マリー「ふえっ……グスッ……お父さんごめんなさい……私、もう歩けないよう……」
スキーは船酔い知らずの魔法と相性のいい道具でした。
だけど、犬も歩けば棒に当たるという諺もあります。
私は北西側の斜面を降りて行く。
明かりは満天の星と地平近くに残った僅かな赤いオーロラだけだ。それでも地表を覆う雪はぎりぎり、ぼんやりと光って見えて、暗闇に慣れた目にはどうにかの道標になっている。
だけど辺りには真っ暗な所もある。岩があるのか土が露出しているのか、クレバスになっているのか、急な崖なのか……その一つ一つが、私を捕って食おうと待ち構えている怪物の巨大な口のようにも見える。
真っ直ぐに降りるのは少し怖いので、私はなるべく斜めに斜面を進み、時々折り返す。だけど楽しいわねこれ。
こんな非常時でなければもっと楽しめたろうに。周りが明るくて平和な時にもう一度やってみたい。昼間に見晴らしいのいい山の天辺から滑り降りたら最高なんじゃないかしら。
次第に谷底の林が近づいて来る……山の上からは林ぐらいに見えたけど、近づいてみるとこれはやっぱり森ですね。細く頼りないひょろひょろと伸びた木々がまばらに、しかしそれなりに広い範囲に生えている。
ここから先はさすがにランプをつけないとまずいかな。だけど明かりを点ければこちらも誰かに見つかる可能性が高くなる。どうしよう。森まであと300mくらいか。
先程見えた明かりのようなものは何処へ行ったのか。ここまでにも何度か止まって探してみたんだけど、見えなくなってしまった。向こうも警戒してるのかしら……敵か味方かも解らないんだけど。
私は望遠鏡を出して森と雪原の境界線辺りをつぶさに見回す……何も見えないなあ。フォルコン号の『魔法でちょっとだけ明るく見える望遠鏡』を持って来れれば良かったけど、あれは今向こうの仕事で必要なのだ。
だけど案の定、この望遠鏡では暗いし視界は狭いし何も見えない……
ん?
今何か動いた! 森の手前の雪原を、何かが雪煙を立てて走っている! あれは……ああ……キツネですね……それも戦士の石碑の島で見たような真っ白なやつではない、ヴィタリスの森でネズミをくわえて得意顔をしているような普通のキツネだ。
私はキツネが走って来た元の方角に望遠鏡を向ける。普通、動物が慌てて走る時にはそれなりの訳がある。あのキツネは何かを見て逃げ出したのだ。
果たして。キツネが逃げ出した元の方向の雪原に、もぞもぞと動く黒い点が見える。こんな極夜の只中の午前四時にこんな雪原に居るなんて、どんな後ろめたい人間なのだろう……他人の事は言えないけど。
私は慎重にその黒い点に向かい、斜めに折り返しながら滑り降りて行く。
白くぼんやりと光る雪面に浮かび上がるそれは、間違いなく人影だった。そしてどうもこの人影は小さいような気がする。エッベより小さい。警戒している場合じゃないと思った私は、途中から真っ直ぐにその人影の方へ向かう。
それは明らかに子供だった。私も子供だけど向こうは恐らく10歳にも満たない。そしてこの暗さでは男の子か女の子かもよく解らなかったが。
「あなた、誰……かいぞく?」
私が接近して来るのを茫然と見ていたその子供は、酷い涙声で、絞り出すようにそう言った……ストーク語で。
「違う。僕はフルベンゲンから来たフレデリク。君はこんな夜に何をしている」
急にストーク語を使おうとしたら、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。子供は……以前オコネル農場の人が乗って来たような、人力で蹴って進むタイプの立ち乗りそりに乗ってここまで来たらしい。
だけどそんな物で山を登るのは簡単ではない……実際この子供にとってそりを押して山を登ろうとする事は全くの無謀だったようだ。
勿論、こんな時間に子供が遊びや悪戯でそんな事をしてる訳が無い。
「うっ……ヒッ……うえっ……あの、あ……ヒグッ……」
「ま、待ってて、静かに」
私は慌ててスキーを履いたまま子供に滑り寄り、しゃがみこんでその肩を抱き寄せる。ああ、女の子だなこれ……
「グスッ……お父さんが! かいぞくにつれていかれたの……ヒッ……」
女の子はすぐに私にしがみついて来た。もう限界などとっくに越えていたらしい……一瞬触れ合ったその頬は氷のように冷たく、手足は震え、可愛らしいその顔も半ば凍りついた涙と鼻水でボロボロになっていた。
「お父さん、おなかがいたくて寝ていたの」
私の頭の中はたちまちパニックになっていた。一体何から始めればいいのだろう?
ここまで必死でそりを押して雪の山道を登って来たのだろう、袖や襟や足元、女の子の着ている毛皮の服や手袋は侵入した氷水でずぶ濡れになっていた。体温も酷く低下している……私には医学の心得など無いが、生きている人間の身体がこんなに冷たくていい訳が無い。
だけどこの場で彼女を暖める方法が無い……ランプはあるが、この程度の物で暖が取れるとは思えないし、彼女の父親を連れ去ったという海賊が近くに居て、先にこちらを発見される危険性を考えると……
とにかく時間が無い、頭の悪い私が長考をしていたら、その間にこの子が死んでしまうかもしれない、暗くてよく解らないけれど彼女の顔色は本当に悪いように見える。
私は覚悟を決め、背負い袋を降ろし、ぶらさげていた火縄入れを取り出してランプに火を移す。
「見えるかい? これを持って……」
私は女の子にランプを持たせようとしたが……凍える彼女の手には、ランプを持つ握力も無いようだった。
どうしよう、どうしたらいいの!? 彼女を大きな暖炉の前に連れて行くには!? 暖かい飲み物を飲ませるには!?
泣きそうだ。女の子は泣いているけれど私も泣きそうだ、だけど私は全く泣いている場合じゃない。
私は今すぐ決断をしなければならない。
そして、起こった事には全て責任を取らなくてはならない。
今日は私の代わりに考えてくれる人も、私の代わりに戦ってくれる人も居ない。
「まず君の家に帰ろう」
私はまず、ランプを自分の腰に提げてそう言った。だけど女の子は首を振る。
「お父さんがフルベンゲンに逃げろって……それにわたし、助けを呼ばなきゃ」
私は背負い袋の中身を取り出す。毛皮のマント、水筒、いくらかの食料、それにぶち猫……ぶち猫は今度はすんなり袋から出て来て、私が雪面に放り出したマントの上に飛び乗った。
「僕がそのフルベンゲンから助けに来た人だ。よく頑張ったね……名前は?」
「……マリー」
「マリーちゃんか。いい名前だね。マリーちゃん、お父さんは家で寝ている時に、海賊に連れて行かれたの?」
私は出来るだけ優しく聞いてみたが、彼女は答えられなかった。私のストーク語が聞き取り辛いのか、疲労と寒さのあまり何も考えられないのか、助けが来た安堵感で感情が極まっているのか……その全部かもしれない。
そして……マリーは北大陸ではありふれた女の子の名前だ。スヴァーヌやストークにだって居てもおかしくはない。
だけど今ここでその名前を聞くのはあまりに辛かった。私が魔法の力に浮かれ夜の山でいい気になって遊んでいる間に、同じ名前の女の子がこんな過酷な運命と戦っていただなんて。
「膝を屈めて、この袋に入って……」
身体を丸めたマリーちゃんを、私フレデリクは背負い袋の中に座らせ、慎重に背中に担ぎ上げる……この袋は本来はたくさんの野菜を詰めて町へ売りに行く時に使う物だし、私は昔から赤蕪やブロッコリを一杯に詰めた背負い袋を背負い、ヴィタリスからバロワまで歩いていたのだ。袋も私もこのくらい大丈夫だ。
それから毛皮マントを風呂敷のようにして、他の荷物をくるんで抱えて……ぶち猫はどうしよう。ここに入って貰うか? そう思ったのだが気まぐれ猫は、一匹でさっさと雪面の上を、時折足を取られながらも歩いて行く。
「まずは君の家に戻ろう。それからお父さんを助けに行く」
道案内の必要は恐らく無い。雪の上には彼女が必死で押して来たハンドル付きのそりの跡がずっと続いている。これを辿ればきっと彼女の家に着くだろう。
私は転倒しないよう慎重にバランスをとりながら、スキーをブーツにつけなおす。
この状態で滑るスキーは、さっきのように簡単ではなかった。
背中の女の子の体重が加わるとスキーは雪原に食い込むようになり、さっきまでのように簡単に曲がり自由に停まる事も出来なくなった。
登り坂ではきちんと雪を踏みしめて一歩一歩登らねばならず、バランスを取る為にはマスケット銃を杖のように使わなくてはならない。
それでも私は真っ直ぐ、そりが来た跡の方に進んだ。
ぶち猫も必死に、普段と勝手の違う雪面を飛び跳ねて追って来る……キツネに出来たのだから自分にも出来るというように。