65:侮るなかれ!
その夜、ボクは夢を見ていた。
「収率が今一つだなぁ。条件振らないと……」
その夢の中で、ボクは、パラジウムカップリング反応の収率向上に向けて、条件検討を計画していた。
パラジウム触媒の当量やリガンド、溶媒、塩基、温度などが検討項目となる。
これは、ボクが大学院にいた時のワンシーン。
テーマはArmatol Aの全合成研究だ。
前世の名前が有馬透だったので、教授から、
「Armatolでイイよね?」
とノリで決められたテーマだった。
隣の実験台には、目付きの悪い女性の姿があった。
彼女の名前は志賀怜子。
ボクの一年後輩の女性で、結構美人な類だと思うんだけど、目付きのせいで常に機嫌が悪そうにしているような誤解を受けている。
担当テーマはCiguatoxinの全合成研究。
彼女のテーマも、
「志賀怜子だからCiguatoxinでイイよね?」
とノリで決められたんだけどね。
ただ、そのお陰もあって、他大学の先生方からは、
「Armatolの有馬透君にCiguatoxinの志賀怜子さんね」
と結構、名前を憶えてもらえたよ。
ふと目を覚ますと、時刻は4時44分。
何だか、意味ありげな数字並びだね。
偶然だと思うけど。
それにしても、こっちの世界に再び戻って来てから既に一年半以上が経過しているけど、その間、志賀さんが出てくる夢を見ることが何気に多い気がする。
前回……一回目に戻って来た時には、彼女の夢を見たことは、全然無かったのにね。
何でだろう?
たしかに、ボクは彼女のことを美人だと思っているし、目付きは悪くても内面は可愛い女性だって思っている。
だけど、ボクが当時理想としていた女性の容姿は、今のボクの姿そのものだからね。
志賀さんに恋愛感情を抱いていたってことは無いと思うんだけど……。
ただ、ボクに話しかけてくれた希少な美少女だったからね。
心の奥底で、何か期待していることでもあったのかな?
まあ、今更だけど。
二度寝して起きると、既に時刻は八時を回っていた。
完全に寝過ごしたよ!
ボクは、急いで身支度をすると、特殊ゲートを通ってトオル製薬近くの、要はボクの店だった建物の二階に移動した。
ここが、一応、ボクの居室……会長室ってことになっている。
一階部分には、既に二人の騎士が見張りに来ていた。
ワルハラ事件があったお陰で、今では、ボクの周辺には、常時見張りが配置されている。
ある意味、ウザいんだけど仕方が無い。
拉致再発防止のためだ。
ボクが二人に、
「おはよう!」
と声をかけると、
「えっ?」
ムチャクチャ驚いていた。
それもそうか。
今まで二階は無人だったのに、いつの間にかボクが湧いて出て来ていたんだからね。
今日の仕事は、先ずワルハラ社会主義帝国のネヒエット村で流行った出血熱についての記録作成だ。
最初の感染者への感染源がコウモリだったこと。
人から人への感染ルートは接触感染で遺体からも感染したと言うこと。
薬にはレムデシビルではなく、今回はリバビリンを用いたこと。
勿論、リバビリンの構造式も記載。
参考までにレムデシビルの構造式も記載。他の出血熱患者が出た際に、使うことがあるかも知れないからね。
こう言った記録ファイルが、後の世代の人達の参考になればって思っているんだ。
地球で覚えて来た薬の構造式と効能を記載したファイルを既に作っていたけど、あれは手直しが必要だ。
構造式を変える必要は無いけど、ここは異世界だからね。
必ずしも地球と完全に同一の病気だけが存在しているわけじゃないし、効能が若干変わることも起こり得る。
なので、構造式ごとにチャットボット機能を使って用途を確認する必要がある。
その上で記載内容を更新しなくてはならない。
結果的に二度手間になったけど、今日は他にすることがないし、まあ、イイかって思っている。
しばらくして、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「トオル、イイ?」
入ってきたのはアリア。
その後には騎士二人と、見知らぬ顔の女性が一人、立っていた。
「どうかしたの?」
「この人がトオルに豊胸をお願いしたいんだって」
「うん、分かった」
なんか、この女性が晒し者みたいでカワイソウになった。
施術者であるボク以外には、この女性だって、
『豊胸希望!』
なんてことは、正直なところ話したくないだろうね。
それが、拉致事件があったせいで、秘書のアリアと、この建物を守護する騎士二名が見守る中で話さざるを得ない状況にある。
アリアは、個人情報保護の必要性が分かっているからイイけど、騎士二名は大丈夫か、ボクもちょっと心配している。
飲みの席とかで言いふらさなければイイけど。
ただ、成人男性が極端に少ないこの世界では、男性は基本的にみんなの共有物扱いだ。
恋愛バトルで勝ち取るものではない。
なので、ボク自身は、地球に比べれば、別に胸の装備を厚くする意義は然程ないように思っていた。
強いて言えば、見栄の張り合いのためくらいしか豊胸を依頼する必要は無いだろうって感覚だった。
だから、豊胸希望者は、貴族とか大店商人とか、お金も立場もある人に限られるんじゃないかって思っていた部分もあったんだ。
でも、その女性曰く、
「彼女が巨乳好きなモノで……」
とのこと。
同性愛者で、相手の理想の身体を手に入れたいとのことだった。
まあ、そう言うパターンもあるってことか。
「小金貨二枚になりますけど?」
「それで済むのでしたら、よろしくお願いします」
施術料に合意してもらえた。
もっとも、値切られても困るけどね。
早速、ボクは、その女性の胸に向けて、
「増えろ!」
再生魔法を照射した。
すると、見る見るうちに平野部分が豊かな双丘へと姿を変えた。
その女性も、これには満足したようで、
「ありがとうございます!」
何度もボクに頭を下げていたよ。
まあ、喜んでもらえて何よりだ。
それにしても、この世界では、意外とブサメン成人男子がイイ思いをしている。
地球とは大違いだ。
成人男子の存在率は、成人人口の0.5%のみ。
そこから、基本的にイケメン男子は王族貴族の所有物になる。
そして、その所有者である女性が、そのイケメン男子を平民女性に貸し出すとか、他の貴族との交換プレイとかがされない限り、所有者以外とはHしない。
と言うかできない。
ところが、王族貴族に買われなかったブサメン男子は、平民女性達の共有物となり、日替わりで、毎日複数人の女性を相手にする。
しかも、人類存続のため、積極的に子を残そうとする女性も、それ相当数いる。
当然、そう言った女性達を相手にする場合は避妊無しだ!
ハッキリ言って、ブサメン成人男子にとって天国だよ、ここは。
今では、生まれてくる子供達の男女比が、およそ1対1に戻ったから、そのうち、ブサメン天国は崩れ去ると思うけどね。
…
…
…
その日の夜も、ボクは志賀さんの夢を見た。
しかも、何気に美化されているような気もするけど……。
「トオル先輩。この脱離反応なんですけど」
「ああ、これね。なんでも、3位に電子吸引性の酸素官能基があると、1,2-ジブロミドの脱離反応に選択性が生まれるらしいんだ」
「面白いですね」
「DBUの当量を増やして反応温度を少し上げれば、二重脱離を経てプロパルギル基に変換されるって話だよ」
「そうなんですか?」
「うん。通常は、DBU程度では二重脱離まで行かないけど、3位の酸素官能基の電子求引性が効いて、二重脱離まで進行するらしい」
これは、志賀さんが輪講で使うネタを予習している時のワンシーンだ。
ちょっと疑問に思うところがあって、彼女がボクに質問してきたところ。
どう考えても、普通の成人男女の会話じゃないよね?
ふと目を覚ますと、またもや時刻は4時44分。
こう続くと、絶対に意味ありげとしか思えなくなる。
偶然じゃなくて必然的な何かをね。
でも、別に今更、志賀さんに会えるわけじゃないし、いったい、この夢は何なんだろう?
もしかして、志賀さんが転移してきたりして?
まさかね。
ボクは、この日も二度寝した。
…
…
…
今日は寝過ごさなかったよ。
ちゃんと七時前に起きた。
そして、余裕を持って普通に身支度。
でも、会長室に移動する時刻は昨日と同じだけどね。
この日も、一階部分には、既に二人の騎士が見張りに来ていた。
ただ、昨日の騎士とは違う女性だ。
ボクが二人に、
「おはよう!」
と声をかけると、
「えっ?」
やっぱり、ムチャクチャ驚いていたよ。
少しして、会長室にアクティスが入ってきた。
しかもノック無しだ。
中でボクが一人で変なことをしていたら、どうする気だよ?
「トオル。隣国アストリックで急患だ」
「えっ?」
「下にエリカを待たせている。至急、現地まで行く」
「分かりました」
ボクは、机の上に散乱していた書類をまとめて引き出しにしまうと、アクティスと一緒に建物の外に出た。
エリカさんからは、
「早かったですね」
って言われたけど……。
前にも、こんなことがあったような……。
基本的に、エリカさんは、ボクとアクティスが、毎回、変なことをしてきたとでも思っているんじゃなかろうか?
ただ、これを聞いてアクティスは、
「急いでいるんだから当然だろ!」
と真面目な顔で一蹴。
エリカさんは、さっきの一言が失言であると気付いたようだ。
そんなことを言っているような場合じゃないってことだ。
「失礼致しました。では、参ります」
ボク達は、エリカさんの転移魔法で、アストリック国の首都アストレアへと移動した。
アストリック国は、ドロセラ王国の北側に位置する。
ボクがアクティスに連れて行かれたところは、貴族のお屋敷だった。
アクティスが言うには、
「ここは公爵家のお屋敷だ。アストリック国との関係を良好に保つためにも、済まないが何とかしてくれないか?」
とのこと。
つまり、何気に政治が絡んでいるってことだ。
だからエリカさんの一言が、今回はアクティスにとって失言になったってことだ。
患者は、その家の長女だったんだけど、お腹が大きく膨らんでいて、パッと見、彼女は出産間近のように見えた。
ただ、彼女の母親からは、
「この数日間で一気にお腹が大きくなりまして……」
とのこと。
妊娠にしては不自然と思ってボクを呼んだらしい。
「変な寄生虫か何かが体内に入って、一気に成長したのではないですよね?」
とか考えたようだ。
ククラタ町で発生したフィラリアの件と、虹色巻貝の件があったことで、妙に寄生虫の存在が有名になっているんだよね。
今、患者の女性はベッドの上で横になっていたけど、顔色が悪く、非常に苦しそうな表情をしていた。
しかも、呼吸が辛いみたいな感じだ。
それに、酷い腹痛と吐き気を訴えていた。
ただ、彼女の体臭が妙に排泄物臭い。
つまり、身体中からオナラと言うか、大便の臭いがしていた。
「薬は、何か飲みましたか?」
「申し上げにくいのですが、娘は薬が好きではなくて、薬は飲んでおりません」
「そうですか」
ボクは急いで診断魔法発動した。
その直後、ボクは患者が非常にヤバイ状況であることを確信した。
このネペンテス世界の誰もが、
『まさかぁ?』
って思うんじゃないかな?
でも、マジで深刻だよ。
「これって、急がないと死亡するかも知れません。すぐに処置します!」
そして、ボクは、
「出ろ!」
女神様から頂いたペンダントにお願いして大き目のビニール袋を出した。
そのビニール袋の口をキツく縛ると、
「物質転移!」
患者の消化管内に大量に詰まっていた排泄物を、全てビニール袋の中に転移させた。袋の口をキツく縛ったのは臭いが外に出ないようにするためだ。
その総重量は七キロ近く。
ムチャクチャ重い。
しかも、肛門近くに巣食っていたモノは、まるでコンクリートのようにカチカチに固まっていた。
これじゃ、モノもガスも、出したくても出せないよ。
それにしても、ボクは地球時代にラノベをいくつか読んだことがあるけど、大便を物質転移したヒロインの話なんて聞いたこと無いんだけど?
史上初じゃなかろうか?
別にイイけどさ……。
ちなみに、患者の母親は、この摘出物を見て唖然とした表情をしていた。
「これって、もしかして?」
「娘様の体内に詰まっていた大便です。排泄できずに、これだけの量がギュウギュウに固まっていたんです」
「では、原因は便秘?」
「はい。しかも、最近、急激にお腹が膨らんだのはガスが体内で発生して溜まっていたからです」
「それって……」
もしかしなくてもオナラね。
溜まり溜まった大便から発生したガスってことだ。
そのせいで、腸がパンパンに膨らんでいたよ。
「ただ、これでは、さすがに肛門から体外に出せませんでしょうから……。もう少し遅れていたら、恐らく亡くなられていたでしょう」
「そんな、便秘が原因で死ぬなんてあるんですか?」
「あります。便秘を甘く見てはイケないんです。娘様。体調は如何ですか?」
「ずいぶん楽になりました。ありがとうございます」
そう答えながらも、その娘はムチャクチャ恥ずかしそうな表情をしていた。
年頃だし、それが普通だと思う。
「どれくらい排泄していなかったのでしょう?」
「多分、二か月近い気がします」
「そうですか。でも、直近で下手に薬を飲まずにボクを呼んだのは、不幸中の幸いだったと思います。これでは、薬を飲んでも出せなかったでしょうから」
実際、地球には便秘が原因で亡くなった例がある。
ネタ話のように思っている不謹慎な人もいるみたいだけど、マジでシャレにならないんだよ!
大腸をはじめとする身体中の臓器が膨張して胸部を圧迫するから、下手をすると心臓麻痺が引き起こされる。
たかが便秘って思っている人もいるかも知れないけど侮れないんだ。
この女性は、そうなる前に助けられて本当に良かったよ。
ただ、この大便を放置するわけには行かないな。
それに、ビニール袋も処分しなくてはならない。
いくらなんでも、その辺に放置ってわけにも行かないし、かと言って絶対に持ち帰りたくもない。
それで、ボクは強硬手段を取るため、ペンダントを握り締めると心の中で強く祈った。
「(シリシス。力を貸して。ククラタ町の時みたいに処分したいんだ!)」
すると、
「(だから、これは通信機じゃないんだけど)」
とシリシスの声がボクの頭の中に響いて来た。
でも、これでシリシスの力が借りられる。
助かったよ。
「(この大便をビニール袋ごと処分したいんだけど)」
「(じゃあ、またマントル層の下まで移動させればイイ?)」
「(お願い)」
「(了解!)」
その直後、ボクの身体の中にシリシスが入り込んだ。
前回同様に、ボクの背中に一対の大きな翼が生えてきた。もう、御使い疑惑とか女神疑惑が強まっても、どうでもイイや!
今、ボクの身体は、完全にシリシスのコントロール下にある。
当然、ボクの意思では動けない。
ボクの身体は、右手でビニール袋を持ったままお屋敷の庭まで転移すると、宙に浮き、左掌を足元直下の地面に向けた。
すると、今回も地面が裂けて広がり、廃棄用の穴が出来たけど、ククラタ町の時よりは小さかった。
穴の直径は一メートルくらいだった。
続いて、ボクの身体は、その穴の中に汚物入りのビニール袋を放り投げた後、穴に向けて両掌を向けた。
すると、次第に穴が塞がって行き、元通りの地面に戻った。
これでズッシリとした大物排泄物は、この星の外殻まで落ちて行った。
まさに、臭いモノに蓋をした感じだ。
ボクの身体からシリシスが抜け出た。
これと同時にボクの背中からは翼が消えたんだけど、毎度の如く、
「御使い様」
「天使様」
「女神様」
このお屋敷の方々……公爵家の人々と従者達が、ボクの方に向かって両手を合わせて拝んでいたよ。
引用:Synlett 2008, 3091-3105




