アイリ「帰るなら……飛びきりいい男を連れて、自慢げに帰りたかったなあ……」
短い間にも様々な港を訪れて来たマリー船長。
近いけど異国のジェンツィアーナ、宗教の違う南大陸の国々。
ハマームなんて文化も風土も全然違うのにたくさんの仲間が出来ちゃった。
そして今回やって来たのは母国だけど3000kmの海路を隔てた彼方の港グラスト……なんかあんまり友好的じゃない空気。
「この街に軍隊は要らない!」「海軍は出て行けー!」
穏やかではない様子の男達の集団が、港にある公設取引所の近くまで押し寄せ、騒いでいた。街の職人や商人、近在の農民なども参加しているようだ。
「馬鹿野郎共め……のぼせ上がりやがって」
先程、さんざん悪態をつきながらコルジアワインを高値で買ってくれた仲買人さんがたまたま近くに居て、暴動を起こしている人々を忌々しげに見つめている。
ル・ヴォー艦長もこの仲買人さんも、普段はこんなにピリピリしていないのかもしれない。だけどこの町では今、確実に何かが起きていて、それが住民達を対立させ、苛立たせているのに違いない。
「この町に何が起きてるんですか?」
どうせ罵声が帰って来るんだろうなあと思いつつ、私は仲買人さんに聞いてみる。
「王都からお偉いさんが来て、グラスト市の再開発をすると言い出した。表向きは拡張の続くレイヴンとの交易を支える為と言っているが、本当はここをアイビス最大の軍港にするつもりだという事は、市民も、レイヴンの連中も気づいている」
思いも掛けず。仲買人のおじさんは親切にそう教えてくれた。それが何を意味するのかは、私にはさっぱり解らないのだが。
「大昔からグラストは何度もアイビスの海軍拠点にされて来た。その度に近在の男は一番に徴兵されレイヴンとの戦争の最前線に駆り出されるし、戦争に負けた場合はレイヴンにボコボコにされた挙句、町を占領され扱き使われる……いつだってレイヴンとの戦争を始めるのは内陸の安全な場所に居る王侯貴族なのに、真っ先に血を流すのはグラストの男達って訳さ」
おじさんの解説はアホのマリーちゃんにも大変解り易かった。そんなのは酷い。腹が立って当然じゃないですか。
「じゃあ、怒って当然じゃないですか」
「まあ、仕方のない面もあるんだ。この港は平和な時は泰西洋に突き出た曲がり角の港として、たくさんの国の商船の訪問を受け、南北の海から来る特産品を集めては内陸に送り、いい商売をさせて貰っているからな。何にでもいい事と悪い事があるもんだ」
「……貴方はあの人達のように怒ってはいないんですか?」
私は今度こそ罵声が飛んで来るだろうと思いつつ、おじさんにそれを聞いてみた。
「良く見てみな。先頭に立って怒りの声を上げ手を振り上げてるのは、グラストに生きる職人や農民、馬鹿な正直者の類いさ。その後ろに居て騒ぎを煽動しつつ、自分は決して前に出ようとしない連中を見ろよ。あれがレイヴンの間者とそいつらに雇われたゴロツキ共だ。これが戦争だよ、小娘」
港の役人さんが商人達の間を走り回って、注意を促している。
「そこのお嬢ちゃんも! 船乗りは船に戻ってくれ、あいつら頭に血が上ってるから何をするか解らん」
「そうだ。船に戻りな。まあ今日の様子なら、あの男達は一暴れして気が済めば、皆仕事に戻るだろう」
仲買のおじさんもそう言うので、私はお礼を言って、波止場の方に小走りに駆けて行く。ロイ爺とアレクもついて来る。
波止場を走る私達。その横の倉庫街には群衆が押し掛けていて、港の衛兵さん達はそれを少ない手勢でどうにか抑えていた。
「そうだそうだ、危ないからお嬢ちゃんは下がってな!」
「騒がせて悪いな! だがこれは俺達の戦いなんだ!」
群衆の中からそんな声が飛んで来る。一応気を遣ってくれてるんだ。そう思ったのも束の間、私達がフォルコン号に乗り込んで行くと。
「ああ!? 小娘おめえ軍人だったのかよ!!」
「ふざけんなー!! 海軍は帰れー!!」
この掌返しだよ……そしてそれを……フォルコン号の艦首に仁王立ちして聞いていたアイリさんが、語気荒く叫び返す。
「誰が軍人ですって!? 人聞きの悪い事言うんじゃないわよ!! こんな小さくて可愛い女の子が軍人な訳ないじゃない!! 失礼よ軍人だなんて!!」
「やめて下さい、アイリさん……」
フォルコン号は艦首を波止場に向けてブリッジで係留されているので、アイリさんが立っているのは乗降口の所だ。私はすぐにアイリさんの手を取り艦尾側に引っ張って行く。
背後では罵声も起きていたが、笑い声もかなり混じっていた。群衆の方はそれでいいですけど……
フォルコン号の左右に係留されているのはどちらも軍艦である。案の定留守係らしい海兵隊員が、軽く軍人を否定したアイリさんと私をじと目で見ている。
「もう大丈夫よ! 怖かったでしょう……酷いわ、いい歳をした男共が寄ってたかって、小さな女の子を怒鳴りつけて!」
艦長室に入るなり、私はアイリさんに後ろから抱き着かれ、頭をぎゅうぎゅう締め上げられる。
私は割とああいうの平気なんですけど、アイリさんはいい歳をした男共に寄ってたかって怒鳴りつけられるという経験にトラウマがあるのかもしれない。
「干し鱈でも買ってさっさとロングストーンに帰ろうと思ったのに。これじゃ仕事になりませんよ」
アイリさんの手を離れた私は執務机の椅子を引く……引き出された椅子にはぶち君が乗っていた。おかしな所で寝てたのね。ぶち君は椅子から降り、ベッドの方に行って、また丸くなる。
私は椅子に座る。
「まあ幸いワインの売却は間に合いました。もう代金は受け取ったし、船を出しますかね」
「空荷でいいの? あと、船員用の水と食料もまだ買ってないわよ」
私は折りたたんでいた付近の海図を広げる。
アイビスの沿岸には様々な町や港がある。例えば内海でも、レッドポーチとパルキアの間にだって小さな町や港がある。私達が飲み食いするくらいの水や食料なら、そういう所でも売ってもらえるだろう……そう思ったのだが。
「この辺りって、小さな港とか少なくないですか……?」
「少ないわよ。海岸線の殆どが入り組んだ崖だっていうのもあるけど」
アイリさんも机の反対側から海図を見て、指差す。
「アイビスの王国令で、グラストの周りには港を建設してはいけない事になっているのよ。昔レイヴンに占領されていた頃に作られた小さな港も、全部潰すくらい徹底してるの」
「アイリさん、この辺りの事に詳しいんですね?」
私が何気なく顔を上げ尋ねると。アイリさんは遠くを見つめる……
「そうね……ここから南東に300kmちょっとかしらね……ラビアンという港町があるのを知ってる?」
私が今見ているのは先端にグラスト港があるグラーニュ半島の地図で、南東に真っ直ぐ300km超の沿岸にある、ラビアンという街は地図からは見切れているようだが……
不意に。私の頭の中で危険を知らせる警鐘が激しく打ち鳴らされ出した。
「どうって事ないわ……大型漁船を何隻も持つ網元、干し鱈を加工する工場、牡蠣の養殖場……漁業で成功した家が何軒もある、大きな漁港なの。そして近年は貿易船も……よく来るようになったんですって」
「それは 素敵な 町 ですね」
「そうでしょう? 私。ちょっとその町を知っているの。貴女も機会があれば是非行ってみるといいわ……港のすぐ沖に素敵な島があってね……街のお金持ちや貴族はそこに別荘を持っているのよ……」
「そうですね 機会が あれば」
「ふふふ……あら私、そろそろお昼の食事の用意をしないと、夜直明けのカイヴァーンが起きて来るじゃない。新鮮な食材がまだ手に入ってないって聞いたら残念がるでしょうけど、仕方無いわね……」
アイリさんはそう言って艦長室を出て行った。
私は急いでベッドの下の物入れの引き出しを開け、古い航海日誌から抜き書きしたリトルマリー号の航跡を確認する。
リトルマリー号は十年前に二度ラビアンを訪れていた。そしてそれ以降は一度も訪れていない。
フェヌグリークさんの家はそこにあるのか……
父はそれが内海の港であるかのようなミスリードを仕掛けていたのだ。私もてっきりそれが内海のどこかなのだろうと信じ込んでいた。
アイリさんは何故中途半端に今の話をしたのだろう。アイリさんは私がラーク船長を知っているという事を知らないし、十年前にアイリさんの身に起きた事を私が知っているという事を知らない。
私はベッドに腰掛け、ぶち君を抱き寄せて抱える。ぶち君は二、三秒ぼんやりしていたが、すぐにもがいて私の腕を離れ、ヒョイと飛び退いてしまった。