが、データの断片……チリになって消えていく。

そう、彼らが通り過ぎた背後は、すべて虚無のチリとなり、消えていたのだ。


「OH,HAPPY DAY...!!」

「キャハハハハハハ! キヒャヒャヒャヒャヒャ!」

「HAPPY! HAPPYよ! ええ、そう!」


赤い服のナイトメアはハッタ。

青い服のナイトメアはヘイヤ。


彼らは、始まりと終わりを告げる者。


「さぁヘイヤ! 『何にもない日』を祝いにいこう!」


彼らの進む砂漠の向こうには、アリス達のいるシェルターがそびえ立っていた。



「何だ……アレは……」


ジャックは、管理システムが映し出した真昼の砂漠の様子を見て言葉を失った。

「夜」が、近づいてくるように見えた。

昼間の風景が少しずつ削れて、漆黒の虚無空間が広がっている。


地平線の向こうには「何も」なかった。

文字通り、黒インクで丁寧に塗りつぶしたかのように、何も存在していなかった。

光さえも。

砂漠も、どこにもなかった。


砂漠を悠々と歩いてくる二つの影があった。

ナイトメアだとひと目で分かる風貌。

歌でも歌っているのか、拡大されたウィンドウには、焦点の合わない瞳で口をパクパクさせている醜男が二人、映し出されている。


彼らが同時に足を踏み出す。

その「背後のすべて」が、チリのようになって消えていく。

そこは光も音もない、データの欠落した虚無。

何もない場所に変質していく。


先程、ジョゼと名乗った声からの通信は切れた。

それと同時に、イベリスを構成するデータに何かが流し込まれたらしい。

イベリスはしばらくの間、苦しそうに激しく咳をしていたが、やがて口から涎を垂らしながら掠れた声を発した。


「……管理権限のダウンロードが終わったわ。間に合った」

「イベリス、新しいナイトメアだ。しかし様子が明らかにおかしい!」


ジャックが押し殺した声を上げる。

イベリスは顔を上げてモニターを見上げた。

そして吐き捨てるように言う。


「……成程。あっちもナイトメアに管理権限を付与させたわけね……」

「空間が消えているように見えるが……」

「データの強制消失……飲み込まれたら、ここも消え去るわ」

「止めないと……!」


折れたダーインスレイブに手をかけたジャックを、イベリスは残った左手で押し留めた。

彼女のバンダースナッチが動き出し、右手と両足を形成する。


揺らぎの足で地面を踏みしめて立った彼女は、少しよろめいたが、壁に手をついて体勢を立て直した。

そして呼吸を整えてジャックを見る。


「管理権限に、ナイトメアの力で干渉することは出来ないわ。あれはセブンスじゃない。この世界を構築している絶対的なルール……『神』の力。ジャックさんでは止められない」

「しかし……!」


身を乗り出したジャックに、イベリスはそっと微笑みかけた。

そのやつれて、ボロボロになった少女の精一杯の笑顔に、ジャックは発しかけていた言葉を無理矢理に飲み込んだ。

そしてしばらく沈黙してから口を開く。


「……君が、行くんだな」

「ええ。現在、管理権限を持っているのは私だけ。アリスは危険な状態よ。あいつらをここに、これ以上近づけるわけにはいかないわ。ジャックさんは、どうか……アリスを守ってあげて」

「帰ってこれるのか……?」


ジャックが僅かに掠れた声で問いかける。

イベリスは、また微笑んで小さく頷いた。


「……そのつもりよ」



鼻歌を歌いながらハッタが足を踏み出す。

同時に奇声を上げて笑いながら、ヘイヤも足を踏み出す。

その足が同時に地面を叩く。


彼らの背後がゆっくりと塵になり消えていく。

一歩。

また一歩とゆっくりシェルターに近づいていく。


しかし、途中で二人は同時に足を止めた。

少し離れた、前の空間が揺らぎ、蜃気楼のようにぶれた少女が一人、姿を現したのだ。

病院服から伸びた両足と右腕は、虹色の半透明に明滅するバンダースナッチで構成されていた。


イベリスは二体のナイトメアを見て、呆れたように小さく呟いた。


「……またセットの醜男か……」

「ええーと……君は……」


赤い服のハッタが口を開く。

そして隣で爆笑し続けている青い服のヘイヤを無視して、懐から小さなメモ帳を取り出した。

それをめくり、複数の写真が貼り付けてあるところで止める。


「んん……んんんん~?」


確認するようにメモ帳とイベリスの間を何度か視線を往復させ、彼は続けた。


「イベリスさんかネ?」

「…………」

「ああ、ああ! いやいや、答えなくてもいい。イベリスさんだネェ。ルイス様が、取るに足らないゴミの一つだと仰ってはいたけれど……」


彼は、醜い顔を歪めて、目を細めてイベリスを舐め回すように見た。


「……何か様子がおかしい。おかしいねェ……」

「キャハハハハハハハハ!」


笑っているヘイヤをよそに、ハッタは顎に手を当てて考え込んだ。


「今の現れ方は、明らかにおかしい……セブンスの能力じゃないねェ。じゃあ何か」

「…………」


風に吹かれれば倒れてしまいそうな細い体で、イベリスは砂漠の砂を踏みしめた。


「……会話をするつもりはないわ。かかってきたら?」


挑発するようにそう言った彼女に、ハッタはゆっくりと頷いてみせた。


「承知した。では、そうさせていただこう」


ハッタとヘイヤは、何事もなかったかのように、行軍を再開した。

消えていく背後の「空間」を見て、イベリスは強く歯を噛み締めた。

その足のバンダースナッチの一部が、金切り声を上げて噴出する。

それらは光の濁流のようになり、ハッタとヘイヤに覆いかぶさった。


「……ただのバンダースナッチではないネェ……」


ハッタはそう言って、ヘイヤと手を繋いだ。

そして殺到する揺らぎの光に向けて、二人同時にパチン、と指を鳴らす。


途端。


ズン、と音がして、殺到していたバンダースナッチが何か、強大な力に押し止められた。

ハッタとヘイヤの眼前からも、同じような黒い揺らいだ光が噴出していた。


「お嬢さん、最強の槍と、最強の盾の話は知っているかなァ?」


ハッタが厭らしい顔でニヤァと笑う。

イベリスは、揺らぎの力に全集中しているのか、歯を噛み締めたまま答えなかった。


「絶対に盾を貫く力と、絶対にすべてを防ぐ力……それが衝突するとねェ……こうなるんだよォ……」


黒い光と、白いイベリスのバンダースナッチの衝突部がチカチカと異様な色に明滅を始めた。

それは色……ではなかった。

データが欠損した、ノイズ。

そこにあるすべての空間が破裂しそうに圧縮と膨張を繰り返している。


次の瞬間。

二つの力の衝突部が、轟音を上げて爆裂した。


「何だ……アレは……」


ジャックは、管理システムが映し出した真昼の砂漠の様子を見て言葉を失った。

「夜」が、近づいてくるように見えた。

昼間の風景が少しずつ削れて、漆黒の虚無空間が広がっている。


地平線の向こうには「何も」なかった。

文字通り、黒インクで丁寧に塗りつぶしたかのように、何も存在していなかった。

光さえも。

砂漠も、どこにもなかった。


砂漠を悠々と歩いてくる二つの影があった。

ナイトメアだとひと目で分かる風貌。

歌でも歌っているのか、拡大されたウィンドウには、焦点の合わない瞳で口をパクパクさせている醜男が二人、映し出されている。


彼らが同時に足を踏み出す。

その「背後のすべて」が、チリのようになって消えていく。

そこは光も音もない、データの欠落した虚無。

何もない場所に変質していく。


先程、ジョゼと名乗った声からの通信は切れた。

それと同時に、イベリスを構成するデータに何かが流し込まれたらしい。

イベリスはしばらくの間、苦しそうに激しく咳をしていたが、やがて口から涎を垂らしながら掠れた声を発した。


「……管理権限のダウンロードが終わったわ。間に合った」

「イベリス、新しいナイトメアだ。しかし様子が明らかにおかしい!」


ジャックが押し殺した声を上げる。

イベリスは顔を上げてモニターを見上げた。

そして吐き捨てるように言う。


「……成程。あっちもナイトメアに管理権限を付与させたわけね……」

「空間が消えているように見えるが……」

「データの強制消失……飲み込まれたら、ここも消え去るわ」

「止めないと……!」


折れたダーインスレイブに手をかけたジャックを、イベリスは残った左手で押し留めた。

彼女のバンダースナッチが動き出し、右手と両足を形成する。


揺らぎの足で地面を踏みしめて立った彼女は、少しよろめいたが、壁に手をついて体勢を立て直した。

そして呼吸を整えてジャックを見る。


「管理権限に、ナイトメアの力で干渉することは出来ないわ。あれはセブンスじゃない。この世界を構築している絶対的なルール……『神』の力。ジャックさんでは止められない」

「しかし……!」


身を乗り出したジャックに、イベリスはそっと微笑みかけた。

そのやつれて、ボロボロになった少女の精一杯の笑顔に、ジャックは発しかけていた言葉を無理矢理に飲み込んだ。

そしてしばらく沈黙してから口を開く。


「……君が、行くんだな」

「ええ。現在、管理権限を持っているのは私だけ。アリスは危険な状態よ。あいつらをここに、これ以上近づけるわけにはいかないわ。ジャックさんは、どうか……アリスを守ってあげて」

「帰ってこれるのか……?」


ジャックが僅かに掠れた声で問いかける。

イベリスは、また微笑んで小さく頷いた。


「……そのつもりよ」



鼻歌を歌いながらハッタが足を踏み出す。

同時に奇声を上げて笑いながら、ヘイヤも足を踏み出す。

その足が同時に地面を叩く。


彼らの背後がゆっくりと塵になり消えていく。

一歩。

また一歩とゆっくりシェルターに近づいていく。


しかし、途中で二人は同時に足を止めた。

少し離れた、前の空間が揺らぎ、蜃気楼のようにぶれた少女が一人、姿を現したのだ。

病院服から伸びた両足と右腕は、虹色の半透明に明滅するバンダースナッチで構成されていた。


イベリスは二体のナイトメアを見て、呆れたように小さく呟いた。


「……またセットの醜男か……」

「ええーと……君は……」


赤い服のハッタが口を開く。

そして隣で爆笑し続けている青い服のヘイヤを無視して、懐から小さなメモ帳を取り出した。

それをめくり、複数の写真が貼り付けてあるところで止める。


「んん……んんんん~?」


確認するようにメモ帳とイベリスの間を何度か視線を往復させ、彼は続けた。


「イベリスさんかネ?」

「…………」

「ああ、ああ! いやいや、答えなくてもいい。イベリスさんだネェ。ルイス様が、取るに足らないゴミの一つだと仰ってはいたけれど……」


彼は、醜い顔を歪めて、目を細めてイベリスを舐め回すように見た。


「……何か様子がおかしい。おかしいねェ……」

「キャハハハハハハハハ!」


笑っているヘイヤをよそに、ハッタは顎に手を当てて考え込んだ。


「今の現れ方は、明らかにおかしい……セブンスの能力じゃないねェ。じゃあ何か」

「…………」


風に吹かれれば倒れてしまいそうな細い体で、イベリスは砂漠の砂を踏みしめた。


「……会話をするつもりはないわ。かかってきたら?」


挑発するようにそう言った彼女に、ハッタはゆっくりと頷いてみせた。


「承知した。では、そうさせていただこう」


ハッタとヘイヤは、何事もなかったかのように、行軍を再開した。

消えていく背後の「空間」を見て、イベリスは強く歯を噛み締めた。

その足のバンダースナッチの一部が、金切り声を上げて噴出する。

それらは光の濁流のようになり、ハッタとヘイヤに覆いかぶさった。


「……ただのバンダースナッチではないネェ……」


ハッタはそう言って、ヘイヤと手を繋いだ。

そして殺到する揺らぎの光に向けて、二人同時にパチン、と指を鳴らす。


途端。


ズン、と音がして、殺到していたバンダースナッチが何か、強大な力に押し止められた。

ハッタとヘイヤの眼前からも、同じような黒い揺らいだ光が噴出していた。


「お嬢さん、最強の槍と、最強の盾の話は知っているかなァ?」


ハッタが厭らしい顔でニヤァと笑う。

イベリスは、揺らぎの力に全集中しているのか、歯を噛み締めたまま答えなかった。


「絶対に盾を貫く力と、絶対にすべてを防ぐ力……それが衝突するとねェ……こうなるんだよォ……」


黒い光と、白いイベリスのバンダースナッチの衝突部がチカチカと異様な色に明滅を始めた。

それは色……ではなかった。

データが欠損した、ノイズ。

そこにあるすべての空間が破裂しそうに圧縮と膨張を繰り返している。


次の瞬間。

二つの力の衝突部が、轟音を上げて爆裂した。


完全に意識外からの攻撃だった。

バンダースナッチでさえも対応できない、突然の奇襲。


イベリスは脳を揺らす強烈な打撃に、悲鳴を上げて、受け身もとれずに地面に叩きつけられた。

そしてゴロゴロと砂漠を転がる。


「あ……が……っ」


衝撃が強すぎて、状況を理解できない。

目の前が真っ赤に明滅し、視界がグラグラと揺れていた。

立とうと考えることも出来ない。


殴られた瞬間に舌を噛んだらしく、口の中に血の味が広がった。

バンダースナッチで緩和することもできなかったら強烈な打撃は、イベリスを一撃で戦闘不能にまで追い込むに値する威力だった。


起き上がることが出来ず、それどころか意識を保つことさえも出来ず、イベリスの目の焦点が点滅していく。


何が起きた、と考えるより先に動かなくてはいけない。

それは分かっている。

分かっているが、致命的すぎる一撃だった。


必死に横目で自分を殴った対象を見ようとする。

黒いスーツ。

巨躯の男。

そして、ライオンの頭。


目を赤く光らせたナイトメアが、どこから出現したのか、そこに立っていた。

イベリスのバンダースナッチが、そこでやっと反応し、倒れ込んで動けない彼女を守るように周囲に広がった。

そして渦を描いて迎撃体制を取る。


黒いスーツのナイトメア……ジャバウォックは、首の骨をコキコキと鳴らすと、数歩近づいて来てイベリスを見下ろした。


「……意識外の攻撃にバンダースナッチは対応しない。前にハンプティがそう言っていたな。確かに、有効だ」

「が……う……」


小さく呻いて、イベリスは体を震わせながら、上半身を起こした。

目の前が揺れている。

自分をジャバウォックが見下ろしているのは分かるが、攻撃をすることが出来ない。

そこまで意識が回らないのだ。


「完全に脳を捉えている。さっきので死ななかったのなら、強烈な脳震盪で思考するのも困難なはずだ。ルイス様の命令により、お前を殺しに来た」

「…………」


何とか立ち上がろうとして、イベリスはまた地面に崩れ落ちた。

バンダースナッチが所在なさげにゆらゆらと立ち上っている。

消去権限を付与することも出来ない。

それさえも思いつかないほど、致命的な攻撃だったのだ。


つまり今、イベリスは完全に無防備な状態だった。


「聞こえているなら質問をしよう。答えることが出来れば、苦しまずに一撃で葬ってやる」


ジャバウォックはそう言って、イベリスの脇にしゃがみこんだ。

そして囁くように問いかける。


「……アリスはどこだ? 別にお前が答えなくても、俺はこれからあのシェルターに入り、すべてを破壊しながらアリスを探す。手間を省きたいだけなんだ。なぁ……分かるだろう?」

「…………」


ゼェ、ゼェ、と息をしながら、イベリスは砂を掴んだ。

逃げなければ。


(逃げろ)


その一点のみにすべての意識を集中する。

彼女の足のバンダースナッチが動き、伸縮して空中に飛び上がった。

シェルターと反対側に跳んだ彼女を見上げ、ジャバウォックは砂を払って立ち上がった。


その体が蜃気楼のように歪んで消える。

そして空中のイベリス、その背後に出現する。

イベリスとバンダースナッチが察知するより早く。


ジャバウォックはイベリスの頬に、もう一撃拳を叩き込んだ。

小さな少女が弾丸のように吹き飛んでいき、眼下の砂漠に突き刺さる。


またジャバウォックの姿が消え……。

彼は、気絶したイベリスを何者かが抱えているのを見て足を止めた。


「へえ……?」


ジャックが、グッタリと脱力したイベリスを抱えて、兜の奥の瞳を爛々と光らせてジャバウォックを睨んでいたのだった。


「悪魔め……!」


ジャックはイベリスを抱いた手と逆の手に、折れたダーインスレイブを持っていた。


「子供の……女の子の顔を……!」

「おいおい……ホワイトナイト……」


呆れたように肩をすくめて、ジャバウォックは続けた。


「既に知っていると思っていたが……『それ』は人間ではない。『俺達』と同じ、データのバグの一つだ。子供も、顔もへったくれもない、。殺らなければ殺られる。それだけだろ?」

「…………」


ジャックは、バンダースナッチも完全に消えたイベリスを、そっと岩陰に横たえると押し殺した声で答えた。


「だからといって……」

「…………」

「だからといって、すべてが赦されるわけではない!」


ジャックは激高して、ダーインスレイブを下段に構えた。


「だからといって侵害していいわけがない! だからといって、犯していいわけではない! 傷つけ、踏みにじり、唾を吐きかけていい訳がない!」

「…………」

「この子達も……私も、お前だって、生きているんだ!」

「生きて……?」


キョトンとした顔でそれに返し、ジャバウォックは次の瞬間、けたたましい声で笑い始めた。

そしておかしくてたまらないという顔で太ももを叩く。

その顔がスッ、と真顔に戻った。


数秒、静かな風が二人の間に流れた。

そしてジャバウォックは、歯を噛んでから怒鳴った。


「データの何が生きていると言うのだ! 何のために生み出され、何処に存在意義があるというのだ! この感情も、怒りも、苦しみも、何もかもがプログラムされた偽物だ! 偽物の寄せ集めで造られた俺達が生きている……? 笑わせるな!」

「それでも!」


ジャックも負けじと張り裂けんばかりに声をぶつけた。


「私達は、生きているんだ!」


「話にならん!」


ジャバウォックは咆哮すると、ジャックに向けて腰を落とし、構えを作った。


「ならば証明してみせろ! 俺を納得させてみせろ! 俺が生きている証明を、俺に与えてみせろ! その、折れた剣で! ホワイトナイト!」


必死の慟哭だった。

ジャックはダーインスレイブを下段に構えながら、ジリ……と足を踏みしめた。


イベリスを連れて、一度逃走することも出来た。

抱いた彼女の心音が、殆ど聞こえなかったのだ。

守らなければいけない。


しかし。


この「男」を前に、背を向けることが出来なかった。

否。

逃げてはならない。

ジャックの中の何かがそう叫んでいた。


今ここで逃げたら、誰も救われない。

自分も、イベリスも。

そして、このナイトメアも。


誰も幸福になれない。

アリスでさえも。

犠牲になったラフィでさえも。

フィルレインも。

その全てが無駄になる。

その全てがゼロになってしまう。


それだけは。

それだけはできない。

それだけは許されない。


許してはならないのだ。


ジャックは雄叫びを上げて地面を蹴った。

ジャバウォックもそれに応えるように絶哮して走り出す。


ジャックがダーインスレイブを大きく振る。

ザンッ、と空気が裂けて砂漠に断裂面が走った。

姿がかき消えたジャバウォックが、斬撃を避けてジャックの背後に出現する。


裏拳の要領で繰り出した彼の拳が、正確にジャックの兜を捉えた。

嫌な金属がひしゃげる音が響き渡り、ジャックがもんどり打って地面に叩きつけられた。


しかし彼は、何事もなかったかのように受け身を取り、振り返りざまにダーインスレイブを振るった。

また斬撃が飛ぶ。

黒い血液が舞った。


地面をそのまま転がり、ジャックは跳ね起きた。

ジャバウォックは立ち尽くしていた。

そのスーツの胸の部分が大きく斬れ、めくれている。

そこからボダボダと抉れた傷口が黒い血液を吐き出していた。


すんでのところで避けていたらしい。

もうもうと立ち込める砂煙の中、ジャバウォックは押し殺した声で言った。


「……何故手加減をする……?」

「…………」


ジャックは黙ってまた下段にダーインスレイブを構えた。


「何故だ! 手加減を! この俺にするのか!」

「違う!」


ジャックも負けじと、叫んだジャバウォックに向けて怒鳴った。


「私達は、覚めなければいけないんだ。この悪夢から! もう二度と、悪夢を見ないように、見せないように! 守りたいものを、自分の手で今度こそ守るために! 笑って……笑って生きるために!」

「出来るわけがない!」


ジャバウォックが絶叫してジャックに躍りかかる。

その姿が消え、今度は真正面に彼が出現した。

両手の爪をナイフのように伸ばして掴みかかろうとしたジャバウォックを、ジャックはダーインスレイブで押し返した。


数秒、鍔迫り合いのような形になる。

全力で相手を押しながら、二人の男は叫び合った。


「これが現実だ! データとなった、ダストとなった俺達が現実だ! 俺達には何もない! 過去も、現在も! 未来も! 何もない! だから壊すのだ! だから犯すのだ! それの何が悪い!」

「その苦しみが生きていることの証だ!」


ジャックはダーインスレイブを大きく振り上げた。

腕を弾かれたジャバウォックの胴ががら空きになる。


「その恐怖も、絶望も! 生きているからこそのものだ! お前は……」


大上段から雄叫びを上げ、ジャックはダーインスレイブを全力で振り降ろした。


「間違っている!」


空気が断裂した。

次の瞬間、数百メートルも先まで砂漠が二つに割れた。

クレバスのようになったところに、砂が滝のように流入し始める。


逃げ切れなかったのか、左腕を吹き飛ばされたジャバウォックが、もはや声にならない咆哮をして、右手でジャックに殴りかかった。

それがまた兜を正確に捉えて、ひしゃげさせる。


再生した左腕がジャックの胴体を殴りつける。

白い鎧がベッコリと歪んだ。

悲鳴のような慟哭を上げながら、獅子頭の化け物はジャックを殴打した。


「何が……俺の! 何が! 何が! 間違っているというのだ! 俺は……俺は!」


ジャックの胴体を捉えた拳が、巨大な鎧を浮き上がらせる。

体を反転させて、ジャバウォックは足をジャックに叩き込んだ。

砂漠に崩れ落ちたジャックを見下ろし、ジャバウォックは怒りに燃える目で拳を振り上げ……。


『ねえ、あなたはどこが魔獣なの?』


無邪気な笑顔でそう問いかける「少女」の声が、何処からか聞こえた気がして、ハッ、と動きを止めた。


『こんなに優しいのに。私、ジャバウォックのこと大好きだよ』

「やめろぉ!」


ジャバウォックは頭を抱えて、天に向けて絶叫した。


「やめろ! やめろ! やめろ! やめろ!」


頭をブンブンと振り、幻覚から逃げ出すように、それを追い出すかのように彼は悲鳴を上げた。


「俺は……俺はぁ……」


語尾が掠れて消えた。

それはもはや泣き声だった。

声を震わせ、恐怖し、体を震わせてジャバウォックは耳を塞いだ。


ジャックはしばらくの間、呆然として、恐慌するジャバウォックを見ていたが、やがて地面を踏みしめて立ち上がった。

そしてザン、と折れたダーインスレイブを砂漠に突き刺す。


一歩。

また一歩。


ジャックはジャバウォックに近づいた。

かつて恐れた敵。

かつて逃げ回るだけだった対象。

そう、「敵」……。


ジャックは右拳を握りしめ……。

ジャバウォックの胸ぐらを掴み上げ、その頬に全力の拳を叩き込んだ。



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