第10話 公爵夫人
距離にして、ステルシス達のシェルターから数百キロ離れた中継駅に降り立つ。
ジャックは白騎士の姿で、抜刀していたダーインスレイブを鞘に収めた。
そして声を発する。
「私は完全なナイトメアになってしまっているようだ。ここの住人には、巫女以外に姿は見えないだろう。フィルレイン、行政の者と交渉して、イベリスの手当をしてもらうんだ」
「は……はい!」
フィルレインも満身創痍、という感じではあったが、彼女は気丈に足を踏み出し、路地の奥に消えていった。
両足に加え、右腕も失ったイベリスは、路地裏に横たわったまま意識を失っているようだった。
フィルレインの上着がかけてある。
ラフィはイベリスにまだ息があることを確認してから、憔悴した顔で周りを見回した。
そこはシェルターの丁度外周に当たる場所のようだった。
建物が立ち並んでいる路地の裏だ。
ズズ……と音を立てて、ジャックが斬り裂いた空間の裂け目が閉じていく。
と、そこでアリスの膝から力が抜け、彼女はその場に、糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
「アリス!」
ジャックがそう言って彼女の体を支える。
アリスはしばらく荒く息をついていたが、何度か咳をして口からよだれを垂らしながら体を弛緩させた。
「何だ! アリス、どうした?」
ラフィが青くなって近づく。
うつ伏せにジャックに支えられたアリスの右目から立ち昇っていた炎が、ボボ……と小さい音を立てて掻き消えた。
痛々しい傷と潰れた眼窟が顕になる。
「ごめん……ちょっと、疲れた……」
アリスは切れ切れにそう言うと、ゆっくりと目を閉じた。
そして小さく吐息を発しながら眠り始める。
ジャックが、イベリスの隣にアリスを横たえたのを見て、ラフィは噛みしめるように呟いた。
「……異常な力だ」
「…………」
「君もだ、ジャック。君達に一体何が起きている……?」
「それは私が聞きたいことだ」
くぐもった兜の奥から声を発し、ジャックはアリス達を守るように路地裏に立った。
「しかし、これで私は『力』を得ることができた。戦うことが出来る」
「ジャック、それは……」
そこでラフィは言葉を止めた。
フィルレインが数名の自警団の男達を連れて走ってくるのが見えたからだった。
「……だいぶ遠くまで飛んだが、すぐに敵に見つかるだろう」
ジャックは重苦しい声で言った。
「『アポカリクファの終焉』を止める……いや、『殺さなければ』ならない」
◇
「そうか……『お茶会』のメンバーも、残るは君だけというわけだな」
巨大な円卓が暗い部屋の真ん中に鎮座しており、その上座の大きな椅子に腰掛けた男がそう言った。
円卓の下座に腰掛けていた、スーツを着たライオン頭の男……ジャバウォックは彼を見て押し殺した声を発した。
「……残念ながら。ウミガメモドキも、グリフィンも核を摘出される所まで確認しました」
「素晴らしい!」
パンパンと嬉しそうに手を叩き、上座の男は子供のように嬌声を上げた。
その顔はまさしく。
ジャックが、虚ろな空間で遭遇した初老の男。
「ルイス・キャロル」そのものだった。
彼は左目の部分が割れてテープで補強されたメガネを指先で元の位置に戻すと、ふー……と息を吐いて、足を円卓に乗せ、だらしない姿勢で椅子に腰を預けた。
そして嬉しそうに頭の後ろで手を組みながらニヤニヤと笑う。
「ルイス様」
ジャバウォックは静かに彼に聞いた。
「ん? 何だい?」
「核を取り返せば、帽子屋達を復活させることは可能なのですよね……?」
彼がその問いを発した瞬間、部屋の中に緊張が走った。
円卓には複数の影があり、全員がルイスより下座に腰を掛けている。
ルイスをそれを聞くと、どうでも良さそうに肩をすくめた。
「さぁ……無理じゃないかな」
「無理……!」
ジャバウォックが思わずといった調子で椅子から腰を浮かせる。
「そんな……今までは普通に……」
「ホワイトナイトが持っていた剣、ダーインスレイブだったっけか。あれね、私が趣味で創ったものなんだけど」
ため息をついて、ルイスは続けた。
「どうやら、『あの子達』に奪われた後、独自進化を遂げているようでね。君達、オリジナルナイトメアの核も切断が可能になっている。さすがに気づいているだろう。もう既に、帽子屋達のデータは永久にロストしていることだろうね」
「そ、そんな……」
愕然として硬直したジャバウォックを見て、ルイスは厭らしそうにニヤニヤと笑った。
「間一髪だったね。君の能力も、核を破壊されたら機能しない。上手く生き延びたことは褒めてあげよう」
「…………」
苛立ったように椅子に腰を下ろしたジャバウォックから視線を外して、ルイスはだらしない姿勢のまま周りを見回した。
「さてね、でもこのまま大暴れさせたままに済ます気は私にもない。何よりアポカリクファの終焉は、すぐそこまで迫っているんだから。予定を狂わせるのはいけない。とてもいけないことだ……」
沈黙を返した周囲に、彼は続けた。
「君達のセブンスを進化させてあげよう。それも、今までとは比較にならないくらい強力に、凄まじく。残虐に……」
口を裂けそうなほど開いて笑い、彼は下座に座っていた背の高く、細身の女性を指さした。
ビロード帽子を被った彼女の顔は、暗がりでよく見えないが、かなり整っていて、まるでマネキン人形を連想させるほど無表情だった。
「公爵夫人、行けるね?」
公爵夫人と呼ばれた女性は立ち上がり、優雅に頭を下げてみせた。
「勿論でございます」
「よろしい」
ルイスはそう言って、ニヤニヤ笑いのままパチン、と指を鳴らした。
途端、公爵夫人の体がビクンッと跳ねてのけぞる。
何か激痛が走っているのか、細身の女性は頭を掻きむしりながら、膝をついて断末魔の悲鳴を上げた。
「ル、ルイス様……な、な……何を……!」
切れ切れにそう呟いた公爵夫人を見下ろしながら、ルイスは淡々と言った。
「何、『死ぬ』ほど痛いだけさ。『進化』ってそういうものだろ?」
暗い部屋に陰惨な悲鳴が響き渡る。
呆然とするジャバウォック達の目の前で、しかし数分後、その地獄のような苦悶の声は唐突に途切れた。
床を転げ回っていた公爵夫人が、人が変わったように、突然ゆっくりと立ち上がる。
そして彼女は、鼻と口から真っ黒い血液を垂れ流しながら、ニヤァ……と、歪んだ笑みを発した。
「M.O.R.S内の人間の被害など気にすることはない。全て殺し尽くしてこい。満足するまでな」
小さく笑ったルイスに、公爵夫人はまた優雅に一礼を返した。
◇
燃え盛る家の中で、アリスは走り回っていた。
嬌声を上げて狂乱しながら、手に持った灯油の携行缶、そのだいぶ少なくなった中身を撒き散らす。
また火が大きくなったのを見て、彼女は正気を失った焦点の合わない目で大きく口を開けて笑った。
そして煙を吸い込んで咳き込む。
ガラン、と中身が入った灯油缶を落とし、よだれを垂らして大きく咳き込み続ける。
視界がブレる。
苦しい。
苦しいが……。
彼女は今、とても楽しかった。
何もかもから解放された気分だった。
この燃え盛る地獄こそが、自分の居場所なのだと心の底で知覚していた。
「燃えちゃえ!」
ガラガラの声で、唾を散らしながら怒鳴る。
「全部燃えちゃえ!」
そうだ。
全部。
何もかも全部燃えてなくなればいい。
お父さんも。
お母さんも。
このマンションに住む全ての「人間」達も。
何もかもが全部死ねばいい。
死んで消えて。
この世界から居なくなればいいんだ。
なくなれ。
なくなれ。
全てなくなれ。
床を爪で掻きむしりながら、半裸の状態のアリスは、床に転がったまま体を丸めて何度も何度も咳をした。
熱い。
苦しい。
痛い。
体中が痛い。
……死ぬ?
私はここで、このまま死ぬ?
焼かれて、逃げ遅れて死ぬ?
……嫌だ。
そんなのは嫌だ。
折角解放されたんだ。
折角「お父さん」と「お母さん」を「お掃除」したんだ。
お掃除をしたら。
お掃除をしたら、綺麗になるはずでしょう?
この世界も、私自身も綺麗になるはずでしょう?
だからおかしい。
こんなに苦しいのはおかしいよ。
私は。
私は……。
◇
残った左目をハッ、と見開く。
心臓が飛び出しそうな程に早く鼓動していた。
薄暗い病室……集中治療室のベッドに、アリスは横たえられていた。
ハンプティ・ダンプティに潰された右の眼窟には、眼帯がつけられていた。
服も、ボロボロのものではなく、清潔な病院服に着替えさせられている。
手で触って眼帯がついていることを確認してから、アリスはバサバサの髪の毛を振って体を起こした。
時間的に夜なのか、計器類が動作する音と、うっすらとした照明に照らされた集中治療器具類が見える。
頬を伝ってツゥ……と汗が落ちた。
冷や汗をかいている事に気づいて、それを拭う。
そしてアリスは、ガンガンと痛む頭を押さえて息をついた。
酷い夢だった。
まるで現実のように苦しかった。
熱く、そして痛かった。
何もかもが痛かった。
あれは「私」の記憶ではない。
アリス……「アーキアリス」の記憶……なのだろうか。
それにしては凄惨すぎる。
あの夢で得た認識通りに考えれば……。
アーキアリスは、自分の父と母を手にかけ、住んでいたマンションに火をかけたことになる。
そんなことをしたのか。
アーキアリスは。
吐き気が込み上がってきて、口元を抑える。
いつの間にか、足がガクガクと震えていた。
壁に手をついて、呼吸を落ち着かせる。
自分が落ち着いたのを確認してから裸足の足を踏み出すと、少し離れた、カプセルのような集中治療器にイベリスが入っているのが見えた。
口と鼻には呼吸器が差し込まれ、体中に包帯が巻かれている痛々しい姿だ。
息はあるようで、胸は微かに上下していた。
しかし意識はないようだ。
彼女のカプセルに近づき、覗き込む。
両足に加え、右腕が欠損していた。
医師がきちんと処置をしたのか、欠損部の傷口には白いギプスががっちりと嵌められていた。
少し意識を集中し、イベリスを見る。
真っ青な顔をしている彼女だったが、その体が少し透けて見えた。
虹色のゆらぎ……バンダースナッチが、血液のようにゆっくりと回っているのが確認できる。
イベリスは大丈夫だ。
そこまで視てから、アリスは自分の両腕も見つめた。
ぼんやりとしたバンダースナッチの光だったイベリスの体と比較しても、明らかにアリスの体は、強い虹色の光を放っていた。
目に刺さるような攻撃的な光だった。
「……ッ」
小さく息を吐いて、目を閉じる。
再び目を開けると、発光は見えなくなっていた。
自分の中のバンダースナッチが「異常」な力を発揮し始めていることは、アリス自身にも分かっていることだった。
だからこそ、ウミガメモドキ、ステルシス……そしてジャバウォックというオリジナルナイトメア三体と対峙した時も、全く「恐怖」を感じなかったのだ。
心に在ったのは妙な落ち着き。
そして「こいつらには自分を殺すことは出来ない」という、理由が分からないが、圧倒的な優位性。
それを本能的に感じて、動いていた。
誰に言われた訳でもない。
だが、アリスのバンダースナッチも、アリス自身もそれを「理解」していたのだ。
だから戦えた。
だから勝てた。
意識を失っているイベリスに背を向けて、アリスはペタペタと合成リノリウムの床を歩き出した。
ここがどこだか分からないが、恐らくジャックが空間距離を斬り払って「跳ん」だ先の施設なのだろう。
自分やイベリスの状態を見る限り、きちんと処置をしてもらっていると考えた方がいい。
何だか……頭の中が妙にクリアだ。
自分が自分ではなくなっているような……そんな感覚。
いや、違う。
私は……。
アリスは足を止めた。
ーー何も怖くなくなっているんだ……。
その事実に気づき、唖然とする。
何と戦っても、自分は死なない。
もう、誰も自分を傷つけることはできない。
それは仮説でも仮定でもなく。
「事実」なのだ。
だから、オリジナルナイトメアに狙われ続けているこの状況下でも、こんなに落ち着いていられるんだ。
胸に手を当てると、もう心臓の鼓動は静かなものだった。
先程の強烈な悪夢によるショックも去ったらしい。
……喉が渇いた。
そう思い、集中治療室を出ようと、出口に向かう。
そこで彼女は、顔や体に膏薬や包帯をつけたフィルレインが、出口近くのソファーに横になり、タオルケットをかけられた状態で寝息を立てているのを見て、足を止めた。
しばらくフィルレインの事を見ていたアリスだったが、彼女を起こそうと伸ばしかけていた手を、思い直して引っ込めた。
そして極力音を立てないように集中治療室のドアのタッチキーを見る。
ドアノブに手をかけると、特に鍵はかかっていないようだった。
そっとドアを開けて、薄暗い廊下に出る。
そしてドアを閉める。
天井の蛍光灯は、電力が安定していないのか、時折ジジ……と明滅している箇所があった。
やけに喉が渇く。
どこかに水道はないのだろうか、と周囲を見回す。
そこでアリスは、背後に気配を感じて振り返った。
壁に、薄汚れた白衣を着た初老の男がだらしない姿勢で寄りかかっていた。
彼は懐からくたびれたタバコ箱を出すと、一本を咥えて取り出し、マッチを擦って火を点けた。
そしてフーッ、とタバコの煙を吐き出し、マッチを床に落としてグリグリと靴で踏みにじる。
誰だ、と思う間もなかった。
アリスの中の全てのバンダースナッチが、一斉に外に飛び出しかけた。
咄嗟に、その「男」に向かって全力の攻撃を放とうとした自分を抑え、アリスは彼に右手を向けながら、歯を強く噛み締めた。
バンダースナッチの脈動が物凄い。
自分の心臓も、飛び出しそうに早く鼓動していた。
右手を左手で掴んで、何とか自意識を保とうとする。
冷や汗がツゥ……と頬を撫でた。
男からは、「臭い」がしなかった。
タバコの臭い。
マッチの臭い。
「ヒト」が存在しているという臭い。
それが一切しなかったのだ。
ただ、「気配」だけがそこにある。
男はしばらく空中に白い煙を吐くと、ゆっくりとアリスの方を向いた。
左側がひび割れてテープで補修されたメガネをかけている、初老の、白髪をオールバックにまとめた男だった。
「なるほど……抑えたね。いい子だ、『私の』アリス。他の出来損ないとは、さすが格が違う」
「……誰?」
押し殺した声を発する。
男は小さく笑うと、ゆらりと壁から体を離した。
そして白衣のポケットに手を突っ込み、猫背の姿勢でアリスを見る。
「誰? 誰だとは面白いことを聞くね。私のことが分からないのかい?」
「誰だと聞いているのよ、もう一度同じ質問はしない」
右手の中でギチギチと脈動しているバンダースナッチを抑えながら、アリスは端的に答えた。
男は感心したように彼女を見ると、やがて肩をすくめてみせた。
「私の名前は、ルイス・キャロル。君達『アリスシリーズ』を創った者だ。いわば君達の産みの親と言える」
「ルイス……? ルイス・キャロル……?」
アリスはその名前を繰り返してハッとした。
「ジャックさんをあんなにした……!」
「あれは彼に対するご褒美さ。何だい? あのままデータロストさせた方が良かったかな?」
「……どうやってここに来たの? いえ……」
恐怖よりも怒りが勝っていた。
呻くように言葉を発したアリスに、ルイスはニヤァ、と口を開いて笑ってみせた。
それはまるで、壊れた道化人形のような、無機質でいびつな笑みだった。
「『何をしに』来たのか? と聞きたそうだね。当然の疑問だ……聡いねぇ。ならもう察しているんだろう? 私がこのナイトメアをつくりあげた。『アポカリクファの終焉』だ。知っているかい? アポカリクファは絶対で、必然で、そして不可避な事実なんだ。何でも出来る」
「…………」
「別に難しいことじゃない。君達のデータの痕跡を辿るのは、造作も無いことだ。そして、ここにいる私は、私ではない。分かっているんだろう? 気配だけをここに転送している。初見でそれを見破ったね。いやはやたいした能力の覚醒だ。シンプルに驚いている」
ルイスはパチン、と指を鳴らした。
「……さてアリス、ゲームをしよう」
「ゲーム……?」
怪訝そうに返した彼女に、ルイスはニヤケ顔のまま続けた。
「これから、私の創ったオリジナルナイトメアが君達を順繰りに襲う。今まで君達が斃してきた失敗作なんかより、もっと、ずっと凶悪な奴らだ。そいつらを全て撃退して、最後に私を殺すことが出来るか、それが君に出来るか……」
「…………」
「私はその『結末』を知りたい……!」
引きつったように笑い、ルイスはうやうやしくアリスに礼をしてみせた。
「さぁゲーム開始だ。ルールは簡単。君が死ぬか、私が死ぬか。簡単だろう? 『アポカリクファの終焉』を止め、真実を全て知りたければ、死にもの狂いで私の元に辿り着きたまえ。アリス。君が私の前に再び立つことを祈っているよ」
フーッ、とタバコの煙を吐き出し、ルイスはその煙に紛れるように数歩下がった。
その姿が薄く、蜃気楼のように掻き消える。
彼が消え去っても数分間、アリスは右腕を前に伸ばしたまま、暴れだしそうなバンダースナッチを必死に抑えていた。
やがて彼女の心臓の鼓動が治まり、バンダースナッチの動きが緩やかになったところで……。
「アリス」
彼女は足元から声をかけられ、振り返った。
いつの間にかラフィが右足の脇に座っていた。
額から流れ落ちる汗を拭い、アリスは深く息をついてから、掠れた声で言った。
「ルイスが来たわ」
「……分かってる。急いで降りてきたんだけど、間に合わなかったみたいだね」
黒猫は何もいない虚空を睨みつけ、絞り出すように言った。
「どこに逃げようと無駄ということか……『管理者権限』を使っているな……」
「自分を殺してみろと挑発されたわ」
アリスは、伸ばしたままだった右腕をゆっくりと降ろした。
「新しいオリジナルナイトメアがここに向かってる。対策を立てないと……」
「その件で、この中継駅の管理システムから話があるらしいんだ。来てくれるね?」
アリスは少し呼吸を整え、コクリと頷いてみせた。
アリスがラフィに連れられ、エレベーターを降りた時、何かの管制室に似たその場所には、既に数名の人間が待機していた。
アリスは眼帯の位置を直して、周囲を見回した。
人々の視線は、あからさまな恐怖を孕んでいた。
それは、さながら化け物を見る時と同じような目であり。
その恐怖は、アリスに向けられていた。
おそらくステルシスのシェルターでの戦いを、何らかの方法で知ったのだろう。
明らかに「人間」を見る目ではない。
気にせずアリスが足を踏み出すと、待機していた少女達……おそらく巫女の数名が、小さく引きつった声を上げて後ずさった。
それを見てアリスは、その場に足を止めた。
少し息を吐いて、真正面を見る。
巫女数名と、自警団の者なのか、武装した男達が数名。
いずれもアリスに銃を向けるまではしないものの、持っている長銃の引き金に指をかけていた。
いつでも撃てる構えだ。
静まり返った部屋で、ラフィは押し殺した声を発した。
「アリスを連れてきた。警戒を解いて欲しい」
管制室の中央に、培養液に浸かった人間の脳が浮かんでいた。
それがガラス質のカプセルに入っている。
カプセルが何度か発光し、壁のスピーカーから女性の声が流れ出した。
「……あなた方の手当はさせていただきました。イベリスさん、という方も危険な状態は越えました。彼女自身の生命力というところですね。アリスさん、あなたの目は残念ながら……」
「ありがとう。イベリスさんを手当してくれて」
アリスが静かに声を発すると、周囲に意外そうな空気が流れた。
巫女達が顔を見合わせる。
管理システムの脳カプセルがチカチカと明滅し、女性の声は続けた。
「私はこのシェルターを管理している者です。あなた方の呼称で言うと、68番となります」
「なるほど」
極めて冷静に、静かにアリスは返した。
そして淡々と続ける。
「じゃあ、これからここがどうなるか、そこまで分かっているのね?」
「はい、ここはあと数時間で戦場と化します。そうですね?」
68番の言葉を聞いた男達が目を見開いて歯を噛む。
そのうちの一人が、辛抱ができなかったのか、銃をアリスに向けた。
彼女の隣に立っていたラフィが青くなる。
「こいつを追い出しましょう! そうすればナイトメアはここを諦める!」
男達が一斉に銃をアリスに向けて構えた。
「そうだ! すぐに出ていけ!」
「俺達まで巻き添えにするんじゃねぇ!」
口々に罵声を浴びせる彼らを横目で一瞥し、アリスは管理システムを見た。
そしてほんの少しも動揺することなく、極めて平常のまま口を開く。
「……で?」
彼女のその異様な態度に、男達が一瞬息を呑む。
無視をされたのではない。
彼女は自分が銃を向けられていることを認識している。
それは周囲の者にもよく分かった。
しかし。
彼女はそれに対して何も感じていないのだ。
そう、感情の動きというものが、アリスには一切なかった。
それはまるで人間以外の無機物のようであり。
その異様性が、彼らの心に強い「恐怖」を芽生えさせ、硬直させたのだ。
管理システムは一拍置いてから、静かに言った。
「銃を降ろしなさい。仮にこの方々を追い出したとして、ナイトメアがこのシェルターを捕捉していることは紛れもない事実です。ナイトメアは人間を捕食する存在です。危険なことには何も変わりがない」
「その通りね。対策を立てるのが賢明だと思うわ」
アリスもそれに淡々と返す。
男達は冷や汗を流しながら、突きつけた銃口の行き場をなくし、そのまま硬直していた。
「あなた達管理システムは、ある程度の管理権限を持っているはず。説明しなくても、大まかに事情は察しているでしょう?」
アリスがそう言うと、68番は頷くように間をおいて続けた。
「先程のあなたと、『ルイス・キャロル』の会話は聞いていました。いや……聞かされていたと言った方がいいかもしれませんね」
「オリジナルナイトメアの何かがここを襲撃することは確かよ。悠長に喧嘩をしている場合じゃないと思うわ」
「……その通りですね。現在、生き残っている市民達の避難を進めています。戦える者は応戦する構えです」
「全員避難して。邪魔だから」
アリスがそう言うと、再び部屋の中に緊張が走った。
しかしそれを遮るように68番が言った。
「イベリスさんの容態がとても悪いわ。今、生命維持装置から出したら確実に死んでしまう。それに……」
「…………」
「医療機関で治療を受けている、動けない病人はイベリスさんだけではないの。シェルターの機能が破壊されたら、全員死んでしまうわ」
アリスは少し苦い顔をしてから、ラフィを見下ろした。
「ラフィ、ジャックさんは?」
「シェルターの外でナイトメアの襲撃に備えてる。できれば、中に入れずに仕留めたいと言ってた」
「それが一番ね……」
アリスはそう言って、68番を見た。
「私達が『外』でナイトメアを迎え撃つ。あなた達は……」
「アリスさん」
アリスの言葉を遮って、68番は問いかけた。
「あなたは……人間ですか?」
その問いが意外だったらしく、アリスは口をつぐんだ。
そしてしばらく考えてから、フッ、と気の抜けたように笑う。
それはどこかやるせなく。
年相応の少女の顔だった。
「そうありたいとは思っているわ」
◇
フィルレインを外に連れ出すのは危険すぎた。
イベリスの近くにいるようにと言って、シェルターを出てから数時間。
既に太陽は落ちて、辺りは暗闇に包まれている。
空は分厚い雲に覆われて、星一つ見えない。
アリスとラフィ、そして白騎士となったジャックは、丸いドーム型のシェルター、そのてっぺんに腰を下ろしていた。
周囲は砂漠だった。
変な形のサボテンのような植物が生えているのが、シェルターからのライトに照らされて見える。
「……寒くないか?」
ダーインスレイブに手をかけた姿勢でアリスに覆いかぶさるようにしていたジャックが問いかける。
アリスは両膝を抱いて、ジャックに包まれていた。
「うん、大丈夫」
「目はもういいのか? 視力は……」
「ハンプティ・ダンプティの攻撃には、データを消す何かが含まれてたんだと思う。普通の傷じゃないから、多分もうこれは治らないかな」
淡々とそう言い、アリスは眼帯の上から傷痕を撫でた。
「ねえ、ジャックさん」
「……何だ?」
「ここの管理システムに聞かれちゃった。私、人間なのか? って」
「…………」
「人間じゃないって言えなかった」
膝を強く抱いて、アリスは小さく、呟くように続けた。
「言えなかったんだ……」
「そうか……」
ジャックは小さくそう言い、鎧をきしませながら、アリスをそっと抱いた。
「私がいる」
「うん、そうだね……」
その様子を、ラフィが少し離れた所から苦しみに歪んだ表情で見ていた。
しかし数秒後、黒猫の目は大きく見開かれた。
「アリス、ジャック! 敵だ!」
弾かれたようにアリスとジャックが立ち上がる。
そして二人は同時に一瞬硬直した。
「何だ……アレは……」
ジャックが即座にダーインスレイブを抜刀し、下段に構える。
離れた場所だった。
ここからだとおよそ1キロ以上は離れているだろう。
しかし、時折白っぽい光で明滅している「それ」は、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。
ジャック達がそれを認識できたのは訳があった。
巨大だったのだ。
あまりにも。
雲にかかるほどの体高をした「それ」は、足を踏み出し、砂漠に踏み降ろした。
ズゥゥゥゥゥゥゥン……という地鳴りが周囲を襲った。
グラグラとシェルターが揺れ、アリスが片手でジャックの鎧を掴む。
その残った左目から、ボボ……と音がして青白い炎が吹き上がった。
「どこから現れた? ナイトメアか!」
ジャックが、流石に動揺したのか引きつった声を発する。
女性だった。
細身の黒いビロード服をまとった超巨大な女性が、ゆっくりと近づいてくる。
黒い帽子をかぶっていて、そこから垂れたヴェールで顔は見えない。
大きさにして数百メートル。
規格外の巨大さだった。
また「それ」が足を踏み出し、周囲がグラグラと揺れた。
ジャックがダーインスレイブを握りながら言う。
「大きすぎる……断ち斬れるかどうか……」
「多分『公爵夫人』だと思うけど……僕が知らないセブンスだ……」
ラフィがそう言って、押し殺した声で続ける。
「大きい……けど、それだけじゃない気がする。どうする?」
「こっちから近づくしかないわ」
アリスがそう言って、またグラグラと揺れたシェルターを踏みしめて立った。
その体に薄くバンダースナッチがまとわりつき、虹色に発光する。
「あっちは、近づいてくる度に大きくなってる」
「何だって……?」
ラフィが引きつった声を上げると、また揺れた。
こころなしか揺れが大きくなっているように感じる。
だいぶ離れていたと思っていた公爵夫人は、今は空を覆い尽くすほどの巨大さになって、またゆっくりと足を踏み出そうとしていた。
「考えている時間はない……止めないと踏み潰されるぞ!」
ジャックがそう言ってダーインスレイブを構え、集中を始める。
「アリス、ラフィ、下がれ!」
彼は怒鳴ると同時に、雄叫びを上げてダーインスレイブを横凪ぎに振るった。
剣が空気を斬り裂き、その衝撃はまっすぐに公爵夫人の右足首に殺到した。
そして、まさに踏み降ろそうとしていた足首を両断する。
一瞬バランスを崩した公爵夫人だったが、両断された足首の切断面がざわつき、糸のように伸びて結合した。
一瞬の再生だった。
「あれは……ジャバウォックの即時再生能力……?」
ラフィが呆然として呟く。
「ラフィはここにいて。ジャックさん、行くよ!」
アリスはそう言ってジャックの肩に手を伸ばしてしがみついた。
ジャックが応える代わりにシェルターを蹴って空中に踊り出す。
そして彼は、アリスを肩に乗せたまま、放物線を描いて公爵夫人に踊りかかった。
大きい。
頭が天を衝いていて、顔が見えない。
黒い服は闇に溶けてしまいそうだったが、時折白く発光するために、かろうじて見えている。
「再生できないくらいに斬り刻んでやる!」
ジャックが空中でダーインスレイブを構える。
しかし肩にしがみついていたアリスが、そこで大声を上げた。
「ジャックさん!」
「……!」
ジャックが気づくより早かった。
巨大な体だとは思えない俊敏な動きで、公爵夫人が右手を鞭のように振るったのだ。
それがジャックとアリスを叩きつける。
二人は強大すぎる力に抗うことも出来ずに、一直線に砂漠の地面に叩きつけられた。
砂柱が吹き上がる。
公爵夫人は緩慢な動作でジャックとアリスが落下した地点に体を向けた。
そしてググ……と空を仰ぎ。
口を裂けそうなほど開いて絶叫した。
空気がビリビリと振動し、砂漠全体が大きく揺れた。
公爵夫人を中心に衝撃波が発生し、砂嵐が吹き上がる。
地面が揺れ、シェルターが激しくブレた。
てっぺんにしがみついていたラフィが、鼓膜が破れそうな振動の中、砂の向こうの二人の名を叫ぶ。
しかしそれは公爵夫人の絶叫に掻き消された。
公爵夫人は絶叫を続けながら、体を振り子のように揺らした。
その背中から、まるでサナギから何かが這い出てくるように、服を突き破って幾本もの「腕」が突き出てきた。
それらがフラフラと揺れた……と思った瞬間。
腕はしなり、機関銃の弾のようにジャックとアリスの落下地点に振り下ろされ始めた。
轟音と、腕が連続して叩きつけられる爆音、振動。
巨大すぎるその圧倒的な暴力。
砂は吹き上がり、空気は裂け、地面は抉れていく。
その攻撃は実に数十秒も続いた。
ゆっくりと公爵夫人の叫び声が小さくなっていき、収まる。
振り下ろされていた腕も止まり、それらは背中に収まっていった。
公爵夫人は、もうもうと立ち込める砂の中、巨大な足をゆっくりと上げた。
そして力を込めて、虫を潰すかのようにアリスとジャックがいる場所に降ろそうとして……。
ズン、という音がして公爵夫人の上げていた右足が、股間の付け根から「消え」た。
真っ黒い血液が吹き出し、バタバタと周囲に撒き散らされる。
虹色のバンダースナッチの塊が、空間ごとすべてを削って通過したのだった。
砂煙がゆっくりと晴れていく。
バランスを崩して後ろに倒れ込んでいく公爵夫人に向けて、蟻地獄の巣のように抉れた地面の中央で、ジャックに抱きかかえられている格好のアリスが、右手を突き出す。
彼らの周りにはバンダースナッチの膜が形成されていた。
アリスの突き出した右手が、銃の形を取る。
一拍後、彼女は公爵夫人の頭部に向けてバンダースナッチの塊を放った。
しかし、そこで公爵夫人の姿が消えた。
撃ち出されたバンダースナッチが絶叫と共に回転しながら、眼前を数百メートル、放物線状に抉る。
「消え……」
消えた……? とジャックが言おうとした瞬間だった。
彼が反応するより圧倒的に疾く、何か重機のような衝撃が、鎧の一部を吹き飛ばした。
「ッぐ……!」
凄まじい衝撃だった。
まるで何トンもの質量がある物体に弾かれたように、ジャックの左腕がひしゃげ、粉々になって飛び散る。
そのまま彼は空中に跳ね上げられた。
「……アリス!」
叫んだが、遅かった。
彼がダーインスレイブを構えるより先に、取り残されたアリスの前に、人間大の「何か」が立った。
公爵夫人だった。
スラリとした長身に、体のラインが浮き出るビロード服を着ている。
アリスのバンダースナッチに抉られた脚などは、服ごと再生していた。
「ごきげんよう」
ニタリ……と、口が裂けそうなほど開いて、先程までは巨躯だった彼女は邪悪に微笑んだ。
「そして、さようなら」
アリスが銃の形にした右腕を彼女に向けるのと、公爵夫人が振り上げた腕を、アリスの脳天に振り下ろしたのはほぼ同時だった。
絶叫とともに放たれたバンダースナッチの塊だったが、それは公爵夫人の固めた拳で止められていた。
アリスが歯を強く噛み締めて、ガクガクと揺れる右手を左手で押さえる。
凄まじい力。
いや、これは力ではない。
「重さ」……質量だ。
公爵夫人の手に当たっているバンダースナッチは、全力で回転をしている。
それと同等の力で、彼女は腕を押し込んでいるのだ。
重い。
アリスがそう感じた途端、彼女にかけられている、およそ数百トンもあるだろうか……その「重量」に耐えきれず、砂漠の地盤がグラグラと揺れ始めた。
アリスを中心に砂漠が円錐状に歪んでいく。
「……!」
声にならない叫びを上げて、アリスはバンダースナッチに全集中力を込めた。
公爵夫人が空中に浮き上がる。
「あら……?」
彼女は意外そうにそう言って、左腕でアリスのバンダースナッチを押さえながらケタケタと笑った。
「お馬鹿さん! 貴女如きの『質量』では、わたくしの圧倒的な質量には勝てない!」
公爵夫人。
このナイトメアのセブンスは進化している。
おそらくルイスに弄られたのだろう。
ジャバウォックが持っていた即時再生能力を備えているのもその一環だと思われる。
だが、このセブンスは異常だった。
おそらく公爵夫人は、質量だけをそのままで維持し、体の大きさを自在に変えることができる。
そして、彼女はその自分の質量さえも自由にコントロールできる。
アリスの周囲の空間が、ギシギシと音を立てて歪み始めた。
冗談のような出来事が起こっていた。
あまりにも巨大な質量で押しつぶされかかっているため、空間それ自体がエラーを起こしている。
アリスの周りの砂漠を構成するデータが、きしみを上げて崩壊を始めていた。
全力の攻撃だった。
アリスの右目からのぼる青白い炎は、今や彼女の体全体を包むほど広がっている。
食いしばった歯がガチガチと揺れている。
彼女の鼻から血が流れ始めた。
「意外と頑張るわねえ……」
呆れたように吐き捨て、空中から全体重をアリスにかけつつ、公爵夫人はまたケタケタと笑った。
「ここの空間ごと虚無に落としてあげる!」
「アリス!」
左腕を失ったジャックが、砂漠を駆けて二人に急接近する。
そして雄叫びを上げながら、ダーインスレイブを右腕で上段に振り下ろした。
公爵夫人の頭部から両断した……と思われた斬撃だったが、それは彼女の頭部に半分ほど食い込んで止まった。
「な……何だ……! 動かん……!」
全力でダーインスレイブを押し込むジャックだったが、公爵夫人はアリスのバンダースナッチを押さえ込みながら、彼の方をグルリと向いた。
そして頭に剣を食い込ませた状態でニタリと笑う。
「そんな小さな質量ではダーメ……」
ささやくようにそう言う。
その彼女の背中がバリッと破れ、また幾本もの腕が生えてきた。
その一つが拳を作り、ジャックの腹部を殴りつける。
「ぐおおおおお!」
見た目の体格では明らかに大きなジャックが、また吹き飛ばされた。
鎧の胴体部分がひしゃげて砕ける。
中の黒い、筋肉のような物体と……青い玉。
彼の「核」があらわになった。
公爵夫人はそれに向けて背中の腕を伸ばそうとして……。
「あなたの相手は、私よ」
奇妙にブレた、少女のものとは思えない機械質な声に、動きを止めた。
一瞬、それがアリスが発したものだと認識できなかったのだ。
次の瞬間、アリスが放ち続けていたバンダースナッチの一部が、槍のように形を変えた。
それは高速で回転しながら、金切り声を上げて公爵夫人の耳に突き刺さった。
そして反対側まで抜ける。
ダーインスレイブとバンダースナッチに頭を抉られ、公爵夫人はそれでもアリスに「質量」をかけようとし……。
頭部に侵入したバンダースナッチが上げた金切り声に動きを止めた。
「アアアアアア……ガアアアアアア!」
公爵夫人がガクガクと体を痙攣させ始める。
アリスの体にかかっていた質量がフッ、と消えた。
崩壊しかかっていた周囲の空間が、ひずみを上げて停止する。
公爵夫人の頭部に侵入したバンダースナッチは、反響するように「音」を増幅させていく。
ナイトメアの頭部が、少しずつ、ボコボコと沸騰するように膨らみ始めた。
アリスは右目から凄まじい勢いで青白い炎を噴出させながら、歯を砕けんばかりに噛み締め、右手を公爵夫人に伸ばしていた。
腕の中で脈動するバンダースナッチが大きくブレて回転を続けている。
小さな体がガクガクと揺れる。
開いた手の平を、握り潰すようにゆっくりと閉じていく。
その動きに連動するかのように、公爵夫人の頭の中で音を増幅させるバンダースナッチ達の動きが、次第に高速化していった。
「アアアアアアッッッガガアアアア!」
もはや言語とも呼べるものでもない絶叫を発しながら、公爵夫人は立ったまま頭を掻きむしっていた。
目の玉が半ば飛び出しており、鼻や耳から黒い血液が噴出し始める。
「倒れ……ろ……!」
アリスは呼吸が出来ていないのか、真っ青な顔をしながら、切れ切れの声を発した。
しかし力を緩めることはせず、逆に集中して強めていく。
公爵夫人は頭をガリガリと掻きむしりつつ、よろめきながらアリスに向けて足を踏み出した。
そして彼女に震える手を伸ばす。
「や……やめて……わ、わたくしの負け……負けです……こ、このままでは……あああ頭が……破裂ししししして……しまう……」
グワングワンと頭を揺らしながら懇願する公爵夫人。
アリスはそれでも力を込めようとして……。
『お願い……アリス……』
公爵夫人が突然発した、やけにクリアな「別人」の女性の声に、一瞬だけ、反射的に動きを止めた。
『母さんをこれ以上……痛めつけないで……』
耳の奥を抉るような声だった。
ズキン、と心臓のある位置に激しい痛みが走った。
致命的な隙だった。
予期していなかった胸の痛みによろめいたアリスの、一瞬の力の緩み。
公爵夫人はニタァと笑い、転がるように地面を蹴った。
そして四足獣を連想とさせる動きでアリスに駆け寄り、頭を掴んで地面に叩きつける。
轟音と砂が吹き上がった。
地面に崩れ落ちたジャックがアリスの名を呼ぶ。
公爵夫人はもうもうと砂が吹き上がる中、アリスの細い首をガッシリと両手で掴んでいた。
凄まじい重量が手と手の間にかかる。
首を守っているバンダースナッチがミチミチと異様な音を立てていた。
「ッぐ……」
身動きが取れないアリスが、気管を「質量」で圧迫されながら、左手を固める。
そしてバンダースナッチの塊を手の平に集め、もう一度公爵夫人の耳に叩きつけた。
大量のバンダースナッチが彼女の頭部に入り込み、回転し、絶叫し、「音」を更に増幅させる。
「死……ねェ……ェェエエエ!」
公爵夫人は頭部を醜くボコボコに変形させながら絶叫した。
アリスの首を守っているバンダースナッチにヒビが入り、彼女の周囲の砂漠が重量に耐えきれず、また崩壊を始める。
空間が崩れていき、真っ黒い虚無のようなものが見え隠れし始めた。
息ができない。
酸欠で視界が白く明滅していた。
かけられている重量は、もはや空間に存在できる密度ではなかった。
しかも加速度的に大きくなっている。
もはや息を吸うというレベルではなく。
体がねじ切れそうな感覚。
そして空間が徐々に壊れて消えていく音。
砂漠の所々に穴が空き、周囲を揺らす衝撃波に砂が動かされ、そこに雪崩のように砂が流れ込み始めた。
アリスは、ヒビが広がり始めたバンダースナッチの防護を見て、必死にジャックの方に視線を向けた。
公爵夫人の一撃で腹部を吹き飛ばされたジャックが、アリスに向けて手を伸ばしていた。
その指先を見て……彼女は歯を食いしばって動いた。
もはや視界がない状態で、感覚だけでバンダースナッチを左腕に集める。
そして「質量」を掻き分けるようにして、公爵夫人の頭部に突き刺さっていたダーインスレイブを掴んだ。
この剣は、命を吸う。
それはナイトメアである自分もそうなのだろうか。
考えている暇はなかった。
アリスは掴んだダーインスレイブを力の限り引き下ろした。
公爵夫人が顔面から腹部まで袈裟斬りに両断される。
しかし、それでも尚彼女はアリスの首にかけた力を緩めようとせず……。
アリスは、噴水のように黒い血液が飛び散る中。
ダーインスレイブを引き寄せ、公爵夫人の胸の奥で光る、白い球体にそれをのこぎりのように突き立てた。
ナイトメアが悲鳴を上げた。
天を仰ぎ、ガクガクと体を揺らす。
アリスは腕がへし折れそうな中、一気にダーインスレイブを引いた。
◇
「……ゲホッ……ゲホ……ッ……」
血痰を吐きながら、アリスは何とか体を起こそうとしていた。
空間に空いた穴に砂が流入し、それに流されていたのだ。
まだ視界が元に戻らない。
鼓膜にも異常があるようで、音も聞こえない。
息ができない。
公爵夫人は倒れた。
しかし、彼女はアリスの足首をしっかりと掴んでおり。
セブンスは消えていなかった。
最期の抵抗とばかりに、周囲にかかる重量が更に加速していく。
まずい。
まずいことは分かるが、脱出ができない。
バンダースナッチで体を守るのが精一杯で、もはや指先一つ動かない。
動かすことが出来ない。
死。
殺られる。
アリスの胸にヒヤァとした冷たい感覚が広がった。
恐怖にも似たそれは、一瞬で広がり……。
フッ、と周囲にかかっていたすべての「質量」が、次の瞬間消失した。
アリスの足首を掴んでいた公爵夫人の頭部が、ついに柘榴のように破裂したのだった。
周囲に真っ黒い血液と、ナイトメアの肉片が飛び散る。
力を失い、公爵夫人は空間に開いたエラー……虚無の「穴」に砂ごと吸い込まれていった。
アリスはそれを確認することも出来ず……。
ジャックの鎧の腕に体を掴まれ、すんでのところで引き上げられた。
◇
公爵夫人の質量による地震で、シェルターもだいぶ被害を受けていた。
ジャックが空間を斬り払い、アリスをシェルター中枢に置き、姿を消してから、既に2日が経過していた。
アリスは治療室の個室、そのベッドに横になっていた。
腕には数本の点滴がつけられている。
見た感じ、明らかにやつれてはいた。
その隣で林檎の皮を剥いていたフィルレインが、心配そうにアリスの左目を覗き込む。
そしてフォークに刺した林檎のかけらを差し出した。
「アリス様、これくらいならいかがでしょう……?」
アリスは頷いて口に入れて、噛んだ。
シャリ、シャリ、という音がする。
しかしすぐに彼女の顔は苦悶に歪んだ。
腐った泥水のような臭いと味がした。
体的反応で、慌てて吐き出す。
「ゲホッ……ゲホッ……」
何度かえづいてから、アリスはフィルレインが差し出したトレイに向けて盛大に胃の中のものを吐き出した。
猛烈な吐き気だった。
抑えることもできない。
彼女の吐き出した胃液は、真っ黒だった。
まるでイカスミのようなそれを見て、フィルレインが青ざめる。
「アリス様……」
アリスの背中をさすりながら、フィルレインはトレイを横に置いて、タオルで彼女の顔を拭いた。
「申し訳ありません……少しなら大丈夫かなと……」
「……フィルが謝ることじゃないよ……ごめんね……」
深く息を吐いて、アリスはまたベッドに横になった。
そして深く息を吐く。
フィルレインは辛そうな顔で彼女を見ていたが、トレイを水道に持っていき、黒い何かを水で洗い流した。
そして、椅子の上に座っていたラフィを見る。
「……しかし、何か口に入れないと。このままではアリス様が動けなくなってしまいます」
「…………」
ラフィは少しの間沈黙していたが、やがて静かに口を開いた。
「もう分かっていると思うけど……一応、言うね。アリス、聞いてくれ」
「…………」
アリスが横目をラフィに向ける。
「君は力を使いすぎた。セブンスが異質に進化を始めていて、それは僕にも止められない。君を構成するデータは、もはや『人間』のそれではなく、『ナイトメア』に書き換わってしまっている」
「そんな……!」
フィルレインが息を飲んで唇を噛む。
そして彼女はすがるようにラフィに言った。
「……何とかならないのですか? アリス様が、ナイトメアになってしまうなんて……そんな、そんな……!」
「『なってしまう』のではないんだ、フィルレイン」
ラフィは重苦しく続けた。
「もう、『なってしまっている』んだ」
「…………!」
言葉をなくして、フィルレインは俯いた。
その握った手が小さく震える。
「酷い……」
「…………」
「酷すぎます……こんなの……」
彼女の目からポロポロと涙が流れ落ちる。
「アリス様は誰よりも戦って、誰よりも自分を犠牲にして……怖い思いも沢山して……そんなこと、ひとつだって、本当はしたくないのに、させられて……その結果がこんなのって、ないです……ありえないです!」
「ありえなくても事実なんだ」
「どうしてそんなに冷静なんですか! あなたも、ナイトメアの同類だからですか!」
激高したフィルレインに怒鳴られ、ラフィはハッ、と大きな目を丸くした。
その表情を見て、フィルレインは発しかけていた言葉を止めた。
そして強く歯を噛みしめる。
「二人とも、やめて」
そこでアリスが口を開いた。
彼女はフィルレインの方を向いて、掠れた声で言った。
「怒ってくれてありがとう。フィルは、優しいね」
「アリス様も……」
「…………」
「どうして、そんな風に落ち着いていられるんですか……?」
「…………」
問いかけられて、アリスは天井を見上げ、小さく息をついた。
そして残った左目で、天井に伸ばして広げた右手を見る。
バンダースナッチの虹色のゆらぎが、体から立ち昇っているのがはっきりと見てとれた。
「分かってはいたの」
「…………」
「私、もともと人間じゃなかった。紛い物の、データの断片だって。ラフィの管理権限で作られた、正規データでさえないモノ……失敗作のダスト(ゴミ)なんだって。それね、もうだいぶ前から分かってはいたんだ」
「アリス様……」
「…………」
口をつぐんで、ラフィが黙り込む。
「だから怖くなくなった……傷つくのも、死ぬのも怖くなくなった」
「…………」
「……そう、思ってたのに……」
伸ばしたアリスの手が震えていた。
彼女は手を降ろして、病院服の胸を掴んだ。
そして小さく体を震わす。
「公爵夫人に、確実に『殺される』って思った瞬間、怖かった……」
「…………」
フィルレインが辛そうに顔を歪める。
「怖かったんだ……私、人間じゃないのに……私、ナイトメアなのに……怖かったの……凄く、凄く怖かった……死にたくないと思った……不思議だよね、人間じゃないのに……どうしてなのかな……」
ポタ……ポタ……とアリスの残った左目から、涙が毛布の上に落ちた。
フィルレインはしばらく彼女を見下ろしていたが、やがてそっと、後ろからアリスを抱きしめた。
「……怖くたっていいんですよ……」
「…………」
「それでも、アリス様は『人間』なのですから……」
アリスは目を閉じて、自分を抱きしめるフィルレインの手をそっと握った。
「……ありがとう……」
小さな呟きは、換気扇の乾いた音に紛れて、消えた。
◇
「oh,Happy day...」
鼻歌を歌いながら、ルイスは目の前の端末を操作していた。
それは複数のモニターが取り付けられている巨大な機械で、カプセルが周囲にいくつも接続されている。
そのカプセルの中には、培養液と、人間の脳が浮いていた。
モニターにはおびただしい数の数字の羅列が映し出されている。
キーボードを大量に体の周りに並べ、彼はあぐらをかいて床に座り、キーを見もせずにそれらをカタカタと操作していた。
「ルイス様」
そこで、その雑多とした薄暗い部屋の扉が開き、声がした。
黒いスーツに身を固めたライオン頭のナイトメア……ジャバウォックが部屋の中に入り、鼻歌を歌いながら振り返りもしないルイスに続ける。
「公爵夫人が殺られました。コアも、恐らくは回収不能です」
それを聞いてルイスはピタリ、と鼻歌と手を止めた。
そして首を回してジャバウォックを見る。
「……で?」
問いかけられたジャバウォックは、一瞬言葉を失った後、気を取り直して言った。
「……公爵夫人が、アリスに殺されたと言ったのです」
「…………」
はーっ、とため息をつき、ルイスはモニターに視線を戻した。
そして複数のキーボードを操作しながら言う。
「何か面白い話でもあるのかと思えば。そんなことか……」
「そんなこと……?」
ジャバウォックの頬を冷や汗が流れる。
彼はしばらく押し黙っていたが、低い声で言った。
「仲間が殺されたのです」
「そうだねえ」
どうでも良さそうにルイスはそう返し、また言った。
「……で、『だから何だ』と私は君に問うたんだ。その回答をまだ得られていないなぁ」
「仰っている意味が……分かりません……」
ジャバウォックが手を握りしめて、絞り出すように言う。
ルイスはまた深くため息をついて手を止めた。
そして体ごと振り返ってジャバウォックを見る。
「つまらん。君達ナイトメアはつまらん。公爵夫人が死んだ? 死んだから君はどうしたいんだい? 君自身の意思はないのかい? そこに、君はいるのかい?」
意味不明な問いかけだった。
だが、ジャバウォックはそれを聞いて、一拍置いてから目を見開いた。
そして片手で頭を抑え、よろめく。
「え……」
何かを思い出したかのように呟いた彼を見て、ルイスは面白そうにケタケタと笑い、手を叩いた。
「そうそう! そういう顔! そういうのをもっと見せてくれよ!」
「ルイス様……? あなたは……」
ジャバウォックはそこまで言いかけたが、頭痛がしたのか、歯を噛み締めて両手で頭を掴んだ。
「お、俺は……俺……俺は……俺は……」
「ふーむ……」
ルイスはそう言って、キーボードを横にのけながらゆっくりと立ち上がった。
そして白衣のポケットに手を入れ、ジャバウォックに近づく。
「なぁ『魔獣』よ? 君達は一体何なんだい? 答えられるかい? いいや答えたまえ。君は、ナイトメアとは一体何なんだい?」
「お……お止めくださ……い……頭が……わ、割れる……ぐぅうう!」
ジャバウォックが歯を砕けんばかりに噛みしめる。
その鼻と両目から黒い血液が流れ始めた。
「俺は……俺は……アア……ガガ……」
「ハハハハハハハハハハハ! 苦しいかい? 苦しいだろう? 頭が破裂しそうかい? そうだろう? 今日も明日も明後日も! 永遠にHAPPY DAYだ! 私はとても、とても気分がいい!」
「アアアアアアアアア……!」
膝をつき、天を仰いで声にならない絶叫を上げるジャバウォックの肩をポンポンと叩いて、ルイスは彼の耳にそっと囁いた。
「気分がいいついでに教えてあげよう。お前達、『バグ』に」
扉の向こうを見るルイス。
そこにはジャナウォックと同じようにのたうち回って苦しむ数体の影があった。
彼は両手を広げて、歪んだ笑顔で言った。
「お前達は『バグ』だ! このラビリンスプログラムに蓄積した、クズ共の溜め込んだ憎悪の集合体だ。お前達に実体は存在しない。お前達はただ単なる憎悪であって、『ここに存在してはいない』んだ! ああ、何て素晴らしいんだ……」
うっとりと歩き回りながら、ルイスはパンパンと手を叩いて笑った。
「人間は幸せを得て不幸を棄てて傷を癒やす。ラビリンスプログラムは、そもそもが『そう造られていた』のだから当たり前だ! ならその憎悪を溜め込んでみれば……? 私はそう思った! そう考えた! 憎悪の形を見てみたい、そう思った!」
苦しむナイトメア達に振り返り、彼は引きつった笑い声を発した。
「それがお前達だ。排出されたバグ、バグった憎悪の塊、意思! そこに存在意義はない! お前達は存在してはならない者達! 解るか? 解らないかい? 解らないだろうなぁ!」
うずくまったジャバウォックの脇にしゃがみ込み、口を裂けそうな程に開いてルイスは囁いた。
「だって、私がそうプログラムしたんだからなぁ……!」
「…………!」
震えながら、恐怖の瞳でジャバウォックはルイスを見上げた。
彼に微笑みかけ、ルイスは大声を発した。
「さぁ次は誰かな! 見事勝ったゴミには、私が『存在意義』をプレゼントしてあげよう!」
◇
すぅ、すぅ、と寝息が聞こえる。
アリスは残った左目を開けて、隣の椅子に座ったまま眠っているフィルレインを見た。
そして静かに起き上がり、点滴台を引きずりながらよろよろと歩き出した。
そして病棟の、電気が点滅している隅で足を止める。
ジャックが背中を丸めて座っていた。
公爵夫人にやられた破損がまだ残っている。
「……ジャックさん、起きてる?」
小さな声で呼びかける。
鎧のナイトメアはゆっくりと顔を上げ、静かな声で答えた。
「起きてるよ。アリス。おいで」
「うん」
アリスはうなずいて、ジャックに座るようにそっと体を預けた。
ジャックが鎧の腕で彼女を抱く。
「まだ治らない……?」
「大丈夫だ。もう数時間でこのくらいは治癒する」
「そう……良かった」
「ラフィは周囲の偵察に出てる。危険がないといいが……」
「うん……」
アリスはジャックの腕を抱いて引き寄せ、小さく息をついた。
「……ジャックさん」
かなり長い間、その姿勢で沈黙していたアリスが、不意に口を開いた。
ジャックが落ち着いた声でそれに返す。
「……どうした?」
「私、決めたよ」
「…………」
ジャックは反射的に声を発しようとして、しかし思いとどまって口をつぐんだ。
アリスはジャックの腕を抱きながら、掠れた声で言った。
「ラフィの管理権限で『外』にアクセスしよう」