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2 ブックカフェ『ピート』

 会社のある駅から電車でひと駅。そこに、私の癒しスポットは存在した。


 駅からは少し歩くけど、駅前の通り沿いなので夜道でも明るい。


 小走りに歩道を駆けていくと、猫の形にくり抜かれた吊るし看板が見えた。通りに面した古めかしい窓枠付きの窓硝子には、『BOOK CAFE ピート』と黒いペンキか何かで直接描いてある。


 店をオープンした際に、看板費用をケチる為にマスター自ら手書きしたのだそうだ。若干歪んでいるけど、味があって私は好きだ。


 木製の重そうな扉からは、中を窺うことは出来ない。最初にこの店に入るのには結構な勇気がいるからか、客は大体が常連ばかりでご新規さんは少ない。


 それで商売が成り立つのかなあと他人事ながら心配になったけど、私が会社にいる朝や昼は稼ぎ時で結構人が入るのだと、マスターは笑いながら教えてくれた。


 重い扉をギイ、と開ける。


「マスターこんばんは」


 店に入ると、表からは想像出来ないほどの広さがある。壁に無駄なスペースは一切なく、パントリーと窓以外は、全て天井まである本棚に囲まれていた。古本屋に行った時の様な紙の匂いが鼻孔を(くすぐ)る。


 店内には一人掛けや二人掛けのソファー、アンティーク調の椅子やオットマンチェアまであるけど、全部バラバラだ。それぞれの座席の前にある木製のテーブルも全部違うもので、その上にはこれまた種類が違う小洒落たランプが置いてあったり、ソファーの後ろに花の蕾の様な形をしたランプが立っていたりする。


 全部バラバラなのに、それでいて統一感があった。全体的に落ち着いた色合いの木目調だからかもしれない。ランプの灯りは白昼色ではなく電球色で、それもまた落ち着いた雰囲気作りに一役買っているのかもしれなかった。


「マリちゃん、いらっしゃい」


 マスターが、カウンターの向こうからにこやかに声を掛ける。


 マスターは三十路半ばの独身男性だ。ただ伸びちゃったという黒髪を後ろでひと括りにするのが定番で、おでこの形が格好いい少し濃いめの顔をした、なかなかの好男子である。


 顎にポチポチ生えた無精髭の所為で老けて見えるけど、剃るとカミソリ負けをして赤くなっちゃうんだよと笑う大人っぽい笑顔が可愛い人で、女性客だけでなく男性客からも、その柔和な雰囲気も相まって人気が高い。


 両親が喫茶店を畳もうかとしている時に、本好きが生じてこの店をブックカフェに変貌させてしまった、生粋の本好きだ。


「今日は頑張って逃げ回りました!」


 カウンター席に腰掛けながら笑顔で報告すると、苦笑を浮かべたマスターが温かいおしぼりを手渡してくれた。ベルガモットの香りがするおしぼりで、私はいつもそれを嗅いでしまう。


「あー落ち着くー」


 スーハースーハーして、そのまま顔に押し付けた。これで顔を拭いたら完全に赤提灯に来たおじさんなので、耐える。


 そんな私の様子を薄い笑みを浮かべながら眺めていたマスターが、嗜める様に言った。


「お化粧落ちちゃうよ」

「もう殆ど落ちてます」


 すると、今度は心配する様な声色に変わる。


「またトイレも行かずに働いてたの? 駄目だよ」

「……見つかると捕まっちゃうから」


 私がボソボソと答えると、マスターは「はあー」と長くわざとらしい溜息を吐いた。マスターは話を聞き出すのがとても上手い。あまり積極的に自分のことも愚痴を言うのも得意でない私から、気がつけば梨花の話をするすると聞き出してしまったのだから。


 本を読む前に現実の嫌なことを吐き出して、それから物語の世界に飛び込んだ方がより一層楽しいだろ、というのがマスターの主張だった。


「どうにかならないのかねえ」

「うーん、他に同期の女性がいないから仕方ないのかも」


 私があははと苦笑いをすると、マスターが今度は小さく息を吐いた。私に言ってもどうしようもないことを分かっているのだろう。


 ちなみにお客さんは、奥のソファーに常連のお婆ちゃんがひとりいるだけだ。耳が遠いので、多少大きな声を出しても全く問題はない。何やら分厚い本を読んでいるなと思ったら、『指輪物語』を読み始めたばかりのところだそうだ。


 まだまだ先は長いけど、年老いてもそういう楽しみを知っているのは素敵だな、そう思えた。


「まあ、とりあえず忘れようか。で、何飲む? 食事もしてく?」

「あまーいカフェモカ飲みたいです! あと、マスター特製ホットサンドで!」


 手をピシッと挙げて答えると、マスターがやれやれという顔で笑った。


「はいはい。チーズ多めだろ」

「はい!」


 マスターが準備を始めたので、私は読みかけだった本を取りに本棚へと向かう。


 他のブックカフェがどういう仕組みになっているのかはよく知らないけど、ここは基本持ち出し禁止。持ち込みはいいことになっている。


 常連になるとマイ栞を挟んでもいいことになっていて、だけど他の人も読むだろうから読みかけでも本棚にきちんと戻しておくのだ。


 自分より後に読み始めた人の栞がどんどん先に進むと、なにくそと思ったりするのもまた楽しいシステムだ。


「オズ、オズ……あ、あった」


 ライマン・フランク・ボーム著の『オズの魔法使い』を手に取る。一冊で完結だと思っていたら、物凄いシリーズが出ている作品だったと知り、よく知っている筈の一作目から読み進めているところだった。


 席に戻ると同時に、生クリームがたっぷり乗ったカフェモカが提供される。マスターに「ありがとう」と礼を言うと、カフェモカ片手に本をめくり始めた。


 物語に没頭したい。そう思うのに、考えるのは梨花のことばかりだ。


 そもそも、何で梨花はああも私に構うのだろう。


 梨花とは同期入社で、他にもうひとり女性の同期がいたけど、彼女は入社して三年で病んで止めてしまった。梨花と同じ部署に配属され、彼女だけいつも仕事が終わらず、毎日遅くまで残っていた。


 それまで私は梨花ともその彼女とも深く付き合っておらず全然知らなかったけど、その同期が辞める直前、言ったのだ。「梨花には気を付けて」と。


 さっぱり意味が分からず彼女に「とにかくゆっくり休んで」と伝えると、ようやく彼女の顔に笑みが浮かんだ。ほっとした、そんな笑顔だった。


 そしてその意味が分かったのは、それから暫く後のことだった。


 梨花の仕事が終わらなくなった。二人分の仕事を押し付けられてるのかな、周りはそう見ていた。だけど、女性の先輩社員はそんなことしていないと男性社員に真っ向から否定し、社内の雰囲気は険悪になっていっていた。


 結局は手伝える取り巻きの男性社員が仕事を一部負担したけど、たまたまその人が三日ほど休暇を取ったことがあった。途端、梨花の仕事が回らなくなる。梨花は泣きそうな顔で残業するが、誰も手伝えない。


 そして困った梨花は、あろうことか別部署の私に助けを求めてきたのだ。


 そんなこと、出来る訳がない。私が上司に相談したらとありきたりなアドバイスをすると、梨花は周りに侍っている男性社員に「マリモは冷たい」と私の文句を言ったらしい。


 だけど、部署が別なら業務内容が別なことくらい、会社員だったら誰だって分かることだ。それはさすがにマリモちゃんの仕事じゃないでしょ、とひとりが笑いながら言った途端。


 梨花は、今度は私に毎日話しかけて仲良く振る舞う様になった。


 それからの一年間は、ひたすらお喋りを聞かされる日々。事ある毎に私と比較してもっと努力すれば可愛くなれるとか上から目線で言われたけど、私は取り合わなかった。


 だけど、冷たく突き放すことも出来なくて、適当に相槌を打っていたら、いつの間にか梨花と親友にされていたのには驚いた。


 ――構ってこなくていいのに。


 それが言えたらどんなにかいいかと考えると、溜息が出そうになる。代わりに、生クリームにガブッと噛み付いた。


 美味しい。


 唇に付いた生クリームをぺろりと舐めると、ドロシーの冒険に入り込むべく、ようやく意識的に梨花を思考の外へと追い出したのだった。

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