24 拠り所の喪失
それからは、時折例の友人からMの話を聞くことはあっても、大川さんの方からは何も尋ねないことにした。
アルバイトを掛け持ちして、稼いだお金を殆どMに注ぎ込んでいるのを聞けば、友人だったらそこは止めてやるべきだったんだろう。
だけど大川さんは、盲信者と成り果てた友人の目を覚ます努力をするよりも、自分の心の平穏を選んだ。本心から関わり合いになりたくないと願っていたからだ。
買ってあげたブランド物のネックレスをなくしたと言われ、また同じ物を購入させられた話には、片方は転売したんじゃないかと思った。友人の前では見事な猫を被っているだろうMの姿を想像するだけで、吐き気をもよおす。
だけど、友人の曇った目を元に戻そうとしたら、確実にMに絡まれる。家族と縁を切りようやく手に入れた選択が出来る自由を、Mの為に失いたくはなかった。
Mを敵に回したら、きっともっと酷いことが待っているだろうから。
自分だけが仮面の奥を知っているという罪悪感を抱えていた大川さんは、次第にその友人と疎遠になっていった。
二年生になり、とあるカフェで短期のアルバイトを始めた。アルバイトで得られる賃金なんて微々たるものだったけど、自分の欲しい物くらいは自分で稼いだお金で買いたかったのだ。
父親の事業は軌道に乗ったと聞いたけど、相変わらず母親と弟の話は殆ど聞こえてこない。当然、向こうが大川さんのことを気にしているという話も一切聞こえてはこなかった。
本当は、大学を卒業する時くらいは会いたい。密かにそう願っていたけど、父親にそう訴えることは憚られた。
そのアルバイト先で一緒になった子と、親しくなった。大学でも何度か告白はされたけど、彼女たちの華やかな見た目はMを思い出させ、全員断ってしまった。だけどこの子は素朴な雰囲気の女の子で、Mを思い出さない。大川さんは、その子と交際を始めた。
満期になってアルバイトは辞めることになったけど、彼女との付き合いは続いた。
だけどそれが段々おかしくなってきたのは、それから暫く経ってからだった。
新しく入ってきた女の子と親しくなったとは聞いていた。その子と遊ぶようになり、大川さんとの時間がどんどん削られていったけど、元々恋人と毎日ずっといたいというタイプではなかった大川さんは、そのくらいの距離感がいいとすら考えていた。
少しずつ、彼女が自分を見る目に疑いが含まれる様になる。二股を掛けているんじゃないかと疑われては携帯の中を見せた。大してない通話履歴や友人との他愛もないやり取りも全て確認され、一体何が起きたのか大川さんには理解が出来なかった。
そんなある日、彼女から電話が掛かってきた。
別れたいと、泣きながら言われた。正直彼女の極端な束縛に疲れ切っていた大川さんは、それを了承した。そして次の瞬間、彼女はありえない台詞を吐いたのだ。
「やっぱりMちゃんと私と二股掛けてたんだ! これではっきりした! 私たち二人とも騙されてたんだよ、Mちゃん!」
彼女は、電話の横にいる誰かにそう言った。微かに聞こえてくる声は――Mのものだった。
◇
どうしてそんなことをするのか、Mを問い詰めたかった。だけど、顔を見て怒りが爆発した瞬間、Mは周りの人間を味方につけて大川さんを責めるだろう。
だから、じっと耐え忍ぶしかなかったのだ。
どうやって大川さんのアルバイト先を知ったのかは知らないけど、疎遠になった友人がたまたま大川さんのことを見かけ、それをMに伝えた可能性は十分考えられる。大川さんが辞めた後、応募したのだろう。
少なくとも見た目はかなり美人のMだから、採用の判断を下す店長はあんなのが応募してきたら飛びつくだろうことは容易に想像出来た。
だけど、Mは中も外も嘘で塗り固められている。それを知っているのは、自分だけだ。
なんで離れていったのに、わざわざ追いかけてきて人の恋を壊していくのか。Mが自分を好きだなんてことはあり得ないのに。
大川さんは、人の感情の動きを探ってしまう癖があった。常に母親の顔色を窺いながら機嫌を損ねないよう立ち回ってきた大川さんにとって、相手が自分に対し好意を持っているかは雰囲気で察することが出来る。完璧ではないけども。
だけど、Mからは一切好意を感じ取ることがなかった。だから知っていた。Mは自分に少しも恋愛感情など抱いていないことを。
――会ったら、Mが自分に対して持っている感情を理解出来るだろうか。
そうも考えたけど、たとえ理解したとて、あのMが大川さんの説得に応じる様には思えなかった。
大川さんは、所在がばれてしまっている大学時代に誰かと大っぴらに交際することは諦め、読書同好会のメンバーとだけ穏やかで緩い付き合いを続けていこうと決めた。
二年生の間は、もう何も起こらなかった。
だけど、安心して気が緩んだ頃にMは突然現れる。
読書同好会の同学年のメンバーと三人で、就職活動が始まる前の最後の夏に思い出を作ろうと、日帰りで海に行くことになった。
最近彼女が出来たから連れて来ていいかという友人のひとりがいて、大川さんたちは最後の夏だしな、と快諾した。
レンタカーの費用を出し合って待ち合わせた駅のロータリー。そこに友人の横に立っていたのは、無駄な色香を振り撒くMの姿だった。
運転者は大川さんで、もうひとりは初心者マークが消えていなくて人を乗せるのは怖いと言っていた。Mと一緒に自慢げに手を振っている友人は、そもそも免許を持っていない。
逃げ場はなかった。
引き攣った笑顔を貼り付け、時間が早く過ぎることをただひたすら祈った。
Mは、大川さんを初対面の様に扱い、男三人に囲まれると、まるでどこかのお姫様の様に当然の如く中心に位置した。あくまで自然に。
Mが上げる嬌声に友人たちは目を嬉しそうに細めていたけど、大川さんは只々恐怖を感じていた。
記念に撮ってあげる。そう言われて撮られた写真。
「皆に送るね! 連絡先教えて!」
断れる雰囲気ではなかった。写真を受け取ってすぐ、ブロックした。でも、もうSNSの連絡先を知られてしまった。こうなったらもう、アカウントを消す他はない。だけどきっと、様々な手を使って痕跡を消しても追いかけて捕まえるのだろうと思うと、大川さんに絶望に近い諦めの感情が襲ってきた。
後日、Mと付き合っている友人に呆れた様に笑われた。
「お前って女子苦手だったんだな。あんなに無愛想なお前、初めて見たよ。その顔で彼女ずっといないのって、まさか男好きとか?」
ただ縁がないだけだよ。そう笑い返した。言えなかった。お前が付き合っている女に悉く関係を壊されるんだよ、とは。
友人は、事もあろうかMを同好会の部室に連れてくる様になってしまった。行けば行くほどチヤホヤされるM。
心の拠り所だった場所が、安堵出来る場所がとうとう奪われてしまった。
それからほどなくして、就職活動が始まる。それは部室に寄らなくていい口実になった。
大川さんは決めた。大学で得た友人は、ここまでの付き合いにしようと。捨て難い大切な友人たちだったけど、近くにMの影が散らつくだけで気が滅入ったから。
大川さんは、第一志望の大手総合商社への就職を決めた。家からはそこまで遠くなく、大勢の人が出入りする、セキュリティがきちんと整っている会社だ。
基本、社員以外は明確なビジター以外社屋に入ることが出来ないシステムが採用されていたので、それが志望動機となった。不純な動機だとは思ったけど、大川さんにとって絶対にMが入り込まない環境を作るのは最重要事項だった。それほどに、大川さんは参っていた。
幸いにして、大川さんが住んでいるマンションもセキュリティがしっかりしており、部外者がフラフラと入ることは出来ない仕様になっている。会社と家を往復していれば、Mが入り込んでくる隙間はない。
だから、これが最善の選択だと大川さんは信じた。




