エレーヌ「御用が住んだのならさっさと帰らせていただけないかしら。私もう懲り懲りですわ」
肩を負傷していた主人公の方のマリー。
今回の事は反省しきり、すっかり落ち込んでしまいました。
―― ザザッ……
小屋に辿り着いてから一時間も経った頃だろうか。外で……風に揺れる木々の揺らめきとは違う、不自然な物音がした。負傷し眠っていたぶち君も、その瞬間に目を開けて私の方を見る。
私はマリーちゃんに聞かせていたターミガンのお伽話を中断し、マスケット銃を取り帽子を被って立ち上がる。
「……フレデリクお兄ちゃん?」
「ちょっと外を見て来る。心配しないで」
私は物音がしたのとは反対側にある板窓を少し開け、隙間からにじり出てそっと雪原に降りる。そして建物の陰を伝いながら、目をつぶり暗闇に慣らしつつ、最初に物音がした方向に近づいて行く。
あの海賊が復讐の為に戻って来たのだろうか。それとも新手の海賊が居るのか。海からの襲撃に合わせてフルベンゲンを陸上から攪乱するよう、海賊の頭目に送り込まれた別働隊が居るのか。
スキーで一撃離脱を繰り返す戦法はもう使えない。相手だって馬鹿じゃないだろうし、復讐に来たなら当然何らかの対策を講じているだろう。
今度こそ終わりかなあ。だけど私が死んだらマリーちゃんはどうなるんだ。ぶち君だってあの怪我では逃げられない。
私はそう考えながら、周りの木と窓枠などを足場に、勾配の強い雪国の小屋の屋根の上へと駆け上がる……その時。
「ゥオンッ」
暗闇の中から、一声……犬の声が聞こえた。
私には犬語は解らない。解らないはずなのに私はそれが誰の声なのか一瞬で解った。エレーヌだ。狼犬のエレーヌちゃんがそこに居るのだ。
膝が震えた。たちまち涙が溢れた。一瞬、危うく屋根から滑り落ちそうになった。
エレーヌが居るという事は、味方が居るという事だ。ハイディーンか、ルードルフか……いや。カイヴァーンのような気がする。カイヴァーンがきっと私の事を大変に心配して、苦手な犬達と何とか付き合いながら、そりを駆って追い掛けて来てくれたのだ。きっとそうだ。
カイヴァーンはとても強いからきっと海賊共が復讐に来ても余裕でやっつけてくれるし、力持ちだからペッテルさんも軽々と運べるだろう。
私は今夜、酷い悪夢を見た……でもこの悪夢を作り出してしまったのも私だ。
一人でふらふらと飛び出して勝手に行動するくせに、優柔不断で何一つ自分で決められない私のせいで、ぶち君まで怪我をしたのだ。
謝らなきゃ……皆に。得意の土下座は無しで、誠心誠意謝らなきゃ。
「その声は……エレーヌか?」
私は勾配の強い小屋の屋根の天辺に立ち、最後の意地でそう呼び掛けた。
白金色の毛並と青灰色の瞳をした見事な狼犬、エレーヌちゃんに、半ばハーネスに繋いだロープで牽いて貰うようにしてスキーで滑走して現れたのは、例の兄弟の下の子、エッベだった。
「船長! エッベです、撃たないで!」
エッベは私の立つ屋根の上を見上げて言った。撃たないで? ああそうか、私は今マスケット銃を持っているのか。
だけどエッベかあ。さすがにエッベに泣きつく訳には行かないよね……どうしよう。いや、エッベだって私の単独行動に迷惑したのは同じだ。エッベにも謝らなきゃ。
「エッベ……一人で来たのか?」
ところでこの状況は大丈夫なのか? この周辺には私が撃てなかった海賊達が残っているはずだし、上陸している海賊があれだけとは限らない。私はとりあえず屋根から飛び降り、エッベに近づく。
「ひえっ……あんな所から飛んだ!?」
「皆はどうした? その……カイヴァーンは」
私はそう自分で言っておいて、自己嫌悪に陥る。
皆はどうしたって? 怒ってるに決まってるじゃないか……カイヴァーンだっていい加減いつも勝手な行動をする私に呆れて、愛想を尽かしているかもしれない。
「皆は……あの、ごめんなさい船長! カイヴァン兄貴も船長を見つけたらまず謝ろうって!」
え?
「え?」
「船長が船で待てと言ったのに、追い掛けて来てごめんなさい! でも俺達海のおとこ、船長の役に立ちたいんです! ヨーナスも俺も! 船長、どうか怒らないで下さい!」
目を真ん丸にして、海兵さんみたいな敬礼までしてそう叫ぶエッベ……
「ま、待て、怒ってないから声を小さく! それでその、皆はどこに」
そうこう言っているうちに、森の中を一対のランプの灯りが、二台の犬ぞりがこちらに向かって来る。ああ……カイヴァーンとヨーナスだ。
「船長ー!」
カイヴァーンが叫ぶ……ちょっと声が大きいと思った私は、唇に指を当ててみせる。一応、周辺に何が居るのか解らないので……
カイヴァーンは口をつぐみ、そりから転げ落ちるように駆け寄って来る。ああああ、怒ってるのかなカイヴァーン、
「ごめん船長、勝手について来て、だけど俺も船長の役に立ちたいんだ、俺、皆と違って寒さにも弱いし、船の商売の役にも立たないけど、喧嘩の手伝いぐらいなら出来るから!」
しかし私が謝る前に、カイヴァーンはそうまくし立てる。
「船長俺もごめんなさい! だけど俺もフォルコン号の海のおとこだ、船長の戦いを手伝いたい! タコと戦った時も俺役に立ったでしょ!? お願いします!」
ヨーナスが追い打ちを掛けて来る。ちょっとやめて欲しい。私は大変弱い人間なのだ……いやいや、駄目だったら、私は父のような外道ではない、悪い事をしたらちゃんと謝らないといけないんだ、だから、言わないと!
「ああ、あの、いや……お前達、三人で追い掛けて来たのか?」
私はまずストーク語でそう言ってしまった。いんちきストーク語もずっと使っているせいか口に馴染んで来てしまった。まずい、ストーク語の解らないカイヴァーンがポカンとしている。
「あの、司令官殿や州知事殿はもう知っているのかな? 僕がその……散歩に出た事を」
私はヨーナスとエッベに解らないよう、アイビス語で適当な隠語を当ててカイヴァーンに尋ねる。
これは自業自得なんだけど、とても憂鬱だ……ルードルフは間違いなく怒ってるだろうなあ。彼は私に待機しているように言ったのだ、交代で任務を与えるから指示を待てと、それなのに……勝手な行動をする私は司令官から見たら最低最悪の兵士だろう。
ああ……案の定、カイヴァーンはげんなりとした表情を見せる……そうだよね……
「俺達三人は船長の足跡を追って、山を越えて来た!」
「ルードルフさんにも途中で会った! 船長、あの……」
カイヴァーンが私に答えるより前に、エッベが、ヨーナスが私にそう切り出す……ルードルフは近くに居るのか。ああ、聞くのが怖い……ヨーナスが続ける……
「ルードルフのこと、あんまり怒らないであげて!」
は?
「ルードルフも少ない大人達をその、振り分けて、大変だったんだって!」
「ルードルフさん、すごく反省してるから! 許してあげて!」
スヴァーヌ語混じりのストーク語で説明する二人。私は困惑しカイヴァーンに視線を向ける。カイヴァーンは萎れた様子でニスル語でぼそぼそと呟く。
「地獄絵図かと思ったよ。ボロボロのおっさんが十何人で雪の中で、ずぶ濡れの服を脱いで半裸で一塊になって抱き合って泣きべそかいてるんだぜ。それで俺達を見るなり、死にたくない、助けてくれって。船長がやったんだろ、あれ」
ちょっと待て。カイヴァーンが言ってるのは、あの海賊達の事?
半裸は知らないよ! 私が脱がせたみたいに言わないで下さいよ人聞きの悪い、あいつらが勝手に川に落ちただけじゃん!
私がその事を弁明しようとした時。
「フレデリーク!!」
森の向こうから誰かが、今ではあまり聞きたくなくなってしまった私の偽名を大声で呼ぶ……ああ、あれはルードルフだ、馬に乗っているのか……フルベンゲンにも馬は居るのね。数は少ないのだろうけど。
あまりスピードを出せない馬はゆっくりとやって来る……兄弟の言ってる事は私の聞き違いだろうなあ。怒るのはルードルフで、怒らないで欲しいと願うのは私ですよ……いや。私はもう、きちんと叱られたい。
鎧を身に着け、兜の面頬を開けたルードルフは神妙な面持ちで馬から降りる。
私は、どんな罵倒も受け入れる覚悟でルードルフに向き直る。
「すまぬフレデリク! この方面を後回しにしていたのは吾輩の落ち度だ」
はい?
「あの海賊共は、君が一人で討ち果たしたのだろう? 奴等の収監の手配ぐらいは吾輩にも出来るので、そうさせていただいた……」
そう、嫌に遜って言うルードルフ……どういう事でしょう?
「いやその、すまないルードルフ、僕は一人で勝手に飛び出して」
「解っておる。この炭焼き小屋に関しては当初より把握していたのだが、隣の集落を含め連絡を後回しにしていたのだ……正直、我輩は海賊がこの方面から強襲を掛けて来たら、フルベンゲンで迎え撃つつもりで居た。君はそれが許せなかったのだろう……誠に、すまぬ……この通りだ」
ちょっと待って!
「そんな事で膝をつくなルードルフ! 君の判断は正しい、数少ない人員を慎重に配置するのは当然じゃないか、あの、僕の方こそ」
混乱し、とうとう人生の大先輩にタメ口をきくフレデリク。私を見つめるルードルフの目が細くなる。
「それにしても……こうまで差をつけられると、さすがの吾輩も嫉妬を禁じ得ぬ」
「待ってくれ、何の話だよ」
「君は一人で、14人の海賊を倒した……吾輩は10人だったな……」
「何の勝負だよ! それに僕は有利な場所から銃で撃っただけで」
「そして吾輩には敵の命を思いやる余裕は無かったが、君は殺さずに倒した。捕虜は死体より役に立つのだ、君に打ちのめされた海賊共はアナニエフ一家の動向について信憑性のある情報を洗いざらい吐き出した……自らの助命と引き換えにな。奴等の居場所は見当がついた。一刻も早く海上部隊にも知らせてやらねば」
ルードルフの背後の森から、さらにいくつもの松明の明かりが近づいて来る。スキーを履いた者、騎乗の者、犬ぞりを操る者……トナカイぞりなんてのも居ますよ。近隣の人々と、フルベンゲンからの援軍だろうか。
「フルベンゲンを防衛する時間は終わった。敵は今や我等の手中にある。この上は一刻も早く洋上の味方と連絡を取り合い、今度こそ先手を取り……いや待て。これを言うのは我輩の仕事では無さそうだ」
ルードルフはそう言って、周囲に集まって来た近在の男達を見渡す。
猟銃やクロスボウで武装した彼等は本職の兵士ではないものの、雪と氷と極夜を熟知しており、彼等の生活を脅かそうとする海賊達に対し、怒りを燃やしている。
そして、私が何か言うのを待っている。
左肩の傷が疼く。痛みは勿論ずっとあるのだが、何だろうこれは、まるで傷が凄い勢いで治って行くような感覚……いやいや! そんな訳ないから!
あとやめて! ヨーナスもエッベも、フルベンゲンの熊や狼犬のように頑丈で我慢強いおじさん達も……ルードルフまでも! 真剣な目つきで私の言葉を待つのをやめて! 私は大変弱い人間なのだ! そんな事をされたらまた、また自分に酔ってしまうから!
私は……私は皆に謝るつもりじゃなかったのか。私は……さっきまで考えていた事を思い出せなくなっていた。
「海賊達は我々の仕事を、生活圏を、生命を脅かそうとしている。奴等は我々から奪う。そして奪われた後の我々がどんなに悲しみ、苦しむかなど一切関知しない。奴等に、何かを奪われるのは真っ平だ」
「おう!!」「その通りだ!」「俺達は黙っていないぞ!」
そして頭カラッポのフレデリク君は、さっきまでは考えてもいなかった事をペラペラと喋り出す。フルベンゲンの頑強なおじさん達が力強く応える。
「ルードルフの言う通り……今や我々は敵が何処で息を潜め、襲撃の準備をしているのか知っている。奴等に思い知らせる時は今だ。奴等が二度と馬鹿な気を起こさないように!」
「そうだ!!」「やってやるぜ!!」「俺達も連れて行ってくれ!!」
私の父フォルコンは自分に息子は居ないと言っていたが、もしかしたらフレデリク君は父の実の息子なのではないだろうか。フレデリク君の行き当たりばったりでお調子者な所は、父に瓜二つだ。
まずい。このままでは私も外道の仲間入りをしてしまう。
「ああ、でも待ってくれ、まずは目の前で困ってる人を救おう、ペッテルは数日前から酷い腹痛で寝込んでいて、マリーちゃんは一人でフルベンゲンに助けを呼びに行こうとして低体温症を起こしている。二人をフルベンゲンに運べないだろうか? ついでに、怪我をした僕の猫も」