エレーヌ「それは仲間達が楽しみにしてるおやつですわ何勝手に食ってんのよこのアカゲザル!!」
「エレーヌ?」
「こいつの名前だ、アイビスあたりのお嬢様みたいな名前だろ? これでも女の子なんだぞ。大丈夫、本当は力持ちで頼りになる奴だから」
「ガルルル……バフッ! バフッ!」
「いたいいたい、なんで叩くんだよお前」
「相性が悪いのかなあ。他のそりの犬と交換するか?」
「いいよ、意地でもこいつに引かせてやる」
アイリさんはフォルコン号の備品となっていた、かつてサッタル船長の海賊船から押収したマスケット銃をカイヴァーンに持たせていた。
「あの短銃の代わりよ、持って行きなさい……だけど! そんな物持ってるからって前に出て戦うんじゃないわよ!? あと、人は撃たない事。いいわね!?」
カイヴァーンが渡してくれたそのマスケット銃はずっしりと重かった。私こんなの扱えるのかしら。例の魔法も掛かっているそうだけど……
「ありがとう。クマが近くに居たらこれで威嚇するよ」
私は革紐のついたそれを背中に背負う。
ハイディーンさんは幅の広い短剣を貸してくれた。それは戦いより雪や土を掘ったり氷を削ったりするのに使う物らしい。
ウラドは大きなハンマーを背負った。まるで勇ましい戦士のようだが、そのハンマーも道中の難所で岩や氷を叩いて削るのに使うのだとか。
時刻は正午頃だろうか。
「それじゃあ行って来るよ」
道は犬が知っているし、南の方と違ってこの辺りには自然林はほぼ無く、山と荒野、雪と氷の他には何も無いから、迷子になる心配は少ないと言う。
私と少年達のそりには四頭、ウラドのそりには八頭の犬をつけて、犬ぞり隊は出発した。
南の空を中心に、空全体がぼんやりと紫色に染まっていた。
フルベンゲンの集落の周りにはいくらかの人工林が養われていたが、その向こうにはなだらかな丘の続く雪の野原と、低く険しい山々しか無い。
「ヒャッハー! すげえええ! ちゃんと言う事聞くんだ!」
「兄ちゃんすげええ! 俺もすげええ! ヤッホーイ!!」
少年達もさっきまでの暗い顔はどこへやら、元気一杯にこの犬ぞりの旅を楽しんでいる。
無理も無い。雪を蹴立てて突き進む犬達の何と頼もしい事か。そして可愛い。毛足の長い見事な尻尾を振り回し、バフバフと白い息を吐きながら、走る、走る。
そして結構速い。もしかして2時間くらいで着いてしまうのでは? いやいや、途中で休憩もするだろうしそこまで早くは着かないか。
だけど人と荷物が乗ったそりを引いてこんなに速く走れるなんて凄いよ! 偉いなあ! 偉いぞそり犬!
私がそう思った瞬間、エレーヌちゃんがちらりとこちらに目線を寄越す……やっぱりこの子だけ何か怒ってるわね。何なんですか全く。
多分私が乗ったそりが一番軽いよ? キャプテンマリーの服なんだから。馬に乗った時もそうだったけど、ほとんど重さを感じないはず。
ウラドは列の最後尾でそりを走らせていた。やはり大柄で筋骨隆々のウラドは八頭で引いていても重いのかしら。
犬ぞりの御者に仕事はほとんど無い。私は一応手綱を持たされてはいるものの犬達の指揮はエレーヌちゃんが執っているようで、何か指示する必要は全くなく黙っていても前のそりを追ってくれる。
「こんな冒険はブルマリン以来だな!」
私は振り返ってウラドにそう叫ぶ。
「あの時はそんな……いや、そうか。ありがとう船長」
ウラドは何か答えてくれたようだが、雪と氷の上をガリガリ滑るそりの音で、良く聞こえなかった。ただ、ニヤリと笑ったようには見えた。
なだらかな丘を登ったり下ったり、谷底を通ったり避けたり、なかなか一筋縄では行かないように見える雪原の道を、犬ぞりは雪煙を上げて進む。
◇◇◇
行く手に一塊の針葉樹が集まった小さな林が見える。スヴァーヌの人々が植えた人工林なのだろう。山にも野原にも他に高い木は無いので格段に目立つそれは、道しるべの代わりにもなっているのかもしれない。
ヨーナスとエッベの二人が操るまでもなく、犬達はそこ目掛けて走って行く。ああ。そこが休憩場所なのね。
案の定人工林の前には犬を繋ぐ為の柵まであった。
「船長! 大丈夫、犬の扱いは俺に任せて」「俺にも任せて」
「僕もやってみたいんだけどなあ」
私がヨーナスやエッベを真似て、犬の綱をそりから柵に移そうとすると、二人が慌てて飛んで来る。
「ウラドは普通にやってるじゃないか」
「ウラド兄貴は犬に慣れてるから大丈夫」「船長はちょっと心配」
兄弟の即答に、私はちょっとだけ機嫌を損ねる。
「何だよ、僕だって故郷では犬を扱ってたんだぞ」
自分では飼っていなかったが、夏の山羊追いなどは村の犬との共同作業だった。まあヴィタリスの雑種犬共はアホ揃いで普段は役には立たなかったが……森の陰から狼が顔を出しているような時は、すぐに集まって吼えたててくれた。
「じゃあ船長はおやつをあげて」
エッベはそう言って皮袋を差し出して来る。これは何だろう? 私は中身を一つ取り出して口に入れてみる。
「これは……魚の皮? 面白い味だな」
「ストークにはないの?」
「もっ、勿論ストークにもあるとも! ほら、僕の家は子爵家だったからね、こういう庶民の御馳走には疎いんだよ」
鱒か鮭の、皮だけの干物かしら。皮の裏についた魚の脂が口の中で程よく溶ける……だけど皮はなかなか噛み切れず口に残る……なんだろう。食べ物というより暇潰しというか。火で炙ったらいいのかしら。
「バウッ! ハフハフ、ワウッ」
一頭の犬が控え目に催促するように吼える。ごめん、君達の物なのね。私は犬達にそれを分配して行く。そして……
「ウウゥゥ、バフバフッ! バウウッ」
痛い痛い、やっぱりエレーヌちゃんは立ち上がって私を前脚でバシバシ叩く。何なんだよもう!
その狼犬達が。不意にほぼ一斉に鼻を上げ、同じ方を向く。
「どうした?」
私もその方角に視線を向けると。いつから居たのだろう、200mばかり離れた雪原の中にぽつんと……きゃああ!? クマですよ、だけど白い!! 毛並の白いクマが佇んでいますよ! 個人的には人生四度目のクマですよ!
「ひえっ!?」「わああ!?」
ヨーナスとエッベも驚いている。スヴァーヌでも見慣れた光景という訳ではないらしい。ウラドは……さすがに落ち着いてるわね。こっちはクマを見た事があるのかしら。
「あれが熊だろうか。実物を見るのは初めてだ」
「あ……見た事無かったんだ」
「うむ……私の故郷には居なかったし、海には居ないからな」
「白いのは僕も初めてだよ。あんなに大きいのでなければ可愛いんだけど」
私は腰の引けた少年達に言ってやる。
「巨大タコとも戦う勇敢な戦士がどうした……大丈夫だよ。大きな犬がこんなに一緒に居るんだ」
白いクマは獣としては勿論大きいが、その体格は良く見れば大柄な狼犬であるエレーヌちゃんとも大差無い。まだ成獣じゃないのかしら。
「どうする船長。絶体絶命なのはあの熊の方だ。こんなに沢山の猟犬を連れた戦士に出遭ってしまったのだから」
ウラドは溜息まじりにそう呟く。彼は紳士だが恐らくたくさんの戦いを潜り抜けた戦士でもある。船長があのクマを狩るというのなら同意するが、気は進まないという所か。
「あいつ、何で逃げないんだろうな」
クマは200m離れた所で後ろ足で立ち上がり、じっとこちらを見ている。
「お……俺達が去った後で魚の皮の欠片を探す気なんだきっと」
「いや単に……犬と出会ってびっくりしてるんだ」
エッベが、ヨーナスが自分の考えを言った。
「だけどあいつ、風呂敷みたいな物を持っているぞ」
私はクマを指差す。そのクマは左の前脚に明らかに文明世界から来た桃色の布切れのような物を持って、こちらをじっと見ているのだ。