邂逅 5/嵐の後
グスタフがマリウスに邂逅する直前、ヴィートは家路を急いでいた。
大雨から逃げるように、ぬかるんだ箇所を避けながら飛ぶように走り抜けると、家族の待つ赤い煙突の我が家へ駆け込む。
庇が長く迫り出した玄関先で帽子に付いた雨粒を手で払う。
ふと落とした視線の先では、靴とズボンの裾が盛大に汚れていた。
こんな汚れた靴のまま部屋に入ったらラウラになんて言われるか……。
粗方に泥を取り除くと、ぐっしょりと濡れてしまった上着を脱いで肩口を持ち勢いよく振るう。
水飛沫が足元のまだ乾いていた石畳に吸い込まれていった。
「まったく、後ちょっとの距離だったのに…… けっこう濡れたな」
村長の家から、興奮そのままの大急ぎで家に帰ってきた。
聖騎士である騎士団長のニコラウスや副団長のハンス、魔法士のアン=クリスティン。雲の上の存在としか思っていなかった人物と話せたのだから無理もない。
オリヴェルとニーロも同様で、三人で話しながら歩いていたが、いつの間にか競うように走り出し、そのままの勢いで別れて帰路についた。
ただ、ヴィートには気が重くなる一つの悩みがあった。
騎士団長ニコラウス直々の頼みである、野盗が潜む森の中を先導をするということ。
ラウラはヴィートが危険に首を突っ込むことに大層と嫌がった。以前のように今回も大反対をされるかもしれない。
「今回は聖騎士様からの頼みだし…… 大丈夫だよな」
などと淡い期待を持ちつつ玄関のドアを開ける。
実際、ヴィートもオリヴェルやニーロと同様に騎士の役に立ちたいと思っているし、直接頼み事をされて夢心地である。
しかも彼ら騎士団を引き連れて森の先導なんて大変な名誉のことこの上ない。
そんなヴィートの心を悩ませるのはただ一つ。
ラウラの悲しそうな顔を見るということ。
笑顔で送り出してもらえるように、なんと言って説得しようか頭を悩ませていたのだ。
「まあ、なんとかなるだろ…… ただいま〜」
先ほどから強くなった雨が激しく地面や建物に打ちつけられ、様々な打楽器を鳴らしたように響いている。
ヴィートの声は上書きをされるようにかき消された。
「聞こえないか、ただい―― ん? なんだ?」
もう一度、帰宅を知らせようと先ほどより大きな声を出したその時、雨音の中に人の声が聞こえた。
グスタフが帰っているようだ。
声はダイニングキッチンの方から聞こえる。
ラウラもいるのかと廊下を進んでいると、聞き覚えのない男性の声が聞こえる。
どうやらグスタフと男性が話しているようだ。
誰かお客さんかなとドアの前まで行くと、部屋の中から衝撃的な言葉が飛び込んできた。
「……はい。貴方が想像している通り、十七年前にこの近隣にて厄災を起こした魔物は私で――」
(魔物⁈ 厄災⁈ 十七年前って……)
頭の中で知らない人間の声が、言葉が回る。
自分を魔物という男の言葉、全く意味がわからず思考も止まるがそれは一瞬。
轟然たる雷鳴が鳴り響いたような衝撃音。
耳を抑えるほどの轟音と地震のように揺れた家。
何かが壊れ落ちる大きな破壊音が、ドアの中からヴィートの耳を劈いた。
一瞬たじろぎ逃げ腰になる。
さらに部屋の中から響いたドアをビリビリと震わす獣のような絶叫がヴィートの体を硬らせる。
(――親方か⁈)
咆哮がすぐにグスタフの叫び声だと気がつくと、及び腰だった身体が勝手に動いた。
ドアノブを勢いよく引き寄せて室内に飛び込むと―― 目の前の光景に絶句する。
血だらけで壁に上半身だけもたれ掛かる見知らぬ男性に、膝立ちで馬乗りになっているグスタフ。
グスタフはまるで野生の獰猛な獣のように猛り狂っていて、下の男性はなすがままで殴られていた。
「お前が殺したんだ‼︎ お前が――! 呪われた魔物の力でエレオノーラとアイラを殺したんだ! うぁあああああああああー‼︎」
グスタフが男性の胸ぐらを掴み、どうしようもないほど苦しそうに悲しい叫び声を上げている。
(親方の奥さんと娘さんの名前⁈ ……それを殺したって⁈)
ヴィートは頭の中に閃光が走ったかと思うと、全てのピースが繋がった。
(十七年前の事故で奥さんと娘さんは亡くなった。その原因があの男、魔物の男…… でもなんでそんな魔物が家の中にいて、親方に殴られているんだ?)
勢いよく扉を開けて部屋に入ったはずなのに、誰もヴィートが入ってきたことに気がつかない。
倒れたテーブルの向こう側で、床にへたり込んでいるラウラに気がつくが、彼女はグスタフを呆然と見つめたまま動かない。
口に手を当て唖然とした表情で、ただただ涙を流して、嵐のように狂い暴れる父親を眺めていた。
初めて見る、あまりにも悲痛に満ちた表情のラウラ。
ヴィートはそんな彼女を見て胸が締め付けられるように息が苦しくなる。
美しい顔をくしゃくしゃにして、声にならない叫びを上げるようにグスタフへ手を伸ばす。
彼女の視線の先をヴィートも追うと、グスタフがその太く逞しい腕を高々と上げて血だらけの男に斬りかかろうとしていることに気がついた。
(駄目だ‼︎)
心臓の鼓動が激しく鳴った。
理由は分からない。ただラウラの叫び声が聞こえた気がした。「やめて」と。
ヴィートは考えるより早く、自分でも気がつかないまま無我夢中でグスタフの背中に抱きついていた。
「駄目だ! おや、オヤジ――――!」
今まで父さんやオヤジなどと呼ぶのは何故か恥ずかしく、オリヴェルやナータンが言うように親方と呼んでいたが――今は無意識に親父と叫んでいた。
しかし、グスタフの暴挙は止まらない。
後ろから顔を覗き込むと、いつもの父親からは想像がつかないほど憎しみに満ちた瞳、形相。まるで別人だ。
顔色は赤黒く変色し、理性を無くして暴れ回る猪の背に乗っているようだ。
必死でしがみつき、グスタフを落ち着かせようと声をかけ続けるが、怒りに我を忘れた父親は止めようがなかった。
ついにヴィートの手を振りほどき、グスタフはその思いを遂げようとしている。
(オヤジを止めないと――‼︎ ラウラの前でこの男を殺させてはいけない‼︎)
そう直感したヴィートは、ナタを大きく振り上げているグスタフに最後の希望を乗せて叫んだ。
「ラウラが見てる‼︎」
ヴィートの想いは寸前のところでグスタフに届き、その凶行がなされることは無かった。
◇
部屋の中はグラスやカップが砕け散り、グスタフ愛用の工具が散乱している。
マリウスが座っていた椅子は、足と背もたれが折れて、もはや原型を留めていなかった。
テーブルは頑丈な作りであったが、グスタフの体重と勢いで倒れ天板が割れていた。
部屋の中だけ先んじて嵐が通り過ぎたように、ひどく散乱していた。
未だ続く雨音だけが部屋の中に響き、誰も言葉を発することができないでいる。
亀のように蹲り、嗚咽を漏らすグスタフ。
もう暴れるような気配はなかった。
肩で息をしていたヴィートも大きく深呼吸をして落ち着くと、グスタフに殴られ続けていた男性を看やる。
小さく息をする男性にホッとすると、頭、顔、身体と触りながら確認した。
どうやら命の別状はないが、鼻の骨が折れたようで大量の血を流し続けている。
男性の鼻血を抑えるように布を押し当てていると、見知らぬ女性がヴィートの横に膝をついて男性の頬を震える両手で優しく包んだ。
「貴女は……?」
ヴィートの言葉に答えず、その女性は涙を流しながら男性をキツく抱きしめた。
エレーナが先程まで休んでいたラウラの部屋までマリウスを運び、簡単な治療を施す。
やはり魔族だけあって丈夫であり、傷の治りも早いようだ。
グスタフの渾身の一撃をその顔面に叩き込まれれば、普通の人間であれば死んでいてもおかしくない。
それを何発も喰らったというのに、命には別状がなかった。
エレーナの方は薬が効いたのか、ベッドでゆっくりと寝られたおかげか、朝より体調も良くなっていたようだ。
今度はエレーナがマリウスを看病する形となっていた。
すぐにこの家を出ていくとエレーナは申し出ていたが、ひどい怪我を負った状態のマリウスを外に出すことも躊躇い、ヴィートは家の中にいるように説得する。
怪我人のマリウスが村人に見つかり、余計な騒ぎが起こることも避けたかった。
血で汚れた洋服を着替えさせ、エレーナが施す簡単な治療を手伝っていたヴィートは、不思議な気持ちに襲われていた。
目の前の男性、大人しく治療されているが、マリウスは魔物だという。
普通なら怖がり警戒をするだろう。
しかし、先ほど目にした光景…… グスタフから一方的に殴られ、抵抗する素振りすら見せないマリウスを見て、その警戒心は無くなっていた。
まるで殴られるたび、その一撃一撃に謝っているように見えていたから。
血だらけの髪の毛はお湯で拭かれ、頭を包帯で巻かれ、裂傷に軟膏を塗られ治療は終わった。
マリウスの容体は大分落ち着いたようであったが、見た目は間違いなく重症者のそれである。話すことなど到底出来ないはずだ。
しかし、部屋を出て行こうとしたヴィートの背中に一言だけ呟くように話しかけた。
「……全て私が悪いのです。以前の私がしでかしたこと、その結果なのです。私は殺されても仕方がなかった…… いや、殺されるべきだったのでしょう。お父様は当然のことをしただけです。 ……すみませんでした」
マリウスは目蓋を閉じ、一筋の涙を流し眠りについた。
エレーナが首元に毛布をかけ直すと、ヴィートの方へ向き直り深く頭を下げる。
ヴィートは何も答えることが出来ず二人を部屋に残して、グスタフとラウラの居るダイニングキッチンへ戻った。
ゆっくりと階段を降りて、気持ちの整理をする。
深呼吸のように大きく息を吸い、覚悟を持ってドアを開くと倒れていたテーブルは元の位置になおされ、グラスの破片などはラウラが片付けたのだろう、床も綺麗になっていた。
グスタフはただ黙ってテーブルの上で両手を組み頭を垂れて静かに座り、真っ赤な目をしたラウラが鼻をぐずりながら三人分の紅茶を用意している。
先程まで聞こえていた雨音も今ではほとんど聞こえなくなっている。だいぶ弱まったのだろう。
時折、パタタと水滴の落ちる音がするだけであった。
用意された紅茶の前の椅子を引きヴィートも席につく。
ラウラの淹れてくれた紅茶をすすると、その温かさに少しだけ和んだ。
チラッと壁際を見やると、壊れた椅子と壁に刻まれた刃の跡が先ほどの騒ぎから何も終わっていないことを思い出させた。
しばらく沈黙が続くと、やがてグスタフがポツリと言葉を呟いた。
「すまなかったな…… お前らの前でみっともない姿を見せちまって……」
それにラウラが弱々しい声で答える。
「ううん。私の方こそ何も考えずに家へあの人たちを入れて…… ごめんなさい」
「ラウラ、お前は何も悪くない。謝ることはないんだ。俺が我を忘れて…… ヴィトに止めてもらわなかったら…… ヴィト、すまなかった。ありがとう」
「いや……」
ヴィートは聞きたいことだらけであったが、言葉を飲み込んで二人を待つ。
また長い沈黙が続いたが、やはりその沈黙を破ったのはグスタフであった。
「今までお前らに話したことがなかったな。十七年前に何があったか……」
ヴィートとラウラは、ただ黙ってグスタフの次の言葉を待つ。
グスタフは深く息を吐く。
今までテーブルに固定していた視線を上げて、二人の顔を見やると、静かに過去を語った。




