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一夜目

雪が降りそそぐ。

地下室のように薄暗い都市の空は案外にも広く、しかしそれは解放感ではなく、むしろ閉塞感と孤独感を両立させた悪意のある組み合わせに感じられる。

落ちてくる雪のひとひらを、目で追う。

行く人も来る人も、誰も彼もが携帯電話の虜だ。

手のなかの携帯電話にも、着信の表示。

そんなもの、いまさら必要もなく。

ただ、喉の水分を奪いつくすような、コンクリート製の広場を突っ切っていく。



集結地に設定された片田舎のガソリンスタンドは大わらわだった。

旅団指揮所の移転に伴い、中継班の編成が命じられたが、既に機材も人員もほとんど出払ったあとで。仕方なく、据えた臭いと泥と錆の落ち切っていない、別任務から帰ってきたばかりの器材に必要な資材を詰め込むと、これまたその器材に垢を刷り込み、ようやくの待ちに待った休暇に精を出そうとしていた人員をそっくりそのまま流用した班を編成し、ハムになるまでミチミチと詰め込まれた背嚢に、最低限の携行食を車両へと押し込み、えっちらほっちらと国道を進ませたところで、ようやく集結地で車両の点検と燃料の補充を済ませたところだった。

班長のイワーヌィチ軍曹は携帯電話で誰かと話しているようだったが、どうも友好的とは言い難いキンキン声が、機関銃のように止まない罵倒となって耳に刺さる。

「お前の父親はロクデナシの犬畜生だ!お前をナチ野郎の手先に育てちまったんだからな。せめてお前の子供たちは愚鈍なロバにさせないでやろう。ナチの数だけ棺を用意しておくんだな!!」

イワーヌィチは眉をひそめて見せると、言い返すことなくそのまま電話を切り、中継班の面々に向き直って、普段通りの調子で、携帯電話を回収する旨を伝えた。

「出発は1020。行進順は変更なし。電話は出発直前に回収するから、使うなら最後の機会だ。俺も、最後の電話は人間としたい」

先ほどの罵声を思い出し、一同は苦笑した。笑うための笑いだ、面白くなくても義務の笑いが救うものは確かにある。俺たちはすぐに散らばって電話をし始めた。班長は今度こそ家族の声を聞くことができ、いつもの仏頂面を崩して笑みを浮かべ、伍長の"アシュケナージ"――本名はマルク・プロダンと言うが、その名前で呼ぶのは将校か彼の家族くらいだ――は冗談ばかり言って笑い声を響かせる。二期上のレヴコー上等兵は深刻な顔つきで電話を抱え、声を潜めている。


俺は携帯電話の電源を切り、煙草をくわえたが、わずかの時間すら潰せないほどの手持ち無沙汰加減が、かえって面倒に感じて、何気なしに車両の周りをふらふらと歩いていた。

日焼けして薄くなった塗装に、泥の落ち切ってないステップ。

"電話ボックス"と僕らが呼ぶシェルターの上に縛り付けられた偽装網の端切れが水を滴らせ、それが壁面の継ぎ目に浸透したのか、前時代からの錆をにじみ出させている。アクセスハッチを止めるボルトは、いつからか脱落したままだ。

"電話ボックス"を背負い、曇天の空の湿気を、一手に引き受けたような草臥(くたび)れた顔のこの車両こそ、俺たちの仕事の主要な道具である通信車両だ。

並び立つ軍用車両の先には、地元の人間らしい中年の男性が、ずいぶん年季の入った携行缶に石油を入れながら、鬱陶しそうな顔でこちらを見つめている。まるで「戦争を持ち込むつもりじゃないか」と今にでも怒鳴り込んできそうな表情をするもんだな、と俺は思ったが、世間的にはそれが普通なのかもしれない。

統合部隊作戦(OOS)で東部へと赴いた時、腐った卵や石を投げつけられたことを思い返せば、それよりは遥かにマシな反応だろう。少なくとも着替える必要はない。

それとも、脅威が現実的なものとして彼らの目に映り始めたからこそ、この程度で済んでいるのかもしれない。


"ポビトーリャ"を通達されてからというもの、責任というものの重みがガラリと変わってしまった。

誰も彼もが、責任を抱えようと必死に腕を伸ばす。

それは軍務だけでなく、もっと人間的で普遍的で、それでいて少しの衝撃で崩れてしまうような脆く、儚いものも含んでいる。あの用心深い、器用そうな手をもった男がその最たる例だ。

命の重さなどというものには、誰だって関わり合いになりたくないものだろうが、そうも言ってられないという状況の訪れをテレビは語っている。それを自分事として受け取っているのが彼であって、俺を含む大多数の人間は、緊張はしつつもどこか自分とは関係のないものとして遠まきに見ていた。

火の熱さを指に感じ、慌てて煙草を地面に叩きつけると、踵でグリグリと先端をつぶした。


いつの間にか周囲は慌ただししくなっていた。「乗車」の指示が飛び交うなか、それに遅れまいと逓伝し、自分の車両へと乗り込んだ。

エンジンがうなり声をあげ、計器類の針が少しずつ上がっていくのを確認していると、助手席側のドアが開き、班長が乗り込んできた。

彼は横に並ぶ、小型の車両を見下ろし、時計を確認したあと、「出発」という言葉を発し、その瞬間にブレーキに置いていた足を緩め、少しずつアクセルを踏み込んだ。

ミラーから周囲の安全を確認しつつ、トラックの巨体が向きを変えた。

この車を先頭にして続く一両からなる予備中継班は、さきほどまで進んでいた道を逆走し始め、残る小隊長車を含めた三両が北へ向かっていくのを、サイドミラー越しに認めた。

少し感傷的になっているのか、彼らとは金輪際会うことができないように感じられた。

俺たちは国道から外れ、カラフルな柵をした家々の角をまがり、干された洗濯物の先へと緩慢にタイヤを滑らしていた。

文明を示すものは、もはや乗っている車両と、ひび割れながらもその質素な息吹で雪とブナの木をかき分けるコンクリート路しかない。


地図と、命令やら何やらが書かれた手帳から目を離すことなく、班長が口を開く。

「さっき、電話しなかったろ、"バサヴリューク"?」

軍曹、イワーヌィチにつけられたあだ名である悪魔の名前は、耳に優しいとは言い難いが、それが行為であると俺は知っている。

出発前に回収されるはずだった携帯電話をまだ渡していなかったことに気づき、すぐさまポケットに手を入れようとしたが、それはイワーヌィチによって止められた。

「持っていていい。危険な使い方はしないだろ」

「…わかりました」

もとより使うつもりのなかったものだが、無理に渡すというのも変な話だ。おとなしく運転へと向き戻った。

「小隊長の手前、ああは言ったが、実は後ろの二人からも受け取ってないんだ」

驚いて助手席のほうを見ると、イワーヌィチは肩をすくめて笑った。

「戦闘が始まるかはわからない。だがそうなったら、死神のドアは軽くなる」

ライターの火が付く音。助手席から真冬の冷気が流れ込み、メンソールが鼻につんと刺さる。

「お前も無理にとは言わん、後悔はないようにしろ。ここでは兵士だ。意味は、わかるな?」


煙缶へと零れる燃殻が、一瞬ブリキの夜空を照らし出した。

まるで花火のようだと感じた、ナイフみたいに鋭い真冬の夜を、僕は思い出していた。

あのとき捨てていた命は、この人に拾われていた。

首をつかまれて後ろ向きに倒れたのもつかの間、耳鳴りと眩暈に襲われ、頬に傷が生まれた日、正しいことをしたはずの彼に、俺は歯軋りしていた。

彼は正しい、だがこの世には間違っていることでしか己を証明できないものもいるのだ。

この震えは、寒さのせいだ。

だから抱きしめないでくれ。



前輪が地面の窪みをとらえ、車体が揺れた。

デフロックをつけておくべきだったが、運転への関心は薄れていた。

イワーヌィチの案内は的確で、初めて来た場所であるはずなのに、通る道はことごとく彼の手の地図にひかれた蛍光マーカーをなぞっていた。到着も近かった。

「"リストヴォ"、"リストヴォ"、こちら"クパーラ"、送れ」

展開地域への進入を中隊に報告しながら、脇へ寄って停車するように手振りしていた。木の枝が飛び出ていなさそうな空間をさがし、地裂を踏まないルートへとゆっくりと車両を向ける。

車両が止まると、銃と地図を手に取った班長が指示を出した。

「俺と"アシュケナージ"で地積の確認をしてくる。ここで乗車待機して無線を傍受してくれ。警戒はレヴコーに任せるから心配するな」

そう言うが早いか、ドアを開けて飛び降りた。

横道へ歩いていく彼らの背中を、ガラス越しに見送っていると、ドアをコツコツと打つ音がした。

開けると、予想通りレヴコーがいた。

「悪い、煙草一本くれないか?残りは"電話ボックス"の中にあってさ」

頼み口調ではありつつも断られることを考えていないのか、すでにその手はライターを握っていて、思わず苦笑してしまい、弾嚢の煙草ケースから一本取りだして差し出した。

「キャメルでよければ」

「助かる」

レヴコーは、班長達の消えていった方向を盗み見ながら受け取り、素早く火をつけ、大きく息を吸っていた。他人の喫煙している姿を見ていると口寂しく思うようになったのはいつからだったろう?

彼は煙の味わいに満足したのか、一つ大きな伸びをすると、思い出したかのようにポケットからゴチャゴチャと引き出し、コンデンスミルクのパックやサラミの中の一つを選んで、こちらに渡してきた。

懐かしのロシェンのミルクチョコレートだ。

「返すの忘れそうだから、これで堪忍してくれ」

「そういうことなら遠慮なく…」

受け取ると、満足げな表情で手を振り、周囲の警戒へと戻っていった。

寒さを紛らすかのようなヒョコヒョコとした足取りを、ぼんやりと眺めていると、モトローラの無線機が受電した。

「"ノヴィイリク"、"ノヴィイリク"、こちら"リストヴォ"」

中隊通信系の呼び出し符号だ。

すぐさま受話器を取り、袖ポケットからメモ帳を取り出すが、上位局の返答が送られるまで相応の時間があり、さらにこの予備中継班は中隊でも最下位の局であるため、順番待ちにならざるを得ない。いささか出鼻をくじかれた気分になったが、各局の対応がよく、すぐに自局のコールサインを送る順番が回ってきた。

「"クパーラ"」

短い返信ではあるが、これだけでその局が耳を傾けていることを示すには充分だ。一斉通信ということは何か重要な連絡があるのだと思い、ペンを持つ手に力が入る。

全局の確認が取れたため、"リストヴォ"が話し始めた。

この落ち着きある声は中隊長だ。

話の内容は予想されていたものではあったが、そこに出てきた言葉があまりにも現実にしっくり馴染まないもので、感情は理解をやめ、淡々とそれを受け取り、右に倣って「了解」と返答を投げて受話器を下した。

いつの間にこんなに冷え込んでいたんだと俺は思った。

暖房を消したわけでもないのに、息を吐くたびに白い靄がハンドルへと降り注いだ。

空は、今はまだ、雲に覆われ切ってはいない。



状況は変化する。

しかし、それを見越した展開であるが故、命令に補足も何も加えられることはない。

ただ、期間の定められた訓練や、ローテ後の休暇を考えて耐えるOOSのように、決まったリズムで進められることはなくなるのだろうという理性に、まるで肌感の合わない本能が風邪をひきそうになっている。

戦争なら8年前からとっくに始まっている。

だから東部に派遣されたときは地雷で命を落としかけ、住民に怒鳴られ、運悪く砲弾が当たった味方の死体を運びもした。

それなら、何が変わるというのだろう?

俺には答えられない。

それを知っているのは、おそらくイワーヌィチだけだろう。


既に日は落ちていた。

アンテナ支柱は空の薄紫がかったベールを切り裂くように屹立し、パラボラからは北へとむけて電波が放射されていた。

通常なら8人で行う作業をたった4人で、この時間までに完了させることができたのは、ひとえに班員の能力と班長の的確な指示があってのものに違いない。

サウナの石に注がれる水のように、シャツ一枚で覆われた背中からは蒸気が、光が空の向こうに消えていく直前の残滓を吸って輝く。レヴコーは既に上着と防弾チョッキを着こんでいて、大口を開けて空のペットボトルを振り、最後の一滴まで飲み干そうと白い息を吐いていた。俺は唾を飲んで、今しがた運んできたばかりの、ビール樽ほどの大きさのケーブルドラムからリールを外し、横に倒した。

いまだ膝に手をついて肩で息をしているレヴコーに声をかける。

「先輩もちょっとは手伝ってくださいよ、まだ避雷針も打ち込まなきゃいけんのですから」

「ちょっと待ってくれって、何も今すぐに雷が落ちてくるわけじゃないんだから…。ほら、星だって見えるぞ」

そういった彼の指先をたどると、確かに雲間からはちらと星が覗くが、ほとんどは雲だ。

へ、へ、へ、と縋るような表情のレヴコーが休憩を促すが、俺は見なかったふりをして冷え込んできた体に上着を羽織る。

「班長の雷が落ちるか、避雷導線つなげるかの二択ですよ」

生意気かもしれないが、打ち込み棒を雑多な荷物の中から引っ張り出す方を引き受けるのだから、このくらいは勘弁してほしい。それに俺もイワーヌィチが怒鳴りだす姿を見たくない。

普段優しい人を怒らすほど怖いものはないのだから。

それは彼も一緒だと見えて、一目散に工具箱へ駆け寄っていった。

俺も作業に移るべく、木々の間に集積させられた荷物の塊の中から飛び出た打ち込み棒の末端を見つけ、それを抜こうとするが、やはり何かに引っかかっているようで、動かない。

てんてこまいだな、と思いつつ、露を含んで重くなった荷物を退かしていると、"電話ボックス"から声がかかる。

「二人とも作業中断、集合だ」

管制灯によって真っ赤に染まったイワーヌィチが手招きしているのが見え、置いてあった武器・装具を拾って小走りした。

シェルタの奥では"アシュケナージ"が受話器から発される不明瞭で電子的な声に耳を傾けながら、器材のデジタル表示を睨みつけていた。

「国防大臣から激励の言葉があった、つまり状況は良くはならないってことだ」

口調こそ軽いが、目の笑っていないイワーヌィチの一言が、余計に重くのしかかる。

「あのハゲの声明以降、"敵"の活動の活発化が確認されている。旅団長からは航空攻撃への対処を最優先に、ということだった」

彼は"敵"という言葉を殊更に強調した。

「これからはいつ休めるかわからなくなる。電話するなら、道沿いに100m離れてから携帯を出せ」

レヴコーは次の言葉を待たずに、歩数を数えながら木立の先へ消えていった。

「次の行動は、あいつが帰ってきてからだな」

イワーヌィチは苦笑した。



班長は"アシュケナージ"を伴って電話をしに行き、俺は通信手として"電話ボックス"に残った。

ぬるい空気が外にいる時よりもいっそう寒さを強調させるようで、それに気づかないでいられるように、糧食のパックを鍋に入れ水を注ぎ、カセットコンロで温める。缶詰を温めずに食べてボツリヌスに罹り、痙攣しながら死んでいった同僚の話をイワーヌィチから聞いてからというもの、俺らの班では飯は必ず温めるようになった。どんなに手間がかかろうと、だ。

鍋の底を舐める炎を横目に、どっかりとパイプ椅子に座り込むと、懐の防水ケースから出した煙草を咥えて火を着けた。

たっぷりと煙を吸い込み、口の中で転がして肺へと流し込むと、温かい煙がじっとりと染み込んでくるのを感じ始めた。

穏やかな安らぎを捨てきれない俺は、携帯電話を取り出してミュージックアプリを開いた。 

履歴の一番上にある楽曲が選択され、ヴァイオリンの音色が奏でられる。

耳の奥を滑らかに引掻くような弦の高い震えが、穏やかな敵意となって身に滲む。

美しく、麗らかで、そして鋭利だ。

春のように穏やかな旋律が、感覚を麻痺させ、俺はその柔らかな死に身をゆだねる。

いつだろうと、この鋭さだけは変わらず、平穏へと誘ってくれる。

彼女のしなやかな指が弦を押さえ、目が瞑れんばかりの照明を浴びて、よりしなやかに映るまっすぐな腕が、弓を引く姿がありありと浮かぶ。

しかし彼女の表情はわからない。

それは俺が捨て去ったものだ。


カン、カンと、梯子を上る音が現れ、ハッとする。

すぐに曲の音量をゼロにし、すでに沸騰している鍋の火を消しててカセットコンロごと端にどかした。

ドアが開いて管制灯に切り替わると、闇の中から伍長が身震いしながら現れる。

「早かったですね、異常なしです」

帰って来て早々に上着を脱いだ彼に、糧食とプラスチックのスプーンを渡した。

「おう、助かる。それにしても"春"が来るにはまだ早いだろ」

パイプ椅子を譲るために立ち位置を入れ替わりながら、ニヤついた顔でそう言う"アシュケナージ"に「商談」の予感がした。

彼はとにかく商売上手でギャンブル上手だ。

何か欲しいものがあるなら"アシュケナージ"に頼め、と部隊内では評判で、いったいどう調達しているのか、欲しいものが欲しいタイミングで出てくる上に、悪いものをつかまされたものはいない。とくに訓練や作戦のような隔離された環境では、まさに神様のような存在といえよう。商売にがめつくはあっても決して白い目で見られることがないのはそれが理由だ。ただし自分から始めることはないにもかかわらず、どこかでギャンブルが始まると真っ先に参加してすべてを掻っ攫っていく、という唯一の欠点があり、先のOOSでは他部隊相手に5万フリブニャも勝ったらしく、ちょっとしたいざこざの原因となったりもした。もちろん同じ部隊の隊員として、「誰が賭けに勝つか」を裏で賭けては"アシュケナージ"に全額ベットして、たんまりと煙草を分捕ったので彼には感謝しかなったりする。

「音漏れてましたか、すみません」

「いや、そんなに大きくはないが…イヤホンはしないのか?」

カセットコンロをコンテナに片付けてさっさと立ち去ろうとする俺の背中に、追い打ちがかかった。案外悪くなさそうな「商談」の予感に、思わず手を止めてしまう。

「あれだけ急いで荷物をまとめましたからね、今回は駐屯地で留守番です」

あれは痛手だった。

3回もリュックサックの点検をしたのに、パーカーになんかイヤホンを突っ込んでたおかげで丸々置いてきてしまったのだ。それではどうしようもないということで、一人の時に小さな音量で聴くだけにしようと、ちょうど我慢していたところだった。

「そいつは災難だな」

と言う"アシュケナージ"の顔は、早くもカモを見つけた時の喜びを隠しきれず、その口角を上げてしまっている。

少しは隠せよ、と思う。

「だが、運が良い!」

誰にとってだろうか。

「実はエアポッドの最新型を持ってきててさ、しかも未開封なんだわ!」

どこからともなく、傷や汚れ一つない真新しいエアポッドの箱を取り出してきた。

いったいどんな需要を見越してそんなものを隠し持ってきたのだろうか、この分だと"電話ボックス"の中は彼の商品でいっぱいに違いない。

"アシュケナージ"の眼鏡が怪しげに反射した。

「いやー、ずっと品切れだったの知ってるだろ?俺もずっと買えなくてな」

「そしたらこの前の休暇で、偶然ショップで働いてる知り合いとバッタリ会ってな、そしたらちょうど一個だけ在庫があるっていうから飛んで買いに行ったってわけさ」

「ご存じだと思うが、今度のモデルは立体音響がついてるから、今までのガムみたいにペチャっと潰れて耳にこびりつく音からオサラバ!、たとえ便所にいたってコンサートホールの音圧を味わえるってもんだ。しかもバッテリーが今までの6倍持つから、長くて寒い夜の歩哨にもまさにピッタリ!と思ってさ」

「で、買ったはいいけど前のイヤホンがまだピンピンしてるもんだから、換えるのも勿体なくて使えなくってさ、お前が買ってくれるならまさに渡りに船ってやつなんだが…」

「こんなの買ったなんて知られたらカアチャンに殺されちゃうよ!ここはひとつ、人命救助と思って!」

機関銃並みの早口でまくしたてられる言い訳に唖然とさせられるが、あいにくその手に引っかかるのは既に懲りている。金がないわけではないし、取引自体は悪くないのだが、ただカモとして侮られているような状況を好ましく思えるようには育っていない。

いや、たしかに立体音響は非常に魅力的だ。重厚さが手軽に味わえるというのは捨てがたい。が、市場で最新型のエアポッドを買うとなると、おそらく1万フリブニャはくだらないだろう。1万フリブニャと言えばほぼ一か月分の給与だ。いくら給与がアップされるという大統領のありがたいお言葉があったって、おいそれと出せる金額ではない。そう、立体音響と大容量のバッテリーは捨てがたいし、イヤホンが簡単に手に入る状況ではないがゆえに黄金ほどにもまばゆい提案に思える。だが、東部では、スープに入っていた鶏の骨をしゃぶるような飢餓状態でも、拾ったサーロを独り占めする誘惑に耐えられるような鋼の自制心を身につけた。バサヴリューク(悪魔)の誘惑ですら、ここまでのものではなかっただろう。それを思えば足蹴にすらできる提案だ。だから俺は断れると断言できる、いや断言する。

悪いんですけど、と出かかった言葉に被さるようにして、彼は拝んだ手の向こうから顔を覗かせてこう言った。

「1万フリブニャで買ったけど、それは悪いからさ…7000フリブニャでどうだね?」

どうやら敗北というものは繰り返されるものらしい。



じっとり張り付くような深い霧が、カーテンのように光を遮り、かろうじて見える木立の面影を思い出しながら少しずつ足を進めると、引き出される電話線により、手に持ったドラムがキュルキュルと音を立てる。

寒さで吐く息が白いのか、はたまた息に押し上げられた霧が舞っているのか、ということについては、最早わかりようがない。目標まで50mもない距離のはずであったが、こんな手探りで進んでいるような状況では1kmほどにも感じられる。

イワーヌィチが土をスコップで放り投げる音は、ついさっきまでは聞こえていたが、このとらえどころのない靄に吸い込まれたのか、いつの間にか消えてしまって、その代わりに方角もわからないが、発電機が低い音で唸っているのがどこからか聞こえてくる。

唯一あてになるのは霧が出る前に見た道中の風景の記憶だけで、海馬をひっくり返してでも木の枝や配置を思い出しながら、神経衰弱のような大胆さと慎重さをもって、このブナの群れの中を進んでいた。

森の露が生み出す、柔らかな甘い香りが鼻腔をくすぐるが、それを楽しもうとすれば、たちまち鼻の中が凍り付いてしまうだろう。ドラムを持っている左手は、すでに凍り付いてしまったかのように固まってしまった。だが右手は電話線を引き出すためにせわしなく動かさざるをえないため、比較的暖かく、むしろ心地よい疲労を提供してくれてすらいる。

その緩い疲労感につられて瞼がやや重くなろうとしているが、足元すらおぼつかない状況がかろうじてそれを押しとどめ、次の目印を探すべく、記憶と映像の照合を試みる。そのして進むうちに、真ん中に乾ききった割れ目のある木が見えてきた。

「割れた幹」の前は…確か「ラリアットの枝」のはずだ。その先を行けば、少しだけ開豁した場所にあたるという記憶があり、訓練ならそれに沿って緩く線を張ればいいが、今回のような場合はそうもいかないだろう。

少し迂回しよう、と思って「ラリアットの枝」を探していると、急にドラムがついてこなくなった。

手元を見ると、リールとドラムの間に電話線が噛んでしまっていた。おそらく見落としていたような低い草木にかかって引っ張られてしまったのだろう。

仕方がなくしゃがみ込んで、膝先からじんわりと水気が浸透してくるのを感じながら、分解しようとするが、ふいに手が止まる。

何か物音がした。

それだけでドラムを地面に置くには充分な理由になった。

風もない霧の中で、音を立てるものはそう多くない。

いつの間にか鼻につくような不快な刺激臭がし始めていた。


衣擦れ一つ聞き逃さぬよう、ゆっくりと背中に回されていた小銃をつかんで正面に回すが、チッという小銃と装具の触れ合う音が小さく出てしまい、息を飲む。

今もかすかに聞こえる。

この自分のものではない物音は、どうやら地面を踏みしめたり、茂みをかき分けたりする音ではないらしい。

それは言うなれば、手を振り回すときに出るような空を切る音と、そして泥の中に手を突っ込んで掻き回すような、そんな音だった。

視線をブナの皮からゆっくりと左へ移していく。

黒い靄が揺れているのが目につく。

一瞬見間違いかと思ってよく目を凝らしたが、それは間違いなく動いていた。

しかし人ではなく、かといって木々そして熊でもない。

それはあまりに太く、大きく、そして有機的だった。

思わず銃を構えて安全装置を外す。

半装填状態だったことを完全に忘れていたが、そんなことは最早どうでもいい。ただ一刻も早くこの場所から離れようという考えすら忘れ、ひたすらに照星の先の靄を見つめる。

額の上を汗が伝っていく。

脈打つように揺れているそれに気付かれぬよう、息を止めて早まる動悸を抑えようとするが、効果はない。

俺は、なぜだか急に、腹が減るのを感じた。

その瞬間、心臓を止めるような冷たい風が、少しだけ吹いた。

霧が移動していく。

まるで目の前に道ができるかのように、段々と地面の霧が薄れていき、隠されていた冒涜(・・)が姿を現す。

それは「生」だった。

地面には、羽を広げた鳥が落ちていた(・・・・・)

その胸はまるでメスでも入れたかのように楕円形にぱっくり割れ、霧の明かりに照らされて鮮やかな赤が覗いていて、そこから複数の枝が天に向かって伸びている。

いや枝のように見えたものは、そうではなかった。

長い蔓のように、ゆったりとした腕(・・・・・・・)だ。

彼岸花のように割れて細かい指がその腕から伸ばされ、小鳥の内部で蠢いているのだ。

腕もあれば脚もあるだろう、白樺のように細くしなやかな脚が地面に生え、そしてその上にはずっしりとした胴体が乗っていた。

しかしそれは影と同化し、うねりながらも普通の生物にないような相称性のある緩やかなカーブを持っているようで、その上には中心で分かたれた屋根のようなシルエットが浮かぶ。

止まっていれば蜂の巣箱とでも思えて見ずに済んだかもしれないが、それはあまりも生きていた(・・・・・)

その旺盛な生命を目にして、俺はいつの間にか銃を下していた。

…冗談じゃない、こんなものは絵本でしか見たことはない。

「"鶏脚の小屋"」

"バーバ・ヤガー"…妖女(ウエーヂマ)のために歩く家、"死の世界へと至る門"。

おとぎ話の存在が、靄の向こうからこちらを向いていた。


本作は、「 株式会社アークライト 」及び「株式会社KADOKAWA」が権利を有する『新クトゥルフ神話TRPG』の二次創作物です。


Call of Cthulhu is copyright ©1981, 2015, 2019 by Chaosium Inc. ;all rights reserved. Arranged by Arclight Inc.

Call of Cthulhu is a registered trademark of Chaosium Inc.

PUBLISHED BY KADOKAWA CORPORATION 「新クトゥルフ神話TRPG ルールブック」

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