36 奪われる居場所
翌日も朝早くに出社すると、いつも立川さんが座っている席に立川さんのものらしきPCと筆記用具が置いてあった。どうやら今日は出社しているらしく、ほっとしながら近くの席に座る。
今朝は秋川さんがまだいないなあと思いながら、パントリーに向かった。
途中にある硝子張りの会議室の前を通り過ぎる。その会議室の中で、立川さんと秋川さんが深刻そうな表情で話し込んでいるのが見えた。
あまりジロジロ見ていいものでもないだろうと思い、目を逸らす。
秋川さんは、この会社の立ち上げメンバーのひとりだ。当時はまだ若くて、雑用みたいなもんだったと以前笑っていた。気が付けば総務人事となり、数年前にようやく人事の選任を入れて現在は総務担当。給料計算や就業規則などを一手に担う裏方の重要人物だ。
人事の女性は優しい人だけど、優し過ぎて流されやすい傾向がある。彼女が困った時、助け舟を出すのが秋川さんの役割だった。
まさか違うよね。そう考えながら、席に戻ると仕事を始めた。
◇
定時になっても、二人は戻っては来ない。その間に出社してしてきた梨花は、別の島に座る片山さんの隣に座った。だけど何を思ったか、にやつきながら空いたままの立川さんの席に座ると、私に向かって言ったのだ。
「私ね、知っちゃったんだ」
昨日の醜態などなかったかの様な態度に、さすがに言葉を失った。
ここで甘い顔をしたら、何もなかったことにされる。昨日の梨花の暴れようは、あまりにもあんまりだったから。
「ねえ、昨日私のお腹を蹴ったことを謝るのが先なんじゃないの?」
これまで、梨花に逆らうことは避けてきた。無駄に衝突して仕事に支障が出るのが嫌だったからだ。
――でも、梨花は大川さんも蹴った。
私が歯向かうと思わなかったんだろう。梨花の視線が一瞬彷徨い、そして。
「マリモってば酷い! どうしてそんなすぐにばれる嘘をつくの!」
わっと泣き真似を始めた。周りがどうしたんだとこちらを見ているけど、私は譲る気はなかった。
「証人がいるんだよ! 私と、あと大川さんのお腹も蹴ったこと、ちゃんと見てた人がいるんだから!」
ぐっと詰まった梨花は、今度は本当の涙を溢れさせる。
「そんな……! どうして私を陥れようとするの! 酷い! 酷いよ!」
両手で顔を覆い、うわんうわん泣き出した。よくもまあこんなに綺麗に嘘がつけるものだと呆れていると、梨花が小声でボソリと言う。周りには聞こえない様に。
「……気付いたんだよね。マリモは相手にしてなくても、けんちゃんはマリモが好きなんだ」
「――は?」
突然何を言い出したのか。
「あいつはあんたを守りたいみたい。……くく、偽善者ぶって馬鹿みたい。私の方があんたの近くにいるのにね」
泣き顔で笑う梨花の顔は、どこか憐れみを誘う鬼女に見えた。
「お、大川さんが私をどう思ってるかなんて知らないけど、勝手に勘違いして蹴ったことは謝ってよ!」
何もなかったことになんか出来ない。絶対しちゃいけない。そう思ってもう一度声を張り上げると。
「私の彼氏に色目使って、マリモ最低! 私のけんちゃんを返してよお!」
そこへ、騒ぎを聞きつけたんだろう、山田さんが怒り顔でツカツカとやって来た。
「月島、何やってんだよ! 梨花ちゃんが泣いちゃってるじゃないか!」
「や、山田さあん!」
梨花はなよなよと山田さんの胸にしなだれかかると、山田さんは梨花を受け止めキッと私を睨みつける。
「親友だろ? 月島さん、君最低だな!」
「え……っ」
どうしてそう取るのか。山田さんは梨花を慰めながらエレベーターホールへと連れ出すと、そのまま外階段へ続くドアを開けて出て行ってしまった。
辺りを見渡す。様子を窺っていた他の社員たちは、私と目が合うと目線を逸らした。
茫然自失としながら席に座ろうとすると、会議室の出口に秋川さんと立川さんが立ってこちらを見ている。
「月島さん、ちょっと」
秋川さんに手招きされ、立川さんと一緒に会議室に入った。向かい合わせに座り、説明を求められる。こうなったら話すしかないだろうと思い、大川さんと梨花の関係、社長との関係、それと梨花が昨日したことを簡単に説明すると、秋川さんは頭を抱えて深い溜息を吐く。
「よく分かった。僕は月島さんを信じるから、安心して」
秋川さんはそう言うと、今度は立川さんの方を向いた。
「――立川、退職願は俺が預かっておく」
え? と思い立川さんを見る。やはり退職を考えていたのか。
「まずは有給を消化しておけ。腐るほど余ってるだろ、あの仕事をしない部下の所為で」
「……分かりました」
仕事に戻って。そう言われて、私と立川さんは足取り重く席へと戻った。
「――片山! ちょっと来て」
今度は片山さんに声を掛ける。不審げな表情で秋川さんが待つ会議室に入ると、二人は暫く出て来なかった。
◇
結局その後、山田さんと梨花は揃って早退してしまい、幸か不幸か私の仕事は捗った。
だけど、周りの視線が痛い。
梨花に逆らった私に、誰も近付いては来なくなった。
帰り際、立川さんが私に頭を下げてきて、驚く。
「あの、立川さん?」
「月島さん、ごめんね。私は彼女の先輩なのに、山田さんに嫌われるのが怖くて強く言えなかった」
ごめんね、ごめんね。繰り返し謝る立川さんの肩に手を置くと、立川さんは悲しそうに微笑んだ。
◇
定時前になり、神経はすり減って疲れていた。でも、『ピート』へ行けばマスターの笑顔に癒されて、ついでに気が晴れる物語を紹介してもらおうと考えた途端に元気が湧いてきたから、やはりあそこは私の癒しスポットだ。
梨花は今日は山田さんと早退してしまったし、あの場所が梨花にばれてしまっているからといって今日はさすがに来ないだろう。
あれだけ騒いだ店で、しかも梨花にはマスターが私の恋人だと言ってある。恋人を蹴られて追い出した相手がいる店には行かないだろう。いくら何でも厚顔無恥過ぎる。
そう思っていたのに。
大好きな『ピート』の重厚な扉を開けた途端、カウンターの奥に苦虫を噛み潰した様な表情のマスターが見えた。マスターは私に気付くと、小さく首を横に振ってみせる。慌てて扉をそっと閉じると、硝子窓越しにそうっと中の様子を伺った。
私の定位置であるカウンター席に腰掛けているのは、どう見ても梨花だ。その横、大川さんがよく座る場所には、山田さんがいる。山田さんは梨花の頭を押さえると、マスターに向かって梨花の頭を下げさせていた。
一体何がどうなっているのか。
そのまま家に戻ると、混乱したまま読みかけの小説を手に取った。でも、一向に内容が頭に入ってこない。仕方がないのでごろごろとしていると、マスターからメッセージが届いた。
今電話に出られそうだったら電話して。そう書かれていたので、私は即座にマスターに電話をかける。
「――もしもし!」
『マリちゃん、今日はごめんな』
マスターの声は疲れていた。
『夕方にあの二人が来て、あの梨花って子が勘違いして迷惑を掛けた、この通り申し訳ないっていきなり十万円渡されてさ』
「え……?」
『詫び料だっていうけど、そんなの要らないからもう来ないでくれって言ったら、この通り謝るからって男の方が土下座を始めちゃって』
山田さんが、何故そんなことまでするのか。あまりのことに、言葉が出てこない。
『男の方が、こいつは今日から俺の彼女だから、自分が責任を取って謝るからこの通り許してくれって頭を床に擦り付けるから、周りの客が引いちゃって。何なんだあの男。あまりにもしつこくて、許さないと収まりがつかなかった』
マスターは、明らかに苛ついていた。こんなマスターの声、聞いたことがない。こんな声をさせている原因は、私の行動が招いたことだ。
「マスター、ごめんなさい。梨花が蹴ったことも何もかもなかったことにしようとしたから、カッとなって……。私が軽率だった」
『マリちゃんは間違ってない。間違ってるのはあいつらだよ』
次から来る前に連絡して。そう言われて、おやすみなさいと告げて電話を切った。
居場所が奪われていく。
大川さんが経験し続けたことが、私の身にも起こり始めていた。




