猫「浮かぬ顔だな。何か心配事があるのなら拙者に話してみろ」
どうやらフルベンゲンに辿り着いたらしいフォルコン号。
思ったより長い船旅になったけど、良かった、良かった。
雪降りしきる午前六時。フォルコン号は北緯70度の極夜の中、フルベンゲンに辿り着いた。
港の姿が近づくにつれ、私は驚愕を覚える。フィヨルドの入り江や島々の奥まった所にある港の波止場はきちんと石を組んで作られているのだが、停泊している船が皆、他所では見掛ける事すら無いような古めかしい物ばかりなのだ。リトルマリー号どころではない、数百年前のデザインの船が、お伽話の挿絵でしか見た事のないバイキングのロングシップが、当たり前のように並んでいる。
そして港の周りに点在しているのは氷の住居か? 煉瓦のように切り出した氷をドーム状に積み上げた建造物が、三つ、四つ……大きな物は港の倉庫程の大きさがある。
これが、フルベンゲンだというのか?
出迎えの港湾役人も居ない。私達は自前のボートを出し、不精ひげと私、ヨーナスとエッベで乗って、先に上陸する事にする。
「港はいつもこんな様子なのか?」
私は尋ねるが、ヨーナスとエッベは互いの顔を見合わせてから、控え目に頷いただけだった。
「何だよ、急に元気が無くなったな。もしかして半年も留守にして、怒られるのが怖くなったのかな」
私が明るくそう言ってやっても黙って項垂れる二人。さっきまであんなに元気に新米水夫やってたのに。
私は真っ先に石積みの岸壁に飛び移り、不精ひげが投げたロープを輪にしてボラードに掛ける。
「誰か居ないのかー!?」
港の周りには雑木林のような物があり、その向こうにも何かがあるような気がするのだが、暗くてよく解らない……私がそこに目を凝らしていると。
―― ズシ……ズシ……
氷の家の一つの裏手から。雪の上を大男が歩いて来るような音が微かに聞こえて来た。私は右手に持ったランプを掲げ、ストーク語で声を掛けてみる。
「今入港した船の者です! ここはフルベンゲンですか!」
まさに。雪の上を歩いて来た、身長2m近く横幅も広く何より顔がたいへんでかい、丸太に尖った石の塊を結わえつけただけの石斧を腰に下げた髭もじゃの大男が……手にしていた松明を掲げて、挨拶を返して来る……
「そうだ。ここは、フルベンゲン。お前達は、巡礼者か」
私は思わず息を飲む。男は巨大なクマに食われている……のではなく、巨大なクマの毛皮を着ていて、頭にはクマの頭の剥製の兜を被っている。
男は決して若くはないようだが大変に筋骨隆々だった。ちょうどグラスト港の司令官のジュネスト閣下のようだ。しかしこの風雪乱れ飛ぶ極北の地で、その上腕の力こぶを誇示するような露出の多い毛皮の服というのはどうなのか。そんなので寒くないと言うのか?
話の合間に、大男は松明と反対側に持っていた大きな牛の骨のような物をガリガリと齧る。お食事の途中だったのだろうか? しかしこれは……言葉が通じるかどうかとかそういう問題とは別に……話が通じるのだろうか?
「ああ、あの……港の責任者は居ますか? この港に停泊したいんだけど」
「港は神のもの。神がここに港がある事を望み、俺達が血と汗を流した」
解らない。私は元々スヴァーヌ語が解らないが、この大男の言っている事はさらに難解だ。これはつまり拒絶なのか?
何だか聞いていたのと全然話が違うんだけど……フルベンゲンって何なの。ああそうだ、ヨーナス達に聞いてみたらいいんだ。
「ヨーナス、エッベ、とにかく降りちゃってくれ、君達なら降りてもいいだろう」
外国人である私やフォルコン号の面々は許可を貰ってから上陸するのが筋だが、この二人はこの港の出身だと言っているのだ。降りたって構うまい。私はそう思い後ろを向いて二人に呼び掛け、それから前に向き直った。
すると大男は私の30cm目の前に居た。
「ひ゛ゃあああ!?」
「お前今何と言った!? ヨーナスとエッベだって!?」
「あ、ああ、その二人だけどこの港「本当にお前達か!! 夢じゃないんだな!? ハーッハッハッハ!! 本物なんだな顔を! 顔を見せてくれ!」
私の台詞を食い潰し大男は私の横を通り過ぎてフォルコン号のボートに駆け寄る。ヨーナスとエッベの兄弟も、這い上がるようにボートから岸壁へ移ると、駆け寄って来た大男に飛びついた。
「ハイディーンおじさん!!」「おじさん!!」「悪ガキ共め、一体どこへ行ってたんだ、よく帰って来た! よく帰って来たなあ……うんうん……ああ、ちょっと待て……そういう事なら……まずはこの人に礼を言わないといかん……」
大男は少年達から手を離し、私の方に向き直る。
「この兄弟を連れ戻してくれた事に礼を言う。彼等がどこで何をしている所を見つけてくれたのかは解らんが、ここまで来るのは大変だっただろう。さて……我々は見ての通りの者、提供出来る物は決して多くは無いが、この親切には何か礼をしなくてはな……お前さんはストークの軍人のようだが」
ええっ!? 大男が流暢なストーク語を話し始めた! まずい、半分も解らん!
「ハイディーン! この人は軍人じゃないよ、ヒーローなんだ。この船もロングストーンっていうずっと南の町から来た商船なんだって」
すると狼狽する私に代わり、ヨーナスがスヴァーヌ語で何か答えた。
「は……はあ!? ロングストーンの商船だと!? じゃ、じゃあまさか、この船は……交易をしに来たとでもいうのか!?」
「そうだよ、積荷は毛織物だって。それから! コルドンの港からここに送られるはずだった物資も載せてるんだ、イプセンさんが手配してくれた……」
ヨーナスは何事か説明を続けるが、大男がそれを途中で遮る。
「そうか。なるほど。ちょっといいか? ちょっとな。すぐ済ませるから……サムゥゥウウイ!! おおーい!! あれはロングストーンから来た物好きな商船だとよ! ストークの軍艦じゃないってよー! それから! ヨーナスとエッベが帰って来たぞ!!」
そして大男は振り返りスヴァーヌ語で何事か叫びながら、私達を置き去りにして飛び跳ねるようにして雑木林の方へ走り去って行った。
数分後。戻って来たハイディーンおじさんは毛織のセーターの上にオイルレザーの外套を着て毛糸の帽子を被っていた。石斧らしき物もどこかに置いて来たし、手に持っているのも松明ではなくオイルランプになっていた。履いていた毛皮の半ズボンも毛織の長ズボンに変わっている。
雑木林の向こうの谷間には木造家屋が立ち並ぶ集落があった。海や港からは見えにくい場所にあるし、少なくとも私は奥にあるこの村に全く気づかなかった。
集落の中心には他の家より大きな建物があり、私達はそこに案内された。ここがフルベンゲンのホールという事か。時間的に早朝なせいか先客は一人しか居らず、その一人もすぐに出掛けて行った。
「今二人の母親を呼ばせに行ったから。朝も早いし少し時間がかかるだろう」
ハイディーンおじさんはストーク語でゆっくりそう言った。
ホールの暖房は囲炉裏より高効率で室内に煙が出ない、吸排気管付きの鉄のストーブだった。ヴィタリスでは見た事のない文明の利器である。オイルランプも中の灯心がランプの傾きに合わせて動く高性能な物のようだ。
「それで、さっきの狩猟民族か何かの物真似は何なんだい」
「ハハハ、サービスだよサービス、気にするな。改めて自己紹介させてもらおう、ここフルベンゲンの協業会長をしているハイディーンだ。極夜の最中に訪問者があるとは思わなかった」
大男は手を差し出して来る。普通の握手。
「聞いたと思うけど、僕らは取引したい毛織物の商品の他に、コルドンのイプセンから頼まれたフルベンゲン宛の物資を積んでいる。荷下ろしをしていいだろうか」
「勿論だ、もう少し時間をくれたら仕事を手伝える奴を集めて来る」
「量は少ないから僕らでやるよ。港の氷の保税倉庫に運び込んでいいのか?」
「ありゃ冗談で作った物だから……ちゃんとこの集落に倉庫があるから、手伝うよ、我々もその方が都合がいい」
話はあっさりと決まった。後はヨーナスとエッベの家族に挨拶するだけだな。
少年二人は……もうすぐ両親に会えそうだというのに、また少し俯き気味になってベンチの隅に並んで座っている。
その顔を今回も当たり前のようについて来たぶち君が代わる代わる見比べている……猫でも心配なのかしら。さっきハイディーンさんに会った時くらいだな、元気だったの。そんなに怒られるのが怖いのか。
私と少年達とぶち君は暖かいフルベンゲンのホールに居る。皆はフォルコン号で私が戻るのを待っている。不精ひげは一人でボートの上で待っている。
お母さん、早く来ないかしら。
ちょうど私がそう思った所に。ホールの二重扉の外扉が、続いて中扉が開き、アイリさんより少し年上くらいの……おんぶ紐で一歳半くらいの子供を背負い、だっこ紐で生後数か月の赤ちゃんを抱えた……小柄でほっそりとした若いお母さんが、フライパンを片手に、肩を怒らせ、ヨーナスとエッベが座るベンチの方へせかせかと歩いて来る……
『待って!』
私とハイディーンさんは違う言語で同時にそう言って立ち上がった。
「こンの……大馬鹿ども!! 何て事をしてくれたんだい!?」
「わあああ!?」「ごめんなさい母ちゃん!!」
ヨーナスとエッベは立ち上がって逃げ出す。
「掟を破って村中に迷惑掛けて! 土台元々いたずらばっかりしていた悪ガキの癖に!」「ぎゃあああ母ちゃんごめんなさい母ちゃん」
母親は追い掛ける。しかしホールは人が走り回れる程広くはない。先に隅に追い詰められたのは兄のヨーナスだった。蹲るヨーナスの尻を母はフライパンで連打する。
それを見たエッベは一度はばらばらに逃げていたが、兄を助けようと思ったのか、母親の方に戻って来た。しかし母親はそんなエッベの首根っこを捕まえると、やはり尻を打つ。
「これだけの事をやらかして!! 一体どの面下げて帰って来たんだい!!」
「いたぁい! ごめんなさい母ちゃん」
「待てって! まだ話も聞いてないんだ、そんなに引っ叩くもんじゃない、客人も見てるし」
そこにハイディーンさんが駆け寄って間に入る。
私は立ち上がったきり呆然と見ているだけだった。今気づいたんだけど、私は母親という人種に対する苦手意識を持ってしまっているのではなかろうか。