マリー「えー……私マストに登るんですか……ムニャムニャ……」
犬ぞりの旅の途中で見つけたおじいさん……騎士見習いを連れて砦に到着したフレデリク。
再会の喜びと暖かな宴。
それから。
私は夜中に目を覚ます……いや、私は今極夜の世界に居るんだったっけ……日はずっと登らない……
ってここどこ!?
―― ンゴッ(笑)
「ぶぎゃっ!?」
慌てて起き上がった私は極めて低かった天井に頭をぶつける。痛い……
そして私の隣には大きな犬が寝ていた。私が天井に頭をぶつける音で目が覚めてしまったのか、大変迷惑そうな目でこちらを見ている。
この子は確か……狼犬のエレーヌちゃん……? ここ犬小屋? 私ここで何してんの!?
頭が痛い。寝る前の記憶が曖昧だ……覚えているのは大きな囲炉裏で盛大に燃える薪炭の炎と、小さな陶器の瓶に入ったミード……
「ごめん……ほんとごめん、邪魔をして悪かったよ……」
私は寝袋ごと這いずって、エレーヌちゃんの犬小屋から出る。最低だ。酔っ払って犬に迷惑を掛けてしまった……
それにしてもおかしな夢を見たなあ。夢の中で私は小さなサルになっていて、アイビスのどこかで大道芸をしていたような気がする。
リビングに戻った私を、自身が犬小屋で寝ていたという事実より衝撃的な光景が待っていた。フルベンゲンの男達はまだ眠っているのだが、ルードルフさんがちょうど鎧を身に着け終わり、椅子から立ち上がった所だったのだ。
「ちょっと!? 何をしてるんですかルードルフさん!」
驚きのあまり声はフレデリクなのにマリーのような言葉を言ってしまった。椅子に座ったまま腕組みをしていびきをかいていたウラドも、目を開き背筋を伸ばす。
「船長……ルードルフ殿!? どこへ行かれる!」
「む……むう。見つかってしまったか」
ルードルフさんをもう一度座らせ、私は事情を聞く。
「君を欺くつもりはなかったのだ。昨日の時点では諦めて南に帰る他は無いと思っていた。だが、火に当たり食事をいただき一眠りしてみたら……思った以上に体力が回復していた!」
私は椅子から滑り落ちそうになる。
ロイ爺などはフォルコン号の皆と比べると疲れやすく回復しにくいし、私の祖母は60過ぎで亡くなってしまった。
だから私は70歳くらいの老人というのはもっと労らなくてはならないと思っていた。
「それで誰にも言わずにどこへ行くつもりだったんだ、それもこんな場所から、どこかに行くにしても一度フルベンゲンに戻ればいいじゃないか!」
「私の目には、君達がとても親切で御節介な若者に見えたものでね……君達と居れば私は船に乗せられて南へ連れ戻されてしまうかもしれない」
「御老人……貴方はそもそも、死ぬつもりなのではないだろうか」
ウラドがとんでもない事を言い出す。ただウラドは、こういう事を冗談で言う人物ではない。じゃあ本当にそうなの??
「死ぬ事を目的にしている訳ではないよ。だがそれを恐れていなくても仕方が無いと思わんか。見ての通り私は老人、そしてもう十分に働き、戦い、生き残り……名誉も得たし恥もかいて来た。もう十分なのだ」
「貴方は……どこへ行くつもりなんだ」
私は同じ事をもう一度尋ねる。
「戦士の石碑を御存知かね? 遠い古、世界を災厄が覆った時代、この極寒の地に逃げ込み、生き延びた人々の存在を。尚も追いすがる災厄と、存亡を掛けて戦い抜いた戦士の話を」
ウラドが難しい顔をして横目で私を見る。ウラドは知っていて、私が知らないと思っているのかもしれない。だけど私は知っている。本で読んだ事があるからだ。
老ルードルフが話しているのは古のヴァイキング達の叙事詩の事だろう。やたらと勇壮で神話めいていて、講談や歌謡として伝えられていたり絵本に編纂されていたり、それらしい所縁の品物を模したお土産品が作られていたりする、一言で言えば昔の船乗り共が遺した与太話だ。
「戦士の石碑はアースニールのサガに出て来る他、エルギルのエッダにも記述があるけど、結局の所お伽話じゃないのか、人が布袋で空を飛ぶんだぞ」
「アースニールにはいかにもヴァイキングの伝承らしい、荒唐無稽な部分も多いが……千年以上の昔、人間の軍勢がこの極北の地で存亡を賭けた大決戦を行った事は事実であると、吾輩は考える」
「その戦いを記念して作られた戦士の石碑は、実在すると……?」
私は記憶を探る……あの本は私が自分で選んだんじゃなく、村の文筆家のジェルマンさんが貸してくれたのだ。
私はその朴訥で無闇に上げ調子な詩を読んでゲラゲラ笑った。それで読み終わって本を返す時に「たくさん笑って元気になれました」と言ったら、ジェルマンさんは「おかしいな……そういう本ではなかったはずなんだが」と言って首をひねっていた。
「解らぬ。まあ、解らぬから行くのだ。そこにあればそれで良し、無ければそれも良い。そんな冒険に命を賭けられるのは、この世でやる事を全て終えた老人だけだと思わないかね?」
ルードルフ・ルッドマンはそう言って少し俯く。
私は冒険ごっこが嫌いではない。むしろ大好きだ。小さい頃、幼馴染の少年達と駆け回った野山。わりと最近、父と駆け回ったマリキータ島……まあこの知識はあまり役に立ちそうにないけど、一つ間違いないと思える事がある。
この老人はこの冒険を楽しんでいない。
楽しくもない冒険を何故するのか? 何か深い事情があるからだろう。その事情を聞き出せないか? 多分今は無理だ。
老人は思慮深い。話す気があるならとっくに話しているだろうし、話してくれないという事は簡単に話す気は無いという事だ。
「いずれにせよ僕らは今日犬ぞりでフルベンゲンに戻るけど、それには同行した方がいい。一人ではフルベンゲンまでだって歩いて行けるものか。ルードルフ。貴方にはもう食料も燃料も無いんだろ? この世でやる事を全て終えたからって、隣町に歩いて行けずに死ぬなんて、そんなのかっこわるいじゃないか」
グランクヴィスト子爵家の四男坊のフレデリク君には世間知らずで生意気な所があり、こんな人生の大先輩にもタメ口をきいてしまう。
だけど今この人の心に何か言葉を届けたいと思うなら、紳士的で一人前の男より、やんちゃな悪ガキの方がいいような気がした。
「うむ……君の言う通りだ。やはりフルベンゲンまで世話になるとしよう。騒がせて済まなかった」
ルードルフさんは、ますます俯いて頷いただけだった。
暫くして起きて来たフルベンゲンの男達も皆一様にルードルフさんの回復の早さに驚いていた。
「一人で冒険しようとするだけあるな……凄いな爺さん」
「はは、トド肉を食べさせてもらったおかげだ、あれは実に精がつく」
トド?
フルベンゲンに戻る時が来た。行きの荷物で持って来たコルドンから届いた道具や酒、それに薪炭や食料などはここに降ろし、代わりに謎の肉の塊や毛皮をそりに積み込む。
勿論ヨーナスとエッベは帰りも案内してくれる。そしてボリスさんも一度フルベンゲンに戻るという事で同行するそうだ。
ボリスさんはエッベのそりに、ルードルフさんはヨーナスのそりに乗る。行きは八頭引きだったウラドのそりが四頭引きになって、兄弟のそりがそれぞれ六頭引きになる。
怒るのにも飽きたのか。エレーヌちゃんはウンザリ顔で私を待っていてくれた。
「そういう顔するなよ。ちゃんと足で漕いで手伝うから」
私のそりだけ荷物が山積みになってるわね。なるほど、これなら私もフラフラせず真面目に皆についてそりを走らせるしかない。
「世話になったよ、ありがとう」
そして私達は犬ぞりに乗って北の砦を離れた。砦の男達は総出で手を振ってくれる……大変な仕事だなあ、休みもなく、家族にも滅多に会えなくて……ってよく考えたら船乗りもそうでした。
帰りは追い風だった。地上の雪を吹き上げる厳しい風だが、背中から吹いて来る分にはどうという事は無い。
私は少し重くなったそりを手伝う為、時々片足で後ろの地面を蹴る……のだが、その都度エレーヌちゃんに横目で睨まれる。余計な真似しないで黙って乗ってろって? はい、はい……
今日は時間がまだ早く、空は暗いままだ。だけど雪原というのは僅かな光でもよく反射するので、各そりに吊るしたランプの明かりだけでも結構遠くまで見渡せる。
「バフッ、バフッ!」「クォン、オン」
そり犬達はとても元気だ……いいなあそり犬。何故こいつらはこんなにも嬉々として人間に奉仕してくれるのだろう。
私も犬達のように喜んで人に奉仕出来る人間でありたい。そうしたら牛糞をスコップで桶に集める仕事だって嬉々としてやれるだろう。
帰りもあの林の前での小休止を挟んで三時間。私達は何事もなくフルベンゲンに戻って来た。
しかしフルベンゲンの様子が出発した時とは違っていた。方々に篝火が焚かれ、見張りをする村人達の姿が見える。
「姉……船長! ウラドの兄貴! 無事で良かった、近くの集落を海賊が襲ったって! 襲撃から逃れた人が町に来て、皆大騒ぎだ!」
フォルコン号の作業用の斧を持ったカイヴァーンは、町から少し手前の所まで出て来て私達の帰りを待っていた。やっぱりこの子はどこか少し犬っぽい。好きなのは猫なのに……ってそんな事考えてる場合じゃないですよ!




