ゲヴィッセンズ「人目につくような事は避けよ、それが我ら一族の掟だ、フェアシュタンデン」
この世界においても、ドラゴンは伝説上の生き物とされていました。
この話は三人称で御送り致します。
マリーを首にしがみつかせたまま、彼は大きく羽ばたき、螺旋状の軌道を描きながら少しずつ高度を上げて行く。
人間や他の生き物の耳には咆哮に聞こえるそれは、彼の笑い声だった。こんなに笑ったのはいつ以来だろうか。それは母の元に居る事を許されていた頃、少なくとも800年は昔の事だろう。
「はははは……はははははははは!」
誇らしげに力一杯翼を広げ、彼は雲一つ無い空を上昇して行く。こんなにも堂々と空を舞う事は普段は無い。
極夜の真昼、今は地平線に接近した太陽が大気をほんのりと染めている。今空を飛べば地上に居る者からは丸見えになるだろう……しかし今日の彼はその事に頓着しなかった。
「嬉しいぞ我が一族よ! 汝の船が見えた時から解っていた、汝は余に会いに来てくれたのだとな! 余も普段は決して人の目につかぬよう用心して居るのだが、汝の訪問の待ち遠しさのあまり我慢が出来なくなった……汝も見たであろう……極光の夜に堂々と空を舞う余の姿をな」
人間や他の生き物の耳には意味不明な呪文に聞こえるそれは、彼の言葉だった。
「ああ……誰かと話すのも200年振り……以前は南泰西洋の孤島に顔見知りが住んでいたのだが。100年ほど前に余が訪れてみると、島は人間に発見され補給用の無人の集落が建っており、彼奴は何処かへ引っ越した後だった。誰かと話したのはあれが最後……はははは! 会話とは、何と心踊る愉しみであろうか! わははは……」
他の者には咆哮に聞こえる笑い声を上げながら、彼は尚も加速し、旋回飛行から水平飛行へと移る。
「汝には翼は無いようだな。どうだ? 我ら一族にだけ許されたこの景色は。人の姿をした汝には滅多に味わえぬものであろう! 余もこのような曇り無き空は久しぶりだ。普段は用心の為、晴れ間のある日は飛ばぬようにしているからな」
―― ひ゛ゃあ゛ああああ゛ああああ゛! びゃああああ゛あああ゛あああ゛
「ふむ……汝の言葉はいささか難解であるが……汝の気持ちはよく解るぞ。素晴らしいだろう? 高い山や海の上とはまた一味違うだろう? 全球の景色を一手に掴む、大空の景色はな……見よ、彼方の山脈も極北の大海原も、今や全て汝の物! ふははははは……そうか嬉しいか、ふははははは……」
―― ひ゛やああああああああ! びゃ、びゃ、びゃ、ひ゛ゃひ゛ゃああ゛ああ
地上はかなり遠くなっていた。戦士の石碑もとても小さく見える。四台のそりと犬達、三人の人間……どれも辛うじて見える程度の大きさだ。
「汝の仲間、あれには余も驚いた、あれが騎士というものか。昔は大勢居たと聞き及ぶが、余はそれが龍族に伝わる作り話だと考えていた。我らを目の前にして堂々と名乗りを挙げ一騎打ちを挑んで来る姿は、正しく御伽噺の騎士そのものであった! 余も興奮のあまり加減が出来ず思わず放り出してしまったが、もう少し丁寧に扱うべきであった」
―― たー たた た たーすけてー したにおろしてー
彼は暫し目を閉じ、翼を広げ、ゆったりと滑空していた。ほんの少しだけ落ち着きを取り戻したマリーは弱弱しく叫ぶが、彼は気づかなかった。
―― あっ
マリーが被っていた羽根飾りつきの帽子が落ちた。落ちそうだというのはマリーも気づいていたが、今のマリーには四肢に全身全霊を込めドラゴンの首にしがみつく事以外、何も出来なかった。
彼が目を開く。
「汝との戦いは誠に楽しかった……いきなり攻撃してすまなかったが、汝の蒼き衣に宿るそれは間違いなく龍の魔法。龍と龍が出会えば礼儀というものがあるからな。汝の素早さには余も驚いたぞ。ふははは、まさか余が首に牙を立てられるとは……む? あれにひらひらと舞い落ちるのは汝の衣の一部ではないのか? うむ……しっかりと掴まっておけ」
マリーが落とした帽子が落下して行くのを見つけた彼はそう言うと、いきなり翼を巡らせ180度横転し背面飛行に移ると、
―― ぎ ゃ あ あ あ あ あ あ
そのまま、垂直に近い急降下を始めた。マリーは死にもの狂いでドラゴンにしがみつくが、それ以上に凄まじい加速度がドラゴンの首にマリーを圧しつける。
たちまちに迫る山頂、このまま戦士の石碑めがけ垂直に墜落するのかという勢いで彼は飛ぶ。そして。
―― ぐ え ぇ ぇ ぇ ぇぇぇええええ×◇●@▽!?
彼は翼を一杯に伸ばし急激に首を上げる。再び凄まじい重力がマリーをドラゴンの首へと圧しつける。ひしゃげたカエルのように、マリーはドラゴンの大きな鱗にへばりつく。
彼が水平飛行に戻ると、マリーの頭の上にスポッと、落下して来た羽根帽子が収まった。
「大事な物なのだろう? フフフ……人間の血は赤いと聞くが汝は違う、汝の体には余と同じ、龍族の蒼き血が流れているのだな! ふははははは、汝のその蒼き衣は汝の龍の精神を具現化したもの! 解るぞ、余には解る、ふははははは……」
彼は再び高度を上げて行く。地上ではスヴァーヌ人の兄弟、ヨーナスとエッベが彼を指差して大騒ぎしていた。たくさんの犬達も、空を見上げ遠吠えをしていた。
「どこまで話しただろうか。余と汝の決闘の所までか……龍族は何よりも誇りを重んじる。龍族は戦いに於いて勝利以外の物を求めてはいけない。余は母よりそのような薫陶を受けて成長したのだが」
生まれてまだ900年、彼は種族の中では駆け出しの若者であった。
「余は汝との決闘は引き分けであったと考える! ふははははははは!! 引き分け!! 何と心地よい響きであろうか!! 汝と余の勝負は引き分け、余と汝は対等である!! 嬉しいぞ、汝のような強者と力を持って競い、引き分けを得た事は余の何よりの喜びである! 引き分けだ! ふははははは!!」
興奮した彼はさらに力強く翼をはためかせ、さらに加速し、首を上げながら360度横転する。
「わははははははは!! これがバレルロール!」
さらに興奮した彼は垂直に急上昇した後、翼を広げ一気にブレーキをかけ意図的に失速を起こし、不規則な軌道で真下に急降下する。
「これが木の葉落とし!」
再び水平飛行に戻った彼は首を上に向け一瞬減速するように見せた次の瞬間、一気に後方へ一回転し、高度をほとんど変えぬままの高速宙返りをしてみせる。
「ふははは、これはまだ名前が無い! 楽しいぞ! 同族と共に空を舞うのがこんなにも楽しいものだったとは! ふははは……」
様々な空戦機動を披露した彼は暫くは悦に入っていたが。やがて、僅かな炎を吹きながら深い溜息をつく。
「少々はしゃぎ過ぎたようだ。我が一族よ。余の愚痴に付き合っては貰えないだろうか」
彼は水平飛行に戻り、大きくゆったりと旋回しながら、速度を落とす。
マリーの反応は無い。
「龍族の時代はとうの昔に終わった。地上は人間の物となり、人目を避けて細々と暮らす、我らの数は非常に少なくなった……間違いなく、余は龍族の最後の世代なのだと思う。或いは、余が人間に狩られ命を落とすその時が、龍族絶滅の瞬間なのかもしれぬ」
彼は憂鬱そうに目を細め、また炎の溜息をつく。
「我らは一を見て百を識る種族。そうであろう? 故に……解るのだ。人間の進化の速度は実に恐ろしい。今は我ら一族と、鳥や虫共にだけ許された世界である、この空……恐らくあと300年もすれば、この大空でさえも人間の物となるだろう」
再び高度を上げていた彼は、緩やかに滑空し高度を下げながらどんどん加速して行く。やがて、大きく広げた彼の翼の先端に、彼の翼が通った軌道を示すような、糸のように細長い雲が発生し始める。
「人間達は恐ろしくないのだろうか……鉄砲と大砲は彼らの人格を全く別の物に変えてしまうかもしれぬ……あの大砲というものをまともに喰らえば余であっても命を落とすであろう。小さな人間がそんな物で互いを傷つけ合う……恐ろしい時代になったものだと思わぬか」
マリーの反応は無い。
「すまぬ。退屈な話であったな……そうだ、共に歌わぬか、龍族の太古の歌を。汝の体にも流れている、龍の蒼き血を称えるあの歌だ。ああ。同族と共に歌うのは何百年ぶりなのだろう。遠き、夜空に、木霊せしー、我らが叫びを耳にしてー」
歌には心を前に向ける力がある。それはドラゴンにとっても一緒だった。彼は自らの歌に励まされ機嫌を直す。そして楽しげに歌い続ける。
「良かれー、励めよ龍の民ー、もーえよ龍の民ー……どうした? 汝も歌って良いのだぞ」
マリーの反応は無い。
「もしや……過ぎた馴れ合いは望みではなかったのだろうか。すまぬ……余が若さ故の過ちを赦して欲しい。では……人の形をした龍と、龍の形をした龍。我ららしく別れるとしようか……また会いに来てくれるな?」
彼は傾斜の強い雪山の一つに向かって飛び、空から雪の柔らかい場所を探す。
「さらばだ、我が同胞よ」
速度を落とし下り斜面に沿って飛ぶ彼がゆっくりと体を横転させると、マリーは斜面へと力なく落下する。
柔らかな新雪の急斜面に受け止められたマリーは斜面を200mばかり滑り、転がり、傾斜の少ない所まで流れて落ちて、止まる。
蒼き龍は大きく翼を広げ、ゆったりと旋回しながら、極北の空へと飛び去って行った。
※大丈夫! マリーは生きてるよ!
マリー・パスファインダーの冒険と航海、まだまだ続きます!!




