ー1.00 「路地裏のコシュカ」
『…本部より通達。現時刻を以てCode.ECS04を破棄します。これより対象はCode.R、また係数上昇によるR02への移行についても考慮してください。付近のオペレーターは、内面警戒レベル3にて行動を開始し…』
「…ええ、確認取れました。予定通りです。こちらはもう始めます」
傍受した内容を聞いて、状況を他の仲間にも伝える。
「今一度言っておきますが、向こうは最悪、殺処分も視野に入れるでしょう。そういった行動には慎んで、お願いします。では後ほど」
通話を切り、同時にスマホの画面を消した。
△▼△▼△
「――。」
辺りを見て、ヒトが居ないことを確認し、角を曲がる。
「――ぁ…」
…油断していた。後ろの角に、おそらく一人だ。不意に目にした水濡れの反射に、その姿が映っていた。
多分、見られていた。ダメだ、こんなところで捕まるわけには――。
混乱した頭のまま、気づけばその人物の首に手をかけていた。
はっとしてすぐに手を放すが、仰向けになった彼は、倒れたまま動くことはない。
…たった今まで、その首にかかっていた右手を見つめた。掌に、小さな水滴が溜まっていく。
――この自分が、まるで自分じゃないみたいで、またしても強烈な喪失感に呑まれた。
まだ確かめていない。確定していない。まだわたしは…。
事実を知りたくなくて、確かめられなかった。
「…、っ……!」
複数人の、走る足音が近づいて来ている。早まる鼓動を押さえ、倒れている彼へのやましい気持ちを無理やり抑え込み、その場を離れた。
高い建物に囲まれたこの路地には、うっすらとしか光は入らない。
これからどうすればいいだろうか。ずっと逃げ惑う訳にもいかなかった。少しずつ、余地は無くなってくる。
匿ってくれる場所などなかった。自分のこの異質な容姿を、自分自身ですら受け入れられないのに。それを受け入れてくれる人間など居るはずがなかった。
「そうだ……」
水たまりに映る自分を見て気づく。
これが服と言えるのかどうか。一見して患者衣、などと呼ばれるような形のものだが、裾には壊れた電子制御パネルや、他にもその類のよくわからない機器がついていた。
この姿だと、逃げるにも目立つはず。何とかして他のを見つけなくちゃいけない。
この雨のなか、一つだけ洗濯物が干したままになっているベランダがあった。
あまり音を出さぬよう、器用に建物を足蹴にして登っていく。四階の高さまできて、そのベランダに届いた。
「ごめん、なさい」
黒く、何かを染めていく中、ほんの少しだけでもと、贖罪にはそう呟くしかない。
見つからぬよう窓を覗き、人がいないことを確認する。なるべく目立たない服を選んで奪い、急いでその場から飛び降りる。そこまで着ていたものを脱ぎ捨て、奪ってきた服に着替えた。
パーカーの方は少し大きい。それに裸足はそのままだ。せめて履く物があれば良かったが、そんな贅沢も言える状況じゃなかった。我慢するしかない。また、耐えるしかない。
…そんなの、おかしいよ。
「なん、で…」
こんな状況に、いつまで耐えればいいんだろう。
最初に目を覚ましたのはいつだったか。色の無い無機質な部屋の中、ガラスに映る自分を見たとき、白に染められた何者かが映っていた。それが何と呼ばれる物か分からない。わたしに記憶がなかったからか?
既に自分の名前が失われ、家族がまだいるのかどうかも分からない。妙に明るく、白いだけの部屋は、やたらと不安を掻き立てていく。
目を覚ますたび、腕には針に刺されたような痛みが残っている。外に人の気配はまるでなく、言い表せない空間の気配だけがわたしを見つめている。
文字通りの何もない日々。そうじゃない、確実に何かは起きている。ただ、それが何なのか知覚できないだけだ。こんな、虚無と不安を混ぜあわせた日々に、ただ耐えている。
耐えること以外、他に縋れるものが残っていなかった。
いつか誰かが、連れ出してくれることを願って、そのあるかもわからない光に辿り着けることを願って、ただ耐えた。
でも結局、今ここにいるのは誰かのおかげなんかじゃなかった。
誰かが助けてくれるなんて、何を根拠にそう思ったのか。
今、信じられるのは自分だけだ。
わたしから奪ったものを取り返さなければならない。取り戻せないものがあったら、奪い取ったそれから代償として奪わなければならない。
「なんで、こんなことを…」
通常なら思いもつかない言葉を、自我に関係なく次々と頭の中に生み出していた。
なんでこうなった? わたしは何をした? わたしが何をした?
どうしてこんな、なんでこんな、誰がこんなことを――。
▼△▼
「あぁ、起きたのか」
それは、敵対心が感じられなかったからか、寝起きの頭だったからか。どうしてかそうやって話しかけられても、さほど驚くことはなかった。
「運が良かったとしか言いようがないな。俺も、お前も」
その言葉に、周囲を見回す。ここは、さっきの暗い路地ではない。
「え、あ…」
目の前に立つのは、大きなバッグを提げる、背の高い人物だった。
「さあ、行くぞ。時間をかけるほど難易度は上がる」
「…誰、なの?」
「聞こえてなかったのか? まあいい。お前が逃げることで得をする人間、とだけ言えるだろうな」
正体を明かそうとはしない。でも直感では、敵には見えない。迂闊な判断は躊躇われた。
「あなたがわたしの敵じゃないって証拠があるの?」
こっちに都合のいいことを言って騙そうとしているに違いない。わたしだって、そんなに馬鹿じゃない。
「そんなものはない。自分で考えるんだ。あまり時間はないが」
「何、それ…」
私の表面は、希望的観測を嫌っていた。疑うことで彼の善悪を推し量ろうとした。
本当は、助けてほしかった。ただ、自分以外を信じていいのか分からなかった。
だからって、この可能性を捨てることは、いい選択とは言えない。
「いや…。わかった、ついていく。けど、」
考え方を変えた。わたしはその選択をした自分を信じていればいい。そう、彼は手段に過ぎない。どこまでそれを使うかは私が決められるはず。
わたしは落ちていた小石をつまんで、そのまま彼の目の前で見せる。
「わたしは今これを、銃弾のように弾くことも、粉々に砕くこともできる」
「可愛い脅しだな」
そして、人差し指と親指に力を入れた。砕けたビスケットのように、それはぼろぼろと地面に落ちていく。
「嘘じゃない」
「今から仲間と合流する。…無闇にその力は使うべきじゃない。適切なタイミングでなければ、得られるものも得られなくな――」
言いかけて彼は、右耳に手を当てた。
「――さぁ、行くぞ。もうお前しか残ってないみたいだからな」
「え……?」
耳にあてていた手をはなし、そのままわたしの手を取る。
「クソっ――」
変わらぬ調子で話していた彼はまた、何かに気づいた。咄嗟にわたしを覆って壁に張り付く。
視界は、覆いかぶさる彼の姿だけで、周りがどうなってるのかは見えない。しかし直後のその大音量は、不快感を与える為に作られたかのようなその音と、無感情の声だ。
『…N警戒レベル3を認証。屋外にいる者は指定された時間内で退避してください。また車両はドローンに従い移動して下さい……』
平静を保っていた世界が脈絡もなく崩れ、かろうじて穏やかと言えた空気感は遂に消え去った。この刹那で、辺りが緊迫と不穏を混ぜた雰囲気に呑まれる。
「面倒なことに…」
わたしを庇ったまま彼がつぶやく。さっきまでの余裕はわずかに薄まり、動揺しているのが微小ながら伺える。
「…どうなるの」
「見つからなければどうということはない。見つからなければだ。…格上げされたな。何をやった?」
「……、それは…」
あの右手の感覚が甦る。
「――まあいい。とにかく、逃げるぞ」
返事を待つ余裕はなく、すぐに彼はわたしの手を引いて歩き出す。
人気のなくなった街を少し歩き、少しすると灰色の低い車が、ぽつりと一台停められていた。
「後ろに乗れ。窓は開けるなよ」
男は後ろのドアを開け、わたしが乗るとドアを閉めた。そして、助手席に乗り込んだ彼に、運転席の人物が話しかけた。
「遅かったですね。理由を聞く暇も無くなりましたよ」
「なら早く出してくれ」
車は動き出す。しかしそれきり、その二人は話さない。
「…あなたたち、何なの?」
そして、最初に口を開いたのは助手席の男だ。
「お前の代わりに、死ぬ人間だ」
「…、え…?」
「あまり、変なことは言わないでください。作戦に支障をきたします」
運転席の女性は感情の読めない口調で男を窘めた。そして、先の男の言葉をごまかすかのように、最初の沈黙が嘘だったかのように話しだす。
「あなたをここから脱出させることがこちらの仕事です。現在は至る場所で警戒線が張られていますが、ここは海上に存在する巨大な都市ですので、脱出にはいくつか障害があり、あなた自身の協力が必要となります」
「…何をするの?」
「簡単なことです。私たちに対し、感情を抱かないこと」
ひどく冷たい声色だった。車のミラーを介して、それを言った彼女の顔を見ようとしても、機械的なマスクで覆われていて、その表情を窺うことは出来ない。
また、最初の沈黙が戻ってくる。
ハイウェイを走り始め、前方上部にいる案内ドローンの避難指示の画面には<避難完了 目標時刻まで残り 00:46:18>と表示されていた。
突然、背中をつつかれたみたいに身体がはねた。その違和感は、訝しむ暇を与えず、すぐに危機感へと変化した。
「ねぇ、来てるよ」
思わず声に出る。
「明確にこちらを狙うような追手の情報はない。その根拠は何だ」
男は手に持ったディスプレイを見て、冷静に答える。気づいていない。
「…なんで、わからないの?」
もうそこまで、気配は来ていた。驚くべき速さで、近づいて来ていた。それは、追いつかれてはならないものなのだと、直感が警鐘を鳴らしている。
やっと車が加速を始めた。慣性に押し付けられる感覚だ。それでも、遅かった。
「あ、」
▼△▼
瞼が重たい。手足に、体全体に力が入らない。唯一、かろうじて使えるのは、聴覚による情報だけ。
「最…的に……とは決ま…した。そ……、早ま…だけです」
「……えろ、カエ…。…前は、」
朦朧とした意識で、声が途切れ途切れに聞こえていた。今どうなっているのか、あの気配がなんだったのか、彼らはどうしたのか。浮かんでいく思考を無理やりかき消して、聞こえる情報にだけ意識の波長を合わせる。
「…あなたの役割は、果たされました。また、いずれ」
合わせた波長は、その一言を最後に遮断された。
▼△▼
驚くほど静かだ。海上の、終わりが見えないアスファルト、その真ん中に立っている。
後ろを振り向く。
白い破線が続く先の終点、先程までいた巨大な都市が、全体を見わたせるほどの距離にまでなっていた。
眼の奥がズキズキと痛む。その痛みが、この状況を夢でないと肯定しているようだ。見上げる空は深い藍色に染められ、無数の光の粒がちりばめられている。道路の街灯はその輝きを少し邪魔していた。
意識が戻ってから、全く動くこともなく、既に数分が経っていた。なぜここにいる
のか、あのとき何があったのか、聞きたいことが山ほどあった。でも、それを聞く相手はどこにもいない。
あの二人はどこへ行ったのだろう。ここ数時間の出来事は、靄がかかってうまく思い出せなかった。
とにかく今は、この長い道を進んでいくしかないみたいだ。永遠を錯覚させるほどのこの長さは、気の遠くなる道のりになる。けど、あの空虚な部屋と比べれば、それは些細なことのように思えた。少なくとも、ここを進んだ先には何かがある。その事実が、私を前向きに動かしている。
わたしはやっと歩き出し、固まっていた手を動かしてみて初めて、その手に掴んでいたものがあったことに気づいた。
「え、…?」
その破壊された機械のマスクは、彼女がつけていたものと同じものだ。赤い液体で汚れたわたしの手のひらは、そのマスクにも同じ汚れを付着させていた。
「わたしの、代わりに…」
頭の靄が晴れて、やっと思い出したのは、彼が言ったあの言葉だった。
/*第〇話 「路地裏のコシュカ」*/