猫「やかましい、寒いものは寒いのだ、ええい、誰の為に拙者がこんな苦労をしていると思っているのだ!」
吹き溜まり、クレパス、雪渓、雪庇……ただでさえ怖い雪山にマリーは一人で挑んでいるのか?
「あははははは」
私は意味も無く笑いながら雪原を駆け巡っていた。
ブーツに結びつけて雪原を歩く時に使う、長さ1m足らずの木のへらのような物。これはスキーと呼ぶ物らしい。
以前ヨーナスとエッベに使用を勧められた時は、自分には船酔い知らずの魔法があるから要らないと思って断っていた。スキーをつけて斜面を登るのは大変そうに見えたし、町の小さな子供が転んで泣きながら練習してるのを見て怖くなったのもあった。
だけどつい二時間前、どうせ眠れないなら少しスキーの練習でもしてみようと思い立ち実際に履いてみたらどうだ、これは例の魔法との相性が抜群じゃないか。
「ははは、あははははは」
下り坂なら黙って立ってるだけで飛ぶように走るし方向転換も自由自在、上り坂だって片方の板に乗りもう片方で蹴れば、まるで平地を滑るように登れる。
もっと早くに教えてくれれば良かったのに。スキーとは何と素敵な道具なんだろう。これを履いた私はまるで雪と氷の妖精みたいだ……本当は船酔い止めの魔法のズルだけど。
とはいえここまで問題が全く無かった訳ではない。一時間前、私が一度コグ船に戻り、背負い袋とマスケット銃を持って抜け出そうとした時の事。
◇◇◇
「ォアーォ」
「ひッ……ぶ、ぶち君、シーッ。僕はちょっと散歩して来るから三人を宜しく、大丈夫、一時間くらいで戻るから……ついて来る? 駄目だよ、ぶち君は雪の上を歩くの苦手だろ。カイヴァーン達と居てくれ、それじゃあ」
「オアァァオ! オアアアァーオォ! ニ゛ャアアアアー!」
「シーッ、シーッ! 解った、連れて行くから! 静かに!」
◇◇◇
どうしてもついて来ると言い張るぶち猫を仕方なく背負い袋に入れる事にはなったが、それ以外は順調だ。
私はフルベンゲンの北西側の雪に覆われた、樹木の無いのっぺりとした山を登って行く。あまり傾斜が強い所ではさすがに足踏みしてしまうが、多少の傾斜であれば滑走して登れる。犬ぞり程ではないがかなりの速さだ。
そしてコグ船を降りてからわずか一時間後、私は南東にフルベンゲンを見下ろす山の頂上近く居た。
オーロラも月も無い空は暗いが、雲も一つとしてない快晴なものだから、満天の星空と雪に覆われた地上の境界線はすごくはっきり見える。
戦士の石碑の辺りも凄かったけど、あの時は正午過ぎくらいの時間で空が明るかった。今はとにかく真っ暗で、空と大地は見えるものの自分の装備や懐中時計などはほとんど見えない。
「ほら、凄い景色だよ、ぶち君」
私は一旦背負い袋の紐を肩から外して中身を覗き込む。暗くてよく見えないが間違いなく中にぶち猫が居る気配がする。重いし。
「ここまで来たんだから景色くらい見ろって。ぶち君?」
「……アーオ」
「アーオじゃない、じゃあ何で無理やりついて来たんだよ」
私は背負い袋の中に引き籠る猫を引きずり出そうと、手を突っ込んだのだが、
「痛っ! 何すんの!」
噛まれた。何なのこの子は……勝手にしてよ。私は背負い袋を背負いなおす。寒がり猫の入った袋を背負って、極夜の雪山偵察とか意味わかんないよ……
私は気を取り直し、周囲で一番高い頂上を探す。最高地点と思しき岩山があるわね。私は一旦ブーツに結びつけた革紐を一つ一つ解き、スキーを外して岩山に近づき、目を凝らして、慎重にそれに登る。
望遠鏡は一本だけ持ち出して来た。母が父に贈った例の痛いやつだ。これは私の家の物なのだから私が持ち出しても構うまい。
「……」
私はまずはマスクを外し、先に南東側、今来た方の斜面を肉眼で見渡す。遠くにフルベンゲンの灯りがポツリ、ポツリと見える……犬舎とホール、港には篝火が焚かれていたわね。灯台は点いていなかったけど。
次に北西側を見る……こちらもなだらかな長い下り斜面が続いているが……斜面を下りきった先は東西に走る谷間になっていて、そこだけは人工林に覆われている。この日照に恵まれない大地に辛うじて生きる頼りない木々達だ。
司令部で見て来た地図によれば、あの谷間にも二か所、小さな集落と炭焼き小屋があるそうなのだが。
肉眼で見えるような大きな明かりも無いので、私は望遠鏡で谷間をなぞるように眺めて行く。フルベンゲンからの周辺集落への使者は山に登ったりせず、海岸線を迂回して北東の方から谷間に入り、集落に順に知らせに行っているのだろう。
私がこんなに簡単に山に登れるって早くに解ってたらなあ。その仕事、私にはうってつけだったのでは?
いや……私はスヴァーヌ語が喋れなかったし、怪しい見た事もない覆面小僧が使いに現れても、集落の人も困るよね……
ん?
私は谷間の林の間に、暗く小さな星の輝きのような物を見つける。あれは地上に落ちた星かしら? そうでなければ明かりを持って移動中の誰かだろう。
かなり遠い。望遠鏡で辛うじて見える程度だ。3kmとかそれ以上かな……だけどその間はずっと下り坂である。スキーで行ったら10分くらいで着いてしまうかもしれない。
私は望遠鏡を降ろし、溜息をつく。
だめだめ。遠くに灯りが見えただなんて、そんな理由で北西側に降りる訳には行かない。
スキーは下りは早いが登りは遅い。いくら船酔い知らずの魔法との相性がいいとは言え、この山に登るのも小一時間かかったのだ。
カイヴァーン達にもすぐ戻るって書き残して来たんだから。毎度毎度仲間に心配を掛ける訳には行きませんよ。
だけど……
オコネル農場は既に数日前に海賊の先遣隊に襲われていた。マカーティに言わせればそれは統制の取れていない海賊側の失策らしいが、襲われた農場からすれば到底納得できる話ではない。
そしてマカーティはこうも言っていた……襲撃する対象に味方を紛れ込ませておき、襲撃時に内部から攪乱させるのも海賊の常套手段だと。
あの灯りがもし、そんな海賊側の伏兵の物だったら……
私は司令部にあった地図を思い出す。
そもそも何故私はこの山に登ったのか? それはフルベンゲンの北西にあるこの山の側には偵察隊もおらず、フォルコン号ら海上部隊の監視の目も及ばないと思ったからだ。
普通に考えれば極夜の只中に山越えでフルベンゲンに迫る利点は無いと思う。もし彼等がスキーを持っていたとしてもだ。船酔い知らずの魔法まで持っていたら別だが。
だけど相手は頭がいいとは限らない……敵は既に先遣隊に狼藉をさせて襲撃に気づかれるというミスを犯している。
とはいえこの方向からフルベンゲンが襲われる可能性はとても低いだろう。だからルードルフも貴重な人的資源をこちらには割かなかった。
そんな場所を念の為調べるとするのなら、魔法でズルしたお針子一人くらいで丁度いいんじゃないでしょうか。
私は望遠鏡を背負い袋に戻し、それから担いでいたマスケット銃を一度おろし、装薬と弾丸を籠め、火蓋を閉じる。そして撃鉄の先端に火打石を取り付ける。あとは撃鉄を起こして引き金を引けば弾が出るが、安全の為撃鉄は引き起こさず当たり金に押し付け、火蓋は開かないように閉じ金を閉めておく。
それから銃剣も銃身にセットしておき、それを担ぎなおす。
私はランプをつけていないが、目はすっかり暗闇に慣れている。満天の星空の灯りだけでも十分雪の地面は見える。
だけどこの山の全てが雪に覆われている訳ではない。岩に覆われた部分や崖の部分もある。そういう場所の全ては真っ黒に見える……表面を識別出来る程の灯りが無いのだ。
だんだん自由自在に滑れる事への昂揚感が無くなって来た……そしてこの暗闇に潜んでいるかもしれない脅威の事が頭を占めて来る。
怖い。どうしよう。私は徒夢の万能感から覚めてしまった。私みたいな貧弱な小娘に、今何が出来るというのか。