アイリ「何が見えたの……? ちょっと! その望遠鏡を貸しなさい!!」アレク「駄目ですッ! 今見ちゃ駄目ですアイリさんッ!」
「いいから早く大砲を冷やして下さい、魔術師さん!!」
「何で科学の力で冷却出来ない物を作ったのよ、欠陥品じゃないの!?」
「科学はそんな人間の都合通りには出来ていないんですよ! 魔法とは違うんです!」
「何ですってぇえ!? 貴方こそ魔法を何でも夢が叶う簡単なチートだとでも思ってるの!? こんな薄汚い魔法でもこっちは命削って打ち出してんのよ、それを貴方」「アイリさんやめて! 今はやめて!」
アナニエフ一家は平時は極北海で獲れる鰊や鱈を漁民達から買い上げたり、極北海の東、メドヴェーチから来る毛皮製品を買い付けるなどして、レイガーラントに持ち込む貿易を行っていた。
彼らの主力である四隻のキャラック船はその為の武装商船だ。他の海賊に襲われても反撃出来るよう、それなりの大砲を積んでいる。
大砲は極北海の漁民が鱈を安値で売る事を渋った時にも使うし、護衛が少な過ぎる毛皮商人を見掛けた時に使う事もある。
かつては彼ら自身も極北海で操業する漁船団であったのだが、近年ではより効率よく儲かる貿易業と漁業管理業の方に軸足を移していた。
ところが去年ぐらいからその二つが上手く行かなくなったのである。彼等が牛耳って絞り上げて来た極北海の漁師達が魚が獲れないと言い出し、毛皮商人達もアナニエフ一家の縄張りを通らなくなったのだ。
一方フルベンゲンはスヴァーヌの民によって開かれた数百年の歴史のある町で、後から来たアナニエフ一家に上納金など払うはずもなく、付き合いも殆ど無い。
アナニエフ一家は貧乏になっているのに、フルベンゲンは経営の多角化に成功していて生活にも困っていないという。これはとても不公平である。
そして今。アナニエフ一家の旗艦キャラック船ウラーガン号は卑劣な海賊の攻撃を受け、左舷に大きく傾いた後、さらに大きく船尾から浸水し沈没しかかっていた。
一家を預かる当主で自ら船団を率いる英雄ヴィクトル・アナニエフがこの戦いで気絶したのは二度目だった。
一度目は完全な不意討ちである。フルベンゲンから来たと思われるどこのかの貴族の小僧は卑怯にもアナニエフ一家の船を盗み出し、完全に味方だと思って気を許している旗艦の真後ろに忍び寄り、いきなり大砲で撃ったのだ。
砲弾の一つは船長室の窓と壁を突き破り、ウラーガン号の大砲の一つを直撃して跳ね上がり、トプスルヤードに当たって軌道を変え、メンマストに跳ね返って、ヴィクトル・アナニエフの鉄兜の上に落ちた。
兜が変形する程の打撃を受け、甲板に倒れた頭目を見て、ある者は青ざめ、ある者は胸を撫で下ろした……しかしきっちり10秒後、アナニエフは立ち上がった。さすがは英雄ヴィクトル・アナニエフ、不死身と呼ばれる男である。
そして二度目の気絶はその小僧との直接対決によるものだった。装薬の反動が加わっていたとはいえ、本当ならアナニエフ程の男があんな貧弱な小僧の一撃で倒れる訳がない。あれはきっと一度目のダメージが頭に残っていたのだ。
◇◇◇
「さっさとボート出せこの野郎ォォ!」
再び起き上がったアナニエフは救援に来た別のキャラック船から大型のボートを出させ、漕ぎ手をたくさん並べてガリオット船シーオッタ号の追撃に向かう。
残りのキャラック船二隻もシーオッタ号に制裁を加えるべく、装填した大砲を押し出すが……
「あれも俺様の船だ撃つな馬鹿野郎! あんなクソチビ接舷してしまえば一瞬ですり身に出来るだろうが、お前らもボートを出して追え! 奴を捕まえて首と胴体を捻じり切れ!!」
アナニエフは砲撃を禁じ、他の船にもボートを出すよう命じた。
盛大な海の鬼ごっこが始まった。
キャラック船には運航や砲撃に必要な水夫達の他、フルベンゲンを制圧する為に集められた男達も大勢乗っていた。人手は十分にある。
各船とも全長5mを越える大型艇は勿論、雑用に使う小型艇まで繰り出し、勿論母船も一緒になってシーオッタ号を追跡する。幸いシーオッタ号には船首にしか大砲が無いので、横や後ろから追い掛けていれば砲撃される心配は無い。
アナニエフ一家側はそう考えていた。しかし。
―― ドン! ドーン! ……ドボーン!! ドババババ!
シーオッタ号に乗り込んでいた船泥棒共は船首砲のうち上甲板にあった2門を力ずくで移動させていた。そしてまともな砲座もない船尾から適当に、砲弾の代わりに瓦礫やら木片やらを散弾のようにばら撒いて来る。
「ふざけやがって! 仕方ねぇ砲撃するぞ、あのクソッタレ船ごと海の藻屑にしちまえ!」
これには他のキャラック船の幹部達も業を煮やしたのだが。
「だめだ親分もボートで追い掛けてンだぞ、当たったらどうすんだ!」
「とにかくシーオッタ号を捕まえろ、話はそれからだ!!」
結局有効な解決策を打てないまま、人をおちょくるように逃げ回るシーオッタ号を追い掛け、アナニエフ一家は時間を浪費して行く。
◇◇◇
やがてウラーガン号は船首楼だけ残して殆どが水没してしまった。ボートはもう無い。後処理の為に残された数人の水夫は、どうにか水面上に残されたバウスプリットの周りに集まり途方に暮れる。
サイクロプス号はそこにやって来た。グレイウルフ号とフォルコン号が私掠船隊と戦う水域では南側からの援護射撃だけにとどめ、こちらに急行して来たのだ。
アナニエフ一家側もサイクロプス号が見えなかった訳ではないが、彼等の頭目であるヴィクトル・アナニエフは半ば理性を失っていて、まともな指示を出す事が出来なかった。その間にサイクロプス号はキャラック船隊に接近し、砲撃を始めた。
見た目は重フリゲート艦であるサイクロプス号の砲撃に、キャラック船の乗組員達は恐怖したが……サイクロプス号が撃って来たのは9ポンド砲8門のみだった。
「なんだあいつ、軍艦みてえな恰好であんなもんか!」
「豆鉄砲が8門だけ、敵は見掛け倒しだぞ!」
しかもアナニエフ一家は知らなかったが、この時のサイクロプス号は数少ない大砲を全部右舷に集めており、左舷は丸腰だった。
敵は一隻、片舷の大砲の数はキャラック船とほぼ同数、しかも相手は威力の低い9ポンド砲、アナニエフ一家側はそのぐらいの気持ちで反撃を開始したが……この間合いは長砲身の半カルバリン砲に有利な距離な上、サイクロプス号の乗組員は非常に練度が高かった。
―― ドドド ドドド ドドドン!!
―― ガシャーン! ガン! バシャーン!
「ぐわぁああ!!」「くそ! また喰らった!」
「船長! 船首楼と下層甲板、後方喫水線近くにも一発……」
「畜生、早く向こうにも当てろ!」
シーオッタ号を追い掛けながら対応する三隻のキャラック船からの散発的な砲撃が成果を挙げられずにいるうちに、サイクロプス号は得意の間合いを保ちながら命中弾を積み上げて行く。
私掠船隊は何をしているのか? 多額の前金と自由略奪の権利を要求し、大威張りで先行していた、南から来た海のクズ共は何をしているのか?
奴等はたった一隻のレイヴン海軍の小型艦の処理にいつまでかかっているのか。
アナニエフ一家のキャラック船の一隻を預かる船長は見た。
東の海域を覆う黒々とした砲煙の渦の中から進み出て来る、一隻のスループ艦。あの天秤の絵柄の帆の船は私掠船隊の船ではない、フルベンゲンの方からのこのこ現れた商船だったはず……一体どういう事なのか。
その船を追うように、もう一隻の船が黒煙の中から現れる。
それはどこかで見たコルベット艦に似ていた。
だがその船のマストは二本とも折れて無くなっている。さんざんに砲撃されたボロボロの船体は左舷側にやや傾き、艦尾楼の一部は火災を起こしたのだろう、延焼防止の為に破却されている。
無くなったマストの代わりに一枚の蟹の爪型の帆と、細い仮マストに立てたガフセイル、それにスプリットセイルなど、仮設の補助帆だけで航行しているそれは、私掠船隊の船ではなかった。
変わり果てた姿をしているが間違いない。あれは例のレイヴンの小型軍艦だ。
そんな船がたった今立てたような仮マストの天辺めがけ、翼を広げたカラスをモチーフにした、レイヴン海軍旗がするすると上がって行く。
「おい、誰でもいい。メンマストの旗を降ろせ」
船長は望遠鏡の向こうの、血塗れで拳を突き上げるレイヴン海軍兵達から目を離し、力なくそう言った。
正直、早くそうして欲しいと考えていた水夫達は、争うようにメンマストに取りつき、この船の所属を示すそのペナントを引き降ろしに行った。
◇◇◇
戦闘海域から南へ数km。
ピンネース船バーグホンド号は南西へと転進しつつあった。
乗組員達の一部は先程まで憚らず不満を口にしていた。一体何の為にこんな極北の地に来たのかと、そして何故何の儲けも無いままに帰るのかと。
海賊業は遊びではない。彼等が飯を食う為の大事な仕事である。
しかし。どんな仕事をするのもどんな糧を得るのも、自分の命の為である。命を失ってしまってはいくら金があっても使う事は出来ない。
乗組員達は今、皆一様に青ざめていた。
どう考えても海賊側の圧倒的勝利に終わると思われていた海戦が、レイヴン海軍側の勝利に終わろうとしている。
アナニエフ一家の誘いを受け集まった私掠船隊……軽ガレオン船やジーベック船のような中型戦闘艦も居た。武装フリュート船やナオ船も十分な武器を積んでいた。
さらにアナニエフ一家が用意したガレー船二隻も居た。大砲の数は多くないが狭い海域でのやり取りに長けた船だったはず。
バーグホンド号の乗組員の誰もが、新船長、ゲスピノッサの判断力に平伏するしかなかった。
こんな極夜の辺境まで長い航海をしてやって来たのに、何の収穫もなく逃げ出すなど悔しくない訳がない。
しかしこの船にゲスピノッサが乗っていなければ。彼がこの愚挙を止めてくれていなければ……自分達も黒煙の渦の中で天秤付きのスループ艦にうちのめされ、この船もあのジーベック船のように船体中央から真っ二つにされ、轟沈していたのかもしれない。
「船長の言った通りだ」
副船長に指名されたネイホフは、ゲスピノッサの近くで望遠鏡の向こうを見つめていた。
「あの天秤は何なんだ……ウインダムで見掛けた時は、大砲も積んでねえ、乗組員も少ねえ、のんきな船に見えたのになぁ……」
「ああいう奴は理屈じゃ無ェんだ。多分あいつだけじゃ無ェ。広い海にはどんな熟練の船乗りだって見た事が無い化け物が、まだまだたくさん居るのさ」
ゲスピノッサはそう答え、傍らの執事から暖めた赤ワインが入ったタンカードを受け取る。彼を悪の英雄ゲスピノッサだと真っ先に見抜いたあの老水夫は、新船長専属の執事に取り立てられていた。
「船長、これからどうします? どうせ略奪するから大丈夫と思って、食料をあんまり積んでないのは御存知でしょう。スヴァーヌの港には寄りにくくなっちまいましたし、レイガーラントまで無補給で帰るなら、何か工夫をしねぇと……」
ネイホフはそう遠慮がちに尋ねた。ゲスピノッサは。ネイホフに背を向けたまま、肩を揺らしながら……一隻の船を指差す。
「クックック……何言ってるんだお前、仕事はこれからだぞ」
それは先程まで海賊艦隊の先導役を務めていたアナニエフ一家のカラベル船だった。その船は非武装艦だったので戦闘には加わらず海域外に居て、今は南西へ単独で逃走しようとしていた。
「手始めにあいつから身包み剥いでやろうじゃねえか。その後は他の海賊共だ……フルベンゲンには全員を入れておくような牢は無ぇし、結局ほとんどの船は逃げるに任せるような形になるだろう。ボロボロのクソ共だがまァ、貯金がゼロって事は無いんじゃないか?」
ゲスピノッサは凄みのある笑みを浮かべて振り向く。
バーグホンド号の海賊共に、希望の笑顔が広がる。
「そうだ! 親分の言う通りだ!」
「獲物ならあんなにたくさん居るじゃねーか!」
ネイホフも喜びに震えた。海賊というのは基本的に奪うのが好きなのだ。それは生活の為というだけではない。
「ゲスピノッサ親分万歳! 気合を入れなおせお前ら! 仕事はこれからだぞ!」