表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/13

第11話 ユニコーン

巡回から戻ってきたラフィは、アリスの発した言葉に目を丸くし、しばらくの間固まっていた。

そして唾を飲み込み、噛み砕くように言う。


「……『外』と、連絡を取りたい。そう言ったね?」

「ええ。私達だけの力で、この状況を収束させるのは、多分もう無理……だからよ」

「でも……」

「冷静になって考えて。どうしてルイスがこの中にいるのか」


問いかけられ、ラフィは息を呑んだ。


「……もしかして、何かから逃げてきた……?」

「そう。私はあいつと話をしてそう感じたわ」


ジャックに抱かれた姿勢で、膝を引き寄せてアリスは掠れた声で続けた。


「現実世界で何かあったのよ。だからルイスはこのM.O.R.S内に逃げ込んできた。そう考えれば繋がらない? 今まで外部から神を気取って干渉していたヤツが、いきなり目の前に現れるのは、いくらなんでも不自然すぎる」

「でも、何かって何が……」


そこで静かにジャックが口を挟んだ。


「恐らく、ルイスという男は、現実から意識をこちらに落としている。落とさざるを得なくなったのかもしれない」

「落とさざるを得なくなった……?」


ラフィは考え込み、そしてハッとした。

彼の顔を見て、アリスはそっと言った。


「話してもらうわ、ラフィ。あなたは、私達に隠していることがある」

「…………」


ラフィはだいぶ長いこと沈黙していた。

そして彼は息をつき、その場に座った。


「……あなたはこのM.O.R.Sの管理システム。この中で生み出されたプログラム。そうよね?」

「……そうだよ。そして僕は、一人の女の子の『治療』をしていた」

「…………」

「それが君だ。アリス」


淡々と、ラフィは続けた。


「M.O.R.S.というシステムの仕組みを、簡単に説明しよう。このシステムは、人の心を癒やすことを目的として開発された。ただ、心の傷……つまり、記憶に食い込んだ『膿』のような現実を、魔法のように消し去ることは、それは出来ない。所詮システムだ。記憶だって、切除してもデータとしてその場に留まり続ける」

「…………」


静かに聞いているアリスを、ラフィは猫の丸い目でじっと見つめた。


「人の記憶は膨大なデータだ。一瞬のものでも、膨大な記録領域を取る。つまり、人間の脳は超巨大な物理メモリーなんだ。M.O.R.Sはそのデータを操作するシステムだ」

「データを……操作?」


ジャックが口を開くと、ラフィは彼を見上げて頷いた。


「現実で修復不可能な心の傷を負った患者の意識を、すべてM.O.R.Sというデータ空間の中にアップロードを行う。そこで、M.O.R.Sの物理メモリーの中に、患者の心の傷となっている記憶を、時間をかけて移すんだ。一気にそれをやるとショックや障害を引き起こす。だからゆっくり、ゆっくりと。そして僕のような支援システムが、切除された患者の心に、別の記憶を植え込む。それを『治療』と、呼んでいた」

「それは……」

「ジャック、君の言いたいことは分かる。でも、『君達』は現実で修復不能な心の傷を負い、ここに入ることを選択した。自分の意志で。ジャックも、その一人だ」

「待ってくれ。私には妻と娘が……」

「…………」


ラフィは少し押し黙った後、口を開いた。


「患者番号三百四十五番。検索したら情報を閲覧できた。ジャック、君のことだ」

「三百……四十五番……?」


そこでジャックは、ルイスが自分のことをそう呼んでいたのを思い出した。


「現実の君は、交通事故で奥さんと娘さんを亡くしている。おそらく、M.O.R.Sに異常が起きた時に、記憶が逆流したんだ。それで思い出してしまったんだろう」

「…………」


残酷な事実をあっさりと告げられ、ジャックは沈黙した。

黙り込んだ彼の腕を、アリスがぎゅ、と強く掴む。


「ジャックさん」

「……大丈夫だ。ラフィ、続けてくれ」

「……分かった」


ラフィは頷いて二人を見上げた。


「この中はもともと、ワンダーランドだったんだ。不思議の国のアリス、という小説がある。僕らはその登場人物を模してプログラムされた。元々、全員普通の支援システムだった。だが、アリス。君が……いや、『アーキアリス』に、ある日異変が起きたんだ」

「異変……?」


怪訝そうにアリスが問いかけると、ラフィは俯いて続けた。


「今考えると、ルイスによる操作だったのだと思う。アーキアリスは、特に重症な子だった。僕ですら、彼女を完全に癒やすことはできなかったから……そんな中、彼女にリアルの記憶が逆流し始めたんだ」

「…………」


アリスが軽い頭痛を覚えて頭を抑える。


「そして、アーキアリスはその記憶に耐えきれずに死を選んだ。このM.O.R.Sの中で、首を吊って自殺したんだ」

「そんな……」


絶句したアリスに、ラフィは静かに続けた。


「それをトリガーに、このワンダーランドは狂い始めた。M.O.R.S内に保存されていた、患者達の心の傷……負の感情、憎悪……そういった記憶が、僕達支援システムやこの世界そのものを汚染し始めたんだ」

「…………」


言葉を失っている二人を、ラフィは顔を上げて見た。


「僕は幸い汚染を免れたのだけど、アーキアリスの血肉を取り込んだジャバウォックにデータをほぼ破壊されてしまった。近くにいた猫のプログラムに意識を移し替えるのが精一杯だった」

「アーキアリスの……血肉を……?」

「そう。支援プログラムは、そうして『ナイトメア』になったんだ」


ラフィは息をついて続けた。


「勿論、汚染は全てアーキアリスのせいじゃない。彼女が自殺をする前から、ワンダーランドは狂い始めていた。アーキアリスの自殺が明確なトリガーであることは間違いないけど……そして、僕達支援システムの中に、『アポカリクファ』というモノが流し込まれた」

「アポカリクファ……」

「それは、M.O.R.S内の人間の意識、すべてを抹殺するための干渉ウイルスだったんだ。瞬く間にワンダーランド中にアポカリクファは広がり始めた。そう……『アポカリクファの終焉』というのは、M.O.R.S内の人間が一人もいなくなり、ナイトメアもこの世界もウィルスごと死滅して、何も無くなることを言うんだ」


アリスはしばらく押し黙っていたが、やがて静かにラフィに問いかけた。


「そのウィルスをM.O.R.Sに流し込んだのは、ルイスね」

「ルイス・キャロルと名乗っているが本名は違う。本当の名前は、シャルロ・マーヴェルス。このM.O.R.Sの開発者だ」

「え……?」


ジャックが唖然として声を発する。


「何故だ? 何故、このシステムの開発者がこんなことをするんだ?」

「……分からない」


ラフィはゆっくりと首を振った。


「信じてくれ。本当に、僕にも分からないんだ。ルイス……シャルロ・マーヴェルスが、自分が作り出したこのM.O.R.Sを地獄にしてまで、何をしたいのかを……」

「だからあなたは、『私達』を……アリスシリーズを複製し続けた。地獄を終わらせる事ができる力を求めて……」

「…………」


アリスに言われ、ラフィはしばらくの間沈黙していた。

そして何とも言えない、やるせなさそうな悲しそうな目でアリスを真っ直ぐに見た。


「少し違う……」

「…………」

「汚染を免れた僕は、アーキアリスを救うことも出来ずに生き残ってしまった。管理権限も殆ど失ってしまってね。力が欲しかったのは確かだ。でも……それ以上に……」


ラフィの腕が震えていた。

彼は目に涙を貯めながら、掠れた声で言った。


「もう一度、『あの子』に会いたかった……!」


アリスはそれを聞いて、歯を強く噛んで立ち上がった。

点滴台が激しい音を立てて倒れる。


「そのエゴのせいで……私達は……!」

「…………」

「一体何人の私達を複製して、死なせて……自分だけのうのうと生きて……生き残って! 何も知らないフリをして、よくも……!」


激高したアリスの体から虹色の揺らぎが立ち昇る。

しかし、彼女はそっと手を握られて、ハッ、と我に返った。

背後のジャックが手を伸ばし、アリスの手を包み込んでいたのだった。


「アリス。冷静になろう」

「皆様……何の話をされているんですか……?」


そこで、音で起きてしまったのか、フィルレインが不安そうな声を発して駆け寄ってきた。

そして拳を握りしめてラフィを睨んでいるアリスを見る。


「アリス様……?」

「フィルレイン、いいんだ。アリスは悪くない」


ラフィはそう言って、アリス達を見上げた。


「……これは、僕の贖罪でもある。決心したよ。君のために、『外』にアクセスをしよう。シャルロ・マーヴェルスの『本体』を現実世界の人に、捕まえてもらうんだ」



薄暗い廊下を、ジャバウォックは歩いていた。

地下道のようなそこは、黒い水滴が時折天井からポタポタと垂れている。

切れかけた電球が、電線の各所に取り付けられて奇妙にブレた音を立てていた。


しばらく歩いて、ジャバウォックは足を止めた。

そして振り返らずに口を開く。


「……いつまでついてくるつもりだ?」

「いけないな、抜け駆けは」


柔らかい青年の声がした。

いつの間にか、ジャバウォックの背後……少し離れた場所に馬の頭をした、スラリとした長身の男性が立っていた。

白いスーツを着ている。

馬の頭は、透き通るように真っ白だ。

そしてその眉間には、鋭い角が一本光っていた。


ジャバウォックは振り返り、馬頭の化け物……ユニコーンの真っ黒い瞳を見た。

そして重苦しい声で言う。


「抜け駆け……?」

「先にアリスと戦いに行こうとしているだろう? そういうのはいけない。とてもいけないことだ。物事には順序がある。そして順番がある……分かるね?」

「…………」


黙り込んだジャバウォックに近づき、ユニコーンはポンポン、と彼の肩を叩いた。


「ルイス様は次に僕を指名してくださったじゃないか。だから次にアリスと戦うのは、僕の番だよ」

「そうか……」


ジャバウォックは息を小さく吐いた。

次の瞬間、彼の眼球が赤く染まった。

そしてユニコーンが反応も出来ない速度で体を捻り、裏拳の容量で彼を殴りつけた。


拳圧で、衝撃波が発生した。

空気が破裂する音が遅れて聞こえ……。

気づいた時には、ユニコーンは首を妙な方向に曲げながら、弾丸のように通路の奥まで吹き飛んで行った。


ジャバウォックが腕を振るった時に発生した衝撃波が壁をドリルのように抉り、瓦礫と土煙を巻き上げる。

遅れて通路の向こう側が、爆弾を炸裂させたかのように轟音を立てて爆発した。

その風を真正面から浴びながら、彼は足を踏み出そうとし……。


「だから待ちなって」


軽い調子で背後から声をかけられ、動きを止めた。

ジャバウォックの首には、鋭く光る銀色の剣……その刃が突きつけられていた。

彼は横目でそれを見て黙り込んだ。


逆流した風が体を叩きつける中、先程吹き飛んだはずのユニコーンは悠々と立ち、右手に持ったサーベルの腹でトントンとジャバウォックの肩を叩いた。


「次に行くのは、僕だと言っているんだよ?」

「…………」

「君ではアリスには勝てないよ。公爵夫人の圧倒的な暴力も及ばなかったんだろう? じゃあ僕の番だ。もう一度言うよ……?」


ジャバウォックの耳に口を近づけ、ユニコーンは舐めるように言った。


「抜け駆けはいけないなぁ……」


ギリ……と歯を噛み締め、ジャバウォックが振り返る。

しかし背後には、既にユニコーンの姿はなかった。


舌打ちをして、彼はスーツのポケットに手を突っ込もうとして……先程ユニコーンが突き出したサーベルが掠ったのか、頬が切れて黒い血液が流れ出しているのを触った。

そして指先で、黒い血をしばらく見つめ、きびすを返して、もと来た道を戻り始める。

ガラガラ……と通路の壁が崩れる音が、暗い空間に反響した。



暗いシェルターの地下道を、ライトの光を頼りに歩きながら、フィルレインは心細げな声を発した。


「アクセスポイント……? そんなものがシェルターの地下に、本当にあるんですか?」


暗闇を真っすぐ歩きながら、ラフィが振り返らずに答える。


「この世界には、元々シェルターなんて構造物はなかったんだ。腐った森も、砂漠も、すべて『存在していなかった』……ある一定時期を境界にして、元々存在していたものと入れ替わっていった。君達、M.O.R.Sの患者の記憶も、少しずつ書き換えられていったんだ。『アポカリクファウィルス』にね」

「…………」


黙り込んだフィルレインが小さく震えていた。

アリスが、彼女の手をぎゅ、と強く握る。


「でも、根本は変わっていない筈だ。シェルターを元にしている構造物は、僕達支援システムが使っていた、データセンターだと思う。なら、地下に外部と連絡を取ることができるアクセスポイントが存在している」

「……どうしてそれを今まで黙っていたんだ?」


ジャックが押し殺した声で問いかける。

ラフィは少し沈黙してから、彼を横目で見上げた。


「……危険だったからだよ。アクセスポイントを使って外部に情報を送ったら、確実にシャルロに抜き取られてしまう。SOSは届かない。だから言い出すことが出来なかった。それに……」


ラフィは一瞬口をつぐんでから、アリスの方を見た。


「出る前に説明した通り、僕の現在の管理権限で可能なのは、『外部に情報を送ること』それだけだ。受信はできない。だから、情報を送ることでこのM.O.R.Sに何が起こるか、正直全く分からない。ただ……シャルロがこちら側にいるのなら、誰かしらにアクセスすることは、今は可能だと思う」

「…………」


アリスはそこまで聞いて、足を止めたラフィの後ろで、フィルレインに支えられながら立ち止まった。

そして地下道の突き当りに不自然に鉄製の扉があるのを見る。

鍵穴はどこにもなく、錆が広がったそれは牢屋を連想させ、明らかに異質だった。


「ここだね」


ラフィはそう言って、鉄扉に猫の手を当てた。

ピピッ、と電子音がして、ざらついた機械音声が扉から鳴る。


「管理権限、二十五番を確認しました。プログラムの整合性確認。照合を行います」

「誰かが……喋ってる……?」


フィルレインが怯えたように言うと、ラフィは静かに返した。


「管理システムの補助AIだよ。生きてはいないけど、まだ動作はしているようだ」

「照合完了。サポートシステム、コード20056と確認。操作をお願いします」

「すべての内的ロックを解除。現在M.O.R.Sに接続している端末に、圧縮したデータを送りたい」

「少々お待ち下さい」


ガガ……ザザザ……と砂嵐のような音の後に、管理システムは言った。


「接続されている端末で、現在アクティブなラインを発見しました。アクセスを求めています」

「アクセスを……求めている?」


ジャックが不思議そうに言うと、ラフィは頷いて続けた。


「やはり『外』で何かがあったようだね。外部からこちらの情報を得ようとしてる」

「ど……どうするんですか?」


フィルレインが引きつった声で言うと、ラフィの体が白く光り始めた。


「僕自身の構成情報をすべて転送データに置き換えて、『外』に行く。これで、外から君達をサポートすることができるようになると思う」

「待ってください……!」


フィルレインがそこで声を上げた。


「それって……それってもしかして……」

「ああ。ここでお別れだ。僕はここで、『僕』という存在を置き換えて、情報の断片として自分を外部メモリーに書き込む。みんなとは、以降、この世界で会うことはないだろう」

「ラフィ……」


言葉を失ったフィルレインの脇で、ジャックが何かを言いかけて口をつぐむ。

アリスは次第に光を強めていくラフィを見て、足を一歩踏み出した。

そして手を伸ばし、そっとラフィの頬を撫でる。


「……アリス……?」


不思議そうにそう言ったラフィに、アリスは口を開いた。


「私は、あなたの望むアリスではないけれど」

「…………」

「怒ったりしてごめん。あなたは、いつだって私の傍にいてくれた。どれだけ苦しかったか、私には分からないけれど。あなたの望むアリスとして言うわ」

「…………」

「行ってらっしゃい」


ラフィの猫の瞳から、ツゥ……と涙が流れた。

彼はアリスを見上げ、口を開き……。


瞬間、アリスの眼前で、黒い鮮血が散った。



何が起こったのか、アリスは瞬時に判断が出来なかった。

『食事』を摂れていないことによる水分、固形物の欠乏。

それによる憔悴。

そして公爵夫人に叩き込まれた恐怖が、彼女を心身ともに疲弊させていたからだった。


だから彼女は、目の前でラフィが胴体から、何か鋭利な刃物で両断され、血を撒き散らしながらドチャリと地面に崩れ落ちた「現実」を、瞬時に理解ができなかった。


それはジャックも同じであり。

しかし「攻撃」があった、と判断した彼の動きが一瞬早かった。

ジャックは何が起こったのかを判断する前に、反射的にダーインスレイブを抜き放ち、繰り出された「斬撃」を剣で受け止めた。


一合。

二合。

三合。

四合。


青白い光が、ダーインスレイブにより受け止められ、弾ける。

呼吸を二度するだけの短い時間。

ジャックは雄叫びを上げて、ダーインスレイブを横凪ぎに大きく振るった。

また青白い光が発生して、ダーインスレイブの斬撃が光と共に止められる。


そこでやっと、アリスの意識が現実に追いついた。

致命的な隙だった。

それは、あってはならない動揺だった。


「ラフィ!」


アリスが絶叫する。

その首に白い斬撃が迫り……。

ジャックがダーインスレイブを繰り出すより疾く、アリスの首が両断される寸前。


アリスの目に、フィルレインが自分を突き飛ばすのが見えた。


血しぶきがアリスの顔面を叩いた。

見開いた左目に、肩から腰まで、何かにより真っ二つに両断されたフィルレインが倒れ、崩れていくのが見える。


見える。


アリスはその現実を前に、停止した。

動くことが出来なかった。

考えることが出来なかった。

これが本当に起こったことだと、認識をすることを彼女のすべてが拒んでいた。


一合。

二合。

三合。


フィルレインがゴミのように崩れるより疾く、白い光のような斬撃が、立ち呆けるアリスを襲う。

バンダースナッチを出すことも、反応させることさえも出来なかった。


どちゃぁ、と汚らしい音を立てて、内蔵と血液をぶちまけながらフィルレインが地面に倒れ伏す。

アリスに向けられた斬撃をダーインスレイブで受け止めながら、ジャックはかろうじてその奇襲に対応していた。


何かがいる。

フィルレインが持っていたライトが転がり、明かりの死角となっている暗がりに、「何か」が存在している。

それは肌を焼くのではないかと錯覚するほどの鋭い殺気を放っていた。


ジャックが繰り出される鋭い光のような斬撃を受け止めることが出来たのは、その「殺気」が感覚となって、ダイレクトに襲ってくるのを体全体で感じていたからだった。

子供なら失神していてもおかしくない程の、「何か」が発する圧倒的な意思。


殺意。


それは奇しくも、アリスが操るバンダースナッチの憎悪と似たものであり。

繰り出される速度は、アリスのそれを凌駕していた。


四合。

五合。

六合。


ジャックが暗闇の中ダーインスレイブを振り回し、何者かの斬撃からアリスを守る。

横目でアリスの状態を確認することもできない。


ラフィが殺られたのか?

フィルレインが一瞬、アリスを突き飛ばすのが見えた。

彼女は無事なのか?


それさえも確認出来ない。

疾すぎる。

ジャックがナイトメアではなかったら、到底太刀打ちできる速度ではなかった。


人間が一呼吸する間に、光のような速度で三回以上もの「突き」が飛んでくる。

おそらく打突武器。

レイピアのようなものだと思われる。

しかしそれを深く思考する暇もなかった。


時間にしてほんの数秒ほどの……しかし永遠に思える猛攻の中、ジャックは意識を、アリスを守ることそれ一点に集中した。

それ以外のことを考える余裕はなかった。

暗くて何も見えない。

打突される相手の剣とダーインスレイブが打ち合う度に、凄まじい振動と火花が散った。


どちゃり、と音がした。


肉が倒れる音だった。

何かが吹き出し、溢れる音だった。

斬撃を受け止めることに全集中していたジャックの胸に、ヒヤァ……と悪寒が走る。


「どうした! アリス! フィルレイン!」


時間にして、ラフィが斬られてからおよそ十秒程しか経っていない。

息をつく暇もなく繰り出される打突を受けながら、ジャックはそう叫ぶのが精一杯だった。



ライトが落ちた。

そして呆然とした表情で、フィルレインが奇妙な形にひしゃげた。

突き飛ばされたアリスが、肉塊となって地面に血肉をぶちまけて倒れたフィルレインを前に、ぺたり、と無力な少女のように力なく尻餅をつく。


「……………………」


言葉もなかった。

耳鳴りがする。

とても強い耳鳴りだった。

彼女は口を半開きにしながら、息をすることさえ忘れていた。


何かが聞こえる。

ジャックさんが戦っているのだろうか。


ラフィは?

フィルレインは?


遅れて思考が現実に追いつく。

頬を伝って、何かが唇の上に垂れた。

それが半開きの口の中に入り込む。

血の味がした。


視界が暗く明滅する。

現実を目の当たりにしたショックがあまりにも強く、アリスの思考はねじ切れかけていた。

バンダースナッチの存在さえも忘れていた。


右手に何かが当たる。

ぐちゃぁ……という粘性の黒い血液が糸を引く。

胴体から半分に断ち切られた黒猫……ラフィが崩れ落ちていた。


正面を見る。

ガクガクと体が震えた。


「……………………え?」


ジャックがやっと、「何者か」の打突の速度に追いつき、押し返し始めたところで、アリスは初めて掠れた声を発した。


「ラフィ……?」

「…………」


ライトに照らされた黒猫は、動かなかった。


「……………………フィル……?」


フィルレインは、即死していなかった。

それがアリスを無理やり現実に引き戻した。


「フィル!」


喉が破れんばかりに絶叫して、アリスは転がるようにフィルレインに駆け寄った。

肩から二つに両断されてしまった彼女は、アリスを見て、体を痙攣させながら引きつった笑みを向けた。


「ア……リス様……よか……た……」

「フィル……? え……フィ、フィル……」


アリスが狼狽しながらフィルレインの傷口を手で抑えようとする。


「ラ、ラフィも……あそこで……あそこで倒れて……」


現実だった。

内臓の臭いも、感触も。

次第に温かさを失っていくフィルレインの体も。


何もかもが現実だった。


フィルレインはアリスに崩れた上半身を抱かれながら、ゲボッ、と血の塊を吐いた。

そして微笑みながら、小さく消えそうな声で、囁くように言った。


「アリ……ス様。わ、私を……食べ……た、食べて……く、ください……」

「……な……に……?」


ブルブル震えながら、アリスはフィルレインを強く抱きしめた。


「はや……く……」

「医療の人に……はやく診てもらわなきゃ……はやく……はやく!」

「ちがい……ます」


フィルレインは力を失った右手をゆっくりと上げ、アリスの頬を撫でた。


「わた……しは、アリ、ス様の……一部に、なりたい……」

「………………」


ヒクッ、とアリスの喉から情けない音がした。

アリスは、絶望していた。

硬直した顔のまま、大粒の涙を流していた。

それを手で拭い、フィルレインはそっと、アリスの口に、自分の口を重ねた。


死。


その一文字が目の前にあった。

なくなった。

フィルレインを構成していたものは崩れ、大事な何かが消えたのが分かった。


力を失って、その肉塊が崩れる。

アリスはフィルレインの血液でべっとりと濡れた顔で、両手の中で零れ落ちそうな亡骸を見ていた。


死臭がした。


ああ、そうか。

アリスはそこでやっと気がついた。

やっと、彼女は現実を理解した。


理解してしまった。


ラフィとフィルレインは、死んだ。

死んだんだ。

死んでしまったんだ。


守ることも出来ずに。

庇うことさえできずに。

二人は居なくなった。

消えた。

無くなった。


それはつまり。

「死んだ」と。

そういうことなんだ。


虚脱したアリスの手から、抱きしめていたフィルレインの断片がグチャリ、と地面に落ちる。


アリスは暗闇の中、天を仰いでいた。

残った左目を閉じて、ただただ虚脱していた。


顔面にぶちまけられた、フィルレインが最期の瞬間に吐血した血液が唇を伝って口内に侵入する。

ゴクリ、と喉を鳴らしてアリスはそれを受け入れた。


その瞬間、アリスの中で「何か」が切れた。



また数合刃を交え、ジャックは前に足を進めた。

確実にアリスとは逆方向に、「敵」を押し戻している。

今までの攻撃範囲から見るに、自分のダーインスレイブとほぼ同等。

ゆえにおそらく、これだけ離れれば、瞬時にアリスに攻撃が行くことはない。


そう判断し、ジャックは問いかけが返ってこない背後を振り返らず、ダーインスレイブを下段に構えた。

そして前方にすべての意識を集中する。


今、自分がやらねばならないこと。

それは、何よりも。

目の前の「敵」を殺すことだ。


思考の焦点を無理矢理にそれに合わせる。

暗闇に少しずつ目が慣れてきていた。

ダーインスレイブの間合いの外。

そのギリギリのラインに、白い服を着た人影があった。

右手で細身の長剣を構え、ジャックに向けている。


その頭部は人間ではなかった。

……馬だ。

薄ぼんやりと、白い馬の頭部が見える。

額には鋭い角がある。

ナイトメア。

人間ではない。

敵だ。


分かりきったことを再確認し、ジャックはダーインスレイブを握り直した。

馬頭のナイトメアは、ヒュンヒュンと長剣を振りながら、押し殺した声を発した。


「……さすがだな、ホワイトナイト……その、『ダーインスレイブ』だっけか。ルイス様の傑作なだけある。僕の『デュランダーナ』の攻撃を完璧に防いでいる。互角だね」


落ち着いたその青年の声を聞き、ジャックはダーインスレイブに全集中力をこめたまま、低く言った。


「下劣なナイトメアめ……跡形も残らず斬り刻んでやる……!」

「下劣……?」


意味が分からない、といった調子でそう言ってから、彼は馬頭の口を歪めて嗤った。


「同じナイトメアに下劣と言われるとは思わなかったよ。貴重な体験をありがとう」

「…………」

「僕はユニコーン。ルイス様の命によって、お前達全員を抹消しに来た」

「……違うな」


ジャックはユニコーンと名乗ったナイトメアに言った。


「一番最初に奇襲を受けたのは、ラフィだ。お前の目的は、外部へのデータ転送の阻止……そしてこのシェルターの、アクセスポイントの破壊だ」


ユニコーンの剣……デュランダーナの動きがピタリと止まった。

彼は打突の構えで、その切っ先をジャックの胸に向けた。


「だったら、何だって言うんだい?」


殺気が膨れ上がった。

それを察知するより疾く、ジャックはダーインスレイブを振った。

また連続した打突が防がれ、青白い火花が散る。


おそらくダーインスレイブと、ユニコーンの持つデュランダーナという剣はほぼ同じものだと思われる。

ルイスが創ったものなのか……。

だとしたら危険だ。

危険すぎる。


ジャックは息もつかせず繰り出される打突を弾き返しながら、じりじりと前進した。

少しでもアリスがいる場所から、このナイトメアを離さなければ。


打ち合う音が激しすぎて、何も聞こえない。

振り返ることも出来ない。

極限の状況の中、ジャックのダーインスレイブが、横凪ぎに振るわれたデュランダーナの斬撃を絡めるように弾いた。


ユニコーンが意外そうに目を見開き……。

次の瞬間、ジャックがためらいもなく振り下ろしたダーインスレイブが、その頭部から足までを真っ二つに両断した。


そのまま斬撃は地下道の床に突き刺さり、衝撃が周囲をグラグラと揺らした。

ジャックはゆっくりと倒れていく、両断されたユニコーンにトドメの一撃を入れようと、ダーインスレイブを振り上げ……。


「僕の勝ちだ」


背後から聞こえてきたユニコーンの声と同時に、後ろから胸をデュランダーナで貫かれた。



何が起きた……?

瞬時に判断ができなかった。

体中に激しい痛み……電流のようなショックが走り、思わずダーインスレイブを取り落とす。


目の前で両断されたユニコーンは、グズグズとヘドロのようになって溶け始めた。

そしてジャックの後ろに立つユニコーンの足元にうごめいていき、影の中に吸い込まれる。


膝をついたジャックの胸を、鋭い長剣が貫通していた。

幸い核は逸れていたが、激痛が尋常ではなかった。

存在しない目の玉が飛び出す程の衝撃だった。


「ガアアアアアアアアア!」


呻くように絶叫し、ガクガクとジャックは鎧を震わせた。

それを見て、ジャックの巨体を足で踏みつけながらユニコーンは嗤った。


「ヒャハ! デュランダーナの攻撃を一度でも受けたらもうおしまい。痛いだろう? その激痛はこれから何十にも、何百倍にも増幅していって、お前のすべてを爆裂させる」


うっとりとジャックの絶叫を聞きながら、ユニコーンはまたデュランダーナを抉りこんだ。


「ヒャハハハハハ! 今日は素晴らしい! 何て素晴らしい日なんだ! HAPPY DAYだ! おお! HAPPY! HAPPY DAY!」


やかましく喚く馬頭の異形が、またデュランダーナをジャックの胸奥に抉りこもうとし……。

背後から飛んできた、虹色の光……バンダースナッチが、その頭部を薙ぎ払うように吹き飛ばした。


「何か」がいた。

デュランダーナによってもたらされるショックの中、ジャックは心の底から「それ」の存在に震え上がった。


その恐怖は、感情や理性によるものではなく。

生物として。

存在している生命体としての、生存本能が一瞬で「危険」だ、と絶叫したのだ。


死を間近で感じた恐怖に近かった。

デュランダーナのショック状態を一瞬忘れ去るほどの恐怖だった。


何だ。

何かがいる。

後ろに、何かいるぞ。


兜の奥の目を見開いて、ジャックはその場に硬直した。

頭部を吹き飛ばされたユニコーンの体がどろりと溶ける。

そしてそれは粘土のようにぐんにゃりと動くと、ジャックを盾にするかのように、背後に突如出現した「何か」から離れる位置に立っていた、ユニコーンの足元の影に吸い込まれた。


移動の際にジャックから抜いたデュランダーナを手に持ったまま、ユニコーンも硬直していた。

目を見開いて、ガクガクと体を震わせている。


ジャックも、ユニコーンも。

戦闘をしているということさえも忘れる、圧倒的恐怖。

そう。


「恐怖」


そのものがそこに立っていた。


(アリス……? アリスなのか……?)


デュランダーナの呪縛から解かれても、ジャックは動くことが出来なかった。

それ程、「それ」は滅茶苦茶に歪んでおり。

存在を視認出来ないほど、グチャグチャに何もかもをも歪ませていた。


空気も、壁も、床も、空間でさえも。

すべてがきしみを上げて捻じれ、歪んで溶けていく。

どす黒い汚らしい泥となって落ちていく。


しかしその歪みの中に何かがいる。

だが、そこにいるのがアリスだとジャックはすぐに認識ができなかった。


それ程、そこにいるモノは邪悪で、ドス黒く、「恐ろし」かった。


「な……何だ……? 何だ……アレ……」


ユニコーンはしばらく呆然とした後、デュランダーナを持っている自分の手が震えていることに気づいて、愕然とした。

自分が今、どういう状態にあるのか理解できないのだ。


彼は、「恐怖」していた。

一歩、二歩とユニコーンが後退りする。


「僕は……僕は、まさか恐れているのか……?」


震える声でそう呟いて、脂汗が浮いた顔で、ユニコーンは喚いた。


「何だよお前! 何なんだよ! 来るな! こっちに来るなと言っている!」


デュランダーナを構えて、ユニコーンはそれを全力で打突した。

殺気の塊となった刃が伸びて、ジャックの脇を通過し、その「歪み」に打ち当たる。


突き刺さった……と思った瞬間だった。

歪みが手を伸ばして、デュランダーナを無造作に掴んだ。


「な……」


ユニコーンが引きつった声を上げる。

一拍置き。

伸びた長剣がガラス細工を砕くように、粉々に爆散した。

キラキラとその「データ」の断片が空中に吹き飛び、地面に落ちる前に消える。


「ギャアアアアアアアアア!」


ユニコーンが左腕で右手を抑えて絶叫した。

デュランダーナを握っていた右手が、手首ごと砕け散っていた。

その傷口からドッ、と黒い血液が流れ出す。


「歪み」が足を進めた。

その周囲空間がメシャァ、気持ちの悪い音を立ててひずんだ。

そして徐々にデータの断片と化して壁も、床も削れて消えていく。


ジャックはそこでやっと理解した。

あれは、アリスだ。

空間を埋め尽くすほど肥大化した憎しみの塊。

ナイトメアに恐怖を与えるほど膨らんだバンダースナッチを纏っている。


意識があるのか、ないのか。

アリスは歪んだバンダースナッチの中で左目を青白く爛々と輝かせながら、ユニコーンに向けて手を伸ばした。


「歪み」が目にも止まらない速度で動き、反応できなかったユニコーンの体を掴む。


「ギ……イッヤアアアアアア!」


ナイトメアの体が重機に押しつぶされたかのように滅茶苦茶に折れ曲がった。

そして空中で真っ黒い鮮血を噴出しながら、回転する黒い「玉」へと圧縮されていく。


悲鳴はだんだんと聞こえなくなり、やがて、ユニコーンは「消え」た。

チリとなって、データのゴミになり空中に散っていく。


「…………」


唖然としているジャックの前で、また歪んだバンダースナッチと共に、アリスが足を踏み出す。


「く……来るなァ!」


通路の少し離れた場所に、先程殺された筈のユニコーンが立っていた。

右足が欠損しており、右手首と同様に黒い血液が垂れ流されている。


ナイトメアは、明らかに恐怖していた。

壁によりかかり、彼は自分の足元にある影のようなヘドロに手を突っ込んだ。

そして中から人影を掴み出す。


ズルズルと引きずり出されたのは、イベリスだった。

意識はないのか、完全に脱力している。


人質としてさらってきていたのか。

ジャックはそれを見て青くなった。


おそらく、ユニコーンというナイトメア。

あのセブンスは自身を「分裂」させることができるものだと思われる。

殺してもキリがない筈だ。

恐ろしい能力の筈だ。


しかし、歪んだアリスの攻撃はそれを、明らかに貫通していた。

イベリスを見て、歪みの中のアリスが足を止める。


「そこから一歩でも動いたらこの女の首をへし折る! これは警告だ!」


ユニコーンがイベリスの首を掴み、目の前に掲げる。

アリスは奇妙な音を立てながらひしゃげ続ける空間の中、ゆっくりと口を開いた。


「……やればいい」


歪みの中から聞こえてきたのは、思いのほか静かな声だった。

しかしそれはどうしようもなく空虚で、絶望に満ちた、真っ黒く、低い声だった。


「その瞬間殺す」


アリスは、端的にそう告げた。


一秒経ち。

二秒経ち。


ユニコーンはイベリスを放り出して、情緒も何もなく、絶叫しながらアリスに背を向けて逃げようとしはじめた。

理解したのだ。


人質など、目の前の「恐怖」には意味がないことを。

たとえさらってきた小娘をくびり殺したところで、次の瞬間に確実に自分がやられるだけだ。

そう、確実に。

殺されるだけだ。


何をしてもダメだ。

何をしても自分は死ぬ。


ユニコーンはそれを心の底から理解した。

アリスの燃える右目を見てしまった瞬間、電撃に打たれたように、彼の「心」は死んだ。

すべてを放棄して逃走を図ろうとし……ユニコーンは無様に地面に崩れ落ちた。


欠損した右足と、右腕。

受け身もとれずに体を大きく床に叩きつける。


「ガァ……!」


小さく呻き、彼は地面に尻もちをついた姿勢で振り返った。

その顔面は恐怖に歪みきっていた。


「来るな……く、来るなァ……嫌だ、嫌だ! 嫌だァァァ!」


アリスは何事もなかったかのように、また足を踏み出した。

そして必死に這いつくばって逃げようとするユニコーンに向け、右手を伸ばす。

虹色に滞留していた、歪んだバンダースナッチが空間を通過し、馬頭のナイトメアを掴んだ。

分裂しようとしていたようで、頭が二つあるが、それごとバンダースナッチがユニコーンを包み込む。


「やめろ……やめてくれ! 消えたくない……嫌だ! 消えたくなアアアアアァァアアア!」


懇願の声は途中から絶叫に変わった。

ゆっくりと、圧搾するようにバンダースナッチが締まっていく。

地面にボタボタと黒い血液が流れ落ちた。


「ギャアアアアアアアアアア!」


ガクガクとユニコーンが痙攣する。

滅茶苦茶に折れ曲がった「それ」は少しずつ泥のように溶け、チリになり空気中に霧散していった。


「ルイスサ……………………マァァァアアアア!」


断末魔だった。

アリスが軽く腕を振る。

ベチャリ、と潰れてひしゃげたナイトメアが壁に叩きつけられる。


「アァ……ガ……」


もはや原型をとどめていないユニコーンは、かろうじて「生き」ていた。

しかし徐々にデータの断片に変わり消えていく。


アリスは体の周りに歪んだバンダースナッチをまといながら、ゆっくりとジャック、そしてイベリスの脇を通過した。

そして地面に転がっていたダーインスレイブを手で持ち上げる。


声を発することも出来ないジャックの目の前で、アリスはそれを鈍器のようにユニコーンに振り下ろした。

絶叫が地下道に響き渡る。


一回。

二回。

三回。

四回。


ひしゃげた所を抉るように、ダーインスレイブで斬り刻んでいく。

それを行うアリスの表情は圧倒的に「無表情」だった。


しばらくユニコーンを滅多打ちにした後、彼女はダーインスレイブを握っている方と別の腕を上げた。

バンダースナッチが動き、ユニコーンの首と思われる場所を掴んで持ち上げる。


アリスはダーインスレイブを持ったバンダースナッチを動かし、その胸に埋め込まれている白い球体……ユニコーンの核に、刃をゆっくりと突き刺しはじめた。


もはや言語の体を為していない、おどろおどろしい悲鳴が、ナイトメアの口からほとばしった。


「これ以上苦しみたくなかったら、私の言うことに従え」


アリスは淡々と、機械のように続けた。


「ルイス・キャロルを呼べ」


パキパキとユニコーンの核にヒビが走っていく。

馬頭のナイトメアは首を振りたくって、滅茶苦茶に喚き散らしていた。

その地獄が数十秒続き……。


パァン! と乾いた音を立ててユニコーンの核が破裂した。

ダーインスレイブの力の方向がずれ、壁に突き刺さる。

ユニコーンはヘドロのように崩れ、地面に体を撒き散らした。


アリスはパン、パン、パン、と楽しそうに響く拍手の音がする方に目を向けた。

バンダースナッチの光に映し出された先。

地下道の、ほんの少しだけ離れた場所に。


ルイスが立っていた。



「…………」


アリスがまとっているバンダースナッチが、ダーインスレイブを掴んで構える。

もはやアリスは「人間」と呼べる体を為しておらず。

いびつな巨人を纏った、不気味な「何か」となっていた。


ルイスの足元まで飛び散ったユニコーンの断片の中に、その顔面の一部があった。

飛び出した眼球でユニコーンがルイスを見上げ、喉を痙攣させながら声を絞り出す。


「だだ……だず……げて……く、だ……さい……ルイ……ズ……ざ……」


それをルイスは、何もなかったかのように踏み潰した。

そしてユニコーンが完全にチリになって消えたのを確認し、白衣のポケットに手を突っ込んでアリスと対峙する。

そして彼は、心の底から楽しそうに嗤った。


「素晴らしい!」


甲高い声で彼は叫んだ。

それはゆっくりと白衣のポケットから手を抜いて、天に向けて広げた。


「私は今、とても……とても感動している。素敵だ……美しい。これが『純粋な増悪』の形なのか……!」


アリスはしばらくの間、無表情でルイスを見ていた。

その表情は異様なほど静かであり。

不思議にも、穏やかなものだった。


「ああ……アリス……私のアリス。もっとこっちに来て、その顔をよく見せておくれ……」


手を大きく広げながら、ルイスが足を踏み出す。

瞬間、アリスが纏っているバンダースナッチが全力でダーインスレイブを振るった。


振られたダーインスレイブが、空気を真っ二つに斬り裂き、ルイスの首に殺到する。

ルイスはそちらを見もせずに、軽く腕を上げ、指を伸ばした。

凄まじい金属音がして、ダーインスレイブが止まった。


軽く伸ばした人差し指で。

すべてを断ち斬る斬撃は止められていた。


力を入れている風もないルイスの背後の壁がザンッ、という炸裂音とともに数百メートル先まで裂けた。

水道管や電気パイプ等を破壊しながら、アリスの全力の斬撃が吹き飛んでいき、消える。


ヒィィィィン……と空気が鳴った。


ルイスは、不気味な人形のように歪んだ微笑みを顔面に貼り付けたまま、ダーインスレイブを指先で弾いた。

彼の首の寸前で止まっていた大剣が、何か強大な力で吹き飛ばされたかのように揺れた。

そして、半ばから先端までがバァンッ! とデータの欠片……砂のような飛沫になって弾ける。


ダーインスレイブを握っていたバンダースナッチも、データの断片となって一部が吹き飛ぶ。

ルイスは楽しそうに、空中を回って地面に転がったダーインスレイブを見てから、アリスに視線を戻した。


「どうした? もう終わりか? もっと遊ぼうよ、アリス……」

「…………」


ダーインスレイブを破壊されても、アリスは無表情のままだった。

彼女は口からボタボタと赤い血液を垂れ流していた。

それは、「彼女の」ものではなかった。

肉質な音を立てて、口に含んでいた「それ」をアリスは飲み込んだ。

そして歪んだバンダースナッチに囲まれながら、ルイスに向けて口を開く。


「……管理権限を持つお前を『殺す』ことはできない。そんなことは分かってる」

「へえ、理性は残ったのか……」


意外そうにルイスはそう言い、少し興を削がれた様子で足を止めた。


「ならアリス。どうするべきかも分かるね?」

「…………」

「私と来るんだ。君のことを調べさせてくれ。君という『憎しみ』の塊……こんな美しい結晶を、これ以上傷つけたくない」

「…………」

「私には敵わないことを理解しているんだろう? ならいい子だから、言うことを聞くんだ」


ニヤァ、と気味の悪い笑顔と共に、ルイスはアリスに手を伸ばした。


「さぁ」

「…………」


アリスは血に濡れた無表情でそれを見ていたが、小さく笑った。

それを見て、ルイスが不思議そうに問いかける。


「……何か、おかしなことを言ったかな?」

「あまりにも滑稽で……哀れで、惨めで……」

「…………」

「冗談かと思ったわ」


ルイスは少し停止していたが、小さく息をつき、白衣のポケットに手を突っ込んだ。

そしてアリスに言う。


「どうして、私が冗談など言うと?」

「どうして? それは私が聞きたいわ」


アリスはそう言って、ルイスに向けて一歩を踏み出した。

歪んだバンダースナッチが膨れ上がり、周囲の『空間』を削り取り始める。


「どうして、私がお前を『殺し』に行くと安易に考えた? どうして、自分の『欲』に目が眩んだ? それがおかしくて笑っただけ」


馬鹿にしたようにそう言ったアリスを、ルイスはキョトンとした顔で見ていたが、その奥に目をやった瞬間、ハッとして青くなった。


「……何をしている!」


いつの間に移動したのか、ジャックがアクセスポイントの扉の前に立っていた。

彼の手には、胴体から両断されたラフィが抱えられていた。


「やめろ! 何をしているのだと聞いている!」


血相を変えて怒鳴ったルイスを、心底面白そうに見て、アリスは絶叫のような笑い声をあげた。

それはルイスが思わず言葉を飲み込んで硬直するほどの。

邪悪で、ドス黒く。

憎しみが詰まりに詰まった、怨嗟の嗤いだった。


ジャックは振り返らずに、ラフィの亡骸をアクセスポイントに押し付けた。

両断された猫の死骸が、白く光ってアクセスポイントに吸い込まれるように消えていく。


「やめろぉおぉ!」


ルイスが駆け出そうとして……。

笑い狂っていたアリスが、一気に無表情に戻って腕を振った。

膨れ上がったバンダースナッチが、反応が遅れたルイスを捉えて後方に吹き飛ばす。

壁に叩きつけられた彼は、崩れ落ちた瓦礫の中からすぐに立ち上がった。


瞬間、ラフィの体がアクセスポイントに吸収され、消えた。


顔面蒼白となり、ルイスは立ち尽くしていた。

そしてアクセスポイントを守るように揺れている、歪んだバンダースナッチとアリスを見る。

アリスはその呆然とした顔を見て、ニタァ、と口を裂けそうな程開いて笑った。


「あら……?」

「…………」

「逃げなくていいの? シャルロ・マーヴェルス。お前はウイルスだ。『この世界にはあってはならないもの』だ。来るわよ。『外』から。お前を殺すためのワクチンが」

「……ダストが……!」


歯を強く噛み締め、ルイスは引きつった声で喚いた。


「……ただのデータの欠片屑エラーのくせに……! 人間でさえもないくせに……! 失敗作で、異物のお前が……! 私を、この世界の創造主の私を! 脅すというのか! 嘲笑うというのか! アリス!」

「…………」


アリスは喚く老人を、塵でも見るかのように無表情で見て、鼻を鳴らした。


「せいぜい苦しんで死ね」


端的な言葉を叩きつけられ、ルイスは右手を強く握りしめた。

その手がブルブルと破裂しそうな怒りに震えていた。


「……この代償は高いぞ……」


ルイスは押し殺した声でそう言い、背後の暗がりに後ずさりした。

その体が蜃気楼のように歪み始める。


「アリス、お前は絶対に手に入れる。可愛いアリス……お前は私のものだ……絶対に……絶対に!」


絶叫して、ルイスの姿が消えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ