アイリ「私も一度やってみようかしら」ロイ爺「よすんじゃアイリさん……」
そろそろ雪の女王が現れてもおかしくないような氷の世界を、フォルコン号は進みます。
フルベンゲンを出港しておよそ16時間後。
―― トントン、トン
艦長室で眠っていた私はノックの音で目覚める。普通の服だと寒くてたまらんのでバニースーツで眠っていた事は誰にも内緒だ。この服の方が寒くないというのも恐ろしい話である。
「フレデリク船長? 起きてるかしら? ヨーナスがそれらしい石積みを見つけたらしいわ」
「ああ、3分で行くよ!」
扉越しのアイリさんの声に、私はフレデリクの声色で応える……誰が見ている訳でもないけど、この恰好でフレデリクの声というのは100倍恥ずかしい心地がする。
私は毛布の中に潜り、頑張ってバニースーツから船長服に着替える……この間が死ぬ程寒い! だけど皆はもっと寒い思いしてるのよね。
時刻は午前6時過ぎ。雲は空の八割を覆い、西から東へ流れて行く。今の所、雪は止んでいる。
雪と氷と岩に覆われた大地が見える。なだらかで大きな山がある。地図によればこれは大きな島であり、定住している人間は居ないという。
海岸から山腹へは段丘が続いているのだが、その途中途中に、人為的に石を積んだ物がぽつり、ぽつりと点在している。これは雪が積もっていなかったらむしろ見えなかっただろう。
入り江には千年前の物と思われる防波堤の一部が、長年の波浪に洗われながらも現存していた。これは今でもボートを寄せるのに使用出来た。最初に資材を、次に犬を、最後にそりを、順番に陸に揚げる。
周囲には石垣なども残っているが、それ以上に。非常に解りやすく石煉瓦作りの高さ3mばかりの門のような建造物が一つ残っている。
「これが……千年前の門かな」
私がそれに触れ加工された模様などを見ていると、ルードルフさんもやって来る。鎧の上に毛皮の外套を着て準備万端という装いですね。あの両手剣も持って行くのか。
「形式的にはさらに古い時代の物に見える。この紋様はアウストラタス帝の時代、千八百年前の物だろうか……まあ後のヴァイキングがそれを真似て作った物かもしれぬが」
「あいつら冗談で遺跡作るから紛らわしいよなあ」
「君は歴史学にも詳しいようだな」
「いやまあ……本の虫だっただけだよ」
私はルードルフにそう答える……半分本当で半分ウソかな。私は貧しい割にはたくさんの本を読んで来たが、王様や国の名前、政治の所は覚えられないので読み飛ばしてしまう。
「とにかくあの道標に沿って進んだら何かは見つかるかな……あるのは古いヴァイキングの宴会場かもしれないけど」
「フフン……子供の頃の宝探し遊びのようだ」
ルードルフじいちゃんはそりに荷物を固定するのを手伝いながら、ニヤリと笑う。
「さて……あまり何度も言うのは迷惑だろうから一度で済ませよう。君にはどれだけ感謝していいか解らぬ。ほんの少し前まで私は確かに孤独な人生の終わりを予感していたのに、君が現れて全てを変えてしまった」
これだけ年配のいかにも騎士然とした立派な人にかしこまられると、お調子者のフレデリク君もため口での冗談など言い辛くなる。
「未来を変えたのは貴方の手じゃないのかな。貴方が孤独な巡礼の旅の間にも正義を忘れなかったから、僕らは引き寄せられたんだろう」
「戦士の石碑……まだ見つけた訳ではないが、我輩……わしは実際にそこに辿り着ける事は無いのだろうと考えていたよ。身一つで来た愚かな老人の為に、君が船とそりを、大きな希望を用意してくれた。本当にありがとう」
出発準備は整った。行くのはルードルフとヨーナスとエッベ、そして私である。
「どうして! 何で今度はウラドは行かないの!?」
「勿論私も行きたいが……そりは四台、無理について行けば私は足手まといとなり、却って船長の身を危険に……」
アイリさんが私ではなくウラドに詰め寄っている……可哀想だからやめていただきたい……そう思っていたらアイリさん、今度はこっちに来た。
「じゃあ船長が行くのをやめなさい、それか私を連れて行く事!」
「アイリ殿、御厚意は嬉しいがこの先は御婦人を連れて行ける場所ではござらぬ」
「女の人には危険」「男の仕事」
アイリに答えてくれたのはルードルフだった。そして一丁前の顔で腕組みをしたヨーナスとエッベが追い討ちを掛ける。アイリは一瞬、膝から砕けそうになったが、再び私の方を向き、顔を近づけて小声で迫って来る。
「そう、あの、男の仕事だから……」
「楽しい? 美少年ごっこ楽しい? いい加減にしなさいよ?」
そこへそりの準備の手伝いを終えた不精ひげも来て言う。
「だけどアイリさん、船長は船牢に入れておいたら一人で抜け出して飛んで行くかもしれないぞ。それならルードルフさんと一緒に行ってくれた方がマシだ」
「だけど、不精ひげ……」
まだ不服そうな顔をしているアイリさん。不精ひげは辺りに大きく手を広げて指差す。
「ここにあるのは見渡す限りの雪と氷の丘だけだ……海賊だってこんな島には用は無いし、クマが潜むような森も無い。いくらなんでも今回は大丈夫だろう」
確かに。
宝探しのようだとワクワクしているルードルフじいさんに悪いので大きな声では言えないけれど、これはただの墓参りだと思う。冒険と呼べる要素はこの雪と氷だけだ。それだってエレーヌちゃん以下20頭もの雪原のプロ、狼犬達のご協力が得られるのだから全く安全だ。
「不精ひげの言う通りだよ。ここは見晴らしもいいし、雪原はよく光を反射してくれる。ここではどんな脅威でも丸見えだろ? それに……」
私は近くにあった高さ3mくらいの小さな雪の山にヒョイヒョイと登る。
またこれですよ! 船酔い知らずの魔法のかかったキャプテンマリーの服は雪の上を歩いても殆ど雪にめり込まない! 私はこの場所では他の生き物より素早く動けるのだ!
私は雪の小山の上を走り回ってみせる。
「僕はとても身軽だからね! 何かあっても自分の身は自分で守れるさ!」
「船長、危なくないのか」
「ははは! このぐらいが何だ、僕は前に」
私が危うくサイクロプス号のマストの天辺でファウストと決闘した時の話をしそうになったその時。不意に。私の足元を支えていた大地が消えた。
わあああ!? 天地がひっくり返る!? 私が今踏み崩したのは雪と風が作った自然の張り出し屋根、雪庇と呼ばれる物だった。ぎゃああああ! 雪庇の向こう側は低い崖のようになっていた! 私は5mばかりの雪の急斜面を転がり落ちる!
「船長!?」「フレデリク君!?」
雪の小山の向こうで不精ひげとアイリの声がする。小山のこっち側は私達が居る所のすぐ近くだったが、結構な死角になっていた。そりの周りにはランプを何個も置いてあるのに、こちら側にはその光が一つも届いていない。
とにかく私は起き上がる事にする……怪我はぜんぜん無い……あれ、何かしらこの白い石の柱? 随分綺麗に磨いてあるわね。ちょっと失礼、ここを持って立ち上がれば……
その柱が、うごいた。
―― ブシュー!!
続いて強烈な発酵臭のする湯気の塊が! 私に浴びせられる!
私は本能的に危険を察知し飛びのいた!
「ゴォアアアーッ!!」
ぎゃあああああああ!? 空から何かの巨体が降って来る! 私は雪の崖に追い詰められ転倒しながらも回避する、続いて何かが私がたった今まで居た場所を打ち据え! 雪煙が舞う! ぎゃあああ何も見えない!?
なんとか膝立ちになり、斜め上を見上げた私に、再び覆いかぶさって来たのは、毛皮を持った巨体に二つの目そして……長さ7、80cmはあろうかという巨大な二本の牙!?
「グォォォオオン!!」
私は再び! 斜面を転がってその巨大な獣の体当たりをかわす! 雪煙が舞い氷の破片が飛び散るっ!! 私は! 紐で背中に担いでいたマスケット銃を取り両手で銃身を握る!
「グォッ、グォッ!!」
「ごめん!」
―― ポクッ!
私はマスケット銃の台尻を振り回し、その獣のむっちりとした頬のあたりをぶっ叩く。
……
「……」
あ……ああっ……巨大な獣が! 巨大な獣が、すごく痛くてビックリしたという顔をしている! 自然は厳しいが平和でのどかな極北の海に住む彼は、こんな風に誰かに頬をぶたれた事などないのかもしれない……巨大な獣は……
「オオゥン……」
悲しげな声を上げて……振り返り……海の方へ、ベッタラベッタラと飛び跳ねて行く……!
「大丈夫か船長! あれはセイウチ!? こんなに近くに居たのか!」
「船長怪我は!? 無さそうだな……やっつけたのか船長?」
ウラドと不精ひげが雪の小山を越えてやって来る頃には、巨大な獣はもう20mくらい離れていた。
あれはセイウチというのか……巨大な牙も含めて、何だか可愛らしい奴だ……だけど雪庇の陰で暢気に居眠りでもしていたらしいセイウチは、突然現れた人間に暴力を振るわれ……ショックを受けて海へと逃げて行く。
「セイウチは人間を襲う獣ではないが、極めて力が強く危険だ……船長はあれを発砲もせず一人で追い払ったのか」
「船長が撃ちたくないなら俺が撃とうか? あれは余裕で500kgは越えるオスだ、肉は脂が乗って美味いと聞くぞ」
私は昔、それこそアースニールのサガで読んだ詩を思い出す。
「撃っては駄目だ、狩りには作法というものがある、今のは合図の無い決闘のようなもの、僕が雪山ではしゃぎ過ぎたせいであいつが死ぬのはおかしい」
若さ故の過ちというのは認めたくないものである。私は辺りを見回す。帽子どこ行った……ああ……半分雪に埋まってるよ。
「極北の地の古の狩猟の妖精よ、許し給え。あのセイウチに幸運を。さあ出発しよう。これからは雪庇には十分気をつけるよ」
私はそれを拾い上げ、雪を払ってなんとか被る。