カイヴァーン「(グスン)やっぱり……やっぱりついて行けば良かった……何だか凄く嫌な予感がするんだ……」
戦士の石碑を見つけた一行。ぶち君のお手柄と言っていいのか。
老戦士ルードルフが目指していた古代の遺跡。
彼は何故、たった一人でここを目指していたのか。
圧倒的な光景だ……頂上はこの大きな無人島全体をほぼ見渡せる場所だった。
戦士の石碑の向こう側には、信じられない程急激に切り立った裂け目があった。この大きな岩の山が、巨大な神の斧で真っ二つにされたかのように……100mくらいの幅の深い裂け目に両断されているのだ。
裂け目の深さはどのくらいなのだろう? だけど絶対に近づいて覗き込んだりしてはいけない。雪庇があれば一瞬で谷底まで真っ逆さまだ。
広い、広い空……雲はとうとう一つも無くなってしまった……不思議な青紫色の空と、鈍く光る白い大地……
ヨーナスもエッベも目を丸くして辺りを見回していた。とにかく圧倒的な光景なのだ。島を一望出来る絶景、こんなにも人里離れた場所にあった砦跡、それを両断する裂け目。
この裂け目は砦より後に出来たのに違いない。裂け目の向こう側にも、僅かに石垣の遺構が残っているのが見て取れる……遠い昔、一体ここで何が起きたのか。
「良かった、猫が逃げ出してくれたおかげでここまで来れて。僕はさっき山の中腹で帰ろうとしていたのに。はは、猫もたまには役に立つもんだ」
私はそう、軽口を叩きながらもう一度ルードルフの方を見る。ルードルフはさっきからずっと石の器に溜まった土砂を、小さなスコップでなんとか取り除こうとしていた。土砂が凍り付いていて捗らないらしい。
「上で火を焚いたら柔らかくなるかな?」
「うむ……この下に何か書かれてはいないかと思ったのだが……まあ、やめておこう、遺跡を傷つける恐れがある」
「それで? 今どんな気持ちなんだい、君が待ち焦がれていたお宝は凄いじゃないか、ルードルフ」
私は敢えて人生の大先輩にも平気でタメ口をきき続ける、やんちゃな貴族の小僧を演じ続ける。
良かったね、ルードルフさん。さっきは帰ろうとして御免なさい。ねこが脱走したおかげで来れましたよ……戦士の石碑に。
良かったんだよね?
「……そうだな。いや、勿論吾輩は嬉しい、正直な所、本当に見つかるとは全く思っていなかった」
ルードルフはそう憂鬱そうに呟き、溜息をついた……何だか全然嬉しそうではない。
私の頭の中で、得体の知れない嫌な音が鳴る。
「何だよそれ。そもそも貴方は何故戦士の石碑を探していたんだ? 見つけたらどうするつもりだった。国に帰って仲間に自慢するんだろ? それともまさか、ここで死んで大昔の先祖に会いに行こうとしていたのか」
私は自分があまりに酷い事を言ったのに驚いた。フレデリクは何を苛立っているんだろう。ルードルフも驚いたように……私のアイマスクを見た。
「貴方はさっき随分簡単に船に戻って計画を立て直す事に同意したけど……本当はそうなったら一人で旅立つつもりだったんじゃないのか。今度は僕やあの兄弟も犬達も連れず、こっそり出発しようと……もっとはっきり言えば。貴方はそもそも石碑を目指す旅の途中で死ぬつもりだったんじゃないのか」
ええええ!? 何を言い出すんですかこの男は! いや……言ってるのは私だよ……だけど。確かに私は心のどこかでそう考えていたのだ。
真冬のフィヨルドの雪と氷の大地を一人で北へ旅して来たり、大勢の略奪者と一人で戦ったり、一人で怪我を治そうとしたり……クマとの戦いでも自分の命を守るより周囲の味方の為、クマを狂乱させない事を優先して戦おうとした。
ルードルフはこの旅の中で死ぬつもりなのではなかったのかと、私は勝手に疑っていたのだ。
私は戦士の石碑を見つけて喜ぶルードルフが見たかった。そんなのただの私の我侭だというのは解っている。ルードルフは子供ではなく、思慮深い人生の先輩だ。喜びを表現する方法だって違っていて当然だ。
ヨーナスとエッベも、心配そうに、ルードルフに詰め寄る私と、私に詰め寄られ項垂れるルードルフを見ていた。
「ごめん。僕がどうかしていた」
いくら何でも今のは自分がおかしい。そう思った私は小さな声で詫びた。
ルードルフは、項垂れる私を見て顔を上げた。
「いや……君の言う通りなのだと思う」
無礼な若造の戯言など叱り飛ばしてくれたらいいのに。ルードルフはまたそんな事を言う。
「我輩自身、自分がそう考えていると認めたくは無かった。我輩は軍人であり騎士などではなく、巡礼をするような柄でもない。この年でこの極北の地をここまで一人で旅行して来た事だけでも、十分馬鹿げていると思う」
「待ってくれ、じゃあ始めはそうだったかもしれないけど! 悪党を成敗して誘拐された子供を救い出したり、戦士の石碑を見つけ出したり、今の貴方の行いは古の崇高な騎士そのものじゃないか!」
今時、人を騎士のようだと言うのは賛辞にならない場合もあるけれど、私は心からの賛辞としてそう言った。しかしルードルフは苦笑いと共にかぶりを振る。
「長年、戦場に居てね。本当に気が遠くなる程長く。友人も部下達も皆向こうに行ってしまった」
何か言わなきゃ。こんな話をするつもりじゃなかったのに、私がこんな話にしてしまった。だから何とかして私がルードルフの気持ちを変えてあげたいのに、言うべき言葉を思いつかない。思いつかない……
「今からだっていいじゃないか……その……今まで貴方がどんな経験をして来たのかは解らないけど、今の貴方にはまだまだ騎士として生きる力が、誰かを助ける力があるじゃないか、あの気の優しいシロクマだって! あいつも貴方が助けたんじゃないのか人間の子供と一緒に、怪我も手当てしてやったんじゃないのか?」
「アーオゥ。オアァーオゥ!」
その時。ぶち君が鳴いた。私は思わず振り向く。
いつの間に毛布の隙間から這い出したのか、ぶち猫は大きな亀裂にかなり近づいて、谷間の方を向いて……尻尾を逆立てて唸っている……
今度は何だよ、今大事な話してるのに。これだから猫のする事は解らない……そう思いつつ私がルードルフに視線を戻した、その瞬間。
―― ゴォアアアアアアアア!
また谷間が鳴った。相変わらず巨大な獣の咆哮のような音だ……いや、違う。さっきまでの音と違う。谷全体が鳴るような音ではなく、下に何かが居て、それが吼えているような声だ、第一今は風が吹いてないような気がするんだけど。
「ゴアアアオアアア! ギャアアオオオウ!」
風は無い、そう思った瞬間、谷間の方から凄まじい咆哮のような突風が吹き、積もっていた粉雪が、氷の粒が激しく舞った! わぷっ……! 前が見えないっ!?
「ぶち君っ、戻れッ……」
私はよろめきながら何とか叫び……もう一度顔を上げた。
宙に。
蒼く、巨大な獣が。
浮かんでいた。