ニーナ「ごめんなさいね、すぐ帰ると思うわ。絵本? お母さんこれ好きだから馬車の中で読みたいの、それだけよ、それだけ」
今日は頼れる剣士も無敵の豪傑も、ガイコツやゴリラも居ない。一人きりの自分にこの状況で出来る事など何もない。弱いマリーはそう決め付け、諦めようとしていた。
そんなマリーを動かしたのは……
この話は三人称で御願いします。
青いジュストコールを着た小柄な覆面の男が投げた皮袋は、降り積もった雪の上に落ち、僅かな金属音を響かせた。
続いて飛んで来たランプは地面に落ちて壊れ、その火は零れた油に引火し、一瞬、辺りを明るく染めた。
大きく口を開けた皮袋の周りには金貨が散らばっていた。それも金持ちの商人がまとまった商取引に使うような、大判の金貨だ。
海賊達は一人残らず、その壊れたランプに明るく照らされた金貨を見つめてしまった。そしてようやく、そのうちの一人が顔を上げた時には。
「おい……? 野郎どこへ行きやがった!」
覆面男はその僅かな隙に、先程まで立ち尽くしていた場所から姿を消していた。辺りを見回してもどこにも見当たらない。
一方、先程海賊の一人に飛びかかり、別の海賊に短剣で斬りつけられた猫は、雪の上をよろよろと、足を引きずって離れて行こうとしていた。
「この……クソ猫がああ!!」
また別の海賊の男が一人、ベルトに吊るしていた斧を手に取り、猫に向かって大股に踏み出して行く。海賊達はブーツに雪歩き用の、鉤爪のついた楕円形の草鞋のような物をつけていた。
猫は負傷を押して雪の上どうにか逃げようとしていたが、男はそれに追いつき、斧を振り上げて襲い掛かる。その刹那。
―― ドォン!
銃声が鳴った時、海賊達は一瞬、仲間の誰かが撃ったのだと思った。
しかしその音は逃げる猫を10m程追い掛けて行った仲間のすぐ近くで鳴っていた。その男は銃を持っていないはずだった。
―― ドスッ……
男の手から、斧が滑り落ちる。
「えっ……」
男は自分に何が起きたか理解出来ずに居た。痛みを感じるより早く、右腕の、いや右肩の感覚が無くなり、斧を持っていられなくなったのだ……男は自分の肩に手を当てる……その手袋に、赤い血潮が滲む。
「う……撃たれたあああ!?」
男は叫ぶ。他の海賊達もたちまち色めき立つ。
「ふざけんな!」「どこのどいつだ!?」「畜生、仲間が居やがったか!?」
海賊達は辺りを見渡すが、周囲には何も見えない……海賊達が持つランプや、金貨の周りに飛び散ったランプの破片の明かりは、海賊達の目を眩ませ、周囲の森の様子を解りにくくさせてしまっていた。
「居たぞ……あれだ!」
そのうちにようやく海賊の一人が指差したのは、先程の覆面男が現れたのとは真逆の、彼等が来た方角だった。次の瞬間。
―― ドオン! ドン! ドォン!
三度の銃声が、三か所で鳴った。海賊達は慌てて首を縮める。あまりの急な奇襲に、彼等が咄嗟に出来た反応はそのくらいだった。
「ひっ……」
しかし三発の弾丸は、一発が一人の海賊の袖を軽く掠めただけだった。
「畜生! 新手が居るぞ!」「油断するな!」「おい! どうするんだ!?」
海賊達は辺りを見回しながら叫ぶ。
「狼狽えるんじゃねえ! まず明かりを消せ、それから散らばれ! 敵は大勢じゃねえし、たった今弾は撃っちまったぞ!」
海賊のリーダーは冷静にそう指示を飛ばし、自らも銃声のした方から隠れられるよう、細く頼りない樹木の一つの陰に隠れる。
他の海賊達もまずランプのシャッターを閉め、周辺に散開する。しかし財布の周りに散らばり、小さく炎上するランプの破片はそのままになった。
海賊達は皆、三発の銃声がした方向を向いていた。弓や銃を構えた海賊は、そちらの方に向かい発砲や発射の準備をする。
小柄な覆面男は、そんな海賊の後ろ、元居た方角から現れた。
海賊達から十分な距離を取り助走をつけた覆面男は、ほとんど平地であるはずの森の中を高速滑走し、海賊の背後から迫り来ると、
―― ドォン!
「ぎゃあっ!?」
―― ドン!!
「へぎッ!!」
―― ドーン!
「ぐぇえっ!?」
木々の間を、男達の間を高速で縫うように滑走し、至近距離から、無防備な男達の肩に、脹脛に、凶弾を浴びせて行く。
「……畜生!? 奴だ! 奴はそこだ!!」
「う、撃てー!」
またしても真逆の、背後からの奇襲に気付いた海賊達が騒ぐ。彼等は見た。銃剣のついたマスケット銃を手に、彼等の間を高速で滑走して行く覆面男の姿を。
―― ドォン! ドン! ドドン!
「よせ! 適当に撃つな!!」
海賊達のリーダーはそう叫ぶが手遅れだった。彼等が持つ何丁かの銃は発射準備を無駄にしてしまった。光と闇に目の眩んだ射手が放った銃弾も矢も、突然背後から現れた覆面男にはかすりもしなかった。
覆面男の姿は、再び闇に消えた。
男達は考えた。あの覆面男の銃は三連装なのだと。そういう銃が、大都市では売られていると。銃身が三つありそれぞれに弾を籠めておけば三回続けて弾を撃てるのだ。銃という強力だが装填に時間のかかる武器で、この利点は大きい。
しかし敵はその三発を今撃った。きっと今頃また必死で装填し直しているのだろう。今見つければ、無防備な敵を簡単に殺せる。
「追い掛けろ! 追い詰めて殺せ!」
同様に考えた海賊のリーダーは仲間にそう檄を飛ばし、自らも装填された火縄銃を構え、覆面男が消えた方角へと駆け出す。その瞬間に覆面男はそのリーダーの斜め後ろから高速で迫って来た。
―― ドスッ……!
「え……あ……ああ!?」
海賊を束ねる男は見た。分厚い皮下脂肪に守られた自分の脇腹に突き立てられた銀の凶刃を。しかし彼には自分を刺した人間は見えなかった。次の瞬間。
―― ドォン!!
男の脇腹に鈍く重く、熱い衝撃が伝わる。銃剣の先端が刺さったままの外れようのない距離で、襲撃者は引き金を引いたのだ。
「親分……!」
誰かが叫んだ。その時には彼を背後から襲った覆面男はとっくに銃剣を引き抜き、スキーで雪面を蹴って加速しながら森の暗闇の中へと消えて行く所だった。
海賊達がもっとも頼りにしていた歴戦の勇士が、チビの覆面男によって沈黙させられてしまった。身体は大きいが本当は気が弱かった彼は、意識こそ失っていなかったが、無力に雪面に蹲り、脇腹を押さえて呻いていた。
「ひ……ひひ……撃たれた、死ぬ……た……たすけて……」
―― ドォーン! ブゥゥン!
まばらな木々の間を滑走する覆面男に、海賊達も散発的な銃撃や弓撃を浴びせるのだが、高速移動する覆面男はすぐに闇の中に消えてしまう。そして思ってもいない場所からまた現れる。
―― ドォン! ドーン!
森の暗がりに散開して覆面男を探そうとした海賊達は、為す術もなく覆面男に各個撃破されていった。
ある者は腕を撃たれ。ある者は足を撃たれ……銃の台尻で頭を殴られた者も、銃剣で臀部を突き刺された者も居る。
10m先も見えない暗い森の中を自由自在に高速滑走し、あらゆる方向から襲って来る覆面男。先程まで明かりを見つめていた海賊達には彼を迎撃する事は不可能だった。
一方の覆面男の方は、ランプの明かりがある中でも覆面を上手く使い目を暗闇に慣らしたままにしていたのだ。
「お、おいやめろ! やめないとこの男を殺すぞ!」
海賊の一人が、ナイフをふりかざし……海賊に連れられていた、あの顔色の悪い炭焼きに襲い掛かろうとした。しかし、次の瞬間。
―― ドォン!!
「ぐ……ぐわああ!?」
その男の左脇から急速接近した覆面男が、その男のナイフを振り上げた手を至近距離から撃ち抜いた。
覆面男の狼藉はそれに留まらなかった。ナイフを取り落とし蹲ったその男の側頭部を、銃剣をつけたマスケット銃の台尻で、散々に打ち据えた。
「ひ、ひいぃっ!? ぐあっ……やめ、やめてッ……」
男は雪の上で頭を抱えて縮こまる。
海賊達に無傷の者はもう居なかった。皆、為す術もなく覆面男に蹂躙され、ほとんどの者が戦意を失っていた。
「待てぇ! 待ってくれ、見ての通りだ、俺達は降参だ、撃つなああ!」
近くで蹲っていた別の海賊の男がそう叫び、覆面男の足にすがりつこうと飛び掛る……あわよくば、これで覆面男の足を止めようと。
しかし覆面男はスキーを履いたまま軽々と跳びその男を踏みつけて乗り越え、男の頭のすぐ横に銃口を突きつけたまま、引き金を引いた。
―― ドォン!!
「あ……悪魔め……」
海賊の別の一人が呟いた。
耳の横で銃を撃たれた男は失神していた。覆面男の銃口は地面を向いていたので、銃弾そのものは男には当たっていなかった。
その覆面男はそのまま海賊達から少し離れると、荒ぶる呼吸に震え、肩を落とし、近くの木にすがりつくようにもたれかかり、白く大きな吐息と共に、何かを吐き出す。
「うっ……ゲホッ……ぐぇ……うぅ……」
覆面男は暗闇の森の中を高速で滑走し、一撃離脱を繰り返していたが、海賊側も銃や弓で応射していた。
負傷し蹲る海賊達のうち少しでも戦意の残っていた者は、覆面男が身体のどこかに銃弾なり弓なり被弾している事に、密かに期待した。
「ぶち君……ごめん、ぶち君……何で君が怪我をしなきゃならないんだ、みんな僕が悪いのに……ごめんよ……」
覆面男は、雪面に寝そべり後ろ足に出来た傷跡を丹念に舌で舐めていた黒虎のぶち模様の猫の前にスキーを裏返しにして跪き、少しの間、慟哭していた。
小さな猫など相手にそんな事をしている覆面男は、隙だらけなようにも見えた。海賊の一人の右肩を撃たれていた男が、静かに立ち上がり、落ちていた仲間の斧を拾い、静かに忍び寄る。いや、忍び寄ろうと一歩踏み出した、その刹那。
「時間が無いって言ってるんだよ!!」
突如身を翻した覆面男は次の瞬間には雪面に立ち銃を構えていた。斧を拾い上げた男は慌ててそれを落とし、手を上げる。
「ま……待ってくれ本当に、俺達が悪かったッ、だからその……命ばかりは……た……頼む! 要求を、お前の要求を言ってくれ!」
男は必死に声を絞り出す。海賊達は残らず青ざめていた。この覆面男は急いでいる。そして今や自分達とこの覆面男との立場は真逆になった。
甘ったれたチビと侮って掛かった相手は、恐ろしい力を持った悪魔だった。そしてこの悪魔には自分達を皆殺しにしない理由が何一つ無いのだ。
次の瞬間。覆面男は叫んだ。
「さっきから言ってるだろう! さっさとその金を全員で拾え!」
海賊達は皆、呆然と口を開けた。この覆面男は何のつもりなのか。
男達は考える。あの金を拾うとどうなるのか。死ぬのか?
あれはこの悪魔が、恐ろしい速さで暗闇の森を疾走し、目にも留まらぬ早さで銃弾を再装填する悪魔がばら撒いた、一件金貨に見えるが実は違う、何か恐ろしい物なのかもしれないのだ。
「か……勘弁してくれ……か、金なんて拾えない」
一人の男が震える声でそう抗弁するが。
―― ドォン!
「死にたくないなら拾えーッ!」
銃声に続く覆面男の一際大きなその叫び声は、少女のように甲高かった。
迷信深い男達の何人かは、この覆面男の正体が悪魔であると確信し、抵抗を諦めた。まだ武器を持っていた男も万に一つの命が助かる可能性に賭け、武器を捨てた。
そして全員が、負傷した身体を引き摺りながら、覆面男が投げつけた皮袋の方へと向かう。
海賊達に森の道案内として捕らえられていた炭焼きの男は、自らの苦痛に耐えながらどうにか、覆面男の近くに立ち尽くしていた。
「貴方は……歩けるかい? 今マリーを連れて来るから貴方の家に行こう。僕の親友も負傷した……とにかく早く」
「君は一体……ぐうっ……すまない、俺がこんなに不甲斐なくなければ……」
覆面男は軽く首を振ると、海賊達がよろよろと皮袋と金貨が散らばっている方へ這いずって行く様子を、少しの間用心深く見ていたが。彼等がもう武器を拾おうとしないのを見て、身を翻し、また森の奥へと滑走して行く。
◇◇◇
少し後。覆面男は小さな女の子が顔だけ覗かせた背負い袋を背負い、小脇には猫を巻いた毛皮のマントを抱え、酷い腹痛に苦しむ炭焼きの男に左肩を貸していた。
失神して雪の上に倒れたままの2人を除く12人の海賊達は、覆面男が投げた皮袋の周りに集まり、その金貨を拾い上げたまま呆然としていたが。
「くそ……ふざけやがって!!」
「馬鹿はよせ!?」
先程までとは打って変わって鈍重な様子になった覆面男に、比較的軽傷の海賊の一人がいきり立ち、隠しナイフを投げつけようと立ち上がる。
別の海賊二人は慌ててそれを止めようとしたが……
―― ドン!!
覆面男は杖代わりににしていたマスケット銃を雑に構え、歯を食いしばって引き金を引いていた。
―― ドォン! ドォォン!
「ひえっ!?」「うおお!!」
覆面男は立て続けに引き金を引く。彼が狙っていたのは海賊達ではなく海賊達よりかなり手前の雪面だった。彼はただ、この後で海賊達がすぐに追って来ないよう、威嚇のつもりで撃っていたのだが、海賊達は我先にと争い、もつれ合って後退する。
しかしその後退した先に、雪溜りに隠された渓流があった。
「ぐわああ!?」「引っ張るなッ……あああ!」「押すな、よせ、ぐおおお!」
海賊達の重さに割れて弾けるバキバキという氷の裂ける音と飛び散る氷水の飛沫、そして悲鳴に、覆面男は背を向ける。何人もの男達が真冬の渓流に落ちたらしい。しかしさすがにこれ以上は誰も助けられない。覆面男はそう思った。
「今のうちに行こう。僕はフレデリク、貴方の名前は?」
「わ、私の事などいいッ! マリーを、マリーを連れて先に逃げてくれッ……」
覆面男は再び炭焼きの男に肩を貸そうとするが、炭焼きの男はその手を振り払おうとする。しかし。
「お父さん……ペッテル父さん……いっしょに帰ろうよ……お父さん……」
フレデリクの背中で弱々しく呟く少女マリーの声を聞き、炭焼きの男はがっくりと項垂れ、大人しくフレデリクの肩を借りた。