エッベ「兄ちゃんが銛でグサーッて! そしたら巨大タコは海に沈んで!」ヨーナス「よせよエッベ……」
ヨーナスとエッベと共に、二人の父が待つ砦へ犬ぞりで向かうマリー。
その途中、一行は一人の死に掛けたおじいさんに出会う。
私達は雪原の旅を再開した。今度はエッベが先頭を行き犬ぞりを導いて行く。
犬ぞりの犬達にはそれぞれにリーダーが居て、殆どの場所では人間が指示しなくても犬達が考えて、そりが通り易い場所を選んで走ってくれるように見えた。
たまにそんな道の真ん中に大きな氷の塊がこびりついているような事もあったが、そういう時はそりを止めて、ウラドがハンマーで慣らしてくれる。
雪原を進むに連れ、気候が少し変化して来るのを感じる。
そして連なる岩山を迂回し、切通しのような谷間を越えると、急に辺りの雰囲気が変わった。
北風が強くなり、雪が上から降るというより、地面から吹き上がって来るようなッ……氷の粒へと変わるッ……いたた、これは痛い……
私は大きな布で覆面のように顔を覆う。もうヨーナスもエッベもウラドでさえもそうしているのだ。これで全員覆面ですよ……途中で乗せたあの老人は兜だけど。
老人には私のそりに乗って貰っていた。その分ウラドのそりの犬を二頭こちらに移してもらっている。
「背中が痛くはないか? 風が強くてさっきまでほど雪が地面に積もってないから、氷の凹凸でそりが揺れるんだ」
「ああ、お構いなく」
私は時々様子を見る為、老人に声を掛ける。老人も解っていてそれに返事をしてくれる。
「船長! 見えました、北の砦です!」
先頭のエッベが振り返って叫ぶ。果たして。次第に暗くなって行く極夜の空の下、こちらが見えたからだろう、行く手の岩陰に松明の明かりが灯るのが見える……あれが砦か。明かりがなければ遠くからは見分けがつかないわね。
「こンの……馬鹿野郎共がぁぁああ!!」
止める暇も無かった。
ヨーナスとエッベが、切り開いた岩山と丸太を組み合わせて作られた砦の前に犬ぞりを停めた途端。砦の中から駆け出して来た筋骨隆々の男が、ヨーナスとエッベの頭を左右それぞれに鷲掴みにするなり……それを物のようにゴツンと! 打ち合わせたのだ。
「乱暴はやめてくれ! この二人は苦労して……」
私が仲裁に入ろうと慌ただしく犬ぞりを停めた時には、もうその男とヨーナスとエッベは抱き合って号泣していた。
「心配掛けやがってぇえ! 一体どこまで行ってたんだ畜生! すまねえ! 探しに行ってやれなくてすまねえ! 俺がお前らの親父なのに、助けに行けなくてすまねえ、許してくれエッベ! ヨーナス!」
「グスン……父さんごめん、父さん」「大丈夫だよ、俺達自力で帰って来たよ、ごめんよ父さん」
何を話しているのかはスヴァーヌ語だから解らないが、ちょうど年も背格好も不精ひげと同じくらいの男、これが兄弟の父ボリスさんか。
私はアイマスクの内側にハンカチを押し込んでぐりぐり拭う。この気温で涙に濡れたままだとマスクが凍り付いてしまう。
「ああ、あの、船長」
ウラドが何か遠慮がちに声を掛けて来る。
「以前ニックも言っていたが、私もフォルコン船長は生きていると信じている……その、上手くは言えないが、あの男が計算も無しに無茶をしたり、その為に死んだりするような事があるとは私には全く思えない。彼は必ず生きている」
ああ……真面目なウラド。本当の所、私は父が生きている事をもう知っているのだが、折角の親切なので有難く頷いておく。
「この人がストーク人冒険商人のフレデリク船長!」「俺達の恩人! 仲間!」
「俺はフルベンゲンのボリス、この二人の親父だ、ありがとうフレデリク船長、何とお礼を言ったらいいか」
「こちらこそ。二人共良く鍛えられたいい男じゃないか、随分頼りになったよ」
砦にはボリスの他にも十人ばかりのフルベンゲンの男達が居た。砦の中はそこらじゅうに解体された海獣の皮が吊るされている事を除けば、商船の中に近い空間と思える。仕事用の空間と居住用の空間が狭い中に工夫されて作られている。
私達が持って来た物も、役に立ったようだ。
「信号弾だ、やっと来たのか!」「クレーン用の滑車もだ、これであのギーギーから解放されるな」「ああ、象限儀だ、夏まで待たされるのかと思った」
まあ彼等がそれ以上に待ち侘びていたのはミードの瓶で、それはたちまち男達で山分けになった……私とウラドにも一本ずつ回って来たが、ヨーナス達は貰えなかったようである。
途中で見つけた老人もさっそく、明々と燃える大きな囲炉裏の前に運び込まれた。老人はスヴァーヌ語も堪能だった。
「吾輩は……わしはルードルフ・ルットマン。スヴァーヌには巡礼の為に訪れた……それで旅の途中で怪我をして、もはやこれまでかという所を船長に救われた」
外は来る時から強風が吹いていたが、私達が砦に入るとますます吹き募り、暴風雪と呼べるような有様になっていた。フォルコン号で来ていたらとても接岸出来なかっただろう。
「こんな季節に巡礼とはなあ……巡礼団はどこに行ったんだ?」
「いや、わしは一人で……コルドンに着いたのが十月の始め頃で、漁船に乗せてもらったり、歩いたり……急ぐ旅でも無いのでゆっくりと来た」
囲炉裏では謎の肉が串に刺されて焼かれていた。囲炉裏の上にもついでに燻製にするべく、同じような黒々とした肉の切り身が多数吊るされている。
焼いている段階から臭いが凄い……海獣の肉の臭いだというのは解るのだが、私の胃はこれを消化出来るのだろうか。
「夏はまあ物好きも居るんだ、コルドンから船で来てフルベンゲンの教会で礼拝をしようって巡礼団がな、ここは神の教えの届く北の最果てだと言われているから」
男達の多くはスヴァーヌ語で話し、半分くらいの者はある程度ストーク語も話せる。彼等の言葉はウラドが訳してくれる。
「うむ……吾輩、わしもフルベンゲンの教会には行くつもりだった」
「来てくれるのはいいけど、こんな季節に一人で旅行なんてスヴァーヌ人でもやらないぞ。とにかく寒くて風が強くて厄介なんだから」
「行けると思ったのだ。まあ、若気の至りと笑ってくれ」
スヴァーヌの男達にささやかな笑いが広がる。若気の至りと来たか……この人実際七十歳くらいかしら?
「今回ばかりは、わしも間違いなく天に召されるものと思っていた。人生とは解らんものだ、生涯に一度あるか無いかという幸運に、今さら恵まれるとはな……こんなのはもっと若い時に当たりたかった」
椅子の上で毛布に包まれて火にあたる老ルードルフがそう語ると、先程より大きな笑いが男達の間に起きる。
「そりゃあそうだ、真冬のスヴァーヌの雪原で誰かに拾われるなんてな」
「道端でこーんな胸の大きい若い美人に突然惚れられるくらいの幸運だ」
「ハハハ、そう、そいつだ」「そりゃあ若いうちの方が良かったなあ」
「女には聞かせられねえな」「大丈夫ここは男だけだ、ハハハ」
スヴァーヌの男達が何か言い合っているが、ウラドが訳してくれないので何を言っているのかは解らない。
外はすっかり冬の嵐に包まれてしまった。これは結構危なかったんじゃないだろうか? いくら犬ぞりに乗っていても、この嵐の中でここまで来れたのだろうか。
私は戸口からそっと犬達の様子を覗く。こんな吹雪でも建物には入れて貰えないのね。皆、どうという事も無さそうに雪の上に寝そべって休んでいるけど……
「バウッ! バフ……ワンッ!!」
ああ、またエレーヌちゃんと目が合った。元気そうね……ていうかちゃんと犬小屋もあるじゃん? 入らないの? あの子達はあれでいいという事か。
ヨーナスとエッベはずっとボリスさんと話している。なんだか得意そうな様子ですよ。きっと自分達がどんな冒険をして来たのか自慢してるのだろう。
「フレデリク船長は巨大なタコとも戦うんだよ!」
「それでレイヴンの軍艦だって子分にしちゃうんだ!」
「ハハハそいつは凄い、天下の大英雄だな」
「父ちゃん信じてないだろ!」「本当なんだから!」
他のフルベンゲンの男達もそれに聞き入ったり笑ったりしている……いいなあ。里心を揺さぶる光景ですねぇ。
だけどそれに見とれているとウラドが心配するので、私はルードルフさんに話し掛けてみる。
「怪我の具合はどうなんだ? 今日はここで一晩休ませてもらって、明日フルベンゲンに連れて行こうか?」
「かたじけない……この砦にも君にも迷惑を掛けるのは心苦しいが、そうしていただけると助かる」
ルードルフさんの鎧兜と剣はまとめて彼の後ろに置いてある。どれも立派な物だけどこの地に於いては無用の長物に見えなくもない。
ここでの敵は自然の脅威と、やる気のあるクマ、そんなところではないのか? 陸には巨大タコも現れないだろうし、あいつ相手には鎧は役に立たないとも思う。
「貴方は騎士なのだろうか」
「騎士見習いだよ。本物の騎士ではない」
ええ……見習い……?
見事な白髪の髭を綺麗に整えたルードルフさんは寒さで衰弱している今でも、その姿勢や受け答え、人品風格、どこからどう見ても立派な騎士に見える。
「フルベンゲンには僕の船、フォルコン号が停泊している。ここでの用事を済ませたら多分コルドンを経由して南に帰るけど……一緒に乗って行くかい?」
「うむ、それは……正しく、渡りに船という事か……何とも有難い、是非そうさせていただければと思う」
この人に聞いてみたい事は色々あったけれど、今は喋るのも辛そうだ……このくらいにしておこうか。そもそもこんなに弱っているのに明日また犬ぞりでとはいえ、40kmも移動出来るのかな? 出来ればもう何日か泊めていただいた方がいいんじゃないかしら。
「これ船長のぶん。焼けたよ」
ヨーナスが持って来てくれた謎の肉の串焼きは齧ってみると何かのハーブのような刺激臭がした……だけどこれは海水塩で焼いただけの物らしい。味は肉だ。それ以上でも以下でもない。
ミードとの相性はいいわね……私はミードが駄目なんだけど。二口か三口で目が回ってしまう。
砦にベッドルームなど無い。男達は居間に寝袋を敷いてその中に潜り込んで眠る。
嵐はだいぶ収まっていた。今夜は雲が多くオーロラは見えない。
私は自分用の寝袋を持って外に出て、その辺りに林立する犬小屋を覗いて回る。
空いてる犬小屋、二、三頭入ってる犬小屋……エレーヌちゃんは? やっぱり。大き目の犬小屋を一頭で占領して寝ている。
彼女は私が近づくとすぐに気づいて顔を上げ、ギロリと睨み付けて来た。
「そう睨むなよ、謎の肉あげるから」
私は隠し持って来た謎のスジ肉の切れ端をエレーヌちゃんの鼻先に置く。彼女は暫くはそれに見向きもせず私を睨み続けていたが、やがて食欲に負けたのか一口でペロリと食べた。
私はその瞬間に寝袋もろともエレーヌちゃんが入っている犬小屋の隙間に潜り込む。
「ワウッ!? ワウウウ、ワウッ!」
「一日中喧嘩してた仲じゃないか、固い事言うなよ。ここで寝るだけだから。おやすみ」
ほんの数秒で、私は夢の世界に旅立った。