ルードルフ「あの猫、一体何者なのだろうか……」
猫「勝つ度にいちいち泣くな、未熟者め。あの程度の獣に遅れを取るお主ではあるまい、拙者には解っている……熊肉? 受け取れんな。拙者は何もしておらぬ。それよりいつまで辛気臭い顔をしている。鱒を狩った時は自慢げな顔をしていたではないか。戦士たるものはあれで良いのだ……全く世話の焼ける小娘よ」
田舎娘の私は昔から山羊や猪が解体される所を何度か見学しているのでわりと平気だが、都会の良い家の娘さんはこういうのを見ると卒倒するらしい。
勇敢なクマは兄弟の手で解体され一枚の毛皮といくつかの肉塊へと変わった。小さいのに大したものである。私とルードルフも出来る限りの手伝いはした。
いくらかの肉はざく切りにされ犬達への分け前になった。
大きな肉塊は布でくるんでそりに積み込んだ。利用しきれない分はそのまま置いて行く事になる。
私のそりに積まれていた猫の毛布巻き、ぶち君はこの騒動の間も結局そこから出て来なかった。分け前の熊肉をあげようとしても知らん顔である。毛布にくるまったままこっちをチラリと見ただけ……何の為について来たのキミは。
隊列を整え、そりは再び出発する。時刻は正午近くだろうか……懐中時計を出して確かめればいいのだが、私は何となくそうする気になれなかった。
エッベに水を差されてお預けになったが、私は一度ルードルフにもう帰ろうと言ったのだ。それに対し、ルードルフはもう少し石碑を探させて欲しいと言った。
それからクマの解体をした。そのせいで少し時間が過ぎた。
それで……時間だからもう帰ろうと主張するのは簡単なんだけど。正午まで探して見つからなければ帰ろうというのは最初からの約束である。
だけど何かそんなのフェアじゃない気がするんだよなあ。私がルードルフだったら、それで探索を終わりにされるのは悔しい。
早く帰りたい私が、わざと時間をルーズに使ったみたいじゃないか。
―― ウォォォオオーン……
谷間を通り抜ける風が鳴る……
石積みは山の上に向かって続いている。実際この石積み、あといくつあるのだろう? 本当は一日じゃ辿り着けないくらい遠くまで続いているのかもしれないし、もしかしたらこれが最後で、あの山の頂には戦士の石碑があるかもしれない。
―― オオォォ……オオーン……
「船長……本当に巨大な獣じゃないの?」
エッベがそう聞いて来る。今は四人共そりから降り、私とエッベが前でロープを引き、ルードルフとヨーナスが後ろでそりをまとめている。
「これは風の音だ。どうした? さっきは立派な戦士だったのに」
「大丈夫! 聞いたしいたけ!」
やはりまだ少し意味不明なストーク語で喋りながら、私達は見晴らしいのいい山の斜面を登って行く。海辺からここまで、結構登ったよね。
途中、雪の柔らかい所や岩の飛び出した所を避ける……私以外の三人は靴に雪歩き用の木のへらと、鉄の爪のような器具をつけている。私はまあ、例のズルでそういうものが無くてもすたすたと歩ける。
空は青とも紫ともつかない不思議な色に染まっていた……いつの間にか雲はほとんど無くなっていた。快晴と言っていい。
風は時折強く吹き、氷の上に降りかかった粉雪を舞い上げる。
景色はますます圧倒的だ。だいぶ高い所まで登ったのだ、振り返るとかなり遠くまで見渡せる……やはり、全部が白いのだけど。
まるで絵本の中のような景色だなあ。ほんの四色くらいの絵の具で描いたような景色だ。紫と、白と、影のついた白と、所々に見える黒い地面。
「そろそろ……帰る時間だろうか」
私が暫く振り返っていると、ルードルフがそう言った。そういうつもりじゃなかったんだけど、そう見られても仕方ないか。
私は観念して懐中時計を取り出す。ああ……もう午後一時を過ぎている。
探検は失敗だ。
戦士の石碑は見つからなかった。そもそもそんな物が本当にここにあるのかどうかも解らなかったし、犬ぞりがあるとはいえ、数時間で辿り着けるかどうかも解らなかったのだ。
「そうだね……あの、ルードルフ。僕も石碑には興味があるし、諦めたい訳じゃない。だから今日の所は約束通り一度船に戻り皆に状況を報告して、もう一度計画を立て直そう」
エッベとヨーナスは心配そうに私とルードルフの顔を見比べている。アイビス語だから何を話しているのか解らないのだろう。二人はまだ探検を続けたいのかな……何となく、そういう風に見える。
ルードルフは暫く沈黙していたが。やがて……口を開いた。
「うむ……ありがとうフレデリク殿。今日は約束通り、帰るとしよう」
ルードルフはそれを、兄弟にもスヴァーヌ語で説明する。ヨーナスは息を飲む。
「待って船長! あと少し! この山の頂上、すぐそこ!」
私の近くに居たエッベは、私の袖まで掴む。
「御願い船長! もう少しだけ! もう少しだけ進みたい!」
私はかぶりを振る。もう自分の判断で後悔したくない。あと少しなどと言い出したらキリがないのだ。それで約束の時間までに帰れなかったり、何か事故でも起こす羽目になったら、悔やんでも悔やみきれない。
「駄目だよ。約束だ。正午には引き返す……正午はもう過ぎた」
私はそう、ストーク語でぶっきらぼうに言い、帽子の鍔を下げて少年達の視線を遮る。
「さあエレーヌ、引き返そう」
私はそり犬のリーダーに声を掛けそりを反転させようとした。その時。
「オアオゥ」
あれ……毛布巻きのぶち猫が毛布の中でもがいて……そこから這い出して来て……雪の上に降りた。何ですか今さら。
「ぶち君……? ちょっと……何だよお前今さら! ぶち君! 待て!」
毛布から這い出して来たぶち君が勝手に山を登り出す! 私はすぐに追い掛ける。ぶち君は駆け出す。待ってよぶち君、船長は私だよ!?
「フギャアアー!」「待てこの! いたずらねこ!」
普段なら逃げる猫なんか捕まえられないが、雪上では私に利があった。運悪く雪だまりに突っ込み足を取られて速度の落ちたぶち君を、私は飛びついて捕える。君も乗組員なら船長の言う事くらい聞けよっ!
「ニャアア! フシャアア!」「暴れるなったら!」
「船長、猫も行きたいって!」「御願い船長、この山の頂上まで!」
捕まったぶち君。捕まえた私。そして両手を合わせて祈るヨーナスとエッベ。
これじゃなんか私が悪い人みたいじゃないか……全く。
「……じゃあこの山の頂上まで。そこまで行ったら引き返すからな!」
私は肩を落とし、ぶち猫を地面に降ろす。
「そうと決まれば一気に登ってしまおう! そこで終わりだよ!」
私は自棄気味に叫び、そりの引き綱を持ち、再び斜面を登り出す。
ぶち猫は結局そりに飛び乗り、また毛布の中に潜り込む。
―― コォォオ…… コォー……
谷間を渡る風が鳴る……近くに深い裂け目があるのかもしれない。音源がだいぶ近づいているような気がする。
◇◇◇
山の頂近くの石積みは近づいて良く見ると、ただの石積みではなかった。これは石垣の一部らしい。それは山肌に沿って長く伸びていた。
「ルードルフ、遺跡じゃないか? これは」
「ヴァイキングが冗談で造る物にしては規模が大きい……これは本物であろうか」
石垣は数か所にあり、複雑な形をしていた……こんな極北の山頂に、砦があった事があるというのか。
そして。
「おお……」
大きな山の頂にそれはあった。七つの大きな石柱と、中央の石の器。
私達は器に降り積もった雪と氷を払いのける……しかし器の窪みには長年堆積した土砂がこびりついていた。
石柱には数か所、文字が彫られた跡が見つかった。残念ながら私にはこれが古代帝国時代の文字だという事しか解らない。だけど一つだけ、私にも解った事があった。
「戦士の石碑は、実在したんだ」
ここは北極圏の無人島の、更に海岸から遠く離れた山頂、森林も育たないこんな場所に、何故砦を造る必要があったのか。
それは戦いがあったからだ。
何かを恐れ、こんな所まで逃げて来た人々が居た。
その人々を必ず殺さねば気が済まぬと、こんな所まで追い掛けて来た人々が居た。
逃げる側も、追う側も……こんな所まで来ようとしただけで、大きな犠牲を払ったのではないか。そしてそんな犠牲を払った場所で、人々は戦ったのか。