運命に導かれて 10/一つの決着
少女を盾にして近づくハンスへ、アン=クリスティンはグリーンの瞳を細め、奥歯を強く噛んだ。
(チッ……、なんてことなの。完全に私のミスだわ。この辺の住人はとっくに逃げたと思って気配感知をすることを怠った。村の中での戦闘だったのに…… やはり私も動揺していた様ね)
深いため息を吐いてから、ハンスへ交渉を始める。
いや、この状態では交渉というより一方的な話となるだろう。
しかし、ここで諦めては全てが終わってしまう。
この娘だけでも助けるにはどうすれば良いかを考えなければ。折れかかった心を奮い立たせた。
「先ずはその娘を放しなさい。話はそれからよ」
「何を言っているのですか? 先ずはこちらの言うことを聞いてもらいます」
「はあ? あんたこそ何言ってるの? 人質を取る様なヤツの言葉なんか信じられるわけないじゃない」
「状況を見て話をしてください。私が貴女の要求を飲む必要はないのですよ」
ハンスの要求はもっともだ。
この状況ではアン=クリスティンがハンスのいうことに従うしかない。
しかし、彼女は何かと文句をつけ話が進まない。
文句というよりギャーギャーと喚いてイチャモンの様であった。経験が豊富というかなんというか。
流石にハンスも話が進まないと辟易してきた。
「OK! 分かりました。ではこうしましょう。この娘を途中まで歩かせます。そこまで歩いたのを確認したら、貴女はワンドをこちらへ投げてください。変な動きをしたら直ちにこの娘の背中を切り裂きますので」
「……ええ、分かったわ。ワンドを投げた後はどうするのかしら?」
「それは明白ですよ。貴女は殺します。ですが、安心してください。この娘に私は一切の危害を加えません」
「ふん。まあ腐っても騎士団副団長様ですからね。その言葉だけは信じるわ」
「ありがとうございます。では……」
ハンスは抱えていた少女を地面に下ろすと、屈み込み少女の顔を自分へ向けて低い声で言う。
「聞いていたでしょう? 走ったりせずゆっくりと歩くのですよ。おかしなことをしたら……」
泣きながらコクコクと大きく頷く少女が、ゴクリと唾を飲み込み歩み始めようとした時、アン=クリスティンから声がかかった。
「ねえ、一つお願いを聞いて欲しいんだけど」
「今更なんです? 願いなど……」
いささか苛立ちの見えるハンスに両手を合わせて懇願すると、話せと言わんばかりに顎をしゃくり上げた。
「どうせこのあと直ぐに殺されちゃうんでしょ? その前に神への祈りと残していく家族への祈りをさせて欲しいの。時間は取らせないわ」
まあ、良いでしょうと了承したが、先ほど下ろした少女を再び抱き抱え彼女を警戒する。
その姿をアン=クリスティンは鼻で笑うと、ハンスが更に苛立ったのを感じたので、彼の気が変わらないうちに祈りを始めた。
両手を胸の前で組み、双眸を閉じる。
――そして数十秒。
「さあ、もういいでしょう! そんなに心残りなら、貴女の家族も近いうちに天国へ送ってあげますよ」
なかなか終わる気配のないアン=クリスティンへ、焦れたハンスが怒鳴る。
家族のことを言われ凄まじい形相で睨むと、最後に胸からかけたペンダントにキスをしてハンスの方へ向き直った。
「待たせたわね。さあ、その子を放しなさい」
少女がハンスの顔を伺うと、震えている肩を軽く押さえつけ注意を与える。
「さあ、あのお姉さんの元へゆっくりと歩きなさい。私が止まれと言ったらその場で止まるのですよ」
コクコクと鼻をすすりながら頷く少女の背中を押し出すと、少しだけよろけながらアン=クリスティンへと歩みを始める。
咳き込みながら嗚咽を上げ、溢れる涙を右手で払いながら一歩一歩進む。
その目は助けてくれるだろう目の前の女性から決して外そうとはせずに。
アン=クリスティンとハンスはおおよそ十メートルほどの距離で対峙していた。
少女が十歩進み、十一歩目を出そうとした時にハンスから止まれと声がかかる。
彼の声にビクリと体を震えさせ、上げかけた左足を元に戻し石の様に固まった。
「そこで止まっていなさい。さあ、アン。手に持っているワンドを私の方へ投げてください」
ハンスの言葉に諦めた様に深いため息を吐くと、右手に持っていたワンドを勢いよく彼の足元へ放り投げた。
戦いにおいて、今まで一度も手を離したことのなかった愛用のワンド。
魔法士の師匠で夫でもあるサロモから愛とともに贈られた最高級の一品であり、魔力を底上げし魔法を形作る彼女にとって最重要のアイテム。
いわば剣士の剣であり、魔法士にとってワンドを投げ捨てるとは、完全なる降伏を意味した。
足元に転がってきたワンドを一瞥すると、ハンスは石の様に固まっていた少女に動いても良いと許可を出す。
しゃがみ込み両手を広げているアン=クリスティンの元へ勢いよく走り出すと、そのままの勢いで抱きついた。
「よしよし。もう大丈夫。怖かったね。もう大丈夫だからね」
抱きしめた手で少女の背中を優しくさすりながら、落ち着かせようとその胸に包み込む。
先ほどまでしゃくり上げていた嗚咽もだいぶ落ち着いたが、依然として体の震えは治ってはいない。
首元に剣を向けられていたのだ。
小さな少女にとってどれほどの恐怖だったのだろう。
しかし、いつまでも少女を抱きしめてはいられない。
背中をポンポンと叩き、少女の両肩を掴むと、息のかかるほどの近さでお互いの目を合わせる。
「さあ、お逃げなさい。頑張って走るの。出来るわね」
「うう、お ねえ さ……」
「大丈夫だから。さ! 行って!」
くるりと少女を自分とは逆の方向に回して勢いよく押し出す。
二、三歩前に出たが振り返り立ち止まってしまう少女に、アン=クリスティンは感情的に声を張り上げ厳しい口調で怒鳴る。
「行きなさい! 振り返らず目一杯走りなさい!」
「ううう――」
怒られたかの様にビクリと体を震わす少女。
彼女の厳しい大声の勢いに押され、下唇を噛んで精一杯の勇気を振り絞り少女は走り出した。
少女が懸命に走る後ろ姿を数秒眺めると、近づいてくるハンスへ顔ごと視線を移す。
ハンスは一メートルほどに近づいた立ち止まり、黙って彼女を見下ろす。
そのニヤけた顔は勝利の余裕が見て取れたが、目の奥はどこか沈んでいる様に感じた。
「アン。貴女は昔から愛とか情を大事にしていましたね。しかし、今回は見知らぬ少女の命と自らの命と引き換えにするとは……」
「馬鹿だと言いたいの?」
「いえ。さすが王宮魔法士だと感心しています。養成所の訓練で他人のために自己犠牲を厭わない教えは私も受けましたよ。しかし、それを実際にされるとはね」
「私たち魔法士は王と民のためにこの身を捧げ尽くす。貴方も王に認められた騎士なら当然同じだと思っていたけどね」
「ええ、王と民のためにこの身を捧げる…… 私は真っ平御免ですね」
「でしょうね」
「先ほど私のことを会った時から気に食わなかったと言いましたよね」
「あら? そう聞こえた? まあその通りなんだけど」
「私も同じ気持ちでしたよ。初めて会った時からアン、貴女が嫌いでたまらなかった。愛だ何だと大騒ぎしている姿は見ていて不快でした。団員たちにも何かと世話を焼いて…… 他人に対して気を使う様は気持ち悪くて仕方がなかった」
そう、と小さく口にしたアン=クリスティンはゆっくりと立ち上がると、スカートに付いた土埃を軽くはたき落とす。
半歩前に進みハンスを正面に見据えた。
「さあ、もういいでしょ。さっさと終わらせてちょうだい」
「……良いでしょう」
彼女の声に応える様に、ハンスは右手に持っていた剣をゆっくりと持ち上げ、左手を添えながら右斜上に剣を構えた。
「あの世でニコラウス団長と仲良くしてください。では、さようなら」
ほんの一呼吸の間を置き、血がこびり付き鈍い光の刃がアン=クリスティン目掛けて振り下ろされる。
「ええ、『さようなら』」
アン=クリスティンの顔が寂しげに崩れるのをハンスが一瞬の違和感を感じたと同時に、背後から強烈な衝撃を受けた。
そして彼女の首にある頸動脈へ目掛けて振り下ろされていた刃は、その衝撃により狙った位置からだいぶ上の空を切り裂いていた。
「ガフッ…… こ これ は……」
「キャァ! ああ……」
ハンスは振り下ろした剣を力なく落とす。
口から大量の血を吐き、自分の鳩尾から覗いている青白く鋭利なものを見やる。
「何故こんなものが俺の腹から突き出ているんだ? 何だ? 何が起こった? っ! 焼ける様に熱い…… 何だこれは? いや氷か? まさか……」
ハンスは状況がわからずパニックになる。
自分の腹から突き出たものを追いかける様に視線を上げていくと、青白く冷気を纏った氷の槍がアン=クリスティンの腹部辺りにまで達していた。
「お前…… まさか魔法を…… でもワンドが……」
突き刺さる傷口を手で押さえ、しゃがみたくても【アイスランス】が右腰を貫いて、ハンスと繋がった状態のアン=クリスティン。
激痛で顔は歪み、冷や汗が一気に吹き出す。
震える足で一歩、二歩、三歩と後ろへ進んだところでアイスランスの先端が彼女の体を通り過ぎ、重力に従う様にガクリと崩れ落ちるが何とか片膝立ちで耐える。
そこで初めて驚愕と混乱で真っ青な顔をしたハンスに向かって、双眸を弓なりにして笑いかけた。
視線の先、ハンスの顔が青白く固まる。
血を流しすぎているのも理由の一つだがそれ以上に驚愕が上回っていた。
呆然となっているハンスは、アン=クリスティンの言葉に腹を貫いている氷の槍より視線を彼女へ向けた。
「……別にワンドがなければ魔法が使えないわけじゃないわ。仕掛けておいた魔法の起動くらいはワンドが無くてもできるものよ」
「そんな兆候は…… まさか……⁈」
「ええ、ご推察の通り。さっきお祈りをしていた時に【ディレイマジック・アイスランス】を仕掛けておいたのよ」
「あり得ない⁈ 私はお前から目を離さなかった! 魔法を唱えていれば兆候を見逃すはずがない‼︎ ……いや光屈折の…… 幻術か⁈」
「そう、魔法の兆候そのものを見えなくしたのよ」
「それにしたって、こうも正確に……」
「それは難しくなかったわ。貴方のことだから必ず私の目の前まで近づいて自分の手で私を斬りつける事は確信していたもの。遠い位置からお得意の斬撃を飛ばされていたら終わりだった」
「……なるほど。私のことを私より理解していたということですね。しかし、私と一緒に自分までアイスランスで貫くなんて」
「さすがに正確な距離は分からないからね。それに…… 優秀な貴方のことだもの。目の前で魔法が発動したら対処されてしまうでしょう、私を斬りつける瞬間の背後をつく必要があったのよ」
「ははは…… さすが魔法士アン=クリスティン・ティレスタムですね。私が認めた王国随一の魔法士です…… そんなアンに優秀と言われて…… 嬉し い……」
アイスランスがその効果を終え霧の様に霧散すると、ハンスの鳩尾から大量の血が吹き出す。
吊られていた糸を切られた人形さながらにドサリと崩れ落ち地面に転がった。
地に頬をつけ横たわるハンスの顔は、目は見開き口から血を垂れ流す凄惨なものであったが、どこか険が抜け穏やかに感じた。
「これで本当にさようなら……ね」
アン=クリスティンも体を支えていることができなくなり、後ろへグニャリと倒れ込んだ。
彼女も虫の息と言っていいほど体力が限界に達していた。
傷も深く、未だ勢いよく血が流れ出す。
震える手で腰のポーチを弄り、回復薬を取り出すが、すでに体が言うことを聞いてくれない。
(お願い…… もう少し動いて……)
アン=クリスティンの願い虚しく、目の前が真っ白となりパタリと回復薬を持つ手が地面に落ちる。
目の端から温かい一筋の涙が流れるのを感じながら、その意識が遠のいた。
こうして魔法士アン=クリスティン・ティレスタムとハンス・オーベリソン副団長の戦いは幕を閉じた。




