猫「何を言い出すのだこの娘は……拙者が居なくてはこの鱒にありつけたかどうかも解らぬだろうに」
急いで先回りして船に駆け戻り、再びフレデリクとしてマカーティに応対したマリー、困惑するマカーティ。まずは一本取ってやりましたよ。
マカーティは舷門を降りてボートで去って行く。副長さんはボートで待っていたようだ。さっきは少し揉めていたし、喧嘩でもしたのかしら。
大砲の件はもっと突っ込まれると思ったのに、私が少し話を逸らしただけでマカーティは忘れてしまったのだろうか。
さてどうしよう。
大砲。グレイウルフ号が立ち去ってくれたらこの不吉な代物はサイクロプスに返してしまえるのだが。新世界へ積んで行ったらいいじゃないですか。向こうで鋳潰して鍋や鍬の材料にすれば宜しい。
兄弟。ヨーナスとエッベは目の前の大砲をあちこち弄り回している……
「船長。これ、試しに撃っちゃダメ?」
「駄目に決まってるじゃないか玩具じゃないんだぞ」
二人は大砲なんてパウダーモンキー時代に嫌と言う程見たのではないかと思いきや、その頃は少しでも触ったら酷く怒られたのだそうだ。
そんな二人にはそろそろ水夫を辞める時間が近づいているはず……少なくともハイディーンと何人かの大人達は二人に罰を与える事に反対する事を約束してくれた。
それからルードルフ。今はたまたま三隻も外国船が居るが、冬のフルベンゲンではこんな事は滅多にないはず。戦士の石碑への巡礼も成し遂げた今、南に帰るならフォルコン号に乗るべきだろう。じゃないと春までここで厄介になるか、歩いて帰る羽目になる。
私は心の中で広げた考え事を畳んで行く。
マカーティもたいした事無かったわね。個人的にはショックを受ける事もあったけど、結局奴の口からはファウストのファの字も出なかった。
どうやら心配し過ぎだったようだ。彼等はそこに泊まっているレイヴン船籍の商船ホワイトアロー号が実は海賊船サイクロプス号だとは気づいていないらしい。
「僕らもフルベンゲンのホールに行こうか。極光鱒祭りをやっているらしいぞ。この際みんなで行くのはどうだ?」
「やったー!」「あれめっちゃ美味い! 食べたい!」
早速快哉を挙げるアレクとカイヴァーン。ロイ爺とウラドは顔を見合わせるが、それぞれに頷く。アイリさんも微笑んでいる……しかし。
「あの……俺は腹が痛いんで……」
マカーティが来る前から頬被りをしていた不精ひげはまたそんな事を言いながら船員室へと去って行く。
そしてまたヨーナスとエッベだ。二人は顔を見合わせて悲しげに俯く。
「じゃあ不精ひげとヨーナスとエッベは留守番を頼む! 万一マカーティがこの船を分捕りに来たら錨索を切ってでも逃げてくれよ」
「りょ……りょうかい船長! おれたちしっかりやる!」
「おれたち海のおとこ! かしこまり!」
◇◇◇
フルベンゲンのホールは私が想像していたのよりずっと、静かで落ち着いた雰囲気が支配していた。英雄ルードルフを囲む会はもう終わったのかしら。
百人余りの避難民の皆さんは極光鱒尽くしの食事をたっぷりいただいて、方々で寛いでいる。外の寒さと中の暖かさ、それに満腹とあって、居眠りをされている方も多い。
ホールの外では子供達がいくらか遊んでいた。空はもうだいぶ暗くなっていたが、ずっと船内に居た子供達にとっては貴重な自由時間なんだと思う。良く見ると地元の子も混じってるわね……たまには私もあっちに混ざりたい。
「極光鱒はまだ残ってるかい? 僕らの分はあるかな。あと出来ればうちの猫にも何か」
私は肩に乗せていたぶち猫を降ろしながら言う。
炊き出しに追われていたのはフルベンゲンの留守番の女性達だろうか。今はだいぶ落ち着いていてホールの片隅で談笑していたようだが、我々フォルコン号の船員が来たのを見ていそいそと配膳をしてくれる。
御手伝いの女の子が見事なオレンジ色の極光鱒の生の切り身を木の皿に載せて持って来る……えっそれ、ぶち君用? それは勿体無いでしょ。
「ああ待って、頭とか尻尾とかの身でいいんだ」
「まあ船長さん、猫も貴方の大事な家族じゃないの?」
女の子は構わずお皿ごとぶち君の前に置く。ぶち君は一瞬私を横目で見たが、すぐに極光鱒にかぶりつく。
私達も極光鱒をいただく。
「こんなに身が大きいのに繊細な味ね、他のどんな魚とも違うわ」
「何ともさわやかな脂じゃな、もたれる気がせんわい」
「すげえよ、こんな大きな身に骨も筋も無いや、口ン中幸せで一杯だ」
「香りよし味よし、こんなにたっぷり食べられるなんて。ルードルフさん様様だね」
巨大な極光鱒から獲れた大ぶりのソテーには誰も文句が無かった。繊細で豊かな味わい、優しくサラリとした嫌味の無い脂……フォルコン号の仲間達も皆満足のようだ。
これが本物の極光鱒ですか。前に頂いたのもあれはあれで美味しかったけど、この大きさで食べる極光鱒はまた別物だわね。
食事をしながら私はホールを観察する。ファウストの仲間のロゼッタさんはここに居て、避難民の人達と地元の人達の仲立ちをしている。そして私にも勿論気づいているのだろうけど、知らないふりをしてくれている。
そして避難民の中にもう一人、仲間達の間を回り、なるべく多くの人と話そうとしている人が居る。修道士の姿をした、痩せて背の高い男の人が。そしてその人がどうやら私の視線に気づき、こちらにやって来る。
私はシチューを食べる手を止め、ハンカチを取り出して口の周りを拭き、立ち上がる。
「ああ、申し訳ありません、御食事の邪魔をするつもりではなかったのですが」
「お構いなく、貴方がラズニール修道士ですね。我々はフォルコン号の船乗りで僕は代理船長フレデリク」
私は貴公子風に手を差し出す。握手……ふとアイマスクから横目で見ると、アイリさんがじと目でこちらを見ている。
「貴方が……ロビンクラフト船長に協力して下さったと聞きました……あの……この極北の港にまでレイヴン海軍が現れたのは、我々が改革派の避難民である事と何か関係があるのでしょうか」
遠目にも痩せて見えたラズニールさんは、近くで見ると酷く痩せていた。その声は若者のように弾んでいるのだが、見た目はかなり老けて見える……実際おいくつくらいなのだろう。
人間、見た目で解る事なんて多くはないけれど、この人に関しては間違いなく苦労人なんだと思う。ラズニールさんは若くして人一倍苦労してきた人に見える。
「僕らはたまたまこの港に居ただけで、知っている事は僅かだけど、あのレイヴン海軍も皆さんの事は何も知らないと思いますよ。あいつら、少し前までタコと遊んでたぐらいだから」
私がそう言うとラズニールさんは酷く真面目に、それはどういう事でしょう? という顔をする。あ、これは冗談が通じないタイプの人ですよ、気をつけないと。
「僕も協力するので、彼等の事はご心配なく、今はゆっくりと休んで下さい」
私はともかくそう請け負う。本当は何の自信も根拠も無いんだけど、今この人達に必要なのはそういう言葉だと思う。
「あの……皆様はどちらに向かわれるのですか? 皆さん、改革派の修道士さんとお見受け致しますが……」
アイリさんが口を開く。それを聞いたラズニールさんは苦笑いをして首を振る。
「私達はもういかなる派閥にも属さず、どんな派閥とも争わず、ただ神を信じ隣人に奉仕する者であるつもりです。みんな教王や枢機卿を憎んだりしませんし、自分達が改革派であるという自負もありません。私達はただ、良き心を持って生きて行きたいだけなんです」
アイリさんは……それを聞いて俯く。
「ごめんなさい、少し無神経だったわ」
「こちらこそ申し訳ない、決してそのような事はありません」
ラズニールさんもアイリさんも互いに申し訳なさそうにしている……私にはよく解らない。
避難民の皆さんはごく善良な、普通の人々に見える。外で遊んでいる子供も、ホールで休んでいる大人も、皆それなりにこの場所を楽しんでいるように見えるけど……この人達にとってはこの場所は異国の地だし、太陽を拝む事も出来ない極北の地でもある。
こんな場所でも船に閉じ込められているよりはマシだし、迫害を受けていた故郷よりはマシなのだろうか。
「ともかく私達はただの移民団なのです、泰西洋を渡り新世界北部で新しい入植地を……」
私なんて、いつでも戻れる故郷があるのだ……ラズニールさんの言葉を聞きながら私がそう思った、その時。
「レイヴンにもアイビスにも改革派はたくさん居るが、同時に改革派が起こした争いを恨みに思っている奴もたくさん居る。自分達はもう改革派ではないと言ったって……はいそうですかと許す訳には行かねえ奴も居る。そういうのは仕方がねえ」
少し離れた所で、誰かがそう言った……明らかに、ラズニールさんの居る方に向かって。
いつも通り、私は無学なので深い事情は解らない。解らないけど今の台詞は無神経で無遠慮だという事ぐらいは解る。
私が顔を上げた先に居たのはやはりマカーティだった。奴はハロルド副長ではない部下を七、八人も従えて、ホールの入り口に立っていた。
その表情は少し前にフォルコン号に一人でやって来た下品で短気な、しかし愚直な男のものではなかった。