水兵「艦長、大丈夫かな……あのチビ、化け物なんだろう?」水兵「シッ、向こうのテーブルに聞かれるぞ……」
不安で一杯の航海、まだ見ぬ新天地、故郷への思い……避難民達の気持ちに思いを馳せるマリー。
そして、立ち去ったと思ったらまた現れたマカーティ。今度はなんですかね、もう。
たった今、彼等の事はご心配なくと言ってしまったフレデリク少年が椅子から立ち上がる。これではまるで売られた喧嘩を買おうとしている男の子のようだ。
中身のマリーは震えて泣いている。ぎゃああ怖い!? だけどフレデリクは堂々とマカーティに近づいて行く……やめてよ、怖い、怖いぃ!
マカーティは決して背の高い男ではないが、それでも私よりは15cmは背が高い。そして突然何を始めるか解らない、狂気のような物を感じる男でもある。
「巡礼者を威圧するのをやめてくれないか……! 解るだろう? 皆疲れてるし休息が必要なんだよ」
フレデリクはマカーティとすれ違うような恰好で肩が触れる程接近し、そう呟く。
マカーティが連れていたのは水兵のようだ。皆腰にカトラスを帯びている。そして自分達の艦長のすぐ隣に私が居るのを見て、緊張の面持ちを浮かべている。
それでマカーティはまた私を挑発して何かをさせようとしているのか? それともこの避難民に対し何かの疑いを抱いているのか。私の言葉など聞こえないふりをして、ホールに居る人々をじろじろと見回している。
一方こちらからはカイヴァーンが立ち上がり、私の後ろに近づいて来る……そうだ、今はカイヴァーンが一緒に居るのだ、向こうは男の子が一人立ち上がったくらいにしか思ってないだろうけど、カイヴァーンは強いんだぞ。
生の極光鱒の切り身を食べていたぶち君もレイヴンの水兵を威嚇するように尻尾を逆立て私の一歩前に出る。こっちは……ただの猫です。
「ちょっと! やめなさい!」
そしてアイリさんも立ち上がりかける。マカーティもこれにはようやく反応を示した。
「ああ、お嬢さん……申し訳ないが、貴女の船長ともう一度話をさせていただけませんか……二人だけで」
マカーティは憤怒の中でぎりぎり理性を保っているかのような表情で……そう、絞り出すように言った。
目は血走り、肩は小さく震え、歯ぎしりを抑えるように唇を歪め、脂汗を流すマカーティ。その様子は尋常ではない。
「冗談じゃ……ないわよ!」
アイリさんは完全に立ち上がり、マカーティに詰め寄ろうとする。私の為に立ち上がったはずのカイヴァーンが、この状況でも熱くならず冷静に様子を窺っていたウラドが、慌ててアイリさんの前に駆け寄る。
「あの時貴方達を助けようって言い出したのはマ……フレデリク船長なのよ!? 私達皆驚いたんだから、たった今自分の船を砲撃して来た船を救援に行くってどんなに頭おかしいか解る!? なのにこの子、この船長、貴方達に毛織物を買って貰えたらそれでいいって! そんな途方も無いお人好しのうちの船長にねえ、一体いつまでそうやって絡むつもり!? うちの船長が何をしたって言うの!」
血の気が、引いた。
貧血で倒れるかというくらい私は青ざめた!
アイリさんが憤るのは解る、実際マカーティはしつこい、あれだけ親切にしてやったのにいつまで喧嘩腰なのか。
だけどアイリさんは知らない、マカーティから見ればフレデリクは母国に大損害を与えた海賊なのだ、喧嘩腰も当然である。
そして今アイリさんはマカーティに聞いた、何故フレデリクをつけ狙うのかと。あとはマカーティが質問に答えれば終わりだ、フレデリクは八月のハマームに居て、レイヴン王国の外交官ランベロウ氏の誘拐事件に関わったのだと。
そして私は、針を千本飲む事になる。
「やめるんだアイリ、船長は望んでいない」
「アイリさんだめだよ! それだと余計船長が頑張るから!」
ウラドとカイヴァーンがアイリを止めようとしている、だけどタイミングが遅いよ、アイリはもう質問をしてしまった!
ああ……あ……マカーティの顔が……さらに憤怒に歪む……
そしてマカーティが……口を開く……
「お前達! 先に帰れ! 二人で話させてくれねえって言うなら、こっちだけでも一人になるしかねえ!」
マカーティはそう、レイヴン語で吠えた。何故だろう、それはレイヴン語はほとんど解らないはずの私にも内容が理解出来た。
「艦長、何故ですか!」「お待ち下さい艦長!」「艦長!」
向こうの水夫が色めき立つ。
私は突然の衝動に突き動かされていた。鬼のように険しく歪んだマカーティの顔。そのぎらぎらした眼が、ほんの僅かに曇っているように見えたのだ。
「解った! 二人で話をしよう! すまないが誰かそのレイヴンの紳士達にも極光鱒を御馳走してやってくれ! 僕とマイルズは男同士、二人だけで話す!」
私はそう言ってホールの入り口へと歩き出そうとする……が、アイリに袖を掴まれていて動けなかった。
「待ちなさい船長! どうして貴方がこんな事に付き合う必要があるのよ、少なくともここはスヴァーヌの町よ! レイヴン海軍なんか関係無いじゃない! そもそもこんな男と二人で話すなんてそんな」
「アイリ。僕はもう男同士二人で話すと口に出したんだ、恥をかかせないでくれ」
私は虚勢を張って口元に笑みを浮かべてみせる。
アイリは顔を近づけて来て小声で言う。
「美少年ごっこ楽しい? どのくらい楽しい? いい加減にしなさいよ?」
アイリさんは怖い顔でそれだけ言うと、踵を返す。
「言い出したら聞かないんだから……ほんとにもう」
◇◇◇
外はますます暗くなっていたが、まだ真っ暗ではない……このトワイライトの時間が長いのも北極圏の特徴だろうか。
私はホールを離れていた。マカーティは後からついて来る。
マカーティが連れて来た水兵達はホールに残り、極光鱒をいただいている。マカーティがそうするように命令したようだ。
フォルコン号の面々も私の船長命令に従い、ホールに残ってくれた……ただしその命令を聞いてくれなかった猫が一匹だけ居る。ぶち君は食べ掛けの極光鱒を放り出し、マカーティのさらに後ろから距離を取ってついて来る。
まあ、その事はマカーティも彼の水兵達もまるで気にしなかったようだが。
明かりを持ってくれば良かったわね。お客さんが多い事もあって集落の中では方々のランプが灯されていたりするのだが、今私が向かっているのはホールの裏の暗がりの方だ。
よく見ればマカーティはサーベルを提げていない。あれはレイヴン海軍士官の制服の一部じゃないのかしら。私は腰にレイピアのようなものを提げている。
「この辺りでいいだろう。何だよ話って」
私は足を止めて振り返る。ここはホールの裏手の、町からほんの少し離れた雑木林の縁のあたりだ。
マカーティは10mくらい離れて立ち止まっていた。あんまり近寄られるのも嫌だけど、こんなに離れているのも話しにくいわね。
「……てめえは本当に商売をしに来たらしいな。コルドンからの使いの荷物と、自分とこの毛織物、それに……ウインダムで拾ったフルベンゲン生まれの迷子の子供を連れて来たと」
「コルドンと毛織物の事は前にも言ったよな? まさか君は、この町でわざわざ全部裏を取って回ったのか?」
マカーティは答えないが、どうも図星のようだ。何とまあ……用心深いというか粘り強いというか。この男の仕事に対するそういう姿勢は嫌いになれないな。
「お前は本物のグランクヴィストだ。ハマームでファウストと組んで大仕事をやってのけた奴だ……見た目はクソチビだがとんでもねえ大物なんだろう」
「僕は一介の船乗りでロングストーンの商人だよ、僕がここに商売に来たというのは解ってくれたんだろ? お門違いもいい所だ」
何だろう。マカーティが言いたいのはこんな事なのか? こればかりはいくら言われてもねぇ……マカーティの言う事はチビという所以外は嘘だし、私が言ってる事は一つも間違っていない。
「お前はアナニエフ一家の話をしたな?」
マカーティの目つきがますます鋭くなる。射るような視線が私のマスク越しに降り注ぐ……怖くなって来たなあ。もう逃げようかなあ。多分逃げようと思えば逃げられるよね、雪の上であれば。
「アナニエフ一家の事ならルッドマンの方が詳しいと思う、彼が奴等を撃退したんだ、まだ会えてないのか? だから、何なら僕から紹介してあげるけど」
私は友好的で協力的な人間のふりをして、口元に作り笑いを浮かべて大きく両手を広げる。
「そんなのはどうでもいい! 単刀直入に聞くから答えろ!」
私は息を飲む。
先程からマカーティの様子は尋常じゃない。肩が震えているように見えるし、拳は痛そうな程に握りしめられ、目は血走り、唇も色が悪く……とにかく、大変な焦燥感に苛まれているように見える。
「てめえは……海賊グランクヴィストは、他の海賊と組んで、ここ……フルベンゲンを撫で斬りに、蹂躙するつもりなのか!?」
私は思わず呆気に取られた。
一体何を言い出すんですかこの男は!? 人をどこまで極悪人だと決めつけてるんですか、いい加減にして下さいよ! それに見てないんですか? うちの船、うちの乗組員、どうやったらそんな街を襲う大海賊に見えるんですか!
百歩譲ってですよ、私が本当にそんな凶悪な海賊だったとしても、そんな事聞かれて、はいそうです、って答えると思う!?
じゃあこれはどういう事!? この男はもう今から私を攻撃して来るつもりなの!? あっ!? もしかしてこの周りには伏兵が!? 私は既に包囲されてるの!?
「オアーオゥ」
私がそう思って焦った瞬間、一緒について来ていて、近くの岩の上で辺りを見回していたぶち君が一声そう鳴いて、あくびをした。伏兵は……居ない? それに良く考えてみれば、二人で話せる場所としてここを選んだのは私だった。
「マカーティ。ランベロウは僕の友人を殺害しハマームに破壊と混乱を巻き起こそうとしていた。だから僕はそれを阻止した。僕を海賊と呼ぶのは君の勝手だが、僕は町や農場を襲い罪も無い人々を傷つけるような事はしない」
ぶち君の鳴き声で一度に緊張が解けた私はそう言った。
次の瞬間。マカーティは激痛に見舞われたかのように酷く顔を歪めた。
「やめろ、マイルズ!!」
私はマカーティに駆け寄る。冗談じゃない、やめてよ!!
だけど間に合わない! マカーティは私から10mも離れて立っていたのだ……
「後生だッ……!」
マカーティは雪の上に跪くや否や、両拳を地面に叩き付け、背中を丸め……その頭頂部を半ば雪に埋める程に大地に突き立て……土下座をしていた。私は止めようと駆け寄っていたが、間に合わなかった。
違う。美しくない。尻が高過ぎるし、頭は突っ込み過ぎで逆さに地面に突き刺さっているし、手は横ではなく前に突くのだ、そしてなるべく体を小さくしなきゃならないのに、この男はなるべく体を大きくして平伏している……って! 土下座の姿勢の美しさなんかいいんだよ!
嫌に美しい土下座なんて……私の父の土下座は姿勢は美しいが心は全く篭ってないのだ、本来、美しい土下座なんてもの、この世に無いのだ!
私は不謹慎にも、その一瞬にそんな事を考えていた。
「てめえの力を貸してくれッ、頼むッ……! この町にはとんでもねえ危機が迫ってるかもしれねえ、俺達だけじゃ止められねえ可能性があるッ……恥は承知だ、だけど下手をすればこの町も! あの避難民も! 海賊に撫で斬りにされるかもしれねえ! グランクヴィスト、お前の力を貸してくれ、頼む、この通りだッ!!」
マカーティの土下座は本当に不格好だ……慣れてない、この男、土下座はおろか人に頭を下げる事に全く慣れてない……だけど、だからこそ伝わって来る気持ちもある。さっきからずっとマカーティが苦しんでいたのは、この土下座の事を考えていたからなのか。