絡み合う糸 3/落ちてきた少女
宿屋の裏手口、細い路地にある石壁で囲まれた五メートル四方の洗濯場。
太陽は傾き、石畳は石鹸と水で濡らされ、陽の光が届かなくなって更に暗く黒く沈み込んでいた。
「ああー! もう! まだこれだけ残ってるのかよ……」
ヴィートは罰として命じられた洗濯の仕事を七割ほど終えたところで、残っていた汚れ物を見て溜め息をついた。
抱えていた汚れ物をタライの中に投げ捨てるようにぶち込む。
泡と水しぶきが飛び散り自分にもかかったが、それには気にも止めずにいた。なぜなら、既にしっとりと全身が濡れていたからだ。
雪解けを終え、春を待つこの時期は日が暮れると急激に冷え込む。
タライにつける両手は痛いほどに冷たく、体の芯は熱を帯び温かさを保っていたものの、だんだんと寒さを感じるようになっていった。
「ううう――冷えてきた……、うげ⁈ なんだこのデッカいパンツ! 親方の……、いやナータンのか…… ちょっとは痩せろ!」
人の二倍はあろうかというナータンのパンツに悪態をつきながら力一杯に絞って、洗い終わった洗濯物の上に投げ捨てる。続けて次の洗濯物を手にすると休む事なく洗い出した。
ブツブツと文句を言いながらも、自分の失態を反省している。
何よりも親方やみんなの期待を裏切ったことに落ち込んでもいた。せめて罰として命令されたこの『仕事』はちゃんとやろうと心に決めていたのだ。
「あーあ、浮かれすぎちゃったな……」
深いため息をついて思わず空を見上げると、その鼻先に雨粒がポツリと落ちてきた。
先ほどまで綺麗に晴れていた空は、いつの間にか暗く厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうになっていた。
遠くの方からゴロゴロと地響きのような雷鳴も聞こえている。
「やばい! せっかく洗ったのに雨に濡れたらやり直しになっちまう!」
慌てて洗濯済みのシャツや下着を室内に運ぼうとするが、村からロゴスまでの間に溜め込んできた汚れ物の量は通常よりも多かった。
そうこうしている内にポツリポツリときていた雨は、瞬く間に本降りとなり、雨粒が石畳を激しく殴りつける様は、まるで滝壺のように白く霞んだ。
「すげぇ土砂降りじゃんか! 誰かー手伝っ――」
ヴィートの助けを求める大声をかき消し、身を揺るがすような凄まじい雷鼓が鳴り響いた。
耳をつんざく轟音に思わずヴィートも頭を、抱えしゃがみ込む。
空を縫うように走る閃光。
まるで伝説上のドラゴンが叫ぶような雷鳴は断続的に続き、すぐ近くに稲妻が落ちたかのように、ヴィートの幼さの残る体は衝撃波によって大きく揺れる。
「――誰か――、親方――‼︎」
目を瞑り、しゃがんだまま助けを求めるが、雷鳴と打ち付ける雨音が大きすぎて自分の出した声が自分でも聞こえない。できるだけ体を小さくし、必死に雷雲が通り過ぎるのを耐えていた。
暫くして不意に遠ざかる雷鳴。
ゴロゴロと低い余韻を残して雷鳴は消え去り、ドサっと重量感のある何かが落ちたような音が聞こえた。
小さく丸まり震えていたヴィートは、顔を上げ恐る恐る落下音のあった方を覗き込む。
ヴィートが両手を広げても抱えきれないほど大きい木製の桶へ洗った洗濯物をまとめて積み上げた衣類の山。その山の上に小さな少女が横たわっていた。
自分と同年か年下だろう白金色の髪をした少女。艶やかな髪の毛が顔を覆い隠し、その相貌は分からない。
衣服と呼べないようなボロボロとなった黒色の布が申し訳程度に体へ巻き付いていた。
混乱するヴィートはゆっくりと立ち上がり、恐る恐る近づくと顔を横にし仰向けで倒れている少女へ声を掛ける。
「おい…… おいってば……」
洗濯物の上に倒れている少女に呼びかけるが返事はない。
(せっかく洗ったのに上に乗りやがって……)
何故そこに寝ているのかよく分からないが、洗い終わった洗濯物の上に乗られては溜まったもんじゃないとさらに少女へ声を掛ける。
「そんなところで寝ないでくれよ……」
また仕事が増えるのかとため息をつきながら少女の肩をゆするが反応が無い。
しょうがなくヴィートは少女の体を起こそうとして、少女の背中へ左手を差し込み抱き抱え――。
「――えっ⁈」
差し込んだ左手に、まるで熱湯をかけられたような熱さとぬるっとした手触りを覚える。
慌てて引き抜くと真っ赤に染まった自分の掌があった。
「お前…… 怪我しているのか?」
驚愕するヴィートの眼下で、少女の下に敷かれている白いシャツにじわりと血が滲み出てきた。
少女の身体をよく見ると、大小様々な傷がある。
この豪雨と黒い布地のせいで流血していることが分からなかったのだ。
何も考えず慌ててもう一度左手を差し込み、止血をしようと傷口を探す。
洗濯で冷たくなって悴んだ手の先は、焼けるような熱さの中、かすかに響く鼓動を感じとった。
「……生きている」
とくんとくんと弱々しい鼓動。
生きていることを確認すると慌てて抱き起こした。
少女をうつ伏せにして背中の傷口を必死で抑えるが、裂傷が大きいために手だけでは抑えきれない。そこで洗濯物を使い肩口から背中にかけてキツく縛り上げると、少女を寝かせてから勢いよく立ち上がり駆け出した。
「いやー凄い音でしたね」
「ん〜、近くに落ちたんじゃないかな〜」
「ヴィトの奴、泣いてるんじゃないんですかい」
「そんな歳でもねぇだろ」
グスタフを先頭にアルベルトとナータンは宿屋の二階から勝手口に向かって歩いていた。
「そんなこと言って。心配だから見に行くんでしょ?」
「馬鹿野郎。洗濯物が心配なんだよ」
そんな軽口を言いながら大人三人は勝手口まで来ると、そこへ大きな音を立てながら血相を変えたヴィートが走り込んできた。
おいおい本当に泣いていたか? と笑いかけた三人はヴィートの必死な形相を見て尋常ではないことに気づく。
「親方! 血が――、凄い血が出てて、話しかけても返事がないんだ!」
「どこか怪我したのか⁈ 見せてみろ」
シャツに付いた血の跡を見つけギョッと双眸を見開くグスタフ。
すぐさまヴィートの体を弄り怪我したところを調べ―― 大量の血痕があるもののヴィートの体には傷口らしいものは見えない。
「違う! 俺じゃ――、死んじゃう!」
「落ち着けヴィト! 何があったかゆっくり話してみろ」
興奮し要領を得ないヴィートに落ち着かせるべくアルベルトは優しく両肩に手を置き話しかけた。
「洗濯してたら雷がすごくて、気がついたら女の子が……」
グスタフは未だ動揺を隠せないヴィートを優しく抱きしめ落ち着かせた。
「わかった。その子はどこにいる?」
「こっちだよ!」
ヴィートを先頭に三人の大人はその後に続き、宿屋の裏手口まで足早に移動する。
未だ降り頻る雨を片手を上げて避けながらヴィートを追うと――。
「こいつは……」
洗濯物の上に横たわる少女を見てグスタフ、アルベルト、ナータンの三人は絶句する。
見れば十歳前後の小さな少女。
その体は、ズタズタに切り裂かれ無残な姿であった。
体の下の洗濯物も血に染まり流血の多さを物語っていた。
激しい雨で血が洗い流されているようだが、頭からも流血していた。
グスタフはしゃがみ込むと少女の首筋を触って脈を測る。
弱々しくも脈打つ血管。そしてその小さな胸がわずかに動いているところをみると、まだ息はあった。
「奴隷商人からでも逃げてきたのか……」
ゴクリと唾を飲み込みながらアルベルトは呟く。
「そんなことは後だ!」
グスタフは少女を下の衣類ごと抱きかかえて―― 身体を硬直させた。
抱えた少女へ双眸を大きく開き凝視するグスタフを怪訝に思ったアルベルトが問いかける。
「ど、どうしやした?」
少女から視線を外すことなく睨むような眼差しのまま「いや……」とだけ呟くと軽く頭を振り、大人二人に命令を下す。
「アルベルト! 先生を大至急呼んでこい! ナータン、お前は宿屋の女将に大量の湯を沸かすように言ってきてくれ。それと綺麗な包帯かそれに代わるものも用意してもらえ」
「はいよ!」
「んー、わかった」
二人が即座に行動へ移すのと同時に、グスタフは少女を抱えて宿の中へ向かう。
「ヴィト、お前も来い」
「……うん」
肩口に振り返り落ち着いた声をかける。震えるヴィートは小さく返事をし、グスタフの背中へ引っ付くよう後に続いて宿の中へ入って行った。
◇
先ほどまで叩きつけるように降っていた雨は止み、澄み切った夜空に満天の星と半月が明るく浮かぶ。
部屋には湯の張られたタライが幾つも並べられ、床には大量の血に染まった布切れが散乱していた。
「ふう――、こんなもんかの」
ベット横に置かれた小さなテーブルへ縫合用の針と糸を切ったハサミを置くと、白い口髭を生やした老医師は静かに息を吐いた。
アルベルトが有無を言わさず引っ張ってきた先生と呼ばれている男、ベッテル医師である。
ベッテル医師はグスタフと三十数年来の旧知の仲であり、若い頃から世話になっている確かな腕を持つロゴスでも指折りの医者であった。
疲れたとばかりにコキコキと首を鳴らし、湯の張ったタライで手を洗いながら文句を言う。
「しかし、アルベルトにも困ったものよ。ずぶ濡れで診療所に入ってきたかと思ったら、訳も言わずいきなりワシを担ぎ上げて走り出しおって」
「ええ、本当です。前も言いましたよね。反省してください」
コクコクと頷きながら、助手としてついてきた看護師のイェシカは切長の双眸を細め、鋭い視線でアルベルトを睨む。
「へえ、すいやせんでした……」
大きな体のアルベルトが縮こまり、申し訳なさそうに頭をかいた。
以前にも職人仲間が怪我をした時、アルベルトは同じように大慌てでベッテル医師を拉致さながら強引に連れ出したのだ。
だがその経験が功を奏したようで、アルベルトがベッテルを抱き上げ走り出した後、すぐにイェシカは医療道具の入った鞄を持ち出し後を追ったのであった。
「先生。そんなことより、この子の容態はどうなんだ?」
部屋の隅で見守っていたグスタフがベッテルに問う。
「やれるだけのことはやった。肩と背中の傷口は塞いだが、如何せん血が流れすぎとる。後はこの子の生命力次第かのう」
「そうか……」
「そんな⁈ 死んじゃうの?」
グスタフ、アルベルト、ナータンが黙って少女を見つめる。
誰もヴィートの問いに答えられない。
「ふむ。よいかヴィトよ。死ぬかもしれんし、死なぬかもしれん。この子次第じゃ。この子が生きたいと強く思えば死を遠ざけることができるかもしれん。だからな、お前がこの子に死ぬなと、生きろと語りかけてやってくれ」
白い髭の老医師は優しくヴィートの頭を撫でる。
ヴィートはくすぐったそうに首を竦めると、コクリと頷きベットの横に跪いた。そして少女の手を両手で覆う。
ベッテルは小さく弱々しい少年の背中を暫く眺めてから、壁にもたれかかって腕組みをしている旧知の男へ声を掛けた。
「……グスタフよ。お前に話があるからちょっとこちらに来い」
真剣な顔のベッテルにグスタフは何かを感じ取り頷く。
「アルベルト、ナータン。ここはヴィトに任せて飯を食ってこい。一休みしたらヴィトと変わってやれ」
「了解しやした」
「うん〜、わかったよ」
背中で二人の返事を聞きながら、グスタフはベッテルを連れて部屋を出て行った。
宿屋の一階は昼が食堂、夜は酒場となる。今は夜六時すぎ。酒場でもピークを迎える時間である。
宿泊客は勿論、酒と食事を求めて多くの客が来店をする近所でも人気店であった。
賑やかな雰囲気の中、その片隅でこの場には似つかわしくない深刻な顔をしたグスタフとベッテルが無言で酒を飲んでいる。
「ふぃ〜」
ゴクゴクと喉を鳴らして一気にビールを流し込むベッテル。
アルベルトに担ぎ出され、今まで緊急の手術を行なっていたのだ。喉が乾いていたのであろう。大きなジョッキのほとんどを一気で飲んでしまった。
「もう一杯おくれ」
白い口髭に泡を残して女中にお代わりを頼むと、皿に盛られた木の実を口に放り込む。
程なくして女中がお代わりのビールをベッテルに手渡すと、木の実を流し込むようにビールを煽った。
対面に座るグスタフは置かれたビールには手をつけず、ベッテルをただ黙って見つめているだけであった。
「……お前さんなら気付いているじゃろ?」
「…………」
不意にグスタフへ話しかけるが、黙したままである。
「アレは人の子ではない。十中八九魔物じゃ。子供の姿をしておっても何歳かもわからん」
「…………」
「何故助けたのじゃ」
「……ふん、じゃあ先生、あんたは何故助けたんだ?」
「それはほれ、ヴィトの奴が泣いて頼むからのう」
「……ふん」
ベッテルの目尻のシワがより深いものとなり、くっくと小刻みに笑うと、グスタフは呆れたように横を向いた。
ぐびりとビールを煽ると今までより低い声でグスタフに問う。
「娘の面影を見たか?」
カッと双眸を見開き、その大きな拳でテーブルのぶ厚い板を叩く。
よほど大きな音だったのか酒場全体が一瞬静まり返る。しかし、何も続かないとすぐに元の賑やかさを取り戻した。
「……そんなんじゃねえよ先生」
「ならよいがの」
グラスの底に残ったビールをゴクリと飲み込むと、よっこらしょとテーブルに手をつきベッテルは立ち上がった。
「今日の診療費はここの払いで勘弁してやる。明日も様子を見に来るからの」
そう言ってグスタフの後ろまで回ると彼の肩に手を置き小さな声で語りかけた。
「くれぐれも気を付けろ。彼女には勿論だが、この事実が外に漏れないようにの」
そう言うとポンポンと肩を叩き、酒場を後にする。
「……そんなんじゃねえよ」
グスタフは出ていくベッテルには目もくれず、ただ一口も飲まず泡の無くなったビールを悲しげな表情で眺めていた。




