邂逅 9/助けられたグスタフ
なんだかとてつもなく長い時間を彷徨っていた気分だ。
よく思い出せないが、非常に悲しく怖い旅路であったことは分かる。
現に今も頬を流れる涙が止まらない……。
ゆっくりと目を開くと、ボヤけてはいるが天井が見えた。
白い靄がかかったように意識もはっきりしない中で視線を動かす。やはり室内のようだ。
やがてグスタフは自分がベットに寝ていることに気がつき、起き上がろうとするが激痛が身体中に走り思わず声を上げる。
「ぐわっ⁈ ……ぁああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
あまりの痛みに顔を歪め唸り声を上げる。
(俺はどうしちまったんだ。エレオノーラはどこにいるんだ?)
何も思い出せず、何もわからず不安に襲われる。
「……おーい」
助けを求めるように声を絞り出すが、声がうまく出せない。
喉が乾いて張り付いているかのようだ。
もう一度、自分の体を確かめる。今度は慎重に末端から少しずつ動かしてみた。
左腕と両足に痛みが走るが右腕だけは痛みがあったものの他よりは大きく動かせた。
しかし先ほどから酷く暑い。
痛みを我慢して少しだけ動く右手で、自分にかけられている布団をめくる。
布団にこもっていた熱が解放され、ヒヤリとした心地よい空気にホッと息を漏らした。
首を上に持ち上げてちらりと自分の体を見ると、包帯だろうか、布状のものが全身に巻きつけてあった。
厚い胸板の向こうに両足の爪先が見える。その指先を少しだけ動かして、自分の足は両方ともついていることを確認すると少し安堵の声が漏れた。
痛みはあるものの、その感覚があまりなかったために欠損しているのではと少し不安であったのだ。
だいぶ意識も冴えて頭も回るようになると、やっと自分が見覚えのない部屋にいることに気がつく。
(こりゃぁ…… 俺の家じゃない…… 俺はどこにいるんだ?)
先ほどより更に注意深く部屋の中を見渡す。
高い天井に右手には大きな窓。その窓からは明るい日差しが差し込んできている。
外は快晴なのだろう。温かな光の束が重なってこの部屋を明るく照らしていた。
もう一度天井を見やると、この部屋自体の古さを感じさせる。
汚いというわけではなく、長い年月が経ってその色に変化したのだろう梁の色味に落ち着きを感じさせる。
(いい木材を使っているな)
職人のグスタフらしいことを思っていると、不意にガチャリとドアの開く音が聞こえた。
「何か声がしたと思ったら…… どうやら起きたようだね。気分はどうだい?」
年の頃は六十歳くらいだろうか。明らかに自分より年上の女性が自分を覗き込むように声をかけてきた。
綺麗な白髪を後ろに束ね、その顔に深いシワが見えるが、とても綺麗な顔立ちをしている初老の女性。
もちろんグスタフには見覚えは無いが、ここが目の前の女性の家だとすぐに分かった。
「あ…… う……」
ここは何処で貴女は誰だ? 俺はどうしてここにいる?
そう言葉にしようとするが、先ほどよりも声が出せない。
ゴクリと唾を飲み込もうにも、その唾が口の中にはなかった。
「ああ、喉が乾いているんだね。ちょっと待っておくれ」
初老の女性は枕元に近寄り、サイドテーブルに置いてあった水差しを手に取るとグスタフの口もとにあてがった。
慎重にゆっくりとグスタフの口に水を注ぎ込む。
乾いた大地が雨水を吸い込むように、グスタフの口の中では注ぎ込まれた水が喉に行くまでに吸収されたように感じる。
やがて口の中が潤うと、ゴクリと喉を通っていく。
一度その喉に水が通ると、一挙に水への渇望が襲ってきた。
ゴクゴクと喉を鳴らし、初老の女性に無言の要求をする。もっと飲ませろと。
「ごほっ―― おほごほっ⁈」
「そんなに慌てて飲むんじゃ無いよ。ほれ、もう少しゆっくりと飲みこみな」
初老の女性は、グスタフの胸元にこぼれた水を拭きながら、もう一度ゆっくりとグスタフの口もとへ水差しを置く。
今度はむせることなく飲み込んでいった。
水を飲んでグスタフが落ち着いたのを見計らい、初老の女性は覗き込んだまま尋ねる。
「あんた、ここが何処だか分かるかい?」
「……いや、分からない」
「そうかい、自分の名前は覚えているかい?」
「……ああ、俺の名前はグスタフ・リーグ。アルサス村のグスタフ・リーグだ」
「そうかい。頭もしこたま打っていたようだったから心配したよ。どうやら頭は無事らしいね」
初老の女性はそう言って、安堵したような笑顔を見せると覗き込んでいた体勢から少し後ろへ移動する。
手に持っていた水差しを元にあった場所へ置くと、ベットの横に置かれた椅子を引き寄せ、そこに座った。
「グスタフ……と言ったね。あんたは十日間も寝てたんだよ」
「……十日」
「そりゃぁ酷い有り様だったよ。全身血だらけで、手も足も明後日の方向を向いていたからね。よく生きていたもんさね」
カラカラと笑う初老の女性。
グスタフが何か言いたげなことを感じると、自分から名乗り出た。
「ああ、ごめんよ。あんただけ名乗らせて。私はユリアナ・カルヒネン。見ての通りの婆さんさ。この家で一人で住んでいるから、何も気兼ねすることはないよ」
「……カルヒネンさん」
「ああ、ユリアナでいいよ。で、なんだい?」
「俺は…… 俺はなんでここにいるんだ?」
「覚えてないのかい? あんたは崖の上から落ちてきたんだよ」
「……崖の上?」
「そうさ。あんたが落ちてきた十日前。大きな、そう、何かが爆発したような音が崖の上から何度もあってね。山が崩れたのかと思ったほどさ。逃げようとしたら崖が崩れてきてね。その崩れてきた崖と一緒にあんたも落ちてきたって訳さ」
「…………」
「あんたの他に三人落ちてきたけど、そいつらは可哀想に既に死んでいたよ。野犬の餌にするのも忍びないから、落ちてきた場所に埋めてやった。そして一人、息のあったあんただけを家に連れてきたのさ」
「……崖から落ちてきた?」
「そうだよ。何か思い出したかい?」
崖から落ちてきたという言葉、そして何度かの爆発……。
グスタフは頭の中に覆っていたモヤが晴れていくのを感じると、だんだんと当時の状況を思い出してきた。
「……赤い瞳…… 俺は……」
ブツブツと自分の中を整理するように断片的な言葉を呟く。
そして全てが繋がった――。
「俺は―― あの野郎を殺すために来たんだ‼︎ 目の前までやっと来たんだ! 俺は――」
興奮して大声を出すグスタフであったが、大きく動いたために激痛が全身に走りベットへ沈み込む。
「うぐぁっ……」
「ほれ、興奮するんじゃないよ。動ける体じゃないんだから。もう一度お水を飲んで落ち着きな」
グスタフは火照ったように真っ赤な顔で激しく呼吸を繰り返す。その口元には泡状になった唾が止めどなく溢れていた。
ユリアナが先ほどよりも勢いよく水差しからグスタフの口へ水を流し込む。
グスタフはそれをまともに吸い込むと、激しく咳き込んだ。
「ごほっごほっーゔゔほっ!」
「ほら、落ち着きな」
大きく咳き込み、その都度に全身へ激痛が走る。
グスタフはその痛みに悶絶をする。
深い深呼吸を繰り返し、徐々に冷静さを取り戻したのであった。
呼吸が落ち着いたグスタフにユリアナは何があったかを尋ねる。
「記憶が戻ったみたいだね。あんたに何があったか教えてくれるかい?」
グスタフは、鼻から大きく息を吸って呼吸を整えると、ユリアナを一瞥してから目を閉じる。そしてポツリポツリと自分の記憶を遡っていった。
「二ヶ月ほど前に俺の妻子は、魔物によって殺された…… その魔物を追って俺は討伐隊に志願してここまで来たんだ」
「……そうかい。奥さんと子供の仇討ちってわけかい」
「ああ…… だが、一向にその魔物は見つからなかった。そしてなんの成果もあげられず、俺たちの隊には帰国命令が出された。悔しかった…… だが、奴がいきなり現れたんだ。エレオノーラとアイラを殺したアイツが……」
「それで?」
「騎士たちと魔物の戦いが始まった。俺はやっと復讐ができると喜び勇んで戦いの場まで行ったよ。だけど次元が違った…… 俺には近づくことすら叶わなかった。だが、騎士と魔法士が奴を追い詰め、俺の目の前に落ちてきたんだ。今なら殺せる。そう思って槍を握って近づいたんだが…… 奴が騎士に攻撃をして、その余波で俺はやられちまったみたいだな」
大きく失意のため息を吐いてユリアナを見つめる。
「あの後、何が起こったかは分からない。そうして俺は今ここにいるって訳だ」
「そうかい。大変だったね」
「なあユリアナ。その魔物はどうなったか分かるか?」
ユリアナは一呼吸置いてから、グスタフへ顔を近づける。
「あんた、それを聞いてどうするんだい?」
「決まってる! まだ奴が生きていれば地の果てまでも追いかけて殺してやる…… そう、魔物は俺たち人間の敵だ。奴を殺して、他の魔物も全て殺してやる」
ユリアナはため息を漏らすと、グスタフの額に浮かぶ汗を冷たく絞ったタオルで撫でるように拭き取る。
「ここは山間の一軒家でね。周りには私以外に誰もいないのさ。近くにある村にもほとんど行かないから、その手の情報は入ってこないね。残念ながらその魔物が生きているか死んでいるか、私には分からない」
「そうか……」
「それにそんな状態じゃどうしようもないだろ。左手と左足は完全に折れているよ。それに右足首もかなり腫れていたから、こちらも折れているかもね。まあ、頭や胴体には致命的な傷はなかったお陰で、グスタフ、あんたは助かったんだよ。命があっただけでも奇跡だね」
「俺の命なんて……」
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ。あんたが命拾いをしたのは意味があるんだ」
ユリアナが今までと違って強い口調でグスタフを嗜める。
「命があることに感謝して、先ずは怪我を治すことに専念しな。その後のことは治ってから考えればいい」
「…………」
「いいね!」
そう言うと、水の入った桶を手にして部屋を出て行こうとするユリアナ。
先ほども冷たく絞ったタオルでグスタフの額を拭いていた。
今までも同じようにずっと看病をしていたに違いなかった。グスタフが落ちてきて十日間も。
グスタフはそう思い至ると、素直に言葉が出ていた。
「……ユリアナ。助けてくれてありがとう。迷惑をかける」
グスタフがドアノブに手をかけたユリアナの背中に礼をいうと、しばし動きが止まった。そして振り返り、グスタフの礼に優しい微笑みで答える。
「そんなことはどうでもいいさ。早く休みな」
ユリアナが後ろ手に閉めて出ていった木製のドアをしばらく見つめる。
頭の中では妻子を殺された現実、その仇を目の前にして本懐を遂げられなかった事が思い出され、全身の痛みに加えて頭もガンガンと煩く鳴り響く。
痛みが限界に達したグスタフは、半ば気絶するように眠りについた。




